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日本の百貨店 ウィキペディアから
三越(みつこし、英: Mitsukoshi)は、三越伊勢丹ホールディングス傘下の三越伊勢丹が運営する呉服店を起源とする日本の老舗百貨店である。戦前の三井財閥及び、現在の三井グループの源流企業であった。
日本橋室町の本店本館(国の重要文化財:2024年撮影) | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
市場情報 |
大証1部(廃止) 2779 2003年9月1日 - 2007年12月21日 |
略称 | MITSUKOSHI |
本社所在地 |
日本 〒103-8001 東京都中央区日本橋室町一丁目4番1号 |
設立 |
2003年(平成15年)9月1日 (創業:1673年(延宝元年)) |
業種 | 小売業 |
事業内容 | 百貨店業ほか |
代表者 |
代表取締役会長・中村胤夫 代表取締役社長兼営業企画本部長・石塚邦雄 |
資本金 | 374億404万円(2008年2月28日現在) |
売上高 |
単体7293億円 連結7739億円 (2008年2月期) |
総資産 |
単体5042億円 連結5707億円 (2008年2月期) |
従業員数 |
単体6,713人 連結9,405人 (2007年8月31日現在) |
決算期 | 毎年2月末 |
主要株主 | 三越伊勢丹ホールディングス 100% |
主要子会社 |
株式会社スタジオアルタ 株式会社三越友の会 |
関係する人物 |
三井高利(越後屋創業) 日比翁助(三越百貨店創業) 猪熊弦一郎(デザイナー) やなせたかし(元社員) 岡田茂(元社長) 市原晃(元社長) 中村胤夫(元社長) 井上和雄(元社長) 竹久みち |
外部リンク | mitsukoshi.mistore.jp/store |
特記事項:2003年9月1日に旧三越(1904年12月6日設立)と系列会社による新設合併で設立。2011年4月1日に伊勢丹と合併し、株式会社三越伊勢丹に商号変更。 |
また、株式会社三越(英: Mitsukoshi, Limited)は、2011年3月31日までこれを運営していた会社である。
商号の「三越」は、三井財閥の創業者である三井家の「三井」と創業時の日本橋の呉服店「越後屋」からとったもので、1904年に「合名会社三井呉服店」から「株式会社三越呉服店」へ改称した際からのものである。三越日本橋本店は日本の百貨店の始まりとされる。1935年に竣工した日本橋本店の本館は、国の重要文化財に指定されている[1][2]。現在の同店のキャッチフレーズは、「飾る日も 飾らない日も 三越と」「This is Japan」。
江戸時代の1673年(延宝元年)に江戸本町一丁目14(後の駿河町、現・東京都中央区日本橋室町の一部)において、「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせた、呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業[3]。現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。1928年には「株式会社三越」となった。店舗入り口にあるライオン像が特徴的。
「三越」改称の案内の際に「デパートメントストア宣言」を行い、そのことを以て日本での百貨店の歴史が始まりとすることが多い[4](実際の百貨店化の動きなどの日本の百貨店の始まりについての詳細は日本の百貨店の歴史参照)。また三井財閥(現三井グループ)のルーツとなった「越後屋」の呉服店事業を引継いだため、「三井財閥(現三井グループ)の礎を築いた企業である」とされることも多いが、企業としての三越としてみるならば、三井の事業から呉服店部門のみを「合名会社三井呉服店」として分離したのが始まりである。
直営店は東京都心にある日本橋本店・銀座店の2店舗のみである。名古屋三越や福岡三越などは三越伊勢丹ホールディングス傘下の地域子会社が、地区ごとに運営を行っている。2003年9月1日に、当時の「株式会社三越」とその子会社である「株式会社名古屋三越」「株式会社千葉三越」「株式会社鹿児島三越」「株式会社福岡三越」の百貨店5社が新設合併し、新「株式会社三越」が設立された。2010年に伊勢丹傘下だった岩田屋と福岡三越(いずれも福岡市)が合併し、「株式会社岩田屋三越」が誕生した。残った店舗については、2011年4月1日に伊勢丹と合併して発足した「株式会社三越伊勢丹」の運営となった。また、同日には、札幌丸井今井と札幌三越の両社も統合し(存続会社は札幌丸井今井)、「株式会社札幌丸井三越」が発足している。
1970年代には小売業で売上高日本一の地位であったが、売上高営業利益率はグループ連結で1.09 %、百貨店事業単独で0.799 %と百貨店業界の中でも不振が続いていたため、2008年9月に百貨店4店舗・小売店2店舗の閉鎖を発表し、店舗の整理を始めた。また、経営統合後の再編方針により、2010年4月1日付で関東以外の店舗を分離した。最終的には同じく老舗百貨店の伊勢丹に救済されることとなり、2008年4月1日に「三越伊勢丹ホールディングス」を設立して伊勢丹と経営統合した。株式交換比率は伊勢丹株1に対し三越株0.34である。三越と伊勢丹の経営統合は、三越の長期低迷に危機感を持っていた三井住友銀行が三菱東京UFJ銀行(現・三菱UFJ銀行)を通じて伊勢丹側に持ちかけたとされる。
「三越呉服店」 発祥は延宝元年(1673年)、伊勢松坂の商人三井高利(1622 - 1694)が、日本橋に開いた呉服店越後屋。大衆相手の店たな前さき売りの商法で繁盛し、江戸時代最大の呉服商といわれた。明治37年(1904年)、株式会社三越呉服店となった。「三越呉服店」の朱印の一部と、広報誌『時好』(4巻4号 1906年4月刊)の表紙の一部が書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「三越呉服店」より抜粋[5]
三井家(三井財閥)の元祖である三井高利によって1673年(延宝元年)江戸本町一丁目の借店(かりだな)に「越後屋三井八郎右衛門」を創業。1683年(天和3年)には、駿河町(現在の日本橋三越本店所在地)へさらに営業を拡大させ移転。同時に両替店を開設し、この両替店は現在の「三井住友銀行」へと発展することになる。 そして駿河町に店を構えると江戸中に札(広告)を配り、下記のような当時では画期的な商法を次々と打ち出し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。
呉服店から百貨店への移行期の三越の広告は、時代の最先端なものとして 広告史上忘れてはならないものとして語り継がれている。
大丸のディオール・サロンに対抗して、三越もパリのオートクチュール・メゾンと提携した。
かつてはテレショップも手がけていた。1970年、日本初の通販番組フジテレビの「東京ホームジョッキー」(運営はディノス。1972年から「リビング11」に改称)開始。この番組は1983年に終了するが、スタッフ、キャストがテレビ東京で、三越一社提供番組「レディス4」を開始することになった。同番組は2012年から「L4 YOU!」と改題されたが、「L4 YOU!」は2017年3月31日をもって終了したと同時に三越はテレショップから撤退した。当初は全国ネットだったが、ネット局は年々減少していき、末期は関東ローカルのみでの放送となっていた。
この番組の他、ミニ番組「三越テレショップ」も1988年に開始されたが、こちらも2015年9月30日をもって全局終了した[23]。商品紹介はスタジオアルタのディレクターが担当していた[24]。
「三越テレショップ」最終回を放送したテレビ局は以下の通り。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 放送時間 | 備考 |
---|---|---|---|---|
関東広域圏 | テレビ東京(TX) | テレビ東京系列 | 月 - 金曜 13:32 - 13:35 | |
福島県 | テレビユー福島(TUF) | TBS系列 | 月 - 金曜 15:52 - 15:55 | |
新潟県 | 新潟テレビ21(UX) | テレビ朝日系列 | 月 - 金曜 11:57 - 12:00 | 『ワイド!スクランブル・第1部』(テレビ朝日制作)のローカル枠で放送 |
長野県 | 信越放送(SBC) | TBS系列 | 月 - 金曜 15:55 - 16:00 | |
静岡県 | 静岡朝日テレビ(SATV) | テレビ朝日系列 | 月 - 金曜 15:47 - 15:50 | |
広島県 | 広島ホームテレビ(HOME) | テレビ朝日系列 | 火 - 金曜 15:30頃 - 15:33頃 | |
愛媛県 | 南海放送(RNB) | 日本テレビ系列 | 月 - 金曜 15:50 - 15:53 | 南海放送でのレディス4打ち切りに伴い、2005年4月ネット開始。 最後の3回に限り、『news every.』月 - 木曜日第1部(日本テレビ制作) の番販ネット開始に伴い、16:00頃 - 16:10頃の間のCM枠にて放送。 |
長崎県 | 長崎放送(NBC) | TBS系列 | 月 - 金曜 18:52 - 18:55 | |
熊本県 | 熊本放送(RKK) | TBS系列 | 月 - 金曜 14:55 - 15:00 |
オンライン・ショッピングは、三越と伊勢丹(I On Line)が別々にあり、提携サイトとしてティファニーのサイトも独立してある。
三越と大塚家具は、商品開発やホテルの内装を手掛ける建装事業などで、協力する方向性を打ち出した。
その手始めとして、年間20億円の赤字を出していた新宿店南館を1999年7月に閉館し、同年9月10日「IDC大塚家具新宿ショールーム」を賃貸入居させた。
その際、三越が大塚家具にお帳場客(上得意客)を紹介し、その客が大塚家具で家具を購入すれば、紹介手数料を受けるという契約も結んだ。ただし、この紹介制度は一定期間しか有効ではない。また、大塚家具は会員制を取っているので、一度目は「三越の紹介」扱いだったとしても、次からは「大塚家具」会員扱いになるため 紹介手数料は入らなくなる。
協調出店は、吉祥寺店や多摩センター店でも試みられたが、あまり芳しい実績とはならず、吉祥寺店は両社とも撤退、多摩センター店は大塚家具が立川高島屋への移転という形で終了している。現在は新宿店南館で家賃収入を得るだけの関係だが、赤字店舗をそのまま抱えるよりは良いという状況になっている。[25]
2000年よりそごうから権利を引継ぎ、読売ジャイアンツのリーグ優勝および日本シリーズ優勝(または敗退)時に「ジャイアンツフェスタ」を実施していた。読売ジャイアンツの商標を使用してのセールには、読売新聞社への商標使用の許諾料を支払う契約に基づいており、期間中はおたのしみ袋やジャイアンツグッズの販売する権利を得ている。また、優勝パレードも日本橋本店前が起点で、銀座店を経由して銀座8丁目博品館前までのコースを辿る。
そごうの優勝セールはそごう東京店が1957年から有楽町の読売会館に入居していたためだが、同社が2000年に経営破綻し読売会館から撤退。読売新聞社が代わりの協賛企業を募集した結果、三越が引き継ぐことになった。その縁で三越は読売新聞社からプランタン銀座(現:マロニエゲート)の株式の30%の譲渡を受けることにもなった。マロニエゲートも読売新聞社が筆頭株主で、読売銀座ビルに入居していることから巨人の優勝セールを実施する。
三越の実施店舗は全国展開で、小型店(ギフトショップ)や海外店、提携店の沖縄三越まで含まれていた。ただし、名古屋三越、広島三越等、他球団のホームにある店舗では他の催しに差し替えられることがある。
2008年「三越伊勢丹ホールディングス」設立以降、実施店は伊勢丹直営店にも拡大した(静岡や関西では実施していない)。
三越伊勢丹における巨人の優勝セールは2014年が最後となり、2019年以降はブランドイメージ戦略から優勝セールの開催を見送っている。また、イトーヨーカ堂・セブン-イレブンも同時に優勝セールから撤退したことから、これ以降百貨店・GMSでの巨人の優勝セールは行われていない。2019年以降、複数店舗で巨人の優勝セールを行っている小売業者は家電量販店のビックカメラのみとなっている[26]。
日本橋三越の屋上には、三井家の守り神である三囲神社が祀られている。
2008年に高級観光バス「三越伊勢丹プレミアムクルーザー」を導入、三越伊勢丹ニッコウトラベル(デビュー当時は三越トラベルセンター)主催の旅行などで使用する。この車両は2007年に開催された東京モーターショーで日野自動車が展示した参考出品車、セレガプレミアムを営業に供しているものである。個別にテレビモニターも備えた革張りのリクライニングシートを備え、前後5列・横2席、乗客定員わずか10名、さらに後部にはトイレ・洗面所も備える、贅沢な造りの車である。実際の車両管理・運行は東京ヤサカ観光バスが担当、ナンバープレートは希望ナンバーで「三越」である32-54を取得している。好評のため2012年にも追加で導入され、こちらはケイエム観光バスが担当する。2009年には通常の2-2レイアウトを採用する「三越伊勢丹グランドクルーザー」も登場、東京ヤサカ観光バスとアイビーエスが担当する。
三越では1910年(明治43年)ころから、店章や新館完成予想図、支店・分店や取り扱い商品などをあしらった包装紙を使用してきた。百貨店の包装紙は、どこも地味なもので紙質も良いものではなかった。そこで1950年(昭和25年)に「クリスマス用に明るい包装紙を」と猪熊弦一郎にデザインを依頼して誕生したのが、現在の包装紙「華ひらく」と「三色」の紙袋である。当時、三越の社員で宣伝部に所属していたやなせたかしが猪熊から作品を受け取り、社へ持ち帰って「mitsukoshi」のレタリングを入れ完成した。当時、破格の報酬でも話題となった。
この画期的な包装紙「華ひらく」と「三色」の紙袋は大変好評となり、翌年の中元からは三越全店で使用されるようになった。紙袋は2008年(平成20年)に伊勢丹との経営統合を機にデザインが変更されたが、「華ひらく」は現在でも全国の三越で使用されている。 ただし、現在のロゴになってから数年間はブックカバーや箱物で別の青のデザインのものを採用していたこともある。(CMの最後のロゴ表示もそれを使用していた)
1914年、日本橋本店新館の建設に当たって、日本の商業施設として初めてのエスカレーターが導入[9]。アメリカ・オーチス社製、45m/分、20馬力(15kW)電動機式で5機設置された。初号機は木製だったため関東大震災によって焼失したが、現在は三菱電機が同スタイル(金色・丸ボディ・完全照明型)の金属製で復刻したものが使用されている。
同時に、エレベーターもオーチス社のものを採用。今も、スケルトンタイプの扉でノスタルジックな雰囲気をかもし出しているが、これは日本初ではない。日本初のエレベーターは1875年王子製紙十条工場の荷物運搬用。人が乗るものとしては、1890年11月10日浅草凌雲閣(関東大震災により倒壊)。百貨店では、1911年11月の白木屋日本橋店で、運転はエレベーターボーイが行った(扉の開閉等が手動式で運転技術を必要としたため)。[27]
またエレベーターガールを最初に採用したのは1929年の松坂屋上野店だった。エレベーターの技術革新と人件費削減等の理由により、現在では日本橋髙島屋などを除いて日本全国ほとんどの百貨店でエレベーターガールは廃止されている。日本橋三越では、今もエレベーターガールが常時配置されているが、6台のうち、中央2台(この2台手動である)のみと限定的な運用となっている。[28] 比較的遅くまで残っていた名古屋三越栄店でも2009年10月でエレベーターガールは廃止された。一方、高松三越では1996年に廃止したが、2011年3月「開店80周年記念」の期間限定企画として復活した。[29]
三越のシンボル的存在である。1914年に本店玄関に設置されたライオン像は、関東大震災や戦火を逃れ現在も日本橋本店正面玄関に設置されている。ロンドンのトラファルガー広場にあるホレーショ・ネルソン提督像を囲むライオン像がモデルとされ、英国の彫刻家メリフィールドが型どり、バルトンが鋳造したもので青銅製。完成まで3年の歳月を要し、イギリスの彫刻界でも相当な話題となる。なお、全国各地の三越主要店舗にも日本橋本店のものを模したライオン像が設置されている。誰も見ていないときに受験生がライオン像にまたがる[30]、または触ると志望校に合格するという験かつぎも知られている。閉店した店舗の像は倉庫に保管されているが、池袋三越(2009年閉店)の像は、三越と縁の深い三囲神社に奉納された。他に2015年日本体育大学世田谷キャンパスに寄贈された。ライオンは日体大のシンボルマスコットである。
1930年日本橋三越本店の大食堂に、子供の好きなメニューをひとつの皿に盛った「御子様洋食」が登場した。そのメニューは富士山に型どったライスにイチゴジャムと卵のサンドイッチ、スパゲティー、ハム、コロッケ、金平糖であった。御子様ランチの象徴でもある三越の旗を立てたのも日本橋三越本店の大食堂が最初であった。現在でも日本橋三越本店の新館5階にあった大食堂「ランドマーク(2020年1月7日閉店)」で「お子様ランチ」として提供されていた。また、日本橋三越本店が発祥のため、三越「ランドマーク」では年齢制限は設定されておらず、誰でも注文することができた。
現在、日本橋三越本店の中央ホール2階バルコニーにあるパイプオルガンは、1930年に米国マイテー・ウェルリッツァー社製の最新式を輸入し、7階ギャラリーに設置されていたものである。電力によって奏する大仕掛けなもので、メインとソロの2種からなり、全体の間口は8.2m。日本で唯一現存する演奏可能な昭和初期製造のシアターオルガンでもあり、貴重な歴史資料として2009年には中央区民有形文化財に登録された。
このパイプオルガンは、カトリック教会に設置されているものとは異なり、主に無声映画や演劇の伴奏などに使用された『シアターオルガン』という種類に属するもので、ポピュラー音楽でもクラシック音楽でも幅広いジャンルの音楽を弾くことが出来るのを特徴としている。1930年当時の金額で350,000米ドル、今の貨幣価値に換算すると約2億円である。
まだ本格的なパイプオルガンが、日本に数台しかない時代だったため大変な評判となり、社団法人日本放送協会では、演奏を聞かせるラジオのレギュラー番組が組まれ、日本放送協会と三越の間には専用回線まで引かれたという。
1935年の本館全館完成時に、現在の中央ホール2階バルコニーに移設された。パイプボックスには、パイプ以外の音源も装備されており、チューブラーベルや鈴、ウッドブロック、大太鼓や小太鼓、さらには鳥の声なども出る。オルガンやパイプには、元々美しい金属装飾が施されていたが、大東亜戦争中に供出されてしまった。
現在でも金曜日、土曜日、日曜日の午前10時・正午・午後3時の3回、オルガン奏者による生演奏が行われ、その荘重な調べは、日本橋三越本店独自の雰囲気を創る上で、欠くことのできない重要な役割を果たしている。
日本橋三越本店のパイプオルガンで、開店時に「お江戸日本橋」が演奏されており、三越のテーマ曲のような存在となっている。かつては同曲のオーケストラによるアレンジ版が、テレビCMなどで流れていたこともある。このオーケストラ版は1951年12月31日、ラジオ東京(現・TBSラジオ)で開始された番組『三越文学サロン』の宣伝用に制作されたもので、地方では1954年7月13日より、聴取エリア内に仙台店がある東北放送ラジオの『朝の百貨店案内』の中で流され、それ以来1989年12月末までの約35年間、同番組内で流れ続けた。三越広報資料室によると、これは同曲のテレビ・ラジオにおける使用期間としては最長記録である[31]。
2016年度・店別売上高[32]も付記。
2017年3月の千葉店閉店(後述)をもって、直営の百貨店店舗は都内の2店舗(日本橋・銀座)のみとなった。
通称:日本橋三越本店。三越の旗艦店。東京メトロ銀座線「三越前駅」に直結しており、本館と新館で構成される。元々三井越後屋があった場所であり、東京において、江戸時代から現在まで同一の場所で続く百貨店は、当店と松坂屋上野店だけである。本館の道路を挟んで北隣には、三井財閥の本拠だった三井本館がある。本館 49,000m2+新館15,000m2=64,000m2。本館6階には三越劇場がある。
売上高は1,144億円(2021年 外商などを含む)。店舗別年間売上高において国内6位に位置する[35]。売上高では髙島屋日本橋店(1,239億円 全国4位)の方が大きい[35]。
長い歴史を待つ老舗として高いブランド力を誇り、取締役といった国内の富裕中高年や全国の法人外商に強みを持っており、叙勲・褒章を受けた人物向けのサービスなども行っている[36]。
本館は「我が国における百貨店建築の発展を象徴するものとして価値が高い」(意匠的に優秀なもの・歴史的価値の高いもの)として、百貨店建築としては日本橋高島屋本館に次いで2例目の国の重要文化財に指定されている(指定番号:02645)[37]。1920年代から30年代にヨーロッパで流行したアール・デコ様式が取り入れ、内装には一部大理石が用いられている。1932年の東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線)開通にあたっては三越前駅の建設費用を負担した。 1935年には増築改修が行なわれ、五層吹抜けのパイプオルガンを設置した中央大ホール、人気の「特別食堂」が設置された。現在でも毎日、無料のパイプオルガンの定期演奏が行われている。 1960年、三越創立50周年を記念して、日本橋本店本館の中央ホールに、佐藤玄々(さとうげんげん)制作の巨大木彫『天女像 まごころ』が設置され、現在は日本橋三越本店における象徴的存在である[38]。
2016年5月、総額200億円を投じる改装計画が発表された。デザイナーには建築家の隈研吾を起用した[39]。
2020年には改装の一環として、新館6階に三越として初となる家電量販店であるビックカメラがテナントとして入居した[40]。店員は三越ではなくビックカメラの社員が担当するが、ビックカメラの赤いベストではなくスーツを着用して接客を行う[41]。百貨店業界としても珍しい取り組みであり、普段のビックカメラでは取り扱えなかったような富裕層向けの高級家電を販売するとともに、三越としてはマーチャンダイジング(MD)の拡充を狙っている。
2013年度から中央(三越伊勢丹HDS)による企画・統制に変更された。これは、都市部では生活行動圏が狭くなり、一方地方部では百貨店空白エリアが広がった現状に対応して市場開拓を行うためで、情報・ノウハウの共有化を図る狙いがある。中期目標では、店舗面積50〜200坪クラスの店を新規出店数150〜200店、売上高500億円規模、営業利益25億円以上を目指している。店舗のタイプは3種類で外商拠点を兼ねた従来型のサテライト=三越○○、中分類切り出し型=イセタンミラー、アウトレット店などとなっている。[44][45]
HDS傘下の三越系列
北千住駅西口再開発事業(現・千住ミルディス)の核テナントとして出店表明。千住を創業地とする東武鉄道子会社の東武百貨店、そごう、イトーヨーカ堂系のロビンソン百貨店と地元を巻き込んで激しく争ったが、深刻な亀裂を恐れた足立区の最終判断により、丸井に決着した。
岐阜市のJR岐阜駅前。1990年に名古屋三越百貨店(当時の正式社名)が出店を表明するものの、1992年にバブル崩壊の影響で辞退した。三越グループと業務提携を行っていた岐阜近鉄百貨店の移転計画も出たが[89]、柳ヶ瀬商店街の政治工作で実現せず、岐阜シティ・タワー43が2007年に完成した。
2001年、奈良そごう跡地に、多摩センターと同様に大塚家具と共同での出店を表明したが、同年中に撤回。2003年7月イトーヨーカドーが出店した。現在のミ・ナーラ。
旧大阪鉄道管理局庁舎跡地に大阪店を移転する形で出店予定だった。当社の落札が有力視されたものの、パルコと共に失敗した。ヨドバシカメラが落札し、ヨドバシ梅田となる。
戦前に南海ビルディングへの出店を検討していたが、条件面で折り合わず、髙島屋が南海髙島屋をオープンさせた。その後、同社は近接していた大阪店(長堀店または大阪長堀店とも呼称)を閉店させたため、現在は旧・南海髙島屋が髙島屋大阪店(本店)となっている。
当初は、そごうの経営難の時にそごう大阪店を解体し、跡地を三越に売却する予定であった[90]。しかし、和田繁明の方針転換により、白紙となった[91]。2005年にそごう心斎橋本店が開業したが、業績不振で2009年に閉鎖された。大丸心斎橋店北館となり、2021年からは大半のフロアが心斎橋パルコとして営業している。
戦前に阪神三宮駅の三宮阪神ビルへの進出を検討していたが、結局そごうが2号店としてそごう神戸店を開店させた。その後、2017年にエイチ・ツー・オー・リテイリング(阪急阪神東宝グループ)に譲渡され、2019年9月30日に同店は閉店。10月5日より阪急百貨店の神戸阪急として営業している。また、戦後の1967年(昭和42年)にも神戸支店の事業を立て直すため、三宮エリアの別の場所への移転を計画した。しかし、こちらも地元商店街が中央政界までも巻き込んで反対したため、実現に至らなかった[92]。
兵庫県西宮市は大阪市と神戸市に挟まれた立地であり、両市はもとより、隣の尼崎市に西武百貨店つかしん店、芦屋市に大丸芦屋店、宝塚市に宝塚阪急が出店したにもかかわらず、21世紀になるまで百貨店が一切なかった。県内第3位の人口を有するため、バブル期には後に進出する阪神百貨店や阪急百貨店のほか、髙島屋による西宮マリナシティへの進出計画もあった。
当社も1992年(平成4年)6月に兵庫県再進出を狙い、西宮市の苦楽園地区(樋ノ口町)で酒造メーカー「白鷹」の社長、辰馬博男が所有する26000平方メートルの土地に計画されている商業施設への出店を申し出たことが報道された。住居専用地域のため、2,3階建ての延床面積は3万数千平方メートルの店舗となる予定だった。土地管理会社「北辰馬」は、西宮市民が百貨店を望んでいるため、高級イメージのある三越がテナントの第一候補であると考えていた[93]。しかし、バブル崩壊などの環境の変化で当社や髙島屋の出店は実現しなかった。同市には2000年代に進出した阪神百貨店、阪急百貨店(西宮阪急)が立地しており、いずれもエイチ・ツー・オーリテイリング傘下の阪急阪神百貨店が運営している。
本来、日本の百貨店はチェーンストアとー異なり、本部集中仕入はせず、各店舗が独立して運営する形態のものだった。 1970年代、総合スーパーの台頭に対抗し、三越も中央仕入機構「三越ジョイントバイインググループ」[94]を主催、一般向けには単純に「三越グループ」もしくは「三越提携店」と呼ばれていた。
業務提携内容は以下の3本を柱としていた。
三越の系列店政策は、同じ市場で競合しないための紳氏協定的(他百貨店グループと重複加盟をしない排他的)な要素が強く、三越は札幌、仙台、高松、松山には古くから直営店を出店していたため、これらの都市を本拠とする地方百貨店の参加はなかった。
戦略的拠点と位置づけられた一部の地域では、資本を注入し直営化を図った例もあるが、基本的には加盟店の自立を支援し、従来からの「のれん」を残したケースの方が多い。このスタンスは、ネットワーク拡大を優先しM&Aを仕掛けたダイエーやセゾングループとは大きく異なるものだった。
しかし、1990年代には日本百貨店協会の「全国百貨店共通商品券」が登場し、協会加盟百貨店であればどこでも商品券が使えるようになり、グループに加盟する意義の一角が崩れていくことになる。
また、三越自身が1995年に大丸と上記にあげた3本の業務提携を行ったり、2000年には髙島屋と物流・情報システムや用度品の共同購入を行ったり(現在はどちらも提携解消)[95]したことによりグループの再編は加速した。
2008年の三越・伊勢丹の経営統合により、伊勢丹が中心になって主催してきたA・D・Oに加盟する企業もあったが、「三越提携(の地方)百貨店」という概念は「沖縄三越」以外に存在しなくなり、三越ジョイントバイインググループはこの時点で事実上役割を終えた。
1970年 - 1980年代の三越グループ加盟店は、以下の各店。
(他に大沼がADOのまま三越と提携していた時代があった)
2018年4月現在、全国の三越がNCR製から富士通製に戻している。
三越伊勢丹システム・ソリューションズが4U Applicationsとオープンリソースとともに開発し、内製化した、新POSシステムの導入が検討されている。(2022年5月現在、イセタンミラーやラシックに先行して導入されている。)
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