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北海道(後志国)の郡 ウィキペディアから
余市郡(よいちぐん)は、北海道(後志国)後志総合振興局の郡。
人口21,396人、面積588.67km²、人口密度36.3人/km²。(2024年10月31日、住民基本台帳人口)
以下の2町1村を含む。
飛鳥時代に阿倍比羅夫が国家の出先機関「政所」や「郡領」を置いた「後方羊蹄(しりべし)」(『日本書紀』)は余市郡であるとの説[1]がある。また、奈良時代以前の余市郡域は朝廷によって道外と蝦夷(えみし)の交易の拠点が置かれたとみられ、後世、余市川河口右岸にある大川遺跡から、7世紀の大刀や奈良時代の朝廷の役人が身に着けた帯金具のほか漢字を記した土器なども出土している。
室町時代に勃発したコシャマインの戦いの際、後志国域でも余市以西で和人(本州からの移民、瀬川拓郎の説によると後に渡党を自称)と蝦夷(金田一京助の説に従えば、唐子えぞ=アイヌに相当)との戦闘が繰り広げられた。
江戸時代、余市郡域は和人地となる。松前藩によってヨイチ場所が開かれており、交易の拠点や藩の出先機関として旧下ヨイチ運上家などの運上屋が建てられ住民の撫育政策であるオムシャも行われた。また漁場(旧余市福原漁場など)も開かれていた。漁場の状況については北海道におけるニシン漁史も参照されたい。
陸上交通は複数の道が開削されており、渡島国から天塩国増毛郡への道のりの途上であったため、文化年間に岩内郡と余市郡を結ぶ余市山道(国道276号・国道5号稲穂峠の前身)が開削され道中の宿場として笹小屋なども設けられた。このほか、余市場所請負人竹屋長左衛門は余市から古平境界までの2里(7.9km)余の道を開削。この他にも道が開かれている[2]。海上交通は余市に寄航する北前船の航路も開かれていた。
江戸時代初期、寛文9年6月に日高国域を中心におこったシャクシャインの蜂起が平定された後、余市でも蝦夷の松前藩に対する恭順の確認が行われた。安永2年山碓稲荷を創祀。
江戸時代後期の享和3年、間宮林蔵が西蝦夷地沿岸の測量を行った。文化4年に余市郡域は公議御料(幕府直轄領)とされたが、文政4年には松前藩領に復した。文政10年には稲荷神社が創建、これは後世、山碓稲荷の合祀を経て余市神社となっている。松浦武四郎は弘化3年のほか、安政3年と同4年にも向山源太夫に同行し余市に立ち寄っている。安政2年余市郡域は上知令により再び公議御料となり庄内藩が警固をおこなっていた。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して余市郡が置かれた。
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