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日本の鉄道技術者 ウィキペディアから
平井 晴二郎(ひらい せいじろう、1856年11月13日(安政3年10月16日) - 1926年(大正15年)6月28日)は、明治・大正期にかけての日本の鉄道技術者である。正三位勲一等、工学博士。貴族院勅選議員[1]。
金沢城下に生まれる。1870年(明治3年)貢進生に選ばれて上京、大学南校、開成学校(中退)に工学を学ぶ。1875年(明治8年)、文部省第1回留学生として米国レンセラー工科大学に留学し、1878年に工学修士号を取得した[2][3]。
1880年に帰国後開拓使御用掛となり[4]、山内堤雲、松本荘一郎と共に北海道で主に鉄道建設に当たる[2]。この間、北海道庁旧本庁舎や函館水道の建設も指揮した[5]。
1888年(明治21年)に北海道を離れ、讃岐鉄道顧問となる[6]。次いで1890年(明治23年)まで大阪鉄道で技術部長を務める[7]。後に官設鉄道に転じ、1904年(明治37年)10月10日鉄道作業局長官に就任[8]。1907年(明治40年)4月1日帝国鉄道庁発足に伴いその総裁に就任[9]。同年10月には鉄道国有法に基づく私鉄17社の国有化を完了させている。1908年(明治41年)12月5日鉄道院発足に際し、総裁後藤新平の下で副総裁となった[10]。同年12月23日、貴族院勅選議員に任じられ死去するまで在任[11]。
1913年(大正2年)には中華民国交通部顧問として中国に派遣された[1]。『日本国有鉄道百年史』によれば、このように平井ら後藤新平に近い人物が「鉄道院から追われた」ことは、「山本内閣に反対していた後藤への報復であったろうとうわさされた」という[12]。
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