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香川県三野郡詫間村(現 三豊市詫間町)出身。旧制香川県立三豊中学校、慶應義塾大学部理財科(現 慶應義塾大学経済学部)卒業。
両親と兄弟五人が早死にし、すぐ上の姉とその夫を後見人として、三豊中学、慶應義塾大学部で学ぶ[1]。三豊中学在学中は、自宅から三里程の距離があったため、寄宿舎に入り通った[2]。慶應義塾大学部では、マンドリンクラブに所属した[3]。
1919年(大正8年)慶應義塾大学部卒業後、三越本店に入社。入社後の苦労は相当なものだった。和服に前掛け姿。初めは通信販売の仕事に携わったが、残業に次ぐ残業で連日帰宅は夜11時をまわっていた。「古い番頭からは、“学校出だ”としごかれ、慶大から入社した13人が、半年も経たぬ内に3人になってしまった」[4]。そして1923年(大正12年)の関東大震災。この大惨事で、三越は日本橋本店などを焼失し機能が完全にまひした。「三越はもうダメだ」と、大阪の百貨店への就職を頼み込んだが、逆にたしなめられる。一念発起してがむしゃらに働き、1930年(昭和5年)5月、主任から京城支店次長へスピード出世する。そして足かけ9年間で、京城支店を売上高第2位の大阪支店に匹敵する優秀店に育て上げた[4]。
そのキャリアが買われ、1938年(昭和13年)大阪支店次長に就任。同支店次長時に、部下が客を万引と思い違いをし店長名の謝罪文を要求された。客は理髪店主で、20日間1日も休まず理髪店に通い、その誠意に店主は心動かされ危機を見事に乗り切った[5]。
1940年(昭和15年)仙台支店長に昇進。1942年(昭和17年)再び古巣の京城支店長として戻り、本店に次ぐ第2位の売上規模に育て上げた[6]。しかし、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦の報を聞いた後、支店閉鎖の準備を開始。店員とその家族三百数人の生命を預かり、体を張って全員を無事帰国させた逸話が残る[7]。
1946年(昭和21年)4月、京城支店での業績や敗戦後の危機管理の見事さを買われ、取締役本店長に栄転。1949年(昭和24年)9月、常務に昇任[8]。岩瀬英一郎社長の補佐役として戦後の三越再建に尽力した。また、酒を飲まなかった岩瀬に替わって連日のように宴席を受け持った[4]。
1963年(昭和38年)社長就任後は、増改築・多店化推進などとともに、伝統を鼻にかけた社風を一掃して大衆化へのイメージチェンジに成功し、三越近代化の功労者といわれる。1968年(昭和43年)銀座店新築開店、1971年(昭和46年)初めて小売業で売上高が1,000億円を突破する。
先人たちは、過去を踏まえながらも、絶えず時代を先取りする先見の明を持っていた。
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