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日本の酒類製造メーカー ウィキペディアから
アサヒビール株式会社(英: ASAHI BREWERIES, LTD.)は、日本の大手ビールメーカー。 アサヒグループホールディングス株式会社傘下であり、アサヒグループジャパン株式会社の100%子会社。
アサヒビール本社ビル。隣接するスーパードライホールの上にある「炎のオブジェ」はフィリップ・スタルクによってデザインされたもので、“躍進するアサヒビールの心”を象徴している。 | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
市場情報 | 非上場 |
略称 | アサヒ |
本社所在地 |
日本 〒130-8602 東京都墨田区吾妻橋一丁目23番1号 |
設立 |
2010年(平成22年)8月10日 (創業:1889年(明治22年)) |
業種 | 食料品 |
法人番号 | 9010601039873 |
事業内容 | 酒類などの飲料、食品、薬品 |
代表者 | 松山一雄(代表取締役社長) |
資本金 | 200億円 |
売上高 |
7692億9600万円 (2023年12月期)[1] |
営業利益 |
673億9600万円 (2023年12月期)[1] |
経常利益 |
607億8800万円 (2023年12月期)[1] |
純利益 |
397億7100万円 (2023年12月期)[1] |
純資産 |
1999億1600万円 (2023年12月期)[1] |
総資産 |
5643億3400万円 (2023年12月期)[1] |
決算期 | 12月31日 |
主要株主 | アサヒグループジャパン株式会社 100% |
関係する人物 |
鳥井駒吉(創業者) 山本為三郎 村井勉 樋口廣太郎 中條高徳 瀬戸雄三 平野伸一 |
外部リンク | https://www.asahibeer.co.jp/ |
特記事項:初代法人の「アサヒビール株式会社」が2011年7月1日に持株会社移行に伴い「アサヒグループホールディングス株式会社」に商号を変更したのに伴い、会社分割によりアサヒビール株式会社の現業を引き継ぐ形で二代目法人の「アサヒビール株式会社」が発足した。 |
1949年(昭和24年)、大日本麦酒株式会社の分割により設立。
本社は分割当時でも東京都に所在していたものの、分割後は主に西日本で展開し、1954年から1960年まで日本のビール市場占有率で2位を維持していたが、1961年に3位になって以降シェア低下傾向が続き、1980年代前半から中盤は4位寸前の低迷期に陥った。しかし、外部出身の社長主導による社内改革の進展や、現在も主力商品となっている「アサヒスーパードライ」の発売以降、驚異的に経営状態を回復して1988年には2位となり、1998年にはビール単独、2001年にはビール類(ビールと発泡酒の合計)市場におけるシェアで1位となった。
2000年代からウイスキーやブランデーなどの洋酒事業や焼酎などの分野にも子会社を通じて本格参入した。
2011年7月1日、持株会社移行に伴い「(初代)アサヒビール株式会社」は「アサヒグループホールディングス株式会社」に商号を変更した。同日、会社分割により現在の法人である「(二代目)アサヒビール株式会社」(2010年8月10日に「(旧)アサヒグループホールディングス」として設立)に現業全般の移譲がなされた。アサヒビールが、日本の大手ビールメーカー4社の内、最後に持株会社に移行した。
白水会や住友グループ広報委員会のメンバーではないが、住友銀行→三井住友銀行の融資を受け経営陣を送り込まれた関係上、住友グループの企業として扱われる事が多い[2]。1985年に開催された科学万博に住友グループがパビリオン「住友館 3D - ファンタジアム」を出展した際にはアサヒビールも住友EXPO'85委員会のメンバーとして名前を連ねている[3]。
写真の本社ビルの金色の遮熱ガラスは、同じ住友系の一水会メンバーの日本板硝子社製。当時の筑波研究所設計。
企業スローガンは、『すべてのお客さまに、最高の明日を。』。
1889年(明治23年)創業。1949年(昭和24年)の大日本麦酒株式会社の分割により設立。
大日本麦酒の分割は、同社を主要ブランドであるアサヒビール(西日本で販売)とサッポロビール(東日本で販売)に分割する形を取ったが、この分割を推進した大日本麦酒の山本爲三郎専務が朝日麦酒の初代社長に就任したため、様々な憶測を呼んだ。山本は大日本麦酒に合併された日本麦酒鑛泉の出身であり、その同社から継承した商品でかつ全国ブランドとして知名度のあったユニオンビールと三ツ矢サイダーの2銘柄を朝日麦酒が継承した他、戦前大日本麦酒は設備投資を西日本に集中して行っていたため、その結果最新鋭設備のほとんどが朝日麦酒の帰属となっていたのがその主な理由であった。
更に西日本では戦前からアサヒブランドが定着していたため、新生アサヒビールも西日本を中心とした需要があった。ビールの市場占有率(シェア)は分割時点において日本麦酒(現・サッポロビール)38.7%、朝日麦酒36.1%、麒麟麦酒25.3%と3社間で2位となり、引き続き1952年まで単独2位、1953年は原料配給の関係で日本・麒麟・朝日のシェアは3社同率の1位[4][5]、1954年は第1位が麒麟、2位が朝日、3位日本麦酒となり、1960年まで同社は2位を維持し[4] 山本も関西財界の重鎮として活躍していた。
しかし、高度経済成長と共に東京への一極集中化が進むと、結局この山本が主導した地域偏重の分割がたたり、市場占有率は1961年に第3位へ降下し、1987年まで3位が定位置となっていた[4]。首都東京では同根で同じくブランド名に馴染みの無いニッポンビール(1964年にサッポロビールと改称)と競合。かつての地元であった近畿地区でも、後発のサントリーのビール発売に際し山本社長が支援に回ったため結局同一問屋内で競合関係になる負担が発生し、1970年代の生ビール競争も低迷した。
1980年代中盤には市場占有率10%を割り、1985年は9.6%と4位のサントリー(9.2%)に追い抜かれる寸前の状態で社内の状況において危機感は漂っており[4]、1985年までに資産売却が行われたが[6]、経営面で分割以来赤字経験がなかったことから深刻さは薄く、「夕日ビール」などと揶揄される状況でありながら、現状維持で満足する雰囲気もみられた[4]。
この状況を改めるため、社長は住友銀行から連続で送り込まれ、過去にマツダを短期間で再建した経験がある村井勉が就任した[4]。村井は就任時から改革に取り組み実を結んだことで社内は活性化し、その中で「主力商品のビールの味とラベルを変更してアサヒの主張と心を知ってもらうべきではないか」との意見が社内で高まったことを受け、正式に主力ビールの味とCIマークの変更が決定された[4]。現状把握のためマーケティングリサーチとして1984年夏〜1985年夏に東京と大阪で計2回・5000人に味覚・嗜好調査を行い「若い人を中心に大半の消費者が苦みだけではなく、口に含んだときの味わい(コク)と喉ごしの快さ(キレ)を求めている」との結果を得て、同業他社を含めた従来の主力製品の持ち味「苦味の強い重い味」と異なり、消費者の認識変化で潜在的に求められていた「コク・キレ」をコンセプトに商品開発が進められた[4][7]。
1986年(昭和61年)1月21日、改革の一環として進展していたCI活動「ニューセンチュリー計画」の発表が対外的に行われ、新CIマークに変更した。同日「コク・キレ」の味わいと新たなラベルを採用した「アサヒ生ビール」を発表[4]。アサヒ生ビールは同年2月に発売開始[8]。1986年3月、引き続き住友銀行から送り込まれた樋口廣太郎が社長に就任。この時期には、アサヒをサントリーへ売却する話が水面下で行われており、樋口は就任当初同社の清算を行う意図で送り込まれた部分が強かったが、売却交渉にてサントリーが断りを入れるという結末を迎えたことで方向転換することになった[6]。同年中はアサヒ生ビールに集中した積極的な個人・業務向け販促活動と大幅増額した宣伝活動を行い、当時新社長であった樋口も試飲キャンペーンの現場に立つと同時に消費者の意見を聞くなど陣頭指揮を行い、結果的に商品はヒットして同社全体の販売数量は前年比11.9%増の実績を残し、シェアも10.4%と10%台に戻した[4][9]。
1986年3月、新商品の開発プロジェクト、コードネーム「FX」を開始[10]。同年6月に試作品が完成し、樋口など役員対象に試飲を実施してFXは高評価を得た。同年2月発売のアサヒ生ビールが好調だったことでFX商品化の最終段階において同社内商品の競合を懸念する声が社内から挙がったが、樋口の判断で「FX」の発売を決定[11]。FXは1987年1月21日に名称「アサヒスーパードライ」として発表され、同年3月17日に首都圏限定で販売を開始し、販売数量の同年目標は年間100万箱としていた[11]。アサヒスーパードライは、当時アサヒで発売されたビール新商品3種類の中でも地味な立場で、発売日前後のマスコミの扱いは小さく簡潔な紹介に留まっていた[4]。しかし、発売後問屋には続々と追加注文が入り、同年4月時点の出荷量で70万箱を達成し、同年5月には同年夏頃に予定していた全国販売を前倒しで開始した。販売目標も400万箱に上方修正し、同年8月には販売予測から生産能力を1年間で5割増加させる設備投資計画を始動。同年11月には販売目標を1200万箱と更に上方修正し、1987年の販売数量実績は1350万箱を達成[4]。スーパードライは1987年12月26日の日経流通新聞「62年ヒット商品番付」[12] で東横綱に選ばれる程のヒット商品となった[4]。1988年には同業他社がドライビールで挑んできたドライ戦争にも勝利を収め、売上高と市場占有率を劇的に回復し、同年のシェアはサッポロを抜き2位に回復[4]。1989年と1990年には積極的な設備投資を行い、1990年代からスーパードライに経営資源を集中し、それに特化した販売戦略と鮮度管理の強化を進める経営戦略が功を奏し[6]、1998年(平成10年)に日本国内でビールは市場占有率で1位となった(発泡酒を含めたビール類の市場占有率では当時2位)[4]。
1990年代後半以降、他社が価格の安さと品質改良で発泡酒の売り上げを伸ばす中、アサヒは「アサヒはドライ一本、ビールのみで勝負します。発泡酒は発売しません」と宣言したこともあった[9][13]。理由として、スーパードライが順調に推移していたことや、発泡酒の開発初期段階で問題点の解消に手間取り、市場に出せる品質に中々達していなかった事情がある[9]。だが、デフレの流れで発泡酒のシェアが伸びる中、その間毎年のように同社が新発売したビールの新製品が不振であったことや、看板商品のスーパードライも売り上げに翳りが見え始めたこと、発泡酒開発当初の試作品が抱えていた特有の匂いと雑味の問題点を大麦エキスと海洋深層水を使用することで解消した。品質を満たした商品が出来上がったことで方針転換し「発泡酒カテゴリーが成立したから」と理由を説明して2001年(平成13年)2月に「本生」で発泡酒市場に参入した[9][13]。本生が好調だったことで2001年の発泡酒シェアにおいて同社は2位となり、日本の2001年ビール類(当時はビールと発泡酒が該当)シェアにおいてキリンを抜き1953年以来48年ぶりに首位に返り咲いた[5][9][14]。
その後は発泡酒の増税もあり、2005年(平成17年)からいわゆる第三のビール市場にも参入。ただ、シェア競争の結果、2006年(平成18年)1-6月期にて6年ぶりにキリンビールに市場占有率首位を譲る形となったが、下半期に巻き返し、年間では僅差で首位を維持した。
鳥居薬品を1987年(昭和62年)に子会社化したが、1998年(平成10年)にJTへ保有株式を譲渡。
2001年(平成13年)、かねてから資本関係があったニッカウヰスキーの全株式を取得した上で同社を完全子会社化し、ウイスキーやブランデーなどの洋酒事業に本格参入した。また、2002年(平成14年)には協和発酵(現:協和キリン)と旭化成の酒類事業(清酒を除く)を引き継ぎ、焼酎などの分野にも参入している。
大手ビール4社の中では唯一最後まで事業持株会社制度を堅持していたが、社会情勢の変化もあり、2011年(平成23年)7月1日付で事業会社を分離新設し、純粋持株会社制度に移行した。
※ 歴史・沿革|企業情報|アサヒグループホールディングス(外部サイト)
大阪麦酒が名付けた「朝日(アサヒ)」というブランドの由来については諸説あるが、創業者・鳥井駒吉の出身地である堺市に縁のある以下の説がよく知られる。なお、設立当初は「朝日麦酒」ではなく「旭麦酒」と表記されていた。
オリオンブランドの製品についてはオリオンビールの項も参照。
2023年10月現在製造されている商品はすべて旧・リキュール(発泡性)①(「第4のビール」とも呼ばれる場合もある。アサヒでは「麦(由来)の新ジャンル」と呼んでいる)に分類される。
2001年、ニッカウヰスキーを完全子会社化したことにより、同社が製造するウイスキーやブランデーなどの販売はアサヒビールが行っている。また2002年、協和醱酵工業の酒類部門を譲り受け、協和発酵傘下の「サントネージュワイン」を傘下に収めた。
なお、サントネージュワインは2021年5月に、山梨県甲州市の地場の酒造会社「株式会社サン.フーズ」に事業譲渡が発表され[33]、2022年1月1日付で販売元を委譲したほか、同年9月には同社が輸入・販売したバーボン・ウイスキーのアーリータイムズの輸入販売権が明治屋へ引き継がれた[34]。
2002年、協和醱酵工業と旭化成の酒類部門を譲り受け、協和醱酵工業と旭化成が製造・販売していた甲類焼酎の販売を引き継いでおり、非常に多数の商品を作っている。原材料の一部に三笠フーズの事故米を使用していた商品の存在が発覚し、それについては自己回収を行い[35]、2009年4月から出荷を再開している。
ほか
2002年、協和醱酵工業と旭化成の酒類部門を譲り受け、協和醱酵工業と旭化成が製造・販売していたチューハイ・カクテルの販売を引き継いだ(カクテルパートナー、ハイリキ、旬果搾り)。また、アサヒが独自にブランドも作っている。
上記商品は、基本的に千葉県にあるニッカウヰスキー柏工場にて生産されるが、工場の稼働状況によっては系列のアサヒ飲料およびアサヒビールの工場で生産される場合もある。
協和醱酵工業から引き継いだブランドは「アサヒ協和酒類製造」が製造していたが、2005年度までにすべてニッカウヰスキー、またはアサヒ飲料・アサヒビールの製造に移管した。アサヒビールと旭化成との関係は1980年代に経営危機に陥った際、住友銀行(現三井住友銀行)の仲介で旭化成が筆頭株主となり、業務提携を行っていたことがあった。
ビールをフルーツジュースで割ったものだが、税法上は「発泡酒」となる。
カッコ内は発売期間。
以下はアサヒオリジナルブランド
発売後、缶蓋の巻き締めが不完全で、密封性が損なわれた商品が出荷された可能性があるとして自主回収。同時に販売終了となった。
季節限定缶が多く発売された。 通年品だった贅沢みかんテイストポン果汁使用(2011年9月〜)は「贅沢搾りPREMIUMみかんテイストポン果汁使用」となって引き続き販売。
美術・音楽を中心とした展覧会や演奏会への支援、評価の定まらない若手芸術家の発表支援、地域づくりNPOへの支援など、日本で企業メセナ活動をもっとも活発に行っている企業の一つである[39]。
スポーツ関連では、社会人アメリカンフットボールXリーグの「アサヒビールシルバースター」の展開をはじめ、2001年より野球日本代表のオフィシャルサプライヤーも務めている。
過去の工場
アサヒが後に主力となるビール「スーパードライ」を発売した年と同じ1987年から開催され、山口智子を初代として任期1年で毎年1人が選ばれてきたが、2022年に廃止が発表された[52]。
また、徳島県ローカルにて阿波踊り期間中ではFM徳島の恒例特番や帯番組のスポット枠を中心に、四国放送ラジオでも独自制作のミニ番組を夕方にそれぞれ放送[注釈 10]。
上記番組以外はPT枠で提供クレジットを出さず、スポンサーに入ることも多い。
ニッカウヰスキーのCMもアサヒビールが担当しているため、同社がアサヒビールの完全子会社になった2001年4月以降のCM出演者に関しては便宜上ここで記述する。競合社であるサントリーのCM出演経験者が多いのが特徴。
メインロゴはデザイナーの上原昌が製作した。
コーポレート・スローガンやキャッチコピーではないが、2006年10月から、すべての酒類系飲料のCMにおいて、『飲酒運転は法律で禁止されています。』という字幕が出るようになった。
瓶や樽などの業務用ビールについて、酒税法などに違反する形で安値で卸売会社などに販売していたとして、同社が東京国税局から改善指示を受けていたことが、2018年6月の新聞報道で明らかになった。同国税局は2018年5月中旬に、同社が2017年7月に卸売会社に販売した業務用ビールなどの一部取引について、卸価格に諸経費(輸送費・人件費など)を加えた「総販売原価」を下回る価格で販売したと指摘し、取引の改善を指示した上で、改善結果を報告するよう同社に対して求めた模様である。過度な価格競争の防止のため、酒税法が2017年6月に改正されており、それ以降では初の摘発事例となった[84]。
2007年2月、「イナバウアー」の商標登録を出願したが、特許庁から「便乗行為は公序良俗を乱す、人名でありイナ・バウアー氏の承認を要する」として拒否された[85]。
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