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北方開拓のために明治2年(1869年)7月8日から明治15年(1882年)2月8日まで置かれた日本の官庁 ウィキペディアから
開拓使(かいたくし)は、北方開拓のために明治2年(1869年)7月8日から明治15年(1882年)2月8日まで置かれた日本の官庁である。
樺太開拓使が置かれた明治3年(1870年)2月13日から明治4年(1871年)8月7日までは、北海道開拓使と称した。開拓使設置前の北海道行政は箱館府(箱館県)が行なっていた。開拓使の廃止後は札幌県、函館県、根室県が設立された。
「使」という名称は、律令制の下で使用された職名であり、太政官などとともに明治になって再度使われた。古代では臨時の独自な任務をこなした(令外官を参照)。 明治政府は中央・地方官制に頼らず、国家権力の独自の政策、つまり、「蝦夷地之儀ハ皇国ノ北門」という認識であり、ロシアに対する危機感とともに開拓自身が近代国家の任務と考えられ、開拓のための臨時の地方行政機関であった。[1]
開拓使は、省と同格の中央官庁の1つである。北方開拓を重視する政府の姿勢の表れだが、初めの数年は力不足で、内実が伴いはじめるのは、明治4年(1871年)からであった。
開拓使の初代長官には、旧幕時代から北方の重要性を説いていた佐賀藩主鍋島直正が就任したが、彼は実務にとりかかる前に辞任した。東久世通禧が後を引き継ぎ、部下の判官とともに明治2年(1869年)9月に北海道に向かった。当時の人口、産業の中心は、箱館府が置かれていた箱館(函館)であったが、位置が南に偏りすぎているため、北海道の中央部に本庁を設けることになっていた。長官の赴任に同行した佐賀藩士島義勇首席判官は、銭函(現小樽市銭函)白濱園松宅に開拓使仮役所を開設し、札幌で市街の設計と庁舎の建設を始めた。のちに「北海道開拓の父」とも呼ばれた島の計画は壮大であったが、厳冬の中で予算を急激に消費したこと等が理由で長官と対立し、志半ばで解任された。代わって赴いた岩村通俊判官の下で札幌の建設が続けられ、明治4年(1871年)5月に開拓使庁が札幌に移った。
開拓使の発足当時、中央政府の財政基盤は弱く、北海道の全域を統治する余力はなかった。そのため諸藩や団体、個人に呼びかけて北海道を分領し開拓させた。分領支配の実績は各地各様であったが、経験不足から低調な所が多かった。明治4年(1871年)8月20日に分領支配は廃止され、開拓使が館県(旧松前藩領)を除く全域を直轄統治することになった。
樺太では、箱館府の時代から岡本監輔が統治の任にあたっていた。兵士と移民を送りこむロシアに対し、日本が劣勢に立たされていることに強い危機感を抱いた政府は、明治3年(1870年)に樺太開拓使を設置し、黒田清隆を開拓次官にして樺太専務を命じた。樺太を視察した黒田は「現状では樺太は3年もたない」という深刻な報告を行ない、対抗する国力を充実させるために北海道の開拓に力を入れるべきだと論じた。彼の建議に従い、明治4年(1871年)8月19日に10年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画、いわゆる開拓使十年計画が決定された。
明治4年(1871年)10月に東久世長官が辞職すると、黒田が次官のまま、東京にあって開拓使の長となった。明治5年(1872年)10月、旧館県であった渡島国に属する福島郡、津軽郡、檜山郡、爾志郡の4郡が青森県から開拓使に移管された。黒田は明治7年(1874年)に長官となったが、北海道に赴任せずに東京から指示を出す態勢をとった。黒田は米国人ホーレス・ケプロンらの御雇外国人を招いて政策の助言と技術の伝習を行わせた。
黒田は、北海道の開拓に難渋する現状では自然条件がいっそう不利な樺太まで手が回らないという考えを抱いていた。この方針に反対した岡本の辞任もあって、樺太の開拓は進展しなかった。結局、明治8年(1875年)5月に樺太・千島交換条約によって日本は樺太を手放した。交換の際、日本は樺太アイヌを北海道に移住させた。札幌本庁を統括していた松本十郎は、漁民が多かった樺太アイヌを内陸部に移住させる事に反対して辞任した。松本の辞職で初期の開拓使の高官はほぼいなくなり、かわって黒田を頂点にした薩摩藩閥が開拓使を支配した。
開拓使は潤沢な予算を用いて様々な開拓事業を推進したが、広大な範囲でなおも全てを完遂するには不足であり、測量、道路、鉄道などの基礎事業を早々に切り上げ、産業育成に重点をおいた。明治9年(1876年)には、札幌農学校と開拓使麦酒醸造所が設立され、現在の北海道大学、サッポロビールに至るまでの140年間にわたり、道内外の産業振興に大きな役割を果たすこととなる。
ホーレス・ケプロンによって資源調査を行い、幌内川(三笠幌内川)上流の炭田(後の幌内炭鉱)が埋蔵量が多く、有望であると判明すると、アメリカ人技師ベンジャミン・スミス・ライマンを招いて、炭田の開発計画を立案させることとなった。1878年(明治11年)、事務長に山内堤雲、事務副長に松本荘一郎、平井晴二郎が就任して開発が本格化[2][3]、採炭から輸送に至るまで機械化が進められた。
十年計画の満期が近くなった明治14年(1881年)に、黒田は開拓使の事業を継承させるため、部下の官吏に官有の施設、設備を安値で払い下げることにした。これを探知した新聞社は、払い下げの主役を薩摩の政商五代友厚だと考えて攻撃した。これが、明治時代最大級の疑獄事件である開拓使官有物払下げ事件である。
開拓使は翌明治15年(1882年)に廃止され、北海道は札幌県・函館県・根室県に分けられた。
開拓使貫属は、開拓使に所属するが身分上の名称を失わずに開拓に従事する者であり、身分が保障されるうえ移住に関しても資金調達の心配が無くなる身分である。
旧白石藩は、表高1万3千石(実高1万8千石)であったが、家臣7500名を養うには決して豊かとは言えない。加えて、明治2年(1869年)の大凶作により、一揆の気配までもが高くなっていた。このような中、北海道移住への気運が高まるのであるが、その資金については自費移住ということであり、それを賄うだけの資金調達ができるはずもなかった。明治4年(1871年)2月、角田県知事、大参事は、旧白石藩士の窮状を理解し、開拓使に協議のうえ政府に具申。3月17日、太政官から片倉邦憲家来、角田県に在留していた者600名に対し北海道移住開拓使貫属を命じた。
開拓使による最初の移民政策は、政府募集の移民を送り込んで定住させるというものであった。また、新規移民に米、銭、農具などを与える移民扶助の規定を設けた。だが掛かる費用に対し効果が薄かったため、明治5年(1872年)には募集や新規移民優遇をやめ、既に定着した移民への援助に切り替えた。
明治6年(1873年)に、政府は北方警備と開拓とを兼任させる屯田兵制を開始した。はじめの移民には、東北地方の士族の比率が高かった。後には人口が多い平民が主流になり、その出身地は東北地方の他、北陸地方などが多くなった。
明治2年(1869年) - 明治4年(1871年)5月
明治4年(1871年)5月 - 明治5年(1872年)9月14日
明治5年(1872年)9月14日 - 明治15年(1882年)2月8日
開拓使関連機関として設立された機関のうち、現在まで存続している代表的な組織として、国立大学法人北海道大学とサッポロビール株式会社が挙げられる。
北海道大学とサッポロビールは、ともに開拓使によって設立された経緯を持つことから、赤い五稜の北辰星(北極星)を象った「開拓使の徽章」を用いた施設が現存している。
北海道大学関連では、札幌農学校演武場(現札幌市時計台)や植物園博物館などがその例である。
サッポロビール関連では、サッポロビール博物館やサッポロファクトリーに開拓使麦酒醸造所の伝統を引き継ぐ赤い星が記されているほか、現在のロゴマークに用いている金色の星の由来として受け継がれている。
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