海難事故の一覧 (かいなんじこのいちらん)
ここでは特に社会的影響の大きかった海難事故 に限り、便宜的に記載する。
遣唐使 船の遭難が記録に残されている。
海難事故によりイングランド、ノルマンディーの王族、貴族多数が水死した。
元 の艦隊が日本の近海で夜半、嵐に遭い多大な損害を被った。
スウェーデン海軍の戦列艦「ヴァーサ (1,210トン )」が処女航海の直後に横転し沈没した。
イギリス・シリー諸島 沖で21隻からなる英国海軍艦隊が嵐に遭い、岩礁に追い込まれた。うち4隻が喪失、1,400人を超える犠牲者を出した。
イギリス・ポーツマス で一等戦列艦「ロイヤルジョージ(HMS RoyalGeorge )」が寄港の折に、船体を傾けて水面下の海水取り入れ口の整備を行っていたところ、慰問に訪れた乗組員の家族が多数乗船したために想定以上に傾斜し、バランスを失い転覆、沈没した。358人の女子供を含む800名から900人の死者を出した。[1]
バウンティ号の反乱 の起きた「バウンティ 」の乗組員を逮捕したイギリス海軍のフリゲート「パンドラ 」がトレス海峡付近のグレート・バリア・リーフ の外縁に座礁し、翌日沈没。乗組員31人と「バウンティ」の囚人4人が死亡。
ブリッグ(帆船)「モーニングスター (140トン)」がトレス海峡 で難破。22人が死亡。
ナポレオン失脚後 の植民地の返還を受け、セネガルに官僚を輸送するフランス海軍のフリゲート「メデューズ 」が、艦長の不適切な指揮によって座礁した。乗員乗客はボート2艘と筏で脱出したが、まもなくボートは筏を見捨て切り離した。ボートに乗った者の大半と、筏で漂流した約150人のうち10人、船に残った17人のうち3人が生還した。
唐船 (17人乗組)が紀伊熊野に漂着。
インドネシア・バンカ・ブリトゥン州 のGaspar海峡で清 からの移民を載せたジャンク船 「的星 (中国語版 ) 」が座礁し沈没。
アメリカ合衆国 のロングアイランド海峡において外輪船「レキシントン(Lexington )」が火災により沈没。乗員・乗客143人中139人が死亡。
イギリスのバーク(帆船)「カタラク (802トン)」が嵐に遭い、オーストラリア・バス海峡のキング島 南西で岩に乗り上げて沈没。400人が死亡。
オーストラリア の捕鯨船 「イーモント号 」が北海道 厚岸 末広海岸において遭難し、地元民が乗組員32人を救助した[2] 。
イギリス軍の兵員とその家族を載せた軍隊輸送船 (蒸気船)「バーケンヘッド(Birkenhead )」が南アフリカ西ケープ州 の港からの出港直後、岩に衝突し沈没した。約450人が死亡。
アメリカ合衆国 の奴隷貿易船、ロバート・バウン号 が、中国 ・アモイ からカリフォルニア州 へ航行中に、沖縄県 石垣島 の崎枝村沖合で座礁し380人の中国人 苦力 が上陸した[3] 。
大西洋定期航路に就航していた側輪蒸気船「アークティック」が、ニューファンドランド島のケープレース沖で、フランスの鋼製蒸気船「ベスタ」と衝突後に沈没。乗員乗客合わせて534人のうち、女性と子供109人を含め約350人が死亡。
アメリカ合衆国 のミシシッピ川 で就航していた貨客船「サルタナ (定員376人)」が過積載のためボイラーが爆発、火災を起こし沈没。多数乗船していた南北戦争 帰還将兵など少なくとも1450人が死亡。
イギリス の奴隷 貿易船が、清 の広東省 からカリフォルニア に行く途中に、中国人 苦力 340人を乗せ、沖縄県 ・竹富島 蔵元前の浜で台風に遭って座礁し溺死者114人、行方不明者62人の犠牲者を出した[4] 。
海援隊 が伊予大洲藩 から借り受けていた「いろは丸 」と紀州藩船「明光丸 」が瀬戸内海で衝突。「いろは丸」が自力航行不能となり、曳航中に沈没した。
ブリガンティン(帆船)「メアリー・セレスト号 (小説では「マリー・セレスト」と表記)」が、ポルトガル沖で無人のまま漂流しているのを発見された。
フランスの郵便船「ニール号」が、伊豆半島沖で座礁沈没、乗員乗客90人のうち助かったのは4人だけだった。積荷は日本政府がウィーン万博に出品した美術工芸品などで、ほとんどが水没した。
客船「ドイッチュラント (蒸気船、2,800トン)」がテムズ川 河口でブリザード に遭遇し、砂州 に座礁 。翌日に救助が来たが、乗客・乗務員100名以上が死亡する惨事となった。この事故は社会に大きな衝撃を与え「ドイッチュラントの遭難」という詩が作られた。
北海道・瀬棚 海岸沖にてロシア軍艦「アレウト」がおりからの暴風に煽られ座礁。乗組員60人全員が地元住民により救助されるも、翌1878年 (明治11年)4月20日 迎えに来た軍艦「エルマック」へ「アレウト」乗組員がボートで向かう途中高波により転覆、12人が犠牲になった。
和歌山県・太地村 太地鯨方は、子連れのセミクジラ (背美鯨)を捕獲するため19隻・総勢184名で出漁。荒天を突いて出漁したことから集団遭難 事故を引き起こし、100余名が死亡した[5] 。
アメリカ合衆国 ・ペンシルバニア州 フィラデルフィア から石油を積み、兵庫県 ・神戸市 に向かっていた米国の三本マストの帆船(バーク船)「カジミア号」が種子島 の東南海上で猛烈な暴風雨に遭遇し転覆、乗組員15名のうち、船長以下3名の上級船員は大波にさらわれて死亡した。7名が種子島 立山の海岸に、5名が伊関の海岸に漂着し、それぞれの村人に救助、手厚く介抱され、無事帰国することができた。
イギリス商船 「ノルマントン号」が、和歌山県潮岬沖で沈没、日本人乗客25人ほか、中国人、インド人乗組員12人が死亡。イギリス人船員は全員生存し、当時の日本で社会問題になった。
日本海軍 の巡洋艦 「畝傍 」がフランスから日本への回航中、シンガポール を発ったのを最後に消息を絶つ。荒天により沈没と思われるが原因や状況などは現在に至るまで不明。フランス人乗組員や日本海軍の将兵など計90人が行方不明となった。
客船「ブリタニック 」が霧のため「セルティック」と衝突。激しく損傷したが沈没の恐れがなかったため援助にきた船と共にニューヨーク港に移動した。
アメリカ合衆国の貨物船 「チェスボロー 」が、強風のため青森県 車力村 (現・つがる市 )沖で座礁し沈没。乗員23名のうち19名が犠牲となった。
和歌山県樫野埼灯台 付近で荒天下、トルコ 海軍艦「エルトゥールル号 」が座礁沈没。乗員約600人中、地元の漁民らによって69人が救出されたが、587名が死亡または行方不明となった。
白神岬 沖2.8kmの津軽海峡で「瓊江丸(たまえまる、77トン、北海汽船)」と「三吉丸(97トン)」が衝突し「瓊江丸」が沈没。261人が死亡[6] [7] 。
「出雲丸 (446トン)」が、 朝鮮半島南岸所安群島付近で暴風のため座礁沈没、乗客28人、乗組員26人が行方不明となった[8] 。
日本海軍の水雷砲艦「千島 」にイギリス商船「Ravenna(1,916トン)」が衝突、「千島」が沈没した。74名が死亡[8] 。
イギリスの家畜運搬船「ナローニック 」が大西洋上で失踪。74人全員行方不明。
セーブル島 沖で濃霧の中フランスの客船「ラ・ブルゴーニュ 」とイギリスの帆船「クロマーティシャイア」が衝突し「ラ・ブルゴーニュ」が沈没。549人が死亡。生存者の半数以上が乗員であった。
ニューヨーク・イースト川 で遊覧船「ジェネラル・スローカム 」が火災。犠牲者1031人。
瀬戸内海姫島灯台 付近でイギリス船「バラロング」と軍用船「金城丸」が衝突し「金城丸」が沈没。165人が死亡・行方不明[6] 。
北海道恵山岬灯台 北東沖で客船「陸奥丸」と「秀吉丸」が衝突し「陸奥丸」が沈没。212人が死亡・行方不明[6] 。
アメリカ東海岸で濃霧の中、客船「リパブリック 」が客船「フロリダ」と衝突し、翌24日に「リパブリック」が沈没した。死者6名。
イギリス船籍貨客船「ワラタ 」が南アフリカ・ダーバンから出航後、消息を絶つ。サイクロン に遭遇、転覆・沈没したと推定される。乗員乗客211名全員が行方不明。
逗子開成中学校・高等学校 の生徒ら12人が七里ヶ浜 沖で遭難し、全員死亡。三角錫子 の作詞で鎮魂歌として「真白き富士の根 」が作られ、遭難地点に近い稲村ヶ崎 に慰霊碑が建立された。
日本海軍の「第六潜水艇 」が、広島湾 でガソリン潜航実験の訓練中に沈没。艇長佐久間勉 大尉以下乗員14名全員殉職。後日引き上げられ、最後まで規律を保って配置を守っていた乗組員の遺体と、佐久間が絶命の瞬間まで書き綴った遺書が発見された。その様子は国内では教科書や軍歌に取り上げられるほどの社会現象となり、アメリカ・イギリスなどにおいても大きな話題となった。
タイタニック号
イギリス船籍客船「タイタニック 」が処女航海中、氷山 に衝突して沈没。1514人が死亡。
北海道 岩内町 沖合で暴風雨のため漁船31隻が遭難。死者・行方不明者115人[9] 。
伊豆の神子元島 と新島 の間で石炭運搬船「幸運丸(2,878トン)」が沈没。乗員42名中40名死亡。
青森県の尻屋崎 の沖合いで石炭運搬船「相川丸(1,536トン)」が台風による暴風雨で沈没。乗員33名全員死亡。
高知県 須崎 沖合で、暴風雨のため漁船84隻が沈没[10] 。乗組員多数が行方不明。
カナダ船籍客船「エンプレス・オブ・アイルランド (14,191トン)」が濃霧のセントローレンス川 でノルウェー船籍貨物船「ストールスタッド (6,028トン)」と衝突して沈没。1024人が死亡・行方不明。
中国の軍隊輸送船「新裕 」が漁山列島 付近で護衛の海容級防護巡洋艦 「海容 (中国語版 ) 」に衝突されて搭載弾薬が爆発して沈没。死者約1000人。
愛媛県 白石ノ鼻 沖で石崎汽船 の第四相生丸が沈没、修学旅行帰りの小学生ら50名死亡[11] [12] 。
第一次世界大戦時
イギリス軍に病院船 として徴用された客船 「ブリタニック 」がドイツ軍の機雷 に触れて沈没。死者30名。
イギリス軍に輸送船として徴用された客船「メンディー (英語版 ) 」が貨物船「ダッロ」に衝突されて沈没。死者646名。
カナダ のハリファックス 港で軍用火薬を積んだ船と貨物船が衝突して大爆発を起こした。両船だけでなく、付近にいた船を巻き込み、ハリファックス市街に重大な被害をもたらす大災害となった。死者約2,000人。
イギリス海軍による夜間演習で、濃霧の中8隻の艦艇が関与して5件の衝突事故が発生した。潜水艦2隻が沈没、潜水艦4隻と巡洋艦1隻が損傷。死者270名。
アメリカの給炭艦「サイクロプス 」(乗艦者305名)がブラジルからボルチモア へ向かう途中、消息を絶ち二度と発見されなかった。
イギリス軍に輸送船として徴用された客船「オトラント 」が同じ護送船団に参加していた同「カシミール」に衝突されて沈没。死者431名。
商業スクーナー(帆船)「キャロル・ディアリング号 」が、アメリカ合衆国ノースカロライナ州のハッテラス岬 (Cape Hatteras)沖において座礁。2月4日に救助が到着した時には、誰も乗っていなかった。
カムチャツカ半島で漁業保護任務中の巡洋艦「新高 」がオジョールナヤ基地 沖で停泊中に暴風に遭遇し走錨 。海岸に座礁、転覆した。15人は救助されたが、残りの327人は死亡した。
カリフォルニア州沖で訓練航行中の14隻の駆逐艦のうち9隻が次々に座礁し、7隻が喪失。2隻で計23名が死亡。
京都府舞鶴港 に向かっていた海軍の工作艦「関東 」が、吹雪の気象条件のなか位置を誤認もしくは確認できないまま航路を逸脱。福井県下糠浦 海岸の二ッ栗岩に座礁して沈没、乗組員と便乗者の合わせて99名が死亡。
幌筵島 沖を航行中の蟹工船「秩父丸 」が座礁沈没し、182人死亡。
漁船「良栄丸」(42トン)が本州東方海上で機関が故障して航行不能となって漂流。乗組員全員が餓死した後、翌年の10月末に北アメリカ西岸に漂着した。
島根県美保関 沖で夜間演習中の軽巡洋艦「神通 」と駆逐艦「蕨 」が衝突して「蕨」が沈没、軽巡洋艦「那珂 」と駆逐艦「葦 」も衝突し、将兵119名が殉職した。「神通」艦長水城圭次 大佐は軍法会議にかけられ、判決の前日に自決した。
青森県尻屋崎沖合で神戸村尾汽船の貨物船(船名不詳)が沈没。乗組員30人死亡[13] 。
神戸港付近で尼崎汽船の「菊水丸(トン数不詳)」とフランスの汽船(船名不詳)が衝突。両船が沈没して28人が死亡[13] 。
長崎県五島列島付近で長崎県水産試験場の試験船「長洋丸(41トン)」が台風による暴風雨で沈没。乗組員14人が死亡[13] 。
アラスカ沿岸で貨物船「ベイチモ (1,322トン)」が叢氷に閉じ込められ放棄された。
香川県多度津町沖合で「天竹丸(トン数不詳)」が沈没。乗組員16人が死亡[13] 。
愛媛県の釣島海峡で「日福丸(トン数不詳)」と「日出丸(トン数不詳)」が衝突。日福丸が沈没して乗組員19人が死亡[13] 。
広島県 音戸町 と鍋桟橋(いずれも現呉市)を結ぶ汽船が転覆、沈没。死者・行方不明者29人。定員23人の小型船に6倍近くの137人が乗ったことによる事故[14] 。
小笠原諸島の沖合で鈴岡県地頭方村の漁船「海勢丸(トン数不詳)」と「愛石丸(トン数不詳)」が難破。乗組員1人を除く118人が死亡した[13] 。
愛媛県南宇和郡内海村 (現: 愛南町 )の沖にて南宇和郡深浦 港行の連絡船 「第3大和丸(45トン、乗員乗客24名)」が沈没。生存は乗組員1名のみで残りの23人は死亡した。
広島県宇品港で火薬運搬船(船名、トン数不詳)が爆発。船長夫妻が死亡、周囲の工場や民家500戸余りに被害[13] 。
熊本県三角港の沖合で観光船(船名、トン数不詳)が沈没。乗客ら90人が死亡[13] 。
兵庫県神戸市須磨区沖合で客船「屋島丸(946トン)」が台風接近による暴風雨のため沈没[15] 。乗客41人、船員26人死亡、乗客2人行方不明[16] 。後に被害をもたらした台風は屋島丸台風 と名付けられた。
沖縄諸島で富山県高岡市の貨物船「盛典丸(1440トン)」が沈没。船長ら19人が死亡、機関士ら17人は一週間漂流後に救助された[13] 。
東京都大島灘でで「浅間丸(トン不詳)」が難破。乗組員17人が死亡[13] 。
日本海軍の水雷艇 「友鶴 」が長崎県佐世保港 外で演習中に転覆。乗員100名が死亡。
広島県の帝釈峡 にある神竜湖の遊覧船が沈没。比婆郡 田森村(現: 庄原市東城町 )の粟田尋常高等小学校 児童の卒業遠足一行(計42名)が乗船しており、児童12名と引率教諭2名、合計14名が死亡した。
大西洋でアメリカのクルーズ客船「モロ・キャッスル」が火災を起こし全損。死者135人。公式には事故とされるが、「放火した」と発言している乗組員がいる。
新潟県佐渡島 沖合で朝鮮郵船の「羅南丸(1252トン)」が船倉から出火後に沈没。乗組員41人が死亡[13] 。
宮城県松島湾 で東北帝国大学 と第二高等学校 のボートが遭難。ボート部員10人が死亡[13] 。
済州島沖で演習中だった暁型駆逐艦四番艦「電」と吹雪型駆逐艦四番艦「深雪」が濃霧の中衝突して「深雪」が船体断裂により沈没、「電」も約三ヶ月の復旧工事が必要になった。
広島県の尾道市 を出航して豊島 へ向かう汽船「大崎丸(33トン)」が生野島 沖で暴風雨によって沈没。乗っていた30名以上のうち11名が死亡。
大分県の別府港 を出航して兵庫県神戸市へ向う途中の大阪商船の客船「緑丸(1,724トン)」が小豆島 地蔵埼付近で、濃霧の中大連汽船の「千山丸(2,775トン)」と衝突。この事故で船腹に衝突された「緑丸」は3分ほどで沈没[17] 。乗員ら86名が死亡[13] 。
島根県波根西村 の沖合で出漁中の漁船団が竜巻 に遭遇。15隻が沈没して乗組員62人が死亡[13] 。
日本海軍第四艦隊が岩手県沖の太平洋で演習中、台風に遭遇[18] 。54名が死亡[13] 。
長崎県から大阪府に石炭を運ぶ途中の福岡県の貨物船「彦山丸(929トン)」が博多湾 の沖で遭難。22名が死亡。
貨物船「雲南丸」(2,200トン)が中国の大連港 から横浜港 へ向かう途中に和歌山県の樫野埼 沖で遭難[19] 。乗員40名が死亡。後日、漂流していた船員1人の遺体が回収された。
埼玉県の川柳村 から彦成村 へと通う中川 の彦成の渡し船が定員20名のところ、無理に36名を乗せて出航したところ川を半分ほど渡ったところで浸水して沈没、10名が死亡。
愛知県八開村 (現:愛西市 )の木曽川渡船場で渡し船が定員を超えた状態で出航したところ沈没して8名が死亡。
樺太・栄浜村 沖で「相州丸(1,219トン)」が浅瀬に座礁する事故が起きた。「相州丸」は救助船「大浦丸」に曳航されて函館港 に向かっていたが、「大浦丸」は天売島 沖で舵を損傷。「相州丸」は23日に増毛町 の南に漂着した。また「大浦丸」の救難ボートに乗り移った者もいたが、この救難ボートは23日に留萌市 付近に着岸する前に転覆した。これらの事故により19名が行方不明になった。
北海道小樽港 から静岡県清水港 へ向けて航行中の石炭 運搬船「愛国丸(3,212トン)」が暴風雪により積丹岬 (入舸村 )沖合いにて座礁、船体が二つに折れて沈没、33名が死亡または行方不明。同船は石炭を4293トン積載していた[20] 。
横浜から函館へ向っていた貨物定期船「小樽丸(1,464トン)」が吹雪で荒れる太平洋上、青森県沖合(東経142度北緯41度付近)で座礁したことを伝える無線を発し[21] 行方不明となり、後日沈没しているのが発見された。乗組員36名全員死亡。
大阪府安治川河口付近で大阪市営渡船「第3桜島丸(トン数不詳)」が転覆。乗客17人が死亡、数人が行方不明[13] 。
朝鮮半島木浦市の沖合で漁船団約600隻が強風に遭い転覆。乗組員約3000人が行方不明[13] 。
大阪川口尼崎汽船の貨物船「羽衣丸(322トン)」が神戸港から下関港へ向かう途中で乗員19人ともども行方不明[13] 。
広島県宇品港の沖合で江田島汽船の「みどり丸(14.5トン)」が強風のため沈没。乗客43人が死亡[13] 。
北海道銭函町 約8km沖合で石炭運搬船「昭広丸(1222トン)」が時化のため救難信号を出した後に沈没。死者・行方不明31人。同船は石炭を1550トン積んであり、激浪が船内に入り込み沈没に至ったと判断された[22] 。
豊後水道で潜水艦「伊号第六十三潜水艦 」と「伊号第六十潜水艦 」が衝突。「伊六三」が沈没して死者81人[13] 。
山口県下関市船島の沖合で山下汽船のチャーター船「恒彦丸(3973トン)」が錨を入れ替えた際に朝鮮郵船の「咸興丸(トン数不詳)」と接触。さらに漂流して門司港内で三井物産の「瑞光丸(4153トン)」と衝突して沈没。乗船者19人が死亡[13] 。
新潟県阿賀野川 河口で渡船(船名、トン数不詳)が沈没。乗客ら30人が死亡[13] 。
北海道猿払村 沖のオホーツク海 にてソ連貨客船「インディギルカ 」が座礁沈没、700人以上が死亡。ソ連崩壊後に「『インディギルカ』は政治犯および家族の護送船であった」との説が発表された。
釜山市 沖合で密航 船「第3共栄丸」(15トン)が沈没。114人が行方不明[23] 。
和歌山県 和歌浦 で和歌山中学校 ボート部のボートが転覆。部員8人死亡(和歌山中学漕艇部遭難事故)[23] 。
福岡県博多築港沖合で定期船「広博丸」(トン数不詳)と貨物船(船名、トン数不詳)が衝突。11人が死亡、4人が行方不明[23] 。
沖縄県 平良港 (現宮古島市 )から伊良部島 に向かう貨客船「伊良部丸」(15トン)が伊良部港沖300m付近で沈没。75人が死亡・行方不明となった。原因は船の老朽化と定員オーバーと見られた[24] 。
八丈島の沖合で静岡県御前崎村の漁船「福吉丸」(トン数不詳)が遭難。乗組員16人が死亡[23] 。
東京湾 にて季節風 に伴う突風が吹き荒れ数多くの小型漁船が次々と遭難する事態となった。その被害は翌21日までの間に死者20名、行方不明7名にも及んだ。
琵琶湖 に面する滋賀県大津市 に合宿していた第四高等学校 (現:金沢大学 )の漕艇部員8名と他の3名(合計11名)が強風の中を同県今津町 (現:高島市 )から琵琶湖 へボートを出艇させて遭難し、全員が死亡した。遭難の原因は強風で転覆したものと推測されるが全員が死亡したため詳細は不明。なお、この事故は後日、その悲劇を悼む歌として「琵琶湖哀歌 (歌は東海林太郎 と小笠原美都子 )」としてレコード発売された事により全国的に有名な事件となった。
香取神宮 (千葉県)や鹿島神宮 (茨城県)への参拝客77名を乗せた水郷汽船「水郷丸30号」(4トン)が鹿島郡豊津村 (現:鹿嶋市 )から潮来町(現:潮来市 )へ向かう途中の利根川 で転覆・沈没し49名が死亡。定員30人のところを77名も乗せて運航したのが原因とされた。
北海道で北日本汽船の「福栄丸」(トン数不詳)が沈没。乗客ら17人が死亡[23] 。
サハリン東岸沖合で神戸巴組の「得山丸」(5230トン)と大阪橋本汽船の「幸喜丸」(5290トン)が濃霧のため衝突、沈没。乗組員18人が死亡・行方不明[23] 。
ニューヨーク港で軍の徴用に向けて改装中だった「ノルマンディー 」が火災を起こし、消火時の放水で浸水したことにより転覆。船体が巨大であったこと、狭い埠頭で転覆したことから上部構造物を全て撤去して引き上げたが、結局第二次世界大戦 後に解体された。
中国長江河口沖合で東亜海運の「神戸丸」と日本郵船の「天山丸」(双方、トン数不詳)が衝突、沈没。死者47人[23] 。
香川県 苗羽村 (現:小豆島町)柚の浜沖合で内海汽船所属の「錦丸」(42トン)が転覆。4人は泳ぎ着いて救助されるも死者・行方不明者72人(推定)[25] 。
佐賀県 の有明海 でウミタケ 漁をしていた南川副村 、大詫間村 の漁船が遭難。約70人が死亡[23] 。
長崎県鷹島村 沖合で連絡船「殿浦丸」(トン数不詳)の機関室から浸水して沈没。乗客ら104人が死亡[23] 。
愛媛県難波村 (現:松山市 )波妻ノ鼻沖合で、関西汽船 の貨客船「浦戸丸」(1,326トン)が宮地汽船の貨物船「聖山丸(4,232トン)」と衝突して沈没。死者・行方不明323名[26] 。
鹿児島県垂水港 を出港した垂水汽船 「第六垂水丸」が転覆沈没[6] 。原因は定員の2倍の人員となる700人超を乗せたことによる復元力低下。死者数は長らく不明とされてきたが、後年、547人と特定されている。当初、船長は定員超過を危惧して出航を見合わせていたが、客からの脅迫により出航を余儀なくされ、出港後約200m先で方向転換したところでバランスを崩して転覆したと伝えられる[27] 。
伊予灘 で試験潜行中の潜水艦「伊号第三十三潜水艦 」が浸水し沈没、死者102名。8年後に引き上げられた。
アメリカ海軍第38任務部隊 がフィリピン沖で台風に遭遇し、駆逐艦3隻沈没など大きな損害を出した。
長崎交通船の木造船「近海丸」が長崎市 小江町沖で沈没し、273人死亡。過積載が原因とされる。
青森港内にて青函連絡船 の「第五青函丸」が折からの暴風に煽られ防波堤に接触し浸水、沈没した。死者・行方不明者82名。戦時設計 のため二重船底が廃止された上に外板が薄く設計されていたこと、重心 が高かったことなどが沈没の要因としてあげられる。
朝鮮人労働者とその家族を乗せた「浮島丸」が舞鶴湾 内で機雷に触れて沈没。乗員と便乗者549名が死亡。
神戸魚崎 沖で客船「室戸丸」が機雷に触れて沈没し、死者・行方不明475人。
神戸沖で客船「華城丸」が機雷に触れて沈没し、死者・行方不明175人。
壱岐島 沖で客船「珠丸 」が機雷に触れて沈没し、死者・行方不明545人。
台湾 からの引き揚げ船「栄丸」が座礁沈没し、死者約100人。
尾道港 発今治港 行き瀬戸内海汽船 の今尾連絡船「第十東予丸(162トン)」が、荒天の中、定員210人の3倍を超える乗客を乗せた為、復元力を失って伯方島 木浦港沖で転覆・沈没し、死者・行方不明397名を出す惨事になった。地元で架橋運動が始まるきっかけとなり、1957年 の第五北川丸沈没事故 もあり、しまなみ海道 の建設につながった。
荒天の明石海峡で「せきれい丸(定員100人)」が転覆し沈没。304名が死亡または行方不明。
阪神港 - 多度津港 航路の関西汽船 「女王丸」が瀬戸内海牛窓 沖で機雷に触れて沈没。死者行方不明183名。
上海の北約80kmの黄浦江 河口付近で客船「江亜 」が機雷に接触し沈没。2,750人~3,920人が死亡。
国共内戦 期に上海から台湾に向かう客船「太平輪」が貨物船「建元輪」と、舟山群島 付近で過積載と無灯火により衝突し両船とも沈没した。約1,000人が死亡。
千葉県香取郡高岡村 (現:成田市 )の利根川にある「高岡の渡し」で、渡し船が対岸の茨城県側にある大島渡船場へと向かう途中で転覆して沈没、乗っていた31名のうち19名が死亡。
秋田県入道崎沖合で、汽船「雲仙丸(640トン)」が沈没。乗員・乗客のうち死者・行方不明者13人[28] 。
デラ台風 が日本列島を縦断。各地で船舶流失・沈没661隻、船舶破損1928隻。
大分県 姫島村 沖合で、今治港発門司港 行の定期連絡船「青葉丸(599トン)」が沈没。死者134人。
ジョディス台風 が九州地方、中国地方に被害を与える。船舶の沈没・流失90隻、船舶の破損25隻[28] 。
香川県 小豆島 沖合で八千代汽船の貨客船「美島丸(138トン)」が沈没。乗員・乗客57人のうち行方不明47人[28] 。
福島県 豊間町 沖合で定期船「金加丸(2500トン)」とサンマ漁船「大正丸(35トン)」が衝突。漁船が沈没して死者14人。
第二次世界大戦時
客船「長崎丸」(5,268トン、東亜海運)が上海から長崎港外に到着し、附近の哨戒艦と連絡のため指定航路を僅かに外れた時、日本海軍の機雷に触れて沈没。死者13名、行方不明者26名。生き延びてしまった菅源三郎 船長の切腹と言う壮絶な結末で有名な海難事故。
大阪商船 貨客船「高千穂丸 」、米潜水艦「キングフィッシュ 」の雷撃により沈没。乗客844名が死亡。
鉄道省 の関釜航路 の鉄道連絡船 である「崑崙丸 」がでアメリカ海軍の潜水艦ワフー の雷撃を受けて沈没[29] 。
輸送船「丹後丸」と「隆西丸」が米潜水艦「ラッシャー 」により連続撃沈。後者だけで4968-4999人が死亡。
軍隊輸送船「富山丸 」が徳之島 沖で米潜水艦「スタージョン 」の雷撃により沈没、3680-3874人が死亡。
沖縄からの児童疎開船「対馬丸 」が米潜水艦「ボーフィン 」の雷撃により沈没。疎開児童708名を含む1484名が死亡。3隻の疎開船団(「対馬丸」「暁空丸 」「和浦丸 」)の唯一の犠牲。また、沖縄本島からの疎開船(延べ187隻)の中で唯一、撃沈された船でもある。
輸送船「順陽丸 」が英潜水艦「Tradewind 」の雷撃により沈没。連合国軍の捕虜など約5620名が死亡。
ヴィルヘルム・グストロフの撃沈を描いた絵 1945年(昭和20年)1月30日
バルト海にてドイツ客船「ヴィルヘルム・グストロフ 」がソ連潜水艦「S-13 (英語版 ) 」の雷撃により沈没。乗船していた難民など9331名が死亡。
ドイツ客船「シュトイベン 」がソ連潜水艦「S-13」の雷撃により沈没。難民など4500人が死亡。
安全航行を保障されていた緑十字船「阿波丸」が台湾海峡 にて米潜水艦「クイーンフィッシュ 」により撃沈される。乗客2000人以上が死亡。艦長は阿波丸に対する攻撃を敢行し撃沈してしまい、しかも標的が軍艦だと誤認して攻撃している。クイーンフィッシュのチャールズ・E・ラフリン 艦長は「不注意」ということで軍法会議で有罪判決(戒告 処分)を受けている。
ドイツの貨物船「ゴヤ 」がソ連潜水艦「L-3 (英語版 ) 」の雷撃により沈没。難民など6666名が死亡。
ドイツ客船「カップ・アルコナ 」が英空軍の空襲により沈没。5594名が死亡。強制収容所の収容者が多く犠牲となった。
米重巡洋艦「インディアナポリス 」が日本潜水艦「伊号第五八潜水艦 」の雷撃により沈没。米海軍は同艦沈没の事実を人為的ミスによって丸四日間気付かず、乗員1196名中、880名が死亡した。同艦は広島へ投下された原子爆弾「リトルボーイ 」の輸送任務を終えた直後だった。生き残ったチャールズ・B・マクベイ3世 艦長は軍法会議 にかけられ有罪となり、1968年に自殺 している。この事件は海軍の真相隠蔽疑惑と、マクベイ艦長の名誉回復を巡って今も論争が続いていたが2000年に米国議会で名誉回復が決まった。
樺太 からの引き揚げ船「小笠原丸 」・「第二号新興丸 」・「泰東丸」が、ソ連潜水艦(L-12 (ロシア語版 ) 、L-19 )の雷撃・砲撃を受け「小笠原丸」と「泰東丸」が沈没、「第二号新興丸」が大破した。1700人以上が死亡。犠牲者の大半は民間人。
1950年(昭和25年)
静岡県伊東市 の「盛徳丸(30トン)」が伊豆大島の沖合いで沈没。乗組員32名が死亡。
広島県佐伯郡 にある長島の近くで漁船が操業していたところ、付近に浮遊していた大型磁気機雷が爆発。これにより漁船4隻が大破し2隻が損壊した。死者・行方不明者46人[30] 。
和歌山県箕島町 沖合で操業中の打瀬船 がジェーン台風 の影響により遭難。3隻が沈没、19隻流失、21隻が破損。死者・行方不明者100余人[30] 。
北海道厚岸郡 の霧多布沖で日本水産 の捕鯨船 が暴風雨に遭い、救難信号 を出した後に転覆。行方不明21人(乗員全員)[30] 。
三重県南牟婁郡北輪内村 (現:尾鷲市 )の漁船が岩手県三陸海岸 の魹ヶ崎(とどがさき)付近で行方不明。48名死亡。
愛媛県の今治市 から大阪へ向かう定期旅客船「第2高島丸(161トン)」が沈没。16名が死亡。
北海道南部で暴風、暴雪。操業中の漁船が多数沈没して死者・行方不明者34人[30] 。
長崎から名古屋へ向かっていた「豊丸(725トン)」がSOSを発信した後に消息不明となった。その後救命ボートに乗っていた5名が助かったが26名が犠牲となった(なお沈没を報じた日本経済新聞 では船名を「富丸」としている[31] )。
青森県の深浦町 沖にて東邦海運 の貨物船(1,684トン)が座礁の後に沈没。乗組員40名が死亡[30] 。
1951年(昭和26年)
横浜市の大岡川 に浮かぶ日雇い労務者用の水上ホテルが転覆。7名が犠牲となった。定員250人のところに432名が乗り込みバランスが崩れたのが原因と思われた。
佐賀県東松浦郡名護屋村 (現: 唐津市 )の波戸岬の沖で貨物船(880トン)が座礁した後に沈没。33名死亡。
東京湾および関東付近の太平洋で吹雪まじりの嵐となり漁船などの連続遭難事件が発生した。14日と15日の両日だけで小型漁船を中心に沈没43隻、流失46隻、損壊15隻、行方不明9隻、座礁6隻を出す事態となった。
福島県にある桧原湖 にて遊覧船(定員60名)が定員をオーバーする乗客を乗せて沈没。女子中学生1名死亡。
岡山県小串港 沖で定期連絡機帆船「備讃丸(19.72トン)」が沈没[30] 。
1952年(昭和27年)
ルース台風 の影響により全国(北海道、東北地方を除く)各地で遭難続出。船舶沈没32隻、船舶流失58隻、船舶破損35隻[30] 。
第五海洋丸の遭難 が発生。当時活発な活動を繰り返していた海底火山明神礁 の調査に向かった海上保安庁 の測量船「第五海洋丸」が、明神礁付近で調査を行っている際に突如発生した海底火山噴火に巻き込まれて沈没。船長以下乗組員22名、学術調査員9名、計31名全員が死亡[30] 。
静岡県の漁船「福徳丸(64トン)」が宮城県塩釜港外の太平洋で沈没。死者21人[30] 。
北海道の稚内沖で「日進丸」が定置網の引き上げに出航したまま行方不明になった。31名が乗り組んでいたが強風により沈没したものと思われる。
千葉県天津町 (現:鴨川市 )の漁船が岩手県の釜石市 沖で沈没。行方不明19人、救助1人[30] 。
1953年(昭和28年)
韓国釜山港 沖で「昌景号(창경호) 」が、強風により転覆し沈没。229名が死亡。
沖永良部島 から与論島 へ向っていた機帆客船「新生丸(18.5トン)」が沈没。乗客82名のうち80名が死亡[32] 。
米国の貨物船「チャイナベア号(8258トン)」と日本の水産指導船「白鳥丸(158トン)」が静岡県白浜沖の太平洋で衝突。これにより水産指導船が沈没して11名が死亡した[30] 。
大洋漁業所属の漁船「第11東丸(144トン)」が静岡県石廊崎 沖合で消息を絶った。同年2月25日に沈没と乗組員46名全員の死亡を確認[30] 。
福島県のカツオ マグロ漁船「みどり丸(98トン)」が宮城県の金華山 沖で消息を絶った。海上保安庁だけでなく在日米軍 の協力も得て海難地点付近を捜索したが「みどり丸」のものと思われる釣竿や魚を入れる道具しか発見できないまま8月8日 に捜索を打ち切った。乗員51名全員が行方不明[30] 。
静岡県焼津市、昭和漁業所属の漁船「第5幸生丸(84トン)」が宮城県の金華山 沖で消息を絶った。乗組員35名全員が行方不明[30] 。
1954年(昭和29年)
北海道で荒天のため小型漁船などの連続遭難事件が発生。3日間に沈没17隻、大破11隻、中破29隻、小破21隻、座礁39隻を出し、死者・行方不明者の合計は37名にも及ぶ事態となった。
水産庁の監視船、第3黒潮丸が南鳥島南方で消息を絶った。乗組員19名全員が行方不明[30] 。
協和汽船の貨物船「第6大運丸(600トン)」が、静岡県天竜川 河口の沖合で強風により沈没。乗組員16名全員が行方不明[30] 。
マグロ漁船「第五福竜丸 」がビキニ環礁 にて行われた核実験「キャッスル作戦 」で被曝。乗員が「死の灰」と呼ばれる放射性降下物 を浴び、1名が死亡。
翌10日にかけて急速に発達する低気圧(メイストーム )が北日本を通過し、北海道根室市 近海で操業中のサケ ・マス漁船など409隻が遭難。うち56隻が沈没・47隻が行方不明となり、乗組員約1000人が行方不明となった。低気圧通過後、巡視船やフリゲート艦による大規模な捜索が行われたが、遺体発見は3名にとどまった[30] 。
貨物船「辰和丸 」がフィリピン近海で台風3号 に遭遇し消息不明となり、沈没と認定[33] 。
青函連絡船「洞爺丸 」が函館市 沖で台風15号(洞爺丸台風 )の暴風により転覆・沈没。乗員乗客1155名が死亡。国鉄戦後五大事故 の一つ。
洞爺丸台風では、同様に函館沖で停泊していた「北見丸 (乗員70名死亡)」・「十勝丸 (乗員59名死亡)」が転覆、「日高丸 (乗員56名死亡)」が浸水、「第十一青函丸 (乗員90名死亡)」が船体破断で沈没。あわせて1430名が犠牲となっている。
神奈川県与瀬町 (現:相模原市 )にある相模湖 で遊覧船 「内郷丸」が定員を大幅に超過した状態で運航して沈没、死者22名。
青森県八戸港近くの日之出岩に漁船「第一盛喜丸(33トン)」が衝突して大破。乗組員16人が行方不明[34] 。
1955年(昭和30年)
北海道根室市の納沙布岬 沖で漁船「第八東丸(57トン)」が転覆。乗組員14名全員が死亡・行方不明となった。
大阪港 第3埠頭に停泊中だった関西汽船 の「にしき丸(1,850トン)」から出火。その後、消火活動が始まったが消防の放水を浴びてバランスを崩して転覆・沈没した。出火の原因は船員の寝室にあった石油ストーブの火の不始末と考えられた。死者や怪我人はなかった。
青森県の尻屋崎 の沖合いで大阪府大阪市の五大光商船所属の貨物船「大玄丸」(918トン)が浸水し、SOS信号を発信しながら沈没。乗組員29名が行方不明となった。
長崎県長崎市沖合で「第6あけぼの丸」と韓国船が衝突。乗員21名が行方不明[34] 。
北海道の小樽港 の沖合いで小樽石油海運のタンカー「第五葵丸」が時化で沈没。
いずれも宇高連絡船 である「紫雲丸 (貨客船)」と「第3宇高丸(貨物船)」が濃霧の中で衝突し、「紫雲丸」が沈没。死者166名、負傷者122名。国鉄戦後五大事故の一つに数えられる。
和歌山県潮岬の南方海上で、台風28号の影響により遠洋マグロ漁船3隻が遭難。乗組員62名が行方不明[34] 。
青森県八戸市浜市川の海岸で貨物船「反田丸(1300トン)」が座礁、沈没。乗組員21名が救助されたが10名が死亡。強風により操舵機が故障したことによるもの[34] 。
1956年(昭和31年)
北海道岩内町沿岸で、悪天候が原因の漁船の大量海難事故が発生。38名死亡[35] 。
北海道択捉島の沖合で底引き網漁船「明神丸(59トン)」が猛吹雪のため沈没。14名死亡[34] 。
静岡県御前崎 の南方約80km沖合で「第3万栄丸(55トン)」が大波を受けて沈没。15名が死亡[34] 。
高知県室戸町 の1.5km沖合で貨客船「太平丸(197トン)」が暴風雨により転覆。乗員乗客18名が行方不明[34] 。
イタリア客船「アンドレア・ドーリア (29,083トン)」と、スウェーデン客船「ストックホルム(12,165トン)」が濃霧の中で双方ともレーダーを過信し、20ノットの高速で航行中にアメリカ・マサチューセッツ州ナンタケット 島沖で衝突。「アンドレア・ドーリア」は沈没し、双方で55名死亡。
宮城県石巻港 外側で漁船「瓢栄丸(9.94トン)」が高波を受けて沈没。37名が死亡[34] 。
沖縄県南大東島 の南方約547km沖合で貨物船「東和丸(4162トン)」が台風22号の影響を受けて沈没。乗組員42名が行方不明[34] 。
伊豆大島沖合で漁船「第16漁吉丸(64トン)」が救難信号を出した後に消息を絶つ。20名が行方不明[34] 。
徳島県鳴門海峡 で観潮船が転覆。乗員ら3人が行方不明[34] 。
1957年(昭和32年)
瀬戸内海の定期客船であった「第5北川丸」が、定員の3倍超の乗客を乗せて生口島瀬戸田港 から尾道港に向け出航したところ、途中の暗礁に座礁・転覆し、死者・行方不明113名を出す惨事になった。海難審判 では船長の職務上の過失に加え、運航会社による管理が不適当であったとされた。
宮城県金華山沖合で漁船「八崎丸(49トン)」の機関室付近から出火して沈没。乗組員23名のうち13名が死亡[34] 。
沖縄県南大東島南東約519km沖合で「第17瑞宝丸(56トン)」が台風19号の影響により、緊急通信を残したまま消息を絶った。乗組員19名が行方不明[34] 。
新潟県新潟港 沖合で漁船「白山丸(26トン)」が消息を絶ち、翌日、防波堤に打ち上げられた船体が発見された。乗組員10名が死亡[34] 。
1958年(昭和33年)
紀阿連絡航路の旅客船「南海丸」が和歌山市 に向け徳島県小松島市 から出航したところ、悪天候に遭遇したため紀伊水道沼島 沖で沈没[36] 。乗員乗客167名全員が死亡・行方不明になった。生存者がいないため沈没までの詳細な過程は不明である。
福島県小名浜港外で漁船「第2大正丸(35.5トン)」が防波堤に衝突して沈没、乗組員14名が死亡。悪天候のため港へ緊急避難する途上であった[36] 。
北海道椴法華村 の沖合で「第2香取丸(496トン)」が暴風雨のため沈没、乗組員13名が死亡。2月19日に椴法華村の海岸で漂着物が発見された[36] 。
大分県上浦町 の沖合で東海海運の貨物船「津久見丸(820トン)」が転覆後に沈没。乗組員31名のうち12名が死亡した。船は硫黄鉱石を積んで津久見港に向かっている最中で、舵を左に切ったまま転覆した[36] 。
青森県八戸市の北東約32kmの沖合で漁船「第16妙義丸(35トン)」が沈没。近くにいた漁船により10名が救助されたが、17人が行方不明[36] 。
千葉県白浜町の東約96kmの沖合でマグロ漁船「第18瑞宝丸(96トン)」と「第5大徳丸(40トン)」が台風27号の暴風雨に巻き込まれて消息を絶つ。乗組員32名が行方不明[36] 。
北海道南西海域でイカ釣り漁船「交洋丸(7トン)」「幸生丸(5トン)」「旭丸(2.5トン)」が暴風雨のため転覆、3名が死亡、15名が行方不明[36] 。
1959年(昭和34年)
三重県大王崎沖合でマグロ漁船「第5優光丸(60トン)」が激浪に舵を折られて沈没。乗組員20名死亡[36] 。
千葉県野島崎沖合でマグロ漁船「第11進漁丸」が激浪を受けて沈没。乗組員18名死亡[36] 。
四国沖合(詳細箇所不明)で漁船「第18吉祥丸(トン数不詳)」が転覆して沈没。乗組員36名全員が死亡[36] 。
北海道羅臼村 の沖で、突風により漁船16隻が沈没、死者7名・行方不明者82名。
隠岐島の西方で底曳網漁船「永幸丸(37.5トン)」が宮古島台風 (台風14号)の暴風雨により沈没。乗組員10名が死亡[36] 。
青森県三沢市の沖合でイカ釣り漁船「第5清宝丸(トン数不詳)」が伊勢湾台風 の波浪により船体が折れて沈没。乗組員21名が死亡[36] 。
千葉県野島崎の東約750kmの洋上で漁船「第12長栄丸(トン数不詳)」が沈没。乗組員22名が死亡[36] 。
福岡県にある米軍芦屋基地 の沖で八幡製鉄所 構内の小型貨物船「松栄丸(422トン)」が沈没、10名死亡。
千葉県銚子の一ノ島灯台 付近で茨城県の漁船「第5幸辰丸(32トン)」が高波を受けて転覆・沈没。乗組員35名のうち28名が死亡。
千葉県野島崎沖合で漁船「第5八幡丸(トン数不詳)」が消息を断つ。乗組員19人が死亡[36] 。
1960年(昭和35年)
北海道から東北地方で暴風雪。船舶沈没6隻、船舶座礁5隻、船舶大破18隻、行方不明3隻により死者・行方不明者60人[37] 。
日本海で操業中の漁船「第8八幡丸(トン数不詳)」が韓国 警備艇に接触されて沈没[37] 。
茨城県那珂湊市 東方約41km海上で、漁船「第2日吉丸(61トン)」と飯野海運の貨物船「海鳥丸(3031トン)」が濃霧の中で衝突して日吉丸が沈没。2人が救助されたが13人が行方不明[37] 。
チリ地震津波 が太平洋岸に到達。船舶沈没94隻、船舶流失1036隻、船舶破損1143隻などの被害[37] 。
津軽海峡東方で対潜訓練中の海上自衛隊 の護衛艦2隻、「あけぼの 」と「いなづま 」が、操船ミスで衝突し2人が死亡、2人が負傷した。なお6月15日には修理のため函館どっく の岸壁に停泊中の「いなづま」で室内での清掃作業に用いたガソリン への引火による爆発事故が発生。3人が死亡、重軽傷6人[37] 。
岩手県釜石市 の漁船 「第6神明丸(36トン)」が北海道の釧路沖500キロで消息不明となった。17名の乗組員は全員死亡したものとされる。
静岡県南伊豆町 の沖合で漁船「第12光漁丸(33トン)」が暴風を受けて沈没。14人は救助されるも12人が死亡[37] 。
大分県 蒲江町 から約6km離れた名護屋港へ向かう定期連絡船「第3満恵丸(12.58トン)」が蒲江港を出港した直後に沈没。学生5人が死亡、7人が負傷[37] 。
福島県いわき市の沖合でマグロ漁船「第1成田丸(トン数不詳)」が操業中に消息を絶つ。12月26日に乗組員12人全員を死亡と断定[37] 。
1961年(昭和36年)
宮城県の金華山沖で東京の太洋海運 所属の貨物船「第五太平丸(900トン)」が積荷の荷崩れが原因で沈没。乗組員25名は沈没直前に救命ボートに乗り移って脱出、全員生還した。
岩手県釜石市のサケマス流し網漁船「第6明神丸(トン数不詳)」が消息を絶つ。乗組員17人が死亡[38] 。
岩手県の三陸 沖でギリシャ船籍の貨物船「アトランチック・サンライズ(14,408トン)」と大洋漁業の捕鯨船 「第7文丸(391トン)」が濃霧による視界不良の中で衝突。「第7文丸」は沈没して乗員23名のうち7名は救助されたが、16名死亡[38] 。
北海道の広尾港 を出港した刺し網漁船「第18雲浦丸(53トン)」が襟裳岬 東南35キロでバラバラとなった船体の破片が発見された。状況から他の船と衝突して沈没したものと思われたがぶつけた相手の船は判らなかった。この事故により乗組員14名全員が行方不明となり全員が死亡したものとされる。
第2室戸台風 が高知県室戸岬を通過後、近畿地方に上陸。船舶の沈没339隻、船舶流失619隻、船舶破損1582隻などの被害[38] 。
岡山県玉野市の沖合でタグボート「児島丸(104トン)」と貨物船「八汐山丸(1万1702トン)が衝突。児島丸は沈没し、乗組員3名は救助されたが、8名は死亡した[38] 。
千葉県の銚子沖30キロの太平洋で茨城県の漁船「第6政豊丸(30トン)」が貨物船「玉川丸(6,844トン)」と衝突し、「第6政豊丸」は転覆・沈没。乗組員12名のうち9名が死亡した。
東京湾の各所にて強風のため遊漁船や小型の釣り船10隻が沈没。釣り客ら11名が死亡、13名が重軽傷を負った[38] 。
石川県七塚町 (現: かほく市 )の漁船「第1梅丸(21トン)」が遭難、乗組員6名全員が行方不明。
新潟県新潟市 沖の日本海で長谷部海運のタンカー「第18八幡丸(452トン)」が転覆。乗組員のうち2名が死亡、9名が行方不明。
韓国の済州島 の北西約370キロの海上で漁船「第8山田丸(92トン)」が突然の横風を受けて沈没。乗組員13名のうち3名は救助されたものの10名が行方不明。
岩手県釜石市のマグロ延縄漁船「第15長栄丸(トン数不詳)」、同「第3鷹丸」が消息を絶つ。乗組員33名が死亡[38] 。
福島県北塩原村 にある桧原湖 にてモーターボートが沈没。乗っていた6名全員が死亡。
1962年(昭和37年)
徳島県海南町の遠洋マグロ漁船「第2協漁丸(69トン)」が消息を絶つ。乗組員15名が死亡[39] 。
屋久島安房港の南海上でマグロ漁船「第1佐多丸(95トン)」が強風と高波のために沈没。乗組員15名は死亡したが、船長は約50時間漂流後にアメリカ軍の舟艇に救助された[39] 。
神奈川県三浦市と初島・利島間で行われたヨット レース中に早稲田大学 の「早風号」と慶應義塾大学 の「ミヤ号」が消息を絶つ。両艇の乗組員11名が死亡したほか、別の参加艇でも乗組員2名が死亡した[39] 。
神奈川県川崎市の京浜運河 を航行中の出光興産 所有の小型石油タンカー 「第一宗像丸 (1,972トン)」が、ノルウェー船籍の大型タンカー「タラルド・ブロビーグ(21,634トン)」に衝突。「第一宗像丸」の積荷のガソリンが炎上し、付近を航行していた「太平丸(89トン)」と「宝栄丸(62トン)」も巻き込まれて炎上、4隻で41人が死亡。海難審判では「第一宗像丸」の船長と「タラルド・ブロビーグ」の水先人が見張りを疎かにしていたためとされたが、狭い運河に揮発性の高い積荷を満載した船舶が過密航行していることも原因のひとつであった[40] 。
青森県佐井村の西約1.5kmの沖合で底曳網漁船「第13妙力丸(40トン)」が沈没。乗組員13名の内、死者・行方不明者12名[39] 。
1963年(昭和38年)
韓国の済州島 の近くで日本の漁船「第十二泰安丸」が沈没。乗組員12名のうち1名は韓国側に救助され、2名の遺体を収容、9名が行方不明となった[41] 。
韓国・木浦市 港の近くでフェリー「燕号(연호) 」が沈没[42] 。140人が死亡。
北海道枝幸郡枝幸町 のはえなわ漁船「第二瑞宝丸(74トン)」が千島列島 沖で操業中に火災発生。夜間で乗組員全員が就寝中だったため火災の発生に気付くのが遅れて乗組員14名のうち6名死亡、3名が重軽傷。
兵庫県神戸市和田岬 沖で貨物船「りっちもんど丸(9,547トン)」と鳴門・阪神間の定期旅客船「ときわ丸(238トン)」が衝突。「ときわ丸」は衝撃で沈没し乗員7人と乗客40人が死亡し3人が負傷した。海難審判では「りっちもんど丸」船長の職務上の過失が主とされたが「ときわ丸」側にも過失があったと認定された。
東京湾内で海上自衛隊護衛艦「てるづき 」の右舷に貨物船「賀茂春丸」の船首が衝突し、自衛官5人が死亡。
岩手県陸前高田市 の沖で福島県のサケマス流し網漁船「第三福寿丸(61トン)」が沈没。乗組員11名死亡、8名不明[43] 。
フィリピン からラワン材 を運搬していた「洞南丸(4,815トン)」が和歌山県潮岬 沖[ 要出典 ] で遭難。乗員33人が死亡・行方不明。荷崩れにより転覆の危険があるため総員退避すると通信があったことから[ 要出典 ] 、荷崩れで横倒しになり沈没したとみられている。また、6月12日の衆議院 運輸委員会で「『洞南丸』が戦時標準型貨物船 (1945年 (昭和20年)5月29日 に三菱造船長崎造船所 で進水)であったことも事故原因の一因ではないか」との指摘がなされた[44] 。
岩手県宮古市 のサケマスはえなわ漁船「第3宝運丸(39トン)」から火災発生。乗員16名のうち4名焼死。6名火傷。
広島県福山市 で製鉄所建設現場に通勤する作業員57人が乗船したタグボート 「第13湊川丸(6.15トン)」が転覆沈没して10名が死亡。原因は定員の5倍が乗っていたことによる重量超過であった。
沖縄本島 と久米島 を結ぶ「みどり丸」が横波を受けて転覆・沈没。死者・行方不明112人[45] 。
北海道の松前町 沖にて兵庫県神戸市の正向海運所属の貨物船「加明丸(998トン)」が積荷の硫化鉱の荷崩れが原因で沈没。死者20名。
1964年(昭和39年)
青森県の下北半島 沖にて広島県豊田郡安芸津町 (現:東広島市 )の進徳海運所属の貨物船「第二進徳丸(757トン)」が積載量を超えた荷物を積んで出航し、また時化にあったことにより沈没。乗組員11名のうち一等航海士1名は救命ボートにより脱出に成功して生還したが両手足に凍傷を負った。残り10名は死亡行方不明となった。
午後9時頃(日本時間: 午後8時頃)オーストラリアのニューサウスウェールズ州ジャービス湾特別地域 にてオーストラリア海軍 所属の空母 「メルボルン 」(19,000トン)と駆逐艦「ヴォイジャー 」(2,800トン)が衝突して約3時間後に「ヴォイジャー」が沈没。死者82名。
北海道小樽市 の沖合いで底引漁船「第三豊善丸(82トン)」が消息を絶ち、乗組員17名が行方不明となった。
ギリシャ 船籍の貨物船「マリア・G・L(7,238トン)」がアメリカのロングビーチから横浜港へ肥料 を運んでいたところ、千葉県勝浦市 布良鼻の沖で座礁して動けなくなった。またこのあと「マリア・G・L」を救助するため現場へ向かったアメリカ船籍の貨物船「ダディビレジ(8,245トン)」も座礁してしまった。そして2日後の17日になって「マリア・G・L」は船体が真っ二つに割れて沈没。乗組員は沈没前に全員救助されて無事だった。「ダディビレジ」も船体が危なくなったので全員が退船するなどした。
アメリカバージニア州 沖の大西洋 でタンカー「サンジャシント(11,257トン)」が突然爆発。船体が真っ二つに分かれて沈没[46] 。
オーストラリア西岸のインド洋で操業していた三重県志摩郡浜島町 (現:志摩市 )のマグロはえ縄漁船「第三幸喜丸(179トン)」が行方不明となった。僚船やオーストラリア空軍 などにより捜索が行われたが手かがりが得られず全員遭難したものと判断され、4月3日に捜索は打ち切られた。乗組員24名全員行方不明[47] 。
伊豆半島南の静岡県南伊豆町 波勝崎の沖合いで東京都中央区 の渡辺海運所属の砂利運搬船「光進丸」が積荷の砂利が傾いて横転沈没。乗組員8名のうち5名が死亡[48] 。
静岡県賀茂郡松崎町 沖の駿河湾 で漁船「第一鉱造丸」及び「第二鉱造丸」の2隻が相次いで転覆沈没、合計32名が海へ投げ出された。近くにいた仲間の船が27名を救助したが、2名死亡。3名行方不明となった。
鹿児島県薩摩半島 の西で台湾船籍の貨物船「チュンカイ(1,873トン)」の積荷の火薬が爆発してSOSを出す間もなく沈没。翌12日の午前0時30分頃に同海域を通りかかったギリシャ船籍の貨物船「バアン(6,729トン)」が漂流する「チュンカイ」の救命ボートを発見して佐世保海上保安本部へ連絡したため、事故が発覚した。このあと現場海域で大がかりな捜索が行われ、救命イカダで漂流する乗組員などを救助したが、全乗組員45名中24名については行方不明のまま5月13日の日没をもって捜索は打ち切られた[49] 。
北海道亀田郡椴法華村 (現:函館市)沖の噴火湾 で日魯漁業 の鮭鱒工船「協宝丸(7,158トン)」と、北海道漁業公社の「第三海鳳丸」(84トン)が衝突し「第三海鳳丸」は転覆・沈没した。「第三海鳳丸」は衝突と同時に転覆してしまい、また夜間で海が暗かった事もあり「協宝丸」はすぐに救助作業を始めたものの1名も救助する事はできなかった。また朝になり海上保安庁の船も付近を捜索したが生存者の発見は出来ず、「第三海鳳丸」の乗組員21名の命は絶望とされた[50] 。
北海道襟裳岬 東南東約240kmで、岩手県大船渡市 のサケマス流網 漁船「第八成徳丸(39トン)」が沈没。釧路海上保安部の巡視船「宗谷 」が救助に向かったところ6月5日に乗組員17名中13名を乗せた救命ボートを発見。しかし、13名全員が死亡していた[51] 。
東京湾を航行していた館山市 発竹芝桟橋 行の水中翼船 「バカンス号(39トン)」が浮遊していた障害物と接触して急停船。この事故で乗客51名のうち23名が座席から放り出されるなどして負傷した。負傷した乗客は竹芝桟橋に入港後、すぐさま病院へ搬送されるなどした。東京水上署が調べたところ船体両側にある水中翼が二つとも損傷していたことから障害物は水面すれすれに浮かんでいた巨大な丸太などではないかと推察されたが、結局のところ何がぶつかったのかは判らなかった[52] 。
愛知県常滑市 沖の伊勢湾 でイギリス船籍の貨物船「イースタンテイク(11,222トン)」と、大阪市の日化汽船所属のケミカルタンカー 「日化丸(339トン)」が衝突し、「日化丸」はまもなく沈没し乗員9名全員が死亡した。
東京都羽田沖の東京湾 で大阪商船三井船舶 所属の貨物船「はわい丸(9,332トン)」と、静岡県清水市 の砂利運搬船「第一大伸丸(733トン)」が衝突。この事故で「第一大伸丸」はまもなく沈没し乗組員12名中8名は「はわい丸」などに救助されたが、4名が行方不明となった。
北海道茅部郡南茅部町 (現:函館市)のイカ釣り漁船「美保丸(1.54トン)」が漁に出たまま行方不明となった。海上保安庁の巡視船が捜索したところ椴法華村 の沖合いで転覆して船底を上にして漂流している「美保丸」を発見。しかし乗組員4名は発見されなかった。
千葉県富津岬 の沖合いで個人所有のヨットが荒天のため転覆し乗っていた会社員2名が死亡。
兵庫県高砂市 の沖合いで砂利運搬船「第二天祐丸(198トン)」が強風に煽られて横転し沈没。乗組員5名中1名が死亡。
アメリカのニュージャージー州 沖の大西洋でイスラエル 船籍の客船「シャローム(24,500トン)」と、ノルウェー 船籍のタンカー「ストルトダガリ(12,723トン)」が衝突。この事故で「ストルトダガリ」は船体が2つに裂けて沈没、乗組員43名のうち16名が死亡した。また「シャローム」は船首部分を大破したものの自力航行が可能な状態で怪我人を多数乗せたままニューヨーク港 まで自力で戻った。
北海道稚内市 にある結城水産所属のタラ漁船「第11幸福丸(105トン)」が千島列島・阿頼度島 の北方約26kmのオホーツク海で火災発生。乗組員17名のうち8名は逃げ遅れて焼死。9名は付近で操業していた宮城県石巻市の漁船に救助されたがうち2名は大火傷の重傷を負った。
アフリカのアンゴラ 沖の大西洋 で福岡県北九州市 の日本水産 戸畑支社所属のトロール漁船「宇治丸(535トン)」が行方不明となった。その後、同水産会社所属の漁船が「宇治丸」のものと思われる浮きや木箱、海面に浮く重油などを発見した。乗組員33名は1名の遺体が発見されたが残りの者は全員が行方不明となった。その後、船体は陸地からすぐ近くの深さ85mの海底に沈んでいるのが魚群探知機により発見された。
千葉県の銚子港 沖の太平洋で青森県八戸市 のカツオマグロ漁船「第三十五正進丸」が行方不明となった。後日「第三十五正進丸」の遭難ブイからと思われる電波をキャッチしたが船は見つからなかった。
伊豆の御蔵島 で高知県安芸郡安田町 のマグロはえなわ漁船「起久丸(39トン)」が座礁。乗組員14名は自力で御蔵島へ渡ったが、うち1名が怪我した。
1965年(昭和40年)
貨物船「波島丸(波方商船 2302トン)」が北海道北桧山町 沖1km付近で転覆。死者18人[53] 。
北海道の日本石油精製室蘭製油所 にてノルウェー船籍の油槽船「ヘイムバード(ハイムバルト、35,355トン)」が桟橋 に衝突し漏れた原油 に引火して爆発、乗組員10名が死亡した。
大阪港 天保山桟橋付近で、遊覧船 「やそしま丸」が舵がきかず暴走したタグボート に衝突されて転覆・沈没。遊覧船に乗り合わせた子供会 の児童、父母など乗員・乗客59名中20名が死亡[54] 。
伊豆半島東沖合でタンカー「明興丸(明和海運 995トン)」とアメリカの貨物船「アリゾナ(12711トン)」が衝突。明興丸が沈没して2人救助、21人が行方不明[55] 。
日本のタンカー「海蔵丸」がサウジアラビア のカフジ で原油 の積み込み作業中に爆発炎上、乗組員や陸上作業員など14名が死亡。
マリアナ諸島アグリハン島 の島陰で昭和40年台風第29号 を避けていた日本のかつお・まぐろ漁船群が、台風の予想外の針路変更と急発達のため暴風圏内に巻き込まれた結果、6隻沈没、1隻が陸に打ち上げられて大破沈没し、死亡及び行方不明者209名の大量遭難となった。
バハマ諸島 沖でクルーズ客船 「ヤーマス・キャッスル (乗客376名、乗員176名、計552名が乗船)」が火災を起こして沈没。乗客88名、乗員2名が死亡。
1966年(昭和41年)
愛知県名古屋市港区 にある石川島播磨重工 の造船所の岸壁でLPG船 「ブリヂストン丸(33,800トン)」の船倉から出火。船内で作業中だった作業員15名が窒息死した。
神奈川県の三浦半島 東側の東京湾でタンカー「第七大手丸(365トン)」と台湾の貨物船「チャンキンビクトリア(7,305トン)」が衝突。「第七大手丸」が沈没して7名が死亡。
1967年(昭和42年)
兵庫県の神戸港 沖で午後11時30頃に兵庫県飾磨郡家島町の個人が所有する小型砂利運搬船「住徳丸(158トン)」とリベリア 船籍の貨物船「オリエンタル・バンカー号(7,993トン)」が衝突。「住徳丸」は衝突直後に沈没し乗組員4名全員が行方不明となった[56] 。
新潟県両津市 の両津漁港所属のエビ漁船「利勝丸(11トン)」が佐渡島 の東方沖で消息を絶ち船長以下全5名行方不明[57] 。
午後10時頃、韓国・釜山 の西方30kmの洋上で乗員乗客87名を乗せたフェリーボート「韓1号(140トン)」が韓国海軍の軍艦「忠武」と衝突し「韓1号」はまもなく沈没した。すぐに「忠武」が救助に当たったが乗員乗客15名が死亡し60名が行方不明となった[58] 。
長崎県の対馬沖で島根県浜田市 の浜田漁業生産組合所属の底引網漁船「第十五長栄丸(49トン)」が行方不明となった。海上保安庁 の巡視艇「なつづき」「たつぐも」及び、巡視船「くろかみ 」「へくら」や、第十五長栄丸の僚船3隻が捜索に当たったが、同日夜になり対馬の神埼の東南東20kmの場所で第十五長栄丸のものと思われる魚箱や木片か多数浮遊しているのを地元の漁船が発見し、遭難は確実視された。船長以下全12名が行方不明となった[59] 。
千葉県千葉市の千葉港 の沖に停泊していた浚渫船 「第三墨田丸(70トン)」から午後9時30分頃に火災発生。乗組員8名のうち3名が焼死し、5名が火傷を負った。出火原因は暖房用ストーブのガスが船内に充満して引火したものと推定された[60] 。
午後4時頃、神奈川県川崎市の川崎港 で、東京都千代田区のジャパンライン 所属のタンカー「瑞栄丸(31,288トン)」と、愛媛県松山市 の興栄海運所属のタンカー「第十五永進丸(993トン)」が衝突。この事故で「第十五永進丸」は左舷に直径2mあまりの裂け目が出来てそこから灯油200キロリットルが海面に溢れた。幸いに火災事故などはおきなかった[61] 。
イギリス沖で、リベリア船籍の大型タンカーである「トリー・キャニオン号 (en:SS Torrey Canyon 、61,263トン、載貨重量トン数(最大)118,285トン)」が座礁。同船はクウェート産の原油を満載しており、船体破損で船外に流出した。船体は3月26日に二つに破断。英国政府は船内に残った原油の流出を避けて燃焼させるために船体を爆破、3月30日に沈没した。流出した原油は8万トン以上に及び、タンカー事故で広範囲に原油が流出して海洋を汚染した最初の事故となった。これをきっかけに国際海事機関 (IMO)は1969年に「油による海水の汚濁の防止に関する国際条約」を改正、さらに1973年にこれを発展的に強化した海洋汚染防止条約(マルポール条約 )が採択されるに至った。
このころから世界中で大型タンカーが建造され始めたが、当初知りえなかった現象(静電気の発生、それが残油に引火)により、多くの船が爆発炎上している。日本のタンカー及び日本に寄港したタンカーにおいても、1965年・サウジアラビアにおける海藏丸火災事故(同国ラス・アル・カフジに入港中のタンカー「海藏丸(20,949トン)」が、船内に侵入・滞留した石油気化ガスに引火して爆発炎上し14名が死亡)や、室蘭港におけるヘイムバード火災事故(ノルウェー船籍のタンカー「ヘイムバード(35,355トン)」が室蘭港への接岸に失敗し、原油を大量に流出させた所へ曳船のエンジンの火の粉もしくは火花から石油気化ガスに引火。同船は大爆発を起こして27日間にわたって燃え続け、10名が死亡すると共に一時は周辺住民に避難命令が出された)など、大規模な炎上事故が起こっている。
1968年(昭和43年)
北海道静内郡静内町 (現:新ひだか町 )の沖合いで操業中の同町漁協所属の漁船「高徳丸(9トン)」が漁のため投網したところ魚が網に入り過ぎて船体のバランスを崩し横転沈没。5名が死亡した。
兵庫県淡路島 西側で砂利 運搬船が転覆。2名が船内に取り残された。同日中にサルベージ船が転覆した船内に圧搾空気 を送り込んだところ、1人が船内から自力で脱出に成功した。残り1人は死亡[62] 。
1969年(昭和44年)
野島崎南東沖合を航行中の撒積貨物船「ぼりばあ丸 (33,768トン)」の船首部分が突然折損脱落して航行不能となり、約1時間後に沈没。長沢吉三郎船長ほか乗組員30人が行方不明となった。
東シナ海 にてオーストラリア海軍所属の空母「メルボルン (19,000トン)」とアメリカ海軍の駆逐艦「フランク・E・エヴァンズ」が衝突、エヴァンズは艦首部分が切断されて沈没。死者74名。
アフリカ西海岸ダカール の沖合でシェル石油 所有の大型タンカー「マルベッサ(207000トン)」が火災を起こし翌日沈没。沈没した船の中では過去最大級。タンカーは同年に日本の石川島播磨重工 が建造して引き渡したばかりのものであった[63] 。
北海道襟裳岬 沖合で貨物船「第10開洋丸(499トン)」が転覆。2人がゴムボートで脱出して生還するも7人が行方不明[64] 。
1970年(昭和45年)
静岡県石廊崎沖合で東邦汽船所属の貨物船「東庄丸(353トン、乗員7人)」が大波を受け、ハッチボードから浸水して沈没。3人が救助されたが、1人死亡、3人行方不明[65] 。
千葉県野島崎沖東南東1200kmの太平洋上でリベリア船籍のタンカー「ソフィア・P(18,620トン、乗員29人)」の船体が折れて前部約1/3が沈没。船長を含む7人が死亡、22人が近隣を航行中のコンテナ船に救助された[66] 。
北海道奥尻島 沖を航行中の石炭運搬船「波島丸(3,913トン)」が時化のために転覆、18人が死亡。上床力 船長(当時60歳)は船と運命を共にした。
福島県小名浜港 で低気圧 による波浪を避けるため、港内に停泊していた三光汽船 の貨物船「空光丸 」(18,147トン)が走錨を起こして沈没、事故の責任を取る形で船に残った一等航海士 を含め15人が死亡。また、港の入り口に停泊していた新潟海運運送の貨物船「弥彦丸」(3000トン)の錨が切れ、港内に吹き寄せられて船首を大破。その他、他の船も岸壁に打ち付けられるなどの被害が出た。同年2月、事故を受けて全日本海員組合 は港内の防波堤 の建設が軽視されているとして、運輸大臣 にあてて警告書を出している[67] 。
静岡県の田子ノ浦港を出航した合洋海運の砂利運搬船「第一合洋丸(349トン、乗員5名)」が行方不明となったと船主より海上保安庁に届出があった。1月31日以降同船と連絡が取れておらず太平洋上で沈没したものと推察された。
千葉県犬吠埼 の沖合い約300kmの太平洋上で第一中央汽船の鉱石運搬船「かりふぉるにあ丸 (61,000トン、乗員29名)」が、船首部分を破損して浸水をおこして沈没。乗組員のうち24名は無事に救助されたが、5名が死亡。住村博 船長(当時45歳)は船長としての責任を取るべく「船と運命を共にする」と言い残し、救助される事を拒否。ブリッジより乗組員へ別れを告げ、そのまま沈没した船と運命を共にした。
当時の船員法 第12条に「船長の最後去船 義務」という項目があり「旅客・海員その他船内にある者を去らせた後でなければ、自己の指揮する船舶を去ってはならない」との条文があったが、これが前出の「波島丸」の事故と合わせ「船長に殉職精神を植え付けているのではないか」との批判が巻き起こり、国会でも大きな論争となった。同年5月15日 に船員法が一部改正され、第12条が削除されるきっかけとなった。
福島県いわき市 の沖合90km付近でギリシアの貨物船「マリア・G・ゲオルギウス」(8799トン)といわき市の底引き網 漁船「第18大洋丸」(96トン)が衝突、「第18大洋丸」が沈没した。「マリア・G・ゲオルギウス」側によって2人の乗組員が救助されたが10人が行方不明[68] 。
クルーズ客船「アローザ・スター (7,114トン、事故時の船名は「ラ・ジェニーレ」)」が荒天でカリフォルニア州の海岸に座礁。この事故での死者はなかったが、後に侵入者が死亡。船は防波堤の一部となった。この船は「バハマ・スター」という船名であった1965年に「ヤーマス・キャッスル」の事故で救助を行っている。
旅客船「南営号(ナミョン号)」が、朝鮮海峡 の対馬海峡西水道付近で過積載により転覆し沈没。326名が死亡。
1971年(昭和46年)
熊野灘 で濃霧が原因の衝突事故が7件発生。浜野海運所属の貨物船「楽穂丸(499トン)」、藤村汽船所属の貨物船「光洋丸(498トン)」の2隻それぞれ別の衝突で沈没。一連の事故で死者・行方不明者10人[69] 。
兵庫県 家島町 沖合で、小豆島急行フェリー の「姫路丸(577トン)」と砂利取採取船(199トン)が衝突。フェリーの乗客12人が重軽傷[70] 。
浦賀水道 でリベリア船籍の貨物船「プロスパリティー」と東京海運所属の貨物船「第三桂丸(452トン)」が衝突して第三桂丸が沈没。4人が死亡。プロスパリティー号の無理な追い越しが原因[71] 。
新潟西港 沖でリベリア船籍のタンカー「ジュリアナ(19124トン)」が荒天の為に座礁。6500トン(一説には7200トン)の原油が周囲に流出する。我が国の油流出事故で流出量が最大と言われる[72] [73] 。
1972年(昭和47年)
香港 のビクトリア・ハーバーで洋上大学に改装中だった旧イギリス客船「クイーン・エリザベス (当時世界最大)」が火災により沈没。残骸は映画『007 黄金銃を持つ男 』のロケにも使用された後に解体された。
茨城県の日立港 から神奈川県の久里浜 港へ向かう途中の材木運搬船「武光丸(2,298トン)」が千葉県の太東埼灯台 沖で座礁して沈没。乗員22名死亡。
1973年(昭和48年)
大韓民国 木浦市から珍島 へ向かっていた連絡船「ハンソン(98トン)」が珍島郡 知山面深東里の沖合で暗礁にぶつかり沈没。死者行方不明62人[74] 。
1974年(昭和49年)
豊後水道 、水ノ子島 灯台北西8.3km沖合でで三光汽船の貨物船「菊光丸(12291トン)」とパナマ船籍の貨物船「ウエスタン・スター(2999トン)」が衝突。ウエスタン・スターが沈没し、2人が救助されるも死者・行方不明者24人[75] 。
青森県沖の太平洋上で初の原子力航行試験をしていた原子力船 「むつ 」より、放射線 漏れの事故が発生。
和歌山県南端の潮岬沖でリベリア船籍の貨物船「オーシャン・ソリバーン」が高知県のマグロ漁船「第十一昌栄丸」に衝突、「第十一昌栄丸」は転覆・沈没。死者行方不明14名。
LPG・石油タンカー「第十雄洋丸」とリベリア船籍の貨物船「パシフィック・アレス」が東京湾木更津港 沖で衝突して炎上した。死者33名。
1976年(昭和51年)
宮崎県の細島港 から広島県の広島港 に向かっていた日本カー・フェリー(現:マリンエキスプレス )所属のフェリー 「ふたば(1,933トン)」が山口県のミルガ瀬戸(諸島(もろしま)- 情島 間)で、パナマ 船籍の貨物船「グレート・ビクトリー(7,519トン)」と衝突し「ふたば」が沈没。「ふたば」の乗員28人と乗客58人のうち5人が死亡・行方不明となり車両24台も水没した。日本国内でカーフェリーで発生した初の人身死亡事故となった。
大分県 佐伯市 東方の豊後水道 で回送中のタンカー 「菱洋丸(52,157トン)」の船体が中央からV字型に折れる海難事故が発生。乗員62人(タンククリーニング業の作業員30人が乗船していたため通常より多い)は、3隻に救命ボート で脱出して全員無事。遭難当時は台風17号 接近に伴ううねりがあった[77] ものの、タンカーの船体が真っ二つに折れるほどのものではなく原因の究明が行われた。1977年 、横浜地方海難審判庁 は海水バラスト 船体中央に偏積したため、過大な静水中縦曲げモーメントに波浪の縦曲げモーメントが重畳して、上甲板中央部が座屈したものと判断している[78] 。
深刻な海洋汚染を引き起こしたアルゴ・マーチャント号
リベリア船籍のタンカー「アルゴ・マーチャント(en:MV Argo Merchant )」がアメリカ・マサチューセッツ州ナンタケット 島沖で座礁。数日後に船体は破断し、積荷の燃料油29000キロリットル全量を流失、極めて深刻な海洋汚染を引き起こした。
パナマ船籍の貨物船「デメター(2995トン)」が鹿児島県 屋久島 の早崎灯台北東約10kmの海域で救難信号を発信した後に沈没。破損した救命ボートが見つかったが乗員の姿はなく、台湾籍らの乗組員22人が行方不明[79] 。
1977年(昭和52年)
ギリシアの貨物船「プロトクリトス(9857トン)」と韓国の貨物船「第52トン・ヤン(990トン)」が大シケの熊野灘 で衝突。トン・ヤンが沈没して死者1人、行方不明20人[80] 。
貨物船とパナマ 船籍のタンカー「アストロ・レオ」が愛媛県松山市沖合の釣島海峡で衝突。タンカーが爆発、炎上した。同船から1600kl以上の原油が流出、半分以上は火災により燃焼したが、残りは海峡内に広がった[81] 。
1978年(昭和53年)
今治市 東門町一、寿汽船所属の「第8福徳丸(342トン、野崎幸夫 船長ら4人乗り組み)」は午後2時半過ぎ、セメント原料約600tを積んで香川県・直島町 港を出港、福岡県・苅田町 の三菱セメント 苅田工場に向かったが、同4時頃、坂出港 沖付近を航行中、船舶電話で「17日午前7時ごろ到着する」と苅田工場に連絡したのを最後に消息を絶った。寿汽船からの連絡で、第六管区海上保安本部 は18日朝から巡視船20隻、飛行機3機動員して捜索を開始。23日朝からも捜索船を10隻に減らしたものの、飛行機3機を引き続き飛ばして捜したが手がかりは全くなかった。同本部では「遭難したとすれば海面に油が浮いたり漂流物が見つかる。全く謎の蒸発」と言った。予定を変更して上陸した形跡はなく、船内で何かが起きて外洋に出たという情報もない。
フランスのブルターニュ半島 沖でタンカー「アモコ・カディス 」が座礁・沈没し、大量の原油が流出する。
兵庫県の神戸港 から宮崎県の細島港に向かっていた日本カー・フェリー(現: マリンエキスプレス)所属のフェリー「さいとばる(6,574トン)」が、愛媛県の来島海峡 で韓国のタンカー「チャン・ウォン(3,409トン)」と衝突して転覆沈没した。乗用車69台とトラック69台とコンテナ4個と多数の積荷が水没する甚大な被害が生じたが、幸い深夜かつ強潮流の悪条件の中から乗員・乗客245人全員無事に救出された。
1979年(昭和54年)
カリブ海トバゴ島 沖でタンカー「アトランティック・エンプレス 」と「エーゲアン・キャプテン」が衝突・炎上し、大量の原油が流出。「アトランティック・エンプレス」は8月2日に沈没。
1980年(昭和55年)
野島崎 東南東沖合約800海里(約1,500km)を航行中のばら積み貨物船 「尾道丸(全長226.4m、33,833トン)」が、船首方向からの強いうねりの中、波高20mほどの大波に突っ込んだ際に船首部分が上方に折損(スラミング 現象による)、その後脱落して航行不能となった。「尾道丸」の前方を航行していた鉱石運搬船「だんぴあ丸」が引き返し、翌1981年 (昭和56年)1月1日 に「尾道丸」乗組員29名全員を無事救助する[82] 。
1981年(昭和56年)
下甑島 付近を航行中の貨物船「日昇丸(2,350トン)」にアメリカ海軍のジョージ・ワシントン級原子力潜水艦「ジョージ・ワシントン 」が海中から急浮上したため衝突、「日昇丸」は船底を破壊されて沈没した。乗員2名が死亡。なお「ジョージ・ワシントン」が救助せずに現場海域から離れたことに対し、非難された。
旧ソビエト社会主義共和国連邦 のウィスキー級潜水艦「U-137」が、航法の誤りからスウェーデンの領海を侵犯して座礁。死傷者はなかったが、事故発生場所がスウェーデンの軍港付近であったこともあり国際問題に発展した。
1982年(昭和57年)
第二十八あけぼの丸 がベーリング海で遠洋底引網漁業に従事中、原料置場の設備が破損して置いてあった大量の魚が流動化、船体動揺と魚などの流動化とが相まって激しく横揺れしたときに海水が船内に進入、沈没。乗組員33人中、24人が行方不明、8人が死亡した。
1984年(昭和59年)
ベーリング海で操業中、猛吹雪となったために支えの態勢をとっていた「第十一協和丸(24人乗)」と、他の船に引き渡すオブザーバー4名を乗せた「第十五安洋丸(25人乗)」が100m程度の視界の中で衝突、死者14名、行方不明者2名、負傷者5名を出す事故となった。
1985年(昭和60年)
カムチャツカ沖で操業中の「第五十二惣寶丸」が漁獲物を整理していたところ、船尾方向へ著しく沈み込み、大きなうねりで左舷側へ大きく傾斜した同船へ海水が流入して沈没。乗組員22名中、死者行方不明者20名。
鹿児島県串木野市(現:いちき串木野市 )の瀬渡船「開洋丸」が沖へ出たところ、大波を受けて転覆、乗員乗客26名全員死亡または行方不明。定員オーバーが原因とみられる。
漁船 「第七十一日東丸」が樺太 南部の漁場で強風のため沈没。8人死亡。
1986年(昭和61年)
福島県相馬市鵜ノ尾岬 沖付近を航行していた海洋調査船 「へりおす」が悪天候下で沈没し、乗っていた9人が死亡。
撒積貨物船「ピョートル・ワセフ(18,604トン、南日本造船 建造)」が客船「アドミラル・ナヒーモフ (17,053トン、旧「ベルリン」)」に衝突し「アドミラル・ナヒーモフ」が沈没。死者423人。
1987年(昭和62年)
銚子港 より約十数km沖で乗員22名の青森県八戸市 の福島漁業所属のイワシ漁船「第65惣宝丸」(80トン)が強い横風と波高5mもの高波により沈没。船体は2月27日に引き上げられたが、この沈没で死亡8名、不明7名となった。
フェリー「en:MS Herald of Free Enterprise 」がベルギー北西部ブルッヘ のゼーブルッヘ港を出港直後に、閉じ忘れた車両甲板扉からの浸水により転覆。193名が死亡。
フィリピン客船「ドニャ・パス号 (2,640トン、旧「ひめゆり丸」)」とガソリンを積載した小型タンカー「ヴェクター(640トン)」が、フィリピン・タブラス海峡で衝突し炎上、双方が沈没。正確な乗船数は不明だが、少なくとも1576人以上死亡、行方不明。4376人が死亡したともされており、平時における最悪の海難事故と言われている。
1988年(昭和63年)
アイルランド向けに輸出される日本製自動車5458台を積載した自動車運搬船 「麗神 (58,000トン)」がポルトガル 沖で座礁。後日、この船の撤去には時間がかかり、また積荷の自動車が錆びて商品価値を失ってしまった事などにより積荷の新車ごと船ごと深度2000mの地点まで曳航した後に海に沈める事を提案、ポルトガル政府もこの案に合意した事により実行された。しかし、後日これは重大な環境破壊であると日本国内はもとより外国でも批判が高まった。
大阪港中央突堤北岸壁に停泊していたソ連船籍の貨物船「プリアムリーエ(4,870トン)」が左舷中央客室付近から出火しロシア人旅行客の11名が死亡。船自体は消火活動により17時間後に鎮火、沈没は免れた。
海上自衛隊の潜水艦「なだしお 」と遊漁船「第一富士丸」が横須賀港 北防波堤灯台東約3キロ沖で衝突。「第一富士丸」は衝突から2分後に沈没し、乗客39名、乗員9名のうち30名が死亡、17名が重軽傷を負った。
ペルー のカヤオ 港外でペルー海軍 所属の潜水艦アトゥル (事故時の艦名はパコーチャ)に日本の遠洋マグロ漁船「第8共和丸」が衝突して沈没、艦長ら8名が死亡した。なお、アトゥルは元は米海軍バラオ級潜水艦 で1944年に「浅間丸 」を撃沈した潜水艦であった。
1990年(平成2年)
フェリー「en:MS Scandinavian Star 」で火災。158名が死亡。何者が廊下の壁に火をつけたところ、装飾用の壁紙が有毒ガスをまき散らしながら燃え広がったのが原因[83] 。放火犯は不明だが、検証番組「衝撃の瞬間 」では火災に巻き込まれて死亡した放火4件の前科があるデンマーク人であることを示唆している。
1991年(平成3年)
ギリシャ船籍のクルーズ客船「オシアノス (14,000トン)」が防水設備の修理を終えないまま出航、南アフリカ 東海岸沖で沈没した。この事故では乗客を残して先に逃げた乗員の対応が非難を浴びるが、全員無事。
日本からグアム を目指すヨットレース『トーヨコカップ・ジャパングアムヨットレース'92』に参加していた「たか」が29日に悪天候の為に沈没した。乗員7名のうち6名がゴムボートで脱出したが、わずかな食料しかなかったため、漂流から27日目の1992年 (平成4年)1月25日 に発見されたときには生存者は佐野三治(当時31歳)のただ1名だけであった。佐野は同年秋に『たった一人の生還』(新潮社)[84] という題名で手記を出版した[85] 。また、同レースに参加していた「マリンマリン」も同様に沈没して8名が死亡しており[86] 、参加9隻のうち2隻が沈没し14名が死亡するという日本のヨットレース史上最悪の惨事となった[87] 。2年後に、2隻の事故原因などを追った『ヨットが呑まれた』 (朝日新聞社会部いのちの海取材班、 朝日新聞社、1993/5/1)が出版された。
1993年(平成5年)
タンカー「ブレア(en:MV Braer 、リベリア船籍、ブレア社所有)」、英国シェットランド諸島 沿岸にて暴風雨の直撃を受け転覆。乗員全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊、沈没、重油流出。
韓国扶安郡 沖の黄海で、フェリーが転覆し沈没。乗客乗員362人中、292人が死亡または行方不明。
1994年(平成6年)
北海道利尻島 沖で操業中の漁船第五十八大東丸が、強風と高波を受けて転覆。乗組員16名中2名が行方不明。
フェリー「エストニア (スウェーデン船籍、21,794トン)」がバルト海 の荒天下で転覆沈没。852名死亡[88] 。
客船「アキレ・ラウロ」が火災を起こし、3日後に沈没。「アキレ・ラウロ」は1985年10月にハイジャック(アキレ・ラウロ号事件 )された船である。
1997年(平成9年)
ロシア船籍のタンカー「ナホトカ」が波浪により船体を破断し、6240キロリットルのC重油が海上に流出、日本海沿岸各地の広い範囲に深刻な汚染。船長が死亡、乗組員は脱出。除去作業にあたったボランティアに5名の死者を出す二次被害が発生した。
1998年(平成10年)
択捉島沖で操業中の漁船第七十五神漁丸が、網を引き揚げる際にバランスを崩し開口部からの海水流入により転覆。乗組員15名中5名が死亡。2名が行方不明。
択捉島沖で操業中の漁船第三十一惣寶丸が、時化による水密扉開口部からの居住区等へ海水流入により転覆。乗組員15人中1名が行方不明となり後に遺体で発見される。
マニラ -セブ島 の定期航路「en:MV Princess of the Orient (13,599トン、Sulpicio Lines(フィリピン)所有、旧「さんふらわあ 11」ブルーハイウェイライン)」が平成10年台風第7号 の嵐の中を航行中に沈没し、死者51名、行方不明者216名を出した。直接の沈没原因は荷崩れであったが、フィリピンでの大幅なデッキ増設工事により船体が不安定になっていたとも云われる。
1999年(平成11年)
クルーズ客船「サン・ビスタ(en:SS Galileo Galilei 、旧「Galileo Galilei」)」がマラッカ海峡 で機関室からの失火が原因で沈没。速やかな避難誘導が行われたため犠牲者は無し。このことが原因で運航していたクルーズ会社は倒産した。
ベーリング海にて操業中の漁船第一安洋丸が大波を受けて浸水、転覆。乗組員36名の内12名が行方不明となり、後に1名が遺体で発見された。
2001年(平成13年)
貨物船「アマルガス(35,000トン)」がエンジントラブルにより航行不能となり、漂流。その後台湾墾丁国家公園 の海域で座礁し重油が流出した。
ハワイ州 オアフ島 沖で愛媛県立宇和島水産高等学校 の練習船「えひめ丸」とアメリカ海軍の原子力潜水艦「グリーンヴィル 」が衝突し、「えひめ丸」が沈没。「えひめ丸」の乗員35名中9名が死亡。
2003年(平成15年)
4月(中国における最初の報道が5月2日頃であり、実際の事故発生日時は4月とされる)
中国人民解放軍海軍 北海艦隊 所属の035型潜水艦 (明級)通常動力型潜水艦 の361号が「機械的故障」による原因により全乗員70名が死亡。遼東半島 と山東半島 の間に位置する内長山列島付近にて事故が発生したとされる。後に艦自体は回収され現役に復帰している。
福岡県沖の玄界灘 にて操業中の日本漁船団に韓国船が漁船団からの再三の警告を無視して漁船団に突入して衝突。日本側の1名が死亡、6名が行方不明。
その4日後、貨物船「コレックス・クンサン(韓国船籍)」が玄界灘にて、夜間の警戒不備により漁業取締船 「からしま(水産庁 所属)」に衝突。「からしま」は乗員全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊して沈没。「コレックス・クンサン」は乗員全員無事であったほか損壊もなかった。
2005年(平成17年)
北海道の根室市 沖合いにて、サンマ漁船「第三新生丸(日本船籍)」とコンテナ船「ZIM・アジア(イスラエル 船籍、ZIM社(イスラエル)所有)」が衝突。「第三新生丸」は乗員7名死亡し、船体はほぼ全部を損壊し沈没した。原因は「第三新生丸」の横切り船の航法不遵守(主因)と「ZIM・アジア」の警告信号不履行、横切り船の航法不遵守(一因)[89] 。
サウジアラビアからエジプトに向かって紅海 を航行していた1400人乗りのフェリー「アル・サラム・ボッカチオ98(عبارة السلام 98 )(英語) 」が、フェリーデッキに積載していた車両からの火災が原因で沈没し、1000名以上の死者・行方不明者を出した。多くの犠牲者を出した原因としては、悪天候のほか、老朽船であったことや建造後の改造により重心が極めて高くなっていたことが要因となり、消火活動中にバランスを崩して転覆したことが指摘されている。なお、生存者の証言によれば船長が真っ先に逃亡したとされる。
2006年(平成18年)
横倒しになったRO-RO船 クーガー・エース
自動車運搬船 「クーガー・エース (シンガポール船籍、55,000トン、商船三井)」が、アメリカ・アラスカ州のアリューシャン列島 沖合いにて、暴風雨の直撃を受け転覆。乗員23名は全員無事だったが、船体はほぼ損壊ないものの80度に傾き横転し航行不能となる(重油流出なし)。積荷の乗用車4,703台(全てマツダ 製)および小型トラック110台(全ていすゞ自動車 製)が全損扱いとなり廃棄される。
三国屋建設 所有のクレーン船 が、禁止行為であるクレーンのブームを上げたままの航行を冒し、東京都江戸川区 の江戸川河口付近に掛かる275kV送電線に接触。2系統の送電系統を両方とも切断したため首都圏の広範囲において長時間にわたり大規模な停電が発生した。事故による直接の死傷者は無し。停電により各種インフラなどが被害を受けた。
『スカンジナビア 』として2005年3月まで静岡県沼津市西浦村 木負で使用され、現存していたクルーズ客船では最古の「ステラ・ポラリス」が、伊豆箱根鉄道 より建造国であるスウェーデンの企業に買収された後、中国・上海での改修工事の行うため8月31日 に出航し航行中、和歌山県潮岬沖3km(水深72m)の海上で沈没。乗船者はおらず死傷者はなかった。
茨城県鹿島港 外にてパナマ船籍の貨物船 「ジャイアントステップ号 (ドイツ語版 ) 」が急速に発達した低気圧 による暴風のため走錨して座礁し船体を切断。10名死亡または行方不明。ほぼ同時・同位置にて「オーシャンビクトリー」「エリダエース」も座礁し、連続事故となった。同日には、女川港 沖でサンマ漁船「第七千代丸 」が高波をかぶって機関停止し座礁・横転。16名死亡または行方不明となる事故も発生している。
海上自衛隊の練習潜水艦「あさしお 」が宮崎県沖で訓練航行中、パナマ船籍の貨物船「スプリング オースター」と接触。「スプリング・オースター」は船底部にわずかな亀裂と少量の浸水を起こし「あさしお」は縦舵を損傷するも、双方とも負傷者はなかった。なお「スプリング・オースター」側は当初、潜水艦と接触したことに気付かなかったという。また、一部の専門家によれば「あさしお」の損傷は『沈没してもおかしくない』ほどであったともされる[90] 。
2007年(平成19年)
アメリカ海軍の原子力潜水艦「ニューポート・ニューズ 」がホルムズ海峡 にて、警戒不備によりタンカー「最上川 (日本船籍、160,000トン、川崎汽船 所有)」に衝突。「最上川」は乗員全員無事だったものの船底部を損壊し航行不能となった(重油流出なし)。「ニューポート・ニューズ」は乗員全員無事で損壊および放射能漏れもなかった。
コンテナ船 「MSC・ナポリ(en:MSC Napoli 、イギリス船籍、MSC社 (スイス )所有)」がイギリス・デヴォン州 沖合いにて、暴風雨の直撃を受け座礁。乗員26名は全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊し航行不能となる。さらに重油の流出および、約50個のコンテナが沿岸に漂着した。
サントリーニ島 沖で客船「シーダイヤモンド 」が座礁して沈没。
撒積貨物船「アルファ・アクション(ギリシャ船籍、77,211トン、IMO 9074494)」が伊豆諸島の利島 沖合いにて、夜間の警戒不備により、コンテナ船 「ワンハイ307(シンガポール船籍、25,836トン、ワンハイ海運 (台湾)所有、IMO 9237096)」に衝突。「ワンハイ307」は乗員全員無事だったものの、船尾を損壊し航行不能となり、重油が流出した。「アルファ・アクション」は乗員全員無事だったものの、船首を損壊し航行不能となった(重油流出なし)。
2008年(平成20年)
海上自衛隊のイージス艦 「あたご 」がハワイ でのミサイル発射実験から帰投途中、千葉県野島崎 沖の太平洋上で三宅島北方に向け移動中のマグロ延縄漁船団と交錯したさいに船団の一隻「清徳丸」と衝突。「あたご」の舳先で「清徳丸」は両断し沈没。乗員の父子2人が行方不明となった。
神戸市垂水区 沖の明石海峡 付近で、「第五栄政丸(MMSI 8801577)」が「オーシャンフェニックス(IMO 9020704)」に衝突。その後「オーシャンフェニックス」が「ゴールドリーダー(ベリーズ 船籍、MMSI 8014497)」に衝突し、「ゴールドリーダー」が沈没。乗組員9人のうち3人が行方不明となった。
フィリピンシブヤン海 で、台風6号の影響によりフェリー「プリンセス・オブ・ザ・スターズ(旧「フェリーらいらっく 」新日本海フェリー)」が沈没。乗客700人以上が死亡または行方不明となった[91] [92] [93] 。
韓国の泰安郡 近海に停泊していたタンカー「ヘーベイ・スピリット」にサムスン重工業 所属のクレーン船 が衝突。12,547キロリットルの重油が流失し、韓国史上最大規模の海洋汚染となった。原因は、航行中であるクレーン船を曳航中のタグボートが、停泊中の船舶「ヘーベイスピリット」を迂回する義務があるにもかかわらずそれを無視し、近道をしようと「ヘーベイスピリット」に接近。その後、波浪と曳航ワイヤの破断等によってコントロールを失ったことである。しかし、韓国では「(停泊していた)タンカーに責任がある」とし、インド人の船長と一等航海士に有罪判決を下した。このことから、インドではサムスン製品の不買運動が発生したほか、各国の船員組合が韓国行きをボイコットしようとするなど波紋が広がった。
2009年(平成21年)
海上自衛隊の護衛艦「くらま 」が観艦式 から帰投途中の関門海峡 において、他船を追い越そうとした韓国籍のコンテナ船「カリナ・スター 」に衝突されて炎上し、乗組員6人が軽傷。この事故に関して、関門海峡事務所が事故直前に「カリナ・スター」に出した指示(前方を航行中の船を追い越すことを示唆)と「カリナ・スター」の操船(海峡通過中にもかかわらず、前方を航行中の船を追い越そうとした)に疑問の声が上がった。
横倒しになったフェリー「ありあけ」
東京発志布志 経由那覇行のフェリー「ありあけ(マルエーフェリー 、乗員21名乗客7名)」が三重県熊野市 の沖合を航行中、大波により積荷が片寄ったことにより船体が傾斜し、救難信号を発したのち熊野港に避難を試みるも座礁した。乗員乗客は全員救助されるが船体は横倒しになったほか、重油が流出した[94] 。
2010年(平成22年)
浜名湖 で、中学校の野外活動中に荒天で漕ぎきれなくなったカッターボート が、モーターボート で曳航中に転覆。女子中学生1名が死亡[95] 。
尖閣諸島 付近で操業中だった中国 漁船と、これを違法操業として取り締まりを実施した日本 の海上保安庁 との間で発生した衝突事故。
中国の漁船が韓国の取締船から逃走するために、意図的に衝突した直後に転覆。1人が死亡、1人が行方不明。中国政府は韓国に対して賠償を要求した。
2013年(平成25年)
イタリアのジェノヴァ 港、海上交通管制センターの管制塔にコンテナ船「it:Jolly Nero (40,594トン、載貨(最大)30,866トン)」が衝突し、建物が倒壊。死者9名、負傷者4名。
コンテナ船「MOL COMFORT (86,692トン、バハマ船籍、商船三井 )」の船体中央部に亀裂が発生し自力航行不能となり漂流、前後2つに破断し、前方が6月27日、後方が7月10日にそれぞれ沈没。
フィリピン中部セブ島のタリサイ 沖のマクタン海峡で、フェリー「en:MV St. Thomas Aquinas (11,405トン、2GO社、旧「フェリーすみよし」(7,270トン、名門カーフェリー ))」とコンテナ船「Sulpicio Express Siete(9,754トン、載貨(最大)11,464トン)」が衝突し「St.Thomas Aquinas」が沈没。120人が死亡または行方不明、750人が救助。
伊豆大島 の西11kmの海上で、貨物船「JIA HUI(嘉惠、ジィアフイ、2,962トン、載貨(最大)5,195トン、シエラレオネ 船籍、駿豪海運(香港)、IMO 8660911)」が海事法 (海上衝突予防法 14条)とは逆に舵を転じ、貨物船「第18栄福丸(498トン、丸仲海運(名古屋)、信号符字 JD3173)」に衝突。「第18栄福丸」が転覆、乗組員6名が全員死亡。「嘉惠」の当直責任者(寧海中和海運(浙江省寧波市 ))が逮捕・起訴[96] 。
インドネシアの西ジャワ南部海岸沖で難民船が転覆。約50人が死亡または行方不明[97] 。
西沙諸島 付近で台風21号(Wutip / 颱風蝴蝶 )により中国漁船3隻が沈没。74人が行方不明。
地中海ランペドゥーザ島 沖でリビアからの難民船が火災を起こして沈没。エリトリア、ソマリア、ガーナ出身者など360人以上が死亡。
元山市 沖で朝鮮人民軍海軍 の037 型駆潜艇 「233」が沈没。少なくとも19名が死亡。
和歌山県串本町 動鳴気漁港沖で、荒天により台船とタグボート(両船とも韓国船籍)が座礁。重油が流出した。
対馬海峡 西水道で、パラキシレン (p-Xylene)、アクリロニトリル 、スチレン モノマーを積んで蔚山港から出港したケミカルタンカー「Maritime Maisie(29,211トン、載貨(最大)44,404トン、香港船籍、Aurora Tankers(シンガポール)、IMO 9251535)」が左舷中央付近に、試運転中の自動車運搬船「HYUNDAI MIPO 8091(Gravity Highway(予定)、55,700トン、載貨(最大)19,974トン、バハマ船籍、現代尾浦造船 (蔚山)、IMO 9672404)」が衝突しMaritime Maisieが炎上、漂流し日本の領海に侵入した。
2014年(平成26年)
韓国の麗水市 沖でタンカー「DL Sunflower(28,519トン、載貨(最大)47,204トン、DL Shipping(釜山)、IMO 9168740)」が撒積貨物船「Ligari(38,851トン、載貨(最大)75,583トン、マルタ船籍、IMO 9279513)」と衝突。石油が流出した。
釣り船「とびうお」と海上自衛隊の輸送艦「おおすみ 」が衝突。釣り船が転覆し2名が死亡した。
韓国の麗水港でタンカー「Wu Yi San(ウイサン、164,169トン、載貨(最大)318,445トン、シンガポール船籍、江南造船 (上海)建造、Nova Tankers(デンマーク)、IMO 9629366)」が桟橋に衝突。GSカルテックス 所有の送油管3本を破損し、石油が流出した。
撒積貨物船「Captain Vangelis L(88,420トン、載貨(最大)169,044トン、リベリア船籍、Kyla Shipping(ギリシャ)、IMO 9450868)」が釜山沖約6kmで給油中に石油供給船と衝突し、燃料タンクを破損。石油が流出した。
剱崎 沖の浦賀水道 で、多目的貨物船 「Beagle III(12,630トン、載貨(最大)17,220トン、IMO 9478353)」とコンテナ船「ペガサスプライム(Pegasus Prime、7,406トン、載貨(最大)9,618トン、韓国船籍、IMO 9283162)」が衝突し「Beagle III」が沈没。9名が死亡・行方不明。重油が流出[98] した。
韓国の珍島 沖で旅客船「セウォル号 」(6,825トン、乗客乗員数476人)が沈没。6月9日の時点で292人の死亡が確認されている。
最終発表で304人の死亡が確認された。
ブラジルのマットグロッソ・ド・スル州 パラグアイ川 で水上ホテル「パンタナールの夢」(Sueño Del Pantanal、パラグアイ籍船、乗員乗客27名)が暴風雨の影響により沈没。死者1名、行方不明者13名[99] 。
島根県の隠岐諸島 沖約390キロ地点で遠洋漁業船「魯栄漁2859号(Lurongyu 2859、238トン、乗員14名、中国船籍)」が強風に煽られ沈没。付近にいた漁船30隻と第八管区海上保安本部 の巡視船1隻が捜索にあたったが9名が行方不明になった[100] 。
澎湖諸島 南東沖、海洋調査船「海研5号 (2,700トン、乗員乗客45名、台湾船籍)」が悪天候により暗礁に乗り上げ沈没。当時船に常備していた救命胴衣にはLEDが付いており、これにより夜の海面に浮かぶ要救助者の位置を示し迅速な救助活動に繋がった[101] 。死者2名、負傷者18名。
ロシア、ベーリング海 でスケトウダラ用トロール漁船の「第501オリョン号(501오룡호、1,753トン、(国際)2,151トン、思潮産業所有、韓国船籍)」が沈没。韓国人11名、インドネシア人35名、フィリピン人13名、ロシア人1名の乗員60名が乗船、死者27名、行方不明者26名。
島根県沖で巻き網漁船「第一源福丸(135トン、インドネシア人3名含む乗員20名、東洋漁業所有)」が網を引き揚げた際、引き揚げた魚の量が想定より多く船が傾いてしまい転覆、沈没。死者3名、行方不明者2名。
青森県沖で貨物船「ミンクワン(Ming Guang、1,915トン、カンボジア船籍、乗員10名)」が沈没。死者3名。
2017年(平成29年)
博多港 内で貨物船から火災が発生、翌25日に沈没し、油流出を起こした事故である。死傷者 なし。
2018年(平成30年)
上海の東約300km、中国EEZ内の東シナ海 で、石油タンカー「サンチ」(Sanchi、85,000トン、載貨(最大)164,000トン、パナマ 船籍・イラン国営タンカー社貸出、乗員32人)と、貨物船「CFクリスタル」(CF Crystal、42,600トン、載貨(最大)75,700トン、香港 船籍、乗員21人 )が衝突。サンチ号は衝突直後に爆発し炎上。その後も漂流しながら爆発と炎上を繰り返し、8日後の1月14日、奄美大島の西約315kmの日本EEZ内で沈没[102] 。サンチ号の乗員32人全員が死亡した。同船にはコンデンセート 111,300トンと、船用燃料8,450バレルが積載されており、焼失しなかったものが東シナ海へ流出したと推定される[103] 。このうちコンデンセートは大部分が焼失したか大気中に気化したと推定されている[104] 。CFクリスタル号の乗員21人は全員無事。
平成30年台風第21号 の影響により、航空燃料タンカー『宝運丸 』が関西国際空港連絡橋 に衝突。
2019年(平成31年・令和元年)
アメリカのサンタクルス島 沖合で停泊していたスキューバダイビングボート船「コンセプション」から火災が発生し沈没。34人の死亡が確認されている。
2020年(令和2年)
モーリシャス 沖で貨物船わかしおが座礁。その後8月6日に1000トン余りの石油流出を起こした[105] 。
鹿児島県 奄美大島 沖でパナマ船籍の貨物船「ガルフ・ライブストック1 」が令和2年台風第9号 の接近に伴う波浪の中、救難信号 を出した後に転覆、沈没。乗員1人が海上保安庁に救助されたが乗員43人が死亡・行方不明。積荷はニュージーランド から中国へ向けて出荷された牛約5800頭[106] [107] 。
香川県 坂出市 の与島 沖で修学旅行の小学生ら62人を乗せた小型旅客船(チャーター船)が沈没。全員が救助され、そのうち小学生の男女2人とバスガイドの女性が病院に搬送されたが軽症。45歳の船長が業務上過失往来危険 の容疑で逮捕された。
愛媛県 愛南町 を出港し、三重県尾鷲港 に向かっていた活魚運搬船「第8しんこう丸」(199トン)が乗組員6人とともに行方不明となった。2024年 (令和6年)3月8日、第5管区海上保安本部は和歌山県すさみ町の南西約30キロ沖合、水深約1500メートルの海底で船体を発見したと発表した[108] 。
2021年(令和3年)
スエズ運河 において、日本の正栄汽船 が保有し台湾の長栄海運 が運用するコンテナ船「EVER GIVEN エヴァーギヴン 」が座礁。人的被害はなかったものの、スエズ運河が6日にわたって封鎖され物流に混乱をきたした。
未明、パナマ船籍の貨物船「レディー・ローズマリー(LADY ROSEMARY)」が博多湾 の西防波堤に衝突し、船首部分が乗り上げて油流出 を起こした。死傷者 なし。
2022年(令和4年)
北海道 斜里郡 斜里町 知床半島 西海岸沖のオホーツク海 で、乗客乗員26人が乗っていた遊覧船 「KAZU I (カズ ワン)」が沈没。死者20人、行方不明者6人。2024年、観光船所有会社の社長が業務上過失致死傷の容疑で逮捕された。
2023年(令和5年)
6月18日 -潜水艇タイタン沈没事故
1912年に北大西洋で沈没し、水深3800mの海底に眠るタイタニック号を目指して北大西洋ニューファンドランド島沖に潜水した潜水艇「タイタン」が突然圧壊し乗員5人が死亡した。
出典
『不沈艦伝説』光人社、2007年12月10日、19-32頁。
「八重山ジャンルごと小事典」p107 崎原 恒新 ボーダーインク 、1999年8月1日
海難ものしり帖 - 形船船長運転手機関手免状規則時代
下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』289頁 河出書房新社刊 2003年11月30日刊 全国書誌番号 : 20522067
下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』301頁 河出書房新社刊 2003年11月30日刊 全国書誌番号 : 20522067
石崎汽船株式会社 『海に生きる 石崎汽船史』 1995年、127-128頁
芳野勝正 『和気の昔語り』 1984年、116-117頁
『呉市史 第5巻』pp.245 昭和63年3月31日 呉市史編纂委員会編
別府航路の客船、須磨沖合で遭難『大阪毎日新聞』昭和8年10月21日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p47 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
「機関室に大穴、わずか三分で沈没」『東京日日新聞』1935年(昭和10年)7月3日号外(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p.91 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
「演習中に台風、四隻で死傷・不明60人」『東京日日新聞』1935年(昭和10年)9月28日夕刊(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p.89 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
「大阪商船の貨物船、熊野灘で消息絶つ」『大阪毎日新聞』1936年2月6日(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p.89 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
「石炭運搬船愛国丸、吹雪の積丹沖で沈没」『東京朝日新聞』1937年1月13日(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p.685 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
「吹雪の津軽海峡で小樽丸が遭難」『小樽新聞』1937年(昭和12年)2月15日(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p.686 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
「高島岬沖で貨物船昭広丸沈没」『大阪毎日新聞』1938年(昭和13年)1月27日夕刊(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p.686 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
「伊良部島通いの連絡船が転覆」『福岡日日新聞』1940年7月2日(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p.59 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
「内海汽船の客船・錦丸が沈没」『毎日新聞』1943年1月1日大阪版(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p.44 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
“第六垂水丸慰霊碑 ”. 垂水観光協会 (2012年9月1日). 2022年1月16日 閲覧。
「関釜連絡船、潜水艦の雷撃を受けて沈没」『毎日新聞』1943年10月8日大阪版(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p42 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
「25名水死? シケで富丸沈没」『日本経済新聞』昭和25年12月12日朝刊3面
日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、126,127.131-140頁。ISBN 9784816922749 。
朝日新聞・昭和39年3月31日及び4月5日朝刊記事
「愛媛の貨物船が転覆・沈没」『中國新聞』昭和45年1月19日 1面
「大阪港で遊覧船が沈没 学童・母ら19人死ぬ 1人行方不明」『日本経済新聞』昭和40年8月2日1面
「大島沖でタンカー沈没 貨物船と衝突、21人不明」『日本経済新聞』昭和40年8月2日.7面
圧搾空気送り込む 脱出した機関長『朝日新聞』1968年(昭和43年)3月2日朝刊 12版 15面
世界最大の沈没 オランダのタンカー『朝日新聞』1969年(昭和44年)12月15日朝刊 12版 15面
貨物船の七人が不明 第10開洋丸 襟裳岬沖で転覆『朝日新聞』1969年(昭和44年)12月15日夕刊 3版 10面
大型タンカー真二つ 船長ら7人が不明 後ろ半分だけ漂流『朝日新聞』1970年(昭和45年)1月7日夕刊 3版 9面
安全無視した新港建設 防波堤より企業 海員組合が警告 台風に無防備『朝日新聞』1970年(昭和45年)2月4日朝刊 12版 14面
沈没漁船の10人絶望 いわき市沖、ギリシャ貨物船と衝突 18大洋丸が進路誤る?『朝日新聞』1970年(昭和45年)2月12日夕刊 3版 11面
「濃霧の熊野灘 貨物船の事故続出」『中國新聞』昭和46年7月5日14面
「フェリーも衝突 兵庫県沖 乗客12人重軽傷」『中國新聞』昭和46年7月5日14面
「貨物船、衝突し沈没 船長ら4人行方不明」『中國新聞』昭和46年11月16日.15面
「座礁は船長の過失 仙台審判庁が採決」『朝日新聞』昭和47年(1972年)9月5日夕刊、3版、9面
「連絡船が沈没 死者不明62人」『朝日新聞』昭和48年1月26日朝刊、13面、3面
「貨物船、衝突 勧告船員24人不明」『朝日新聞』昭和49年(1974年)7月29日朝刊、13版、19面
10日ぶり離礁 原油抜き取りは続ける『中国新聞』昭和50年1月16日朝刊15面
回送タンカー真っ二つ 大シケの豊後水道 漂流の六十二人救助『朝日新聞』1976年(昭和51年)9月12日朝刊、13版、23面
パナマ船籍沈没か 屋久島沖『朝日新聞』1976年(昭和51年)12月27日朝刊、13版、15面
外国船衝突、20人不明 1人は死亡、2人助かる 韓国船は沈没 大シケの熊野灘『朝日新聞』1977年(昭和52年)3月30日夕刊、3版、11面
流出総量は千六百キロリットル ア号原油 三百五十キロリットル海汚す『朝日新聞』1977年(昭和48年)4月8日朝刊、13版、23面
人数については報道機関によりまちまちとなっている。
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