鹿児島県鹿児島市の鹿児島港から垂水市の垂水港までを結ぶフェリー航路 ウィキペディアから
鴨池・垂水フェリー(かもいけたるみずフェリー、通称垂水フェリー)は、鹿児島県鹿児島市の鴨池港と、鹿児島県垂水市の垂水港との間を結ぶフェリー。いわさきコーポレーション傘下の鹿児島交通が運営する。2011年11月末までは同じくいわさきコーポレーション傘下の大隅交通ネットワークが運営していた。
本項では同一グループによって運営されてきた鹿児島湾内の航路全般についても概説する。
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1918年(大正7年)に町田一平(当時の肝属郡会議長)により鹿児島垂水間の定期船の往復便(1日2往復、料金40銭)を復活させた[注釈 1]ことに始まり、1921年(大正10年)に垂水発動機船組合が発足した。1930年(昭和5年)に垂水発動船株式会社に改組、1935年(昭和10年)には社名を垂水汽船株式会社に変更した[2]。
発足当時、鹿児島湾内では九州商船と鹿児島湾内汽船が連携して航路を運営していたが、垂水汽船の参入によって三社間で激しい競争となり、運賃は当初の50銭から最終的に15銭まで下がったほか、各社とも新鋭船を投入してスピードを競い、知事の行政命令によって運航間隔を20分以上と制限されるまでに至った。昭和初期まで続いた競争の結果、鹿児島湾内汽船が脱落し、以後は垂水汽船と九州商船が湾内航路の運航を行う形となった[3]。
戦時中の1944年(昭和19年)2月6日には第六垂水丸の沈没事故が発生し、500名余が犠牲となった(第六垂水丸遭難事故)。
1960年(昭和35年)には九州商船から鹿児島湾内航路を買収[4]、社名を南海郵船に変更した。この時期には南国交通が筆頭株主となっていた[5]が、1966年(昭和41年)にいわさきグループの傘下となり、三州自動車[注釈 2](バス事業者、現在のいわさきグループ)との一貫経営が行われるようになった。
1968年(昭和43年)時点では主力の鹿児島 - 垂水航路のほか、鹿児島 - 鹿屋(古江)- 大根占、鹿児島 - 海潟、鹿児島 - 古里、大根占 - 指宿 - 山川、の各航路が運航され[6]、錦江湾フェリーの湾口航路・山川 - 根占、山川 - 佐多(伊座敷)と合わせ、ほぼ鹿児島湾内全域をカバーしていた。
1974年(昭和49年)、鹿児島 - 垂水航路は鹿児島側の発着場所を鴨池港に変更の上、フェリー化された[7]。運営母体はその後、大隅交通ネットワーク、垂水フェリー、さらに鹿児島交通と変遷したが、航路は1998年(平成10年)に垂水側の発着場所を垂水新港に変更したのみで、2022年(令和4年)現在もほぼ同一ルートを通っている。
一方、その際鹿児島港ボサド桟橋発着の旅客船航路は大幅に縮小され、鹿児島 - 垂水の一日一往復、鹿児島 - 鹿屋 - 大根占 - 山川 - 鹿児島の一日一便を残すのみとなった[8]。1987年(昭和62年)に高速船を導入、鹿児島 - 鹿屋 - 指宿に一日3往復の運航となるものの、ほどなく減便、鹿児島港の発着場所の変更などを経て、1998年(平成10年)には休航となった[9]。
鹿児島市の鴨池港と垂水市の垂水港を35分程度の所要時間で結んでいる。海上距離は15Kmである[10]。IC乗車カードであるいわさきICカード、RapiCaが使用可能であり、両カードを利用した場合は通常片道旅客運賃が1割引[注釈 3]となる。
2011年9月のダイヤ改正による減便以降は3隻体制で運航されている[10]。
鴨池・垂水両港へのアクセス路線に加え、鹿児島市-鹿屋市間の直行便バスが運行されている(鹿屋市コミュニティバス#鹿児島中央駅-鹿屋間直行バス)。バス車両は乗客ともども鴨池・垂水フェリーで運搬される[29]。
鹿児島市と鹿屋市の間を最短距離で結ぶために導入された[30]。車体ごとフェリーに乗り込む路線バスとしては、現存する全国唯一の例である。
各船内では一部時間帯を除きうどん店「南海うどん」が営業しており名物となっている[31]。船内で案内放送が行われるほか、うどんの通信販売も行っている。
運営は同じいわさきグループの白露酒造うどん事業部である。
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