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千島(ちしま)は、日本海軍の水雷砲艦[4]、または通報艦[5]。艦名は千島列島 (または千島国[10]) に由来する[22][23]。
千島 | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | ロワール社 (フランス)[4] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 水雷砲艦[4]、または通報艦[5] |
建造費 | 717,327.363円[6] |
母港 | 佐世保[7] |
艦歴 | |
計画 | 第一期軍備拡張[8] (1886年) |
発注 | 1889年11月11日製造契約[9] |
起工 | 1890年1月29日[10] |
進水 | 1890年11月26日[4] |
竣工 | 1892年4月1日[11] |
最期 | 1892年11月30日沈没 |
要目(計画) | |
排水量 | 750ロングトン (762 t)[4] |
垂線間長 | 71 m[4][12] |
幅 | 7.760 m[6][4][12] |
深さ | 4.800 m[6] |
吃水 |
大体要領:2.99 m[12] 竣工時計画:2.900 m[4][6] |
ボイラー | 汽車缶[6] 6基[13] |
主機 | 直立2段レシプロ[6] |
推進 | 2軸[14] |
出力 | 5,000 hp (3,728 kW)[4] |
帆装 | 3檣[6] |
速力 |
計画:22ノット[12] 試験:19.655ノット(単純平均)[15] または19.966ノット(平均の平均)[16] |
燃料 | 石炭:定量90.150トン[17] |
航続距離 | 13ノットで約50時間[18] |
乗員 |
計画乗員:82名[12] 竣工時定員:99名[19][6] |
兵装 |
57ミリ保式速射砲 5門[4] 47ミリ保式速射砲 6門[4] 魚雷発射管 固定式2門、旋回式2門[20] 魚雷 10本[21] 探照灯 2基[6] |
搭載艇 | 小蒸気船1隻、端艇4隻[6] |
その他 |
船材:鋼[4] 煙突2本[13] |
1886年(明治19年)12月上旬、フランスから日本へ回航中の巡洋艦「畝傍」が行方不明となり(喪失認定)、日本側は保険金で巡洋艦「千代田」(イギリス)を建造した[24]。フランス側が建造したのが本艦である。
「八重山」に続いて、日本海軍が建造した2番目の通報艦(当時の呼称は報知艦[5])になる[23]。 エミール・ベルタンが、自ら信奉する青年学派思想に基づいて[要出典]設計を行い、 水雷艇の駆逐任務も考えていた[21]。 また強力な魚雷兵装(発射管4門、魚雷10本の計画[21])を持ち、水雷砲艦とも称された[23]。 艤装面では艦首にバウスプリットがあり、巡航時の帆走を重視したフランス建造艦らしい特徴がある[25]。
フランスから日本へ回航中の1892年(明治25年)11月30日、瀬戸内海でイギリス商船と衝突して沈没[26][27]。国内問題および国際問題に発展した(千島艦事件)。
計画時の名称は第二報知艦[5]。 1886年 (明治19年) 9月、建造予定の通報艦2隻のうち、1隻の排水量を700トンに変更し、海外に注文することにした[28]。 1887年(明治20年)6月6日、日本海軍は建造予定の艦艇7隻について、艦名を内定(厳島、松島、橋立、八重山、千島、満珠、干珠)[5][29]。 1889年 (明治22年) 10月、フランスのロワール社と2,000,000フラン (兵器価格等は含まず[30]) で契約することを決定[31]、 11月11日に契約を締結した[9]。
1890年(明治23年)1月29日、「千島」はフランス、ロワール社サン・ナゼール造船所で起工[22]。 8月22日、佐世保鎮守府所管の第一種と定められる[7]。 同年11月26日、進水[22][6]。 1891年 (明治24年) 12月24日行われた速力試験では19.655ノット (3回の単純平均) しか出せず (計画は22ノット[12]) 、同日4回目の計測はボイラーの故障により中止になった[15]。 会社側は何度も試験出来ると主張したが[15]、 1892年 (明治25年) 3月に引き渡しの遅延 (契約での引き渡し期限は契約締結日から16カ月[32]の1891年3月10日) を含めた減額を555,800フランとして、「千島」の引き渡しを求め[33]、 最終的な支払は429,563.96フランの減額で合意した[34]。 1892年(明治25年)4月1日、竣工[22]。
同年4月18日、フランスを出港[35]。 アレクサンドリア[36]、 アデン[37]、 シンガポール[38] などを経由して、同年11月24日に長崎に到着した[39] (暴風雨のための避難[40]) 。 11月28日、「千島」は長崎から神戸に向けて出港[41]したが、 悪天候の為に一旦引き返し、29日未明に再度出港した[42]。 11月30日午前4時20分頃に愛媛県の興居島と睦月島の間で神戸から出港したP&O社所属の英商船「ラベンナ(Ravenna)」が「千島」中央部に衝突し、4時58分に「千島」は沈没した[43][44]。事故時の千島乗組員90名の内、74名が犠牲となった(生存者、千島艦長心得の鏑木誠大尉以下日本海軍15名、フランス人機関士1名)[45][46]。瀬戸内海所在の日本艦3隻(葛城、武蔵、筑波)等が救援に向かった[47][43]。
この事故は国際問題と国内問題に発展した[48][49]。 横浜の英国領事裁判所に提訴され日本側の実質勝訴だったが、上海の英国高等領事裁判所での第2審では敗訴した[50]。 後にイギリス枢密院に上訴して差し戻し判決が出されたため、最終的にイギリス政府の意向で1895年(明治28年)9月19日をもって和解となった(千島艦事件)[51]。
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