Remove ads
ウィキペディアから
オスカー・デ・ラ・レンタ(Oscar de la Renta、1932年7月22日 - 2014年10月20日[1])はアメリカ合衆国のファッションデザイナー。ドミニカ共和国出身。
保険会社を営むプエルトリコ出身の父、スペイン系の母のもとに生まれた[2]。7人兄弟の第1子で、唯一の男児であった[3]。19歳で絵画を学ぶためマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに留学[4]。金を稼ぐために、新聞やファッション・ハウスのため服を描き始めた。当時の駐スペイン・アメリカ合衆国大使ジョン・デイヴィス・ロッジの妻フランセスカが、彼の描いたスケッチに目をとめ、娘の着るガウンのデザインをデ・ラ・レンタに依頼した。このドレスは秋に発行されたライフの表紙に登場した。彼はすぐにファッション・デザインの世界に関心を持つようになり、スペインをリードするファッション・ハウスのためにスケッチを始めた。その後すぐに、スペインで最も有名なクチュリエであったクリストバル・バレンシアガのもとで見習いとなった。彼はバレンシアガを師と仰いだ[5]。デ・ラ・レンタは、パリのランバンでオートクチュールのアシスタントをすることになったアントニオ・カスティーリョ(のちに衣装デザイナーとなって1971年度のアカデミー衣裳デザイン賞を受賞する)と合流するためスペインを発った[6]。
デ・ラ・レンタはエリザベス・アーデンで2年働いた後、1965年よりジェーン・ダービーに入った[7] 。同年8月にダービーが死去すると、Oscar de la Renta for Jane Derbyのブランド名で再出発したが、1966年より自身の名前オスカー・デ・ラ・レンタのブランド名に変更した[8]。
1993年から2002年まで、フランスのクチュール・メゾンであるピエール・バルマンのオートクチュールのクチュリエとなった。彼はフランスのオートクチュール初のドミニカ共和国出身クチュリエとなった。
デ・ラ・レンタは1967年と1968年の2度、コティ賞を受賞し、1973年にはコティ賞の殿堂入りを果たした[9]。
1973年から1976年、1986年から1988年の2度、アメリカ・ファッション協議会(CFDA)の会長を務めた[10]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.