この項目では、採掘について説明しています。関連する産業については「石炭鉱業 」をご覧ください。
炭鉱 (たんこう、英語 :coal mine)は、石炭 または亜炭 を掘り出すための鉱山 のこと。大規模な炭鉱は炭田 (たんでん)とも呼ばれ、大規模なものは、中国の大同炭田 、萍郷 炭田などのほか、アメリカのアパラチア炭田 、ロッキー炭田、カザフスタンのカラガンダ炭田 、クズネツク炭田 、ウクライナ のドネツ炭田 などであり、他に、インド のダモダル 炭田、ポーランド のシロンスク 炭田、日本での輸入が多いオーストラリア のモウラ (英語版 ) 炭田などが有名である。
ラバに曳かせるトロッコで石炭を運び出す場面
インドにある炭鉱(露天掘り)
なお、しばしば上記意味に対し、炭鉱と同じ読みの炭礦 の表記が当てられる。その理由として石炭が金属 ではなく、その採掘地を金属鉱山とも呼べないため、漢字の偏 が「金偏 」ではなく「石偏 」となるのが正しいためとも主張される。また、石炭採掘の坑道 という意味で通常用いられる炭坑 もしばしば炭鉱を指すために使われる。本項目では上記定義が示す用語を「炭鉱」に統一し記述する。
石炭の採掘の歴史は、中国大陸の考古学的形跡から紀元前約3490年以降とされる[1] 。当初は鉱脈に沿って採掘する樋押採掘 (英語版 ) 、ベルピット (英語版 ) [ 訳語疑問点 ] と呼ばれる縦穴を掘った後に底の周囲を(鐘 の形状に)採掘する手法が取られた。
日本 では、江戸時代 末期から筑豊 、唐津 地方で採掘された石炭が個人消費されており、薪の代用とされていた。
産業革命後
本格的な炭鉱開発が世界的に始まったのは18世紀 に入ってからであった。背景にはその時期に製鉄 と燃料の需要が急速に高まったことを上げることができる。
製鉄は、鉄 を精錬 するための原料に近世に入るまで木炭 を利用していた。しかし木炭は大がかりな設備への使用は適さず、期待される需要に木炭で応えるには木材の消費量が過大となり、実際に製鉄を行っている地域の木材の消費は限界に達した。その結果、燃料費が高騰し、需要の急激な増加に追いつかなかった。
1612年 になると、イギリス のスタードバントが石炭を原料とした骸炭 を使った製鉄法を発明し、後にダッド・ダドリー (英語版 ) 、エイブラハム・ダービー1世 (英語版 ) らの改良により鉄の生産能力が高まり、それに伴い炭鉱開発も発展を遂げるようになる。
燃料としての需要は、特にイギリスにおいて後に産業革命 の原動力となった蒸気機関 の発展と歩調を合わせたものであった。蒸気機関が紡績工場の動力として用いられるようになると、その熱源として石炭が重宝されるようになったのである。
石炭ガス の利用により、多種の化学物質を石炭から抽出等する石炭化学 が発展した。
1882年、トーマス・エジソン が世界で最初の石炭火力発電所 パール・ストリート・ステーション (英語版 ) をニューヨークに建設した[2] 。2009年の時点で、世界の電源構成比率における石炭火力発電の割合は約40%となっている[3] 。
日米和親条約 締結後、函館などの港の開港により船舶への燃料供給の必要性が高まり、函館港向けに1856年(安政3年)現在の釧路市岩見浜の石炭露鉱を開発しその後1857年 (安政 4年)蝦夷地 (北海道 )白糠町 釧路炭田 が日本初の洋式坑内掘炭鉱として開発された[4] 。さらに財政が逼迫していた諸藩が陣頭指揮をとって、炭鉱を開発していくようになる。当初は軌道に乗らなかったものの、瀬戸内地方の製塩業者向けの販路を見出すと大きく発展を遂げた。その当時の製塩では海水塩を蒸発させる燃料に松やに を利用していたが、その松やにの価格が高騰し、低価格であった石炭が歓迎されたのである。
地表近くに鉱床が存在する炭田では露天掘り が行われるが、それに適さない場合は地表から炭層まで坑道を掘り下げ、炭層に切羽という作業現場を作り採炭を行う「坑内掘り」が行われる。
坑内掘り
開発手法による分類
採掘区域の開発手法により、2種類の採掘法がある。
柱房式採掘法(ルーム・アンド・ピラー法 (英語版 ) )
採掘区域の炭層を幅7-8mごとに切羽と炭柱に分け、碁盤目状に炭柱を残して採掘していく方法[5] 。炭柱部分は天盤を支えるため採掘せずに残す場合が多い[5] 。技術的には比較的難易度が低く、費用も低い[5] 。炭層が厚く埋蔵量の多い炭田ではこの方法を採り続けた例が多く、アメリカの炭鉱で大規模に発達した。炭柱を残すため実収率が低い欠点があり、ドイツをはじめとする欧州や日本の炭鉱は後述の長壁式採掘法に移行した。
長壁式採掘法
採掘区域に20-200m程度の間隔で並行する2本の坑道(肩坑道と深坑道)を設け、その間の長い炭壁を切羽として一気に採掘する方法[5] 。採掘跡は広大な空洞となり、そのままでは切羽に地圧がかかって危険となるため、採掘跡の天盤を発破で崩す(「ばらし」)、ズリ等を詰める(「充てん」)などの方法で地圧を軽減する対策が採られる。炭柱を残さず実収率が高いことから、欧州や日本の炭鉱で多く採用された[5] 。
採炭方法による分類
ホーベル採炭機の例
ドラムカッターと自走枠の例
切羽での採炭方法は、技術の発達により改良が重ねられた。主な採炭法を以下に示す。
手掘り
主につるはし を用いて人力で採炭する方法。つるはしは磨耗が激しくひんぱんに交換が必要となるため、採炭用には先端部のみを交換するように改良されたものが使用された。
ピック採炭法
圧縮空気 で作動するコールピック(採炭用に改良された小型削岩機の一種)で採炭する方法。
発破採炭法
炭壁にドリルなどで穴を開けて爆薬を装てんし、爆破して崩すことにより採炭する方法。
ホーベル採炭法
切羽に沿って動作する炭壁切削刃(ホーベル)によって連続して炭壁を崩して採炭する方法[6] 。ドイツで開発され、1950年代後期頃から日本の炭鉱にも導入された[6] 。ホーベルの動作ガイドを兼ねてコンベアトラフが敷設され、ホーベルはこのガイド上で切羽に並行に往復動作を行う。ホーベルの切削刃が炭層に密着するようコンベアトラフは背後からシフター(空気圧または水圧ピストン)によって切羽に押し付けられ、切削によって切羽面が前進するとそれに合わせて機材全体も前進する。採炭と搬出を一連のシステムで行う機材として開発され[6] 、後にカッター採炭法に発展した。ホーベル自体も、カッター採炭に適さない環境(炭層中に硬い珪化木が多い等)の炭鉱向けに使用が続けられ[6] 、自走枠[7] との組み合わせ等の改良も行われた。
カッター採炭法
炭壁を機械的に破砕する重機(コールカッター)によって採炭する方法。コールカッターは元来、切削刃を植えたチェーンソー 様式の機械で、発破の前工程として炭壁に切削溝(「透かし」と称する)を刻み込み、炭壁を崩しやすくする採炭補助機材であった[6] 。その切削部を、円筒型の回転体にスパイラル状に切削刃を植えたドラムカッター様式とし、カッター自体で連続的に採炭を行うよう改良されたものが開発され、さらに、ホーベル採炭機の炭壁切削部をこのドラムカッターに置き換えてコンベアトラフと組み合わせた採炭・搬出システムに発達した。ホーベルの場合と比較して一度に削り取る幅が大きく、より効率的となっている[6] 。その後、採炭現場を保護する鉄柱・鉄梁(「カッペ」)を一体化した自走枠[7] システムとも組み合わせることで機械化採炭システムへと発達し[8] 、1980年代頃には日本の主要炭鉱の多くがこの発達型を採用していた。炭鉱によってはSD採炭 法 とも称された。
水力採炭法
ノズル(「モニター」と呼ばれる)からの高圧放水により炭壁を破砕して採炭し、破砕した石炭をポンプで水とともに流送して坑外に搬出する採炭方法[9] 。旧ソ連 で開発・実用された。日本にも技術導入され、炭層が急傾斜である等採掘条件が厳しい炭鉱(三井砂川炭鉱 など)で採用された。
住友奔別炭鉱 立坑櫓
炭鉱は石炭の採掘地に作られるものであるが、石炭の分布、すなわち炭層は幾重にも重なっている。したがって採炭条件もそれにしたがい、採炭地である切羽の場所も深層化していく。そのため、人員、採掘機具、あるいは排水や通風のための道を開ける必要もあり、最低二本以上の主要坑道を掘っていく。この坑道には人員を載せる人車、採掘した石炭を乗せる炭車を走行させる。
掘り方によって立坑、斜坑、水平坑などと呼ばれるが、日本では斜坑が多く、継ぎ接ぎされて段重ねになっていた。1961年 (昭和36年)での日本の炭鉱における平均切羽深度は地下250mである。ところが、日本より早く採炭が進んだイギリス、ドイツでは750mにも達していた。これは前述の長壁式採掘法の発展と関係しており、労働の集約、産炭の効率化を図った結果であり、ルール炭田では特に優れた合理化システムが確立していた。しかし、日本では後に斜坑での限界を感じ、立坑にシフトしている。これは日本の炭鉱が地層の年代が相対的に若く、そのため地形が褶曲(しゅうきょく)し、採掘が困難であるほか、ガスや水が多く含まれているため、それによる品質の劣化、あるいは大規模な事故を幾度となく体験してきたためである。
炭鉱構造発展の歴史
露頭採炭から沿層の地下採炭に移るにつれて、湧水と可燃性ガスが問題となった。これらは初期の技術力では、炭坑の寿命を決定する最大の要因になっていた。したがって排水の機械化と換気体系の成立は、深層採炭の前提条件であった[10] 。
湧水の問題
14世紀半ばから炭層が水準上にある丘陵地帯の炭坑では、山腹に搬出路を兼ねた排水通洞を掘り自然排水する横坑採炭[注 1] 、搬出は竪坑で専用の排水通洞を掘った横洞式浅層採炭[注 2] が採用され、1600年代には一般的なものとなった。しかし、この方法では平野や横穴が掘れない地層構造などの難点があり、17世紀初頭に排水通洞の普及と共に排水具が一般的なものとして導入された。
人や馬を動力とする釣瓶 式排水機(windlass )や手動ポンプが導入され、これらはそれまでの横坑式の炭坑構造に対して、竪坑構造を中心に斜坑採炭を行うイギリス式の採掘法を決定づける原型となった。しかし、それらの導入でも揚水能力は最大地下15m程度で、一般的に行われた途中に溜池を作り段階的に揚水しても炭鉱の深さが72mを超えるものはほとんどなかった。当時は限界に達すれば、すぐ次の場所で採掘する為、炭鉱の寿命も大抵1年程度であった。
17世紀後半になると地表近くの鉱脈も少なくなり、それを知っていた炭鉱町近郊で育ったトーマス・セイヴァリ は1698年に蒸気機関を使った吸いあげポンプ「The Miner's Friend」を発明し炭鉱に導入した。しかし、揚水能力のロスが大きく、信頼性・運用性に問題があった。それらは1705年にダートマスの鍛冶職人トーマス・ニューコメン が発明した大気圧機関によって改善された。これらの発明は数々の炭鉱に導入されたが、特許料の関係で一般的な普及には特許の切れる1733年まで待たなければならなかった。
換気体系の成立
1850年のメリーランド炭鉱
有毒ガスに敏感なカナリア を入れる酸素ボンベ付きのRevival cage(カナリア蘇生装置付きケージ)。イギリスでは1986年に電子ガス検知器へ置き換わるまで使用された[11] 。
湧水の問題を解決すると、炭鉱の規模は縦横方向に複雑になるに至った。結果17世紀後半では、炭鉱内に溜まった可燃性ガスは外に排出されず炭鉱火災は頻発し、また酸素の供給が無ければ窒息などの作業環境の悪化を招いた。その対策として、17世紀までの外と中の気温差を利用した自然対流から、排気口の下部で火を焚いたり、各所に火籠をつるし空気の対流の促進をはかった。しかし、これらの対策は可燃性ガスと空気との混合を促進したことから空気を燃えやすいものに変え火災の原因ともなった。
炭鉱内に溜まったガスに対して、とくに濃い場所は密閉し閉鎖するか、1677年に実施されたファイアマンという特殊な炭鉱夫によって、人為的にガスを燃焼させる対策が19世紀前半になるまで小規模の炭鉱で取られた。
上記の方法は大規模な炭鉱では難しく、換気システムの体系化が迫られた。18世紀初めに木製の遮断壁(一時的な布製の物はカーテンと呼ばれた)を坑道に設ける Face Airingの制度が考案され、1760年にスペンディングが考案した木製やレンガ製の遮断壁で入気坑と排気坑を分離し、各所に連絡用のトラップドアを設置するcoursing the air制度に発展した。それだけでは不十分で1810年には、ジョン・バドル (英語版 ) が更に発展させ、炭鉱内の通気エリアを区分して制御するAir Splittingシステムを構築した。
1862年にハートレー炭鉱事故 (英語版 ) が発生した。この事故はビームエンジン (英語版 ) のビーム(天秤の竿)の片側が落下して、落下中に接触したブラティス (英語版 ) と呼ばれる通気用の木製パイプのほとんどが破損した。結果、炭鉱下部に居た炭鉱夫全員が一酸化炭素 中毒で窒息死した。一本だけの竪坑では換気に問題があると考えられたため、1862年8月7日議員立法が可決され、すべての新鉱山には排気用と通気用の二本の竪坑が義務付けられ、既存の鉱山も1864年末までに同様に義務付ける鉱山条例が制定された。
1849年には、換気扇が導入されていた。
坑内の電化・機械化
作業を終えてヘルメットライト (英語版 ) を整備と充電のためにランプハウスへ預けにいく作業員たち。
運搬
主要炭鉱では19世紀半ばから機械化が進んでいった。それまでは児童や女性や成人男性や馬がワゴンを運んでいた。
照明具
炭鉱は1900年代初めに電灯 が開発されるまで、蝋燭 などによる照明に頼っていた。それは石炭の微粉末コールダスト (英語版 ) や爆発ガス (英語版 ) などの爆発火災を実際に引き起こすため、代用品や安全灯 (英語版 ) が開発された。
安全な代用品として、生物発光を起こす「乾いた魚の皮」[12] 、蛍 の入ったボトルが利用された[13] 。
また、少しの火花なら発火しないと考え、回転する金属のディスクと歯車を接触させる装置を使用した。幸運にも1人死亡ですんだ[14] 。
ろうそくを床から持ち上げるとき、炎の先端が伸び青い光を放ったら可燃性ガスがあると判断する[15] 。
歴史
1815年 安全灯デービー灯 発明(しかし、この安全灯にも問題があり火災が起きている)
1859年 William Clarkが、初めて電灯の特許取得
1881年 ジョゼフ・スワン が白熱電灯発明[16]
1900年 炭鉱に電灯設置
1930年 ヘルメットライト (英語版 )
石炭は元々労働者の手作業で採掘していたものであり、多くの労働力を必要とした。男性の場合は「炭鉱夫 」と呼ばれる。
日本
北海道では囚人 鉱夫も使役された。
第二次世界大戦後には、いわゆる傾斜生産方式 を背景に各地の炭鉱に労働者が集まった。
イギリス
19世紀初頭、子供や女性はhurrier、またはcoal drawer、coal thrusterと呼ばれる運び屋として雇われた。女性は一人で運ぶのは難しかった事から子供が手伝い、それらの作業はしばしば12時間のシフトで積み下ろしを行った[19] [20] 。
3歳から4歳の児童が雇用され、男女の区別なく仕事に従事した[21] [22] 。運び屋はthrustersと呼ばれ、頭や体全体で押すことから毛髪が失われることもあった。力の無い子供はcoal trappersとして雇われた。彼らの仕事は、ワゴン通過時の換気用のトラップドアの操作などである[21] [23] [24] 。鉱山が大きくなると人力では難しくなり、10歳から14歳の子供はcoal driversと呼ばれるワゴンを引く馬を誘導する作業があてがわれた。
1842年になると、10歳以下の鉱山での雇用は「Mines and Collieries Act 1842 」によって禁止された。1870年には、5歳から13歳までのすべての子供が学校に通うことが義務づけられ、多くの炭鉱で従事した子供は辞めてしまったが、1920年代では学校を去った者の一般的な職であった。
炭鉱技術者
各国の石炭生産量
石炭生産量の国際比較を行うことができる統計は多くはないが、石炭産出量が特に多い国は中国 、アメリカ 、インド、オーストラリア、ロシア、南アフリカ、ドイツ、ポーランド、インドネシア、ウクライナである[25] 。
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古くから産炭地 (英語版 ) として知られたが、小規模であることや設備の老朽化などに伴い規模を縮小しつつあるものには、産業革命と共に発展を歩んだイギリスのランカシャー 、ヨークシャー 地方、ウェールズ 地方。ドイツ のルール地方 、ザール 地方、チェコ のボヘミア 地方などを上げることができる。これらの中には閉山を余儀なくされたものも多い。その一方で、中小規模ながら高品質の石炭を産出することで稼働を続ける炭田として、ベトナム のホンゲイ 炭田のようなものも存在する。
欧米
第二次世界大戦後のヨーロッパの国々はヨーロッパ全体での石炭産業の調整(国際カルテル )を行うための欧州石炭鉄鋼共同体 を創設するパリ条約 (1951年) を締結、1952年に実行した。多くの国でカルテルは禁止され政治的な反対もあったが、例外規則によって設立がなされた。この意義は、石炭と鉄鋼は戦争の原因となる資源であり、それを共同管理することで平和にやっていこうという事である。2002年7月23日にパリ条約は失効したが、欧州共同体 に引き継がれ、さらに発展拡大された欧州連合 に引き継がれる。
フランス国内の石炭産出地とノール県の場所(赤枠)
フランス
フランスのノール県 やロレーヌ地域圏 などから産出していた。第一次世界大戦で大手石炭採掘企業アンザン炭鉱会社 (フランス語版 ) の施設が破壊されて減産し、第二次世界大戦前にはイギリスなどから輸入していた。
戦後は、更に国内産出も減少し、外貨不足と周辺諸国の混乱によって深刻な石炭不足となった。その他の物資不足も起きていた状況から、フランスでは多くの産業を国有化し、石炭産業 も1946年からフランス石炭公社 (フランス語版 ) の形で再建を図った[27] 。
国有化後も国際競争の荒波に勝てず、閉山、生産縮小を余儀なくされた。閉山した炭鉱は観光地化などの道をたどった。
ポーランド
歴史的にシレジア とルブリン から採掘が行われてきた[28] 。2021年、ポーランド政府と石炭採掘組合は2049年までにすべての炭鉱を閉鎖する協定草案に合意した[29]
ロシア
埋蔵量は世界で2番目に大きい1,730億トンであり、そのほとんどはクズネツク炭田 、カンスク・アチンスク炭田 (英語版 ) の物である。
アメリカ
中国
中国の炭鉱は、国営重点炭鉱、国営地方炭鉱、郷鎮炭鉱の3つに分類される[25] 。
国営重点炭鉱
国営重点炭鉱は従来中央政府の管轄下にあったもので、1998年の中央政府の石炭部(省)の石炭産業局への格下げに伴って省政府の管轄に移されたものをいう[25] 。
国営地方炭鉱
国営地方炭鉱は国営重点炭鉱以外の国有炭鉱のうち省や県が管轄しているものをいう[25] 。
郷鎮炭鉱
郷鎮炭鉱は地方政府のうち町や村などが管轄する炭鉱及び個人企業が経営している炭鉱をいう[25] 。中国政府は1983年から郷鎮炭鉱の発展を奨励する政策をとっていた[25] 。郷鎮炭鉱の規模は労働者が数千人の規模のものから数人規模のものまであるが個人企業が経営している炭鉱は通常10人以下の労働者で経営されている[25] 。
日本の石炭供給先の推移
日本における炭鉱 は、経済的に開発価値のある炭田が51、炭田未満の石炭埋蔵地区が64あると通産省は1956年に報告している。石炭埋蔵量は約202億万トン、うち開発可能な石炭は31億万トンと推定されている。埋蔵量は、北海道が101億トンと約半数であり、次いで九州が79億トンで、二つの地域で9割を占めている。
日本の炭鉱はアメリカやオーストラリアの大規模炭鉱と比べて地層構成が複雑なため、石炭は地下の深部にあることが多い。そのため何キロメートルにも及ぶ坑道を掘り採掘していたが、労働条件は悪く、後述のようにメタンガス や粉塵 による爆発事故・落盤 などが多発し、多くの殉職 者を出してきた。
国際連合教育科学文化機関 (ユネスコ)は、明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業 を世界文化遺産 に指定した。リストでは主に九州地方の炭鉱、端島炭坑 (軍艦島)、高島炭鉱 、三井三池炭鉱 が挙げられている[31] 。
採掘量の推移
明治維新以後、石炭は燃料や工業原料(特に製鉄業)として使用量が増大した。北海道 、福島県 、山口県 、福岡県 、佐賀県 、長崎県 が主産地で、最盛期にはこれらの地域を中心に全国に800以上の炭鉱が開かれ、第二次世界大戦中に年間産出量は6000万トンに達した。終戦後急激に減少し、その後産業の回復につれて産出量は再度増加した。
1950年以降ほぼ5000万トンを超えるレベルに回復したが、石油の大量輸入(エネルギー革命 )、コスト面で外国産のものに太刀打ちできないなどの問題で1961年をピークに徐々に衰退し、2002年以降国内で操業している坑内掘り炭鉱は、北海道の釧路炭鉱 の1箇所のみとなった。この炭鉱のある釧路炭田は、推定埋蔵量20億トンと大規模であり、炭層が厚く水平に広がり、機械化(SD採炭)採掘が容易であることから、採炭技術の継承と海外技術者の研修受入先としても活用されている。2007年度以降、年間60万トン体制での採炭 を続けていた。
しかし石炭価格の高騰に伴い、国産石炭もコスト競争力をもつようになってきたため、露天掘り炭鉱が次々と開発される。また福島第一原発事故 後、国内の原子力発電所 が順次運転を停止する中、電力会社は電力の安定供給のため、既存の石炭火力発電所をフル稼働させるようになったため、採掘事業者に対して増産を求める動きもあった[32] [33] 。
2015年度の石炭生産は坑内掘りと露天掘りを合わせて120万トン弱で、内訳は坑内掘り(釧路コールマイン)が約47万トン、露天掘り(7社)が約73万トンとなっている[34] 。
2018年度は96万トンが国内で生産された[35] 。
稼働中の炭鉱あり
現在、日本国内において稼働中の炭鉱はすべて北海道の炭鉱である。
国内唯一の坑内掘り炭鉱として年50万t生産中。採炭とベトナム・中国等への石炭技術の継承も行う。おもに発電用。
規模の小さな露天掘りによる炭鉱が数カ所存在する。
北菱美唄(北菱産業埠頭):美唄市[36]
三美炭鉱(三美鉱業):美唄市
砂子炭鉱(砂子組):三笠市[37]
空知新炭鉱(空知炭鉱):歌志内市
東芦別炭鉱(平野重機鉱業):芦別市
新旭(芦別鉱業):芦別市
出典:[38] [39]
全て閉山
日本には珍しい無煙炭の炭鉱。
主に海軍・国鉄向けの官有炭鉱。