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長崎県長崎市高島にあった炭鉱 ウィキペディアから
高島炭鉱(たかしまたんこう)は、長崎県長崎市高島(旧西彼杵郡高島町)にあった日本の炭鉱。日本最古の大手資本による採鉱で栄えたが、1986年(昭和61年)11月27日をもって閉山された[1]。端島炭鉱とともに、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(全23資産)の構成資産として世界遺産リストに登録されている。
高島炭鉱 | |
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権現山から見た三菱高島炭鉱選炭場跡(1992年撮影) | |
所在地 | |
所在地 | 西彼杵郡高島町(現:長崎市) |
都道府県 | 長崎県 |
国 | 日本 |
座標 | 北緯32度39分14秒 東経129度45分19.4秒 |
生産 | |
産出物 | 石炭 |
歴史 | |
開山 | 1695年(元禄8年) |
採掘期間 | 1868年 - 1986年 |
閉山 | 1986年(昭和61年)11月27日 |
所有者 | |
企業 | 郵便汽船三菱会社 ⇒三菱社 ⇒三菱合資会社 ⇒三菱鉱業株式会社 ⇒三菱高島炭礦株式会社 ⇒三菱石炭鉱業株式会社 |
取得時期 | 1881年(明治14年) |
プロジェクト:地球科学/Portal:地球科学 | |
炭層は上八尺層、胡麻層、十八尺層、新五尺層などからなる。採掘鉱区は22鉱区12,480ha。出炭の8割は優良な弱粘結原料炭であった[2]。
高島炭鉱の歴史は、1695年(元禄8年)に肥前国松浦郡江迎の五平太[3]が石炭を発見したことが始まりとされ、その後幕末の1868年に佐賀藩とトーマス・グラバーが共同出資で採掘を始め、国内初の立坑(北渓井坑)を開削した[4]。明治に入り佐賀藩から後藤象二郎が買い上げ操業を開始し、英国人鉱山技師エラスムス・ガウワーが近代化を試みるがうまくいかず(これを前後とした1873年に官営となっている[4])、1881年、同じ土佐藩出身の岩崎弥太郎率いる三菱財閥に権益を譲り、本格的に採掘が開始される。4月25日岩崎は後藤所有の高島炭鉱を譲受け、その代償として後藤の政府宛未納金25万円を肩代わりした[5]。以来近郊の伊王島・端島の炭鉱とともに西彼杵炭田の一角として1世紀以上にわたって日本のエネルギー経済を支え続けた。
炭鉱では「納屋制度」と呼ばれる過酷な雇用制度が取られ、「二度と帰れぬ鬼ヶ島」と恐れられた[6]。会社と納屋頭による二重の搾取、非人間的な労働環境、逃亡者はリンチによって見せしめ的に殺害されるなど、そのあまりに過酷な雇用形態は、1888年、雑誌『日本人』(6-14号)に掲載された、松岡好一(ルポライターで、自ら炭坑で働いた。高島炭鉱の元勘場役)によるこの告発記事「高島炭鉱の惨状」によって全国に知られ、全国的なキャンペーンが巻き起こった。また、労働者によるたびたびの暴動などの結果、高島炭鉱における納屋制度は1897年に廃止された。炭鉱における納屋制度の廃止は、日本では最も早い。
その後、俗に「タコ部屋」と呼ばれる納屋制度の劣悪な住居に代わって、会社直轄の寄宿舎が建設されるが、「1室わずかに3畳或は4.5畳の狭い部屋に入れられて、千に余る坑夫が豚の如き生活をしてゐる」(東洋日の出新聞、1918年[7])と言った劣悪な労働環境は第二次世界大戦後まで残った。
1906年、蠣瀬抗で炭塵爆発事故が発生、307人の死傷者を出した[1]。
1963年には深部区域採炭のため160億円をかけて深さ965mの二子立坑を完成させるが、傾斜が36度と強く高温でガス突出が相次ぐという劣悪な環境であったため、1973年に放棄された[1]。
その後1966年(昭和41年)に採掘量のピークを迎え、1965年頃は従業員約3,000人、127万tを出炭する規模に発展するが、石炭から石油へのエネルギー転換のあおりを受け採掘が減少、1985年時点で人員、出炭共に半減した。さらに同年に発生した粉塵爆発事故という追い討ちもあり、1986年をもって日米貿易摩擦解消のための産業構造調整第1号として閉山した[1]。この時の累積赤字は350億円であった[4]。
1970年に17,415人いた高島町の人口は閉山2年前の時点で6,400人にまで減少[4]、その後も減少を続け、一時は面積・人口ともに全国最小を記録した。その後2005年(平成17年)1月4日に平成の大合併により高島町が長崎市に合併され消滅。現在、高島では炭鉱施設を活かした町おこしを模索中である。
明治のはじめに起こった、記録に残っている限り日本初の労働争議事件。高島炭鉱の労働力は囚人などの下層所得者を集めて働かせ、しかもその実態はタコ部屋などの封建的・非人道的な制度[8] に支配され、一日12時間労働という過酷な労働条件、低賃金、重労働にもかかわらずほとんど手作業[9]、「死んでも代わりはすぐ見つかる」といった認識[10] がまかり通るなど問題だらけであった。そしてついに100人以上が参加した暴動になり、このことが三宅雪嶺らが創刊した雑誌『日本人』に掲載された[11]。
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