東急ストア
東急グループのスーパーマーケット事業 ウィキペディアから
株式会社東急ストア(とうきゅうストア、英: TOKYU STORE CHAIN CO., LTD.)は、東京都目黒区に本社を置く、東急子会社のスーパーマーケットチェーンや、東急電鉄の駅構内の売店やコンビニエンスストアなどを運営する企業。東急グループの企業の一つ。
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![]() 本社(中目黒東急ストア) | |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | |
略称 | とうきゅう・TOKYU |
本社所在地 |
日本 〒153-8577 東京都目黒区上目黒一丁目21番12号[1] 北緯35度38分42.2秒 東経139度41分57.2秒 |
設立 | 1956年(昭和31年)10月10日[1] |
業種 | 小売業 |
法人番号 | 8013201004026 |
事業内容 | チェーンストア事業 |
代表者 | 代表取締役社長 大堀左千夫 |
資本金 | 1億円(2020年2月29日現在)[広報 2] |
売上高 |
2019億7500万円 (2020年2月期)[広報 2] |
営業利益 |
31億7500万円 (2020年2月期)[広報 2] |
経常利益 |
28億1400万円 (2020年2月期)[広報 2] |
純利益 |
26億7200万円 (2020年2月期)[広報 2] |
純資産 |
224億2700万円 (2020年2月29日現在)[広報 2] |
総資産 |
705億3500万円 (2020年2月29日現在)[広報 2] |
従業員数 |
6,222人 (2022年2月29日現在) |
決算期 | 2月末日 |
主要株主 | 東急 100% |
関係する人物 | 木下雄治(元社長) |
外部リンク |
www |
特記事項:1975年(昭和50年)3月1日に現商号へ変更[広報 3]。1982年(昭和57年)3月に株式額面変更のため株式会社東急ストア(1947年(昭和22年)12月設立の旧・テー・エム工業株式会社)に吸収合併[1]。 |
関東地方を中心に主力業態のスーパーマーケット「東急ストア」を展開するほか、東急電鉄沿線では駅売店「toks」を運営する。TOKYUポイント加盟店。
歴史
要約
視点
百貨店法の制約を避けるために誕生
1956年(昭和31年)6月に施行の百貨店法により、百貨店が新店舗の出店や増床などに制約が課されることになったことから、その制約を受けずに事業展開を行うために同年10月10日に「東横興業株式会社」を設立したのが始まりである[広報 3]。
当社の1号店として1956年(昭和31年)11月22日に開設された武蔵小杉東興店は[広報 3]、東横線と国鉄線の武蔵小杉駅のはす向かいにあたる川崎市小杉町1丁目403番地に[広報 3]第一生命が建設した第一生命住宅の店舗部分への出店で[2]、従前からの出店の約束を果たす側面もあるものであった[2]。
また、同年1月に東急グループ入りしていた百貨店の白木屋は、1928年(昭和3年)12月18日の五反田分店と[3]1929年(昭和4年)2月の大森分店[4]という戦前に開設した2分店の他に[5]、1952年(昭和27年)12月に中央線高円寺駅北口の駅ビルに開設した高円寺分店を運営していたが[5]、百貨店分店の形式では百貨店法の規制対象となるとして、こちらも「白木興業株式会社」を設立して3店の営業を譲渡することで規制を逃れさせることになった[広報 3]。
こうして設立された2社を経営統合することになり、1957年(昭和32年)4月1日に「東横興業株式会社」が「白木興業株式会社」を吸収合併して五反田と大森、高円寺の3店の営業を引き継ぎ、チェーン店の展開へ乗り出すことになった[広報 3]。
同年9月20日、より一般的で親しみ易い名称として「株式会社東光ストア」へ社名変更するとともに、社紋(シンボルマーク)もエーデルワイスをかたどったものへ変更した[広報 3]。
そして東横百貨店(現・東急百貨店東横店)西館地下と壁一枚で隣接する渋谷地下街が開業する際には、百貨店の増床許可が出た時点で東横百貨店に変換する条件で当社が1957年(昭和32年)12月に渋谷店を出店し、契約通り1962年(昭和37年)8月東横百貨店に返還したほか、同じく東横百貨店が核店舗として出店する構想で進められていた東急文化会館の店舗部分も当社が運営する「文化特選街」とするなど、百貨店法の制約を受けずに店舗展開を進めるという戦略を担う形で出店が進められていった[広報 3]
こうした設立時の経緯もあり、東横百貨店から130名、白木屋系の旧白木興業234名の社員が当社へ出向していたが、当社が軌道に乗った後、役職者と一部の専門職員を除いて百貨店へ復帰させる人事を行っており、現場は当社として採用した社員が中心となって運営する形態へ移行する形となった[広報 3]。
セルフサービス方式導入によるスーパーマーケット事業への進出
設立当初は百貨店と同様の対面販売方式で、小型百貨店というべき運営形態であったが、1957年(昭和32年)2月に「スーパーマーケット設立準備委員会」を発足して八幡製鉄所購買会(現・スピナ)の見学や研修会への参加などを通じてセルフサービス方式の導入へ向けた準備を進められた[広報 3]。
1958年(昭和33年)10月に高円寺店2階に木製ゴンドラケースによるオープン陳列を行ってセルフサービス方式を導入し、スーパーマーケット事業参入の第一歩を踏み出すことになった[広報 3]。この高円寺店へのセルフサービス方式の導入に当たっては、生鮮食料品の販売効率が現状でも高かったうえ、当時は予め包装などを行っておくプリパッケージができない商品と考えられていたことから、1階の食料品売り場は従来通り対面販売が継続されていた[広報 3]。だが高円寺店のセルフサービス方式の導入は、利点を理解しながらもスーパーマーケット事業への進出に二の足を踏むことが多かった百貨店などの大手資本によるものとしては先駆けとなったため、業界紙などから注目を集めることになった[広報 3]。
1958年(昭和33年)12月13日に開設した鷹番町店は新店舗で開設時からセルフサービス方式の導入を行った1号店であるのみならず、部門別に色分けした名刺大の札を商品に添付して、それを基にレジで精算を行う方式で食品売り場にもセルフサービス方式の導入しており、高円寺店での実験をさらに一歩進めるものとなった[広報 3]。ただし、この鷹番町店でも食料品全てをセルフサービス方式とすることはできず、対面販売部分が残る状態となっていた[広報 3]。
その後、1959年(昭和34年)3月27日に同社では初の本格的なスーパーマーケットとして、日本住宅公団桜堤団地内に鉄骨造り1階建ての武蔵境店を開設した際には、様々な合理化策を導入すると共に、その成果を委員会を設けて検証するなどスーパーマーケット事業の本格的な展開を目指した実践と研究を重ねて行った[広報 3]。
セルフサービス方式の導入を進めるうえでは、商品の事前包装や値札付けといったプリパッケージ技術が必要であったことなどが、こうした漸進的な導入の背景となっており、当社が全商品をセルフサービス方式で販売するようになったのは1959年(昭和34年)11月に開設した荻窪店が最初の店舗となった[広報 3]。プリパッケージで問題を抱えていたのは、先述した食料品だけでなく、衣類や雑貨類などでも同様であり、価格のみならず、素材や大きさ、洗濯方法なども付記した包装の導入などのセルフサービス方式に合わせた商品の形態が模索され、実践に移されていくことになった[広報 3]。
また、商品を各店舗にスムーズに配送するために、1961年(昭和36年)12月に東横線都立大学駅の高架下にベルトコンベヤーを導入した本部検品所と商品倉庫を兼ねた施設を開設して合理化を図った[広報 3]。その他にもメーカーの販促活動の機会に安く大量に仕入れるなど大量仕入れ・大量販売というスーパーマーケット事業の強みを生かすための仕入れ政策にも取り組み、徐々にスーパーマーケット事業を軌道に乗せて行くことになった[広報 3]。
1964年(昭和39年)7月に開設した三軒茶屋店では、中央食品(現・セントラルフーズ)による完全包装された精肉販売が導入され、店舗における厨房機能の縮小と大量陳列による買い易さが両立することで更なる合理化が図られることになった[広報 3]。
こうしてセルフサービス方式の導入を進めたことにより、合理化が進んだ半面で店員と顧客との間でのふれあいが不足しがちになることから、それを補って顧客の固定化を図ることを目的に1961年(昭和36年)2月に「東光セルフサービスチケット」を導入するなどセルフサービス方式の欠点の是正策も並行して導入された[広報 3]。
東急グループの企業らしく文化事業にも早くから力を入れ、1966年(昭和41年)11月より主な顧客層である主婦を対象とした文化講演会「東光ストア ママ大学」を開始し、その後社名変更により1975年10月から「東急ストア ママ大学」に改題された。また、かつて文化放送で午前11時過ぎに長年にわたり「東急ストア ママ大学」というタイトルでコーナー提供をしていたが、『くにまるワイド ごぜんさま〜』の番組途中で終了している。
ショッピングセンター形式の大型店の出店
1971年(昭和46年)4月に京王線調布駅から100mの場所に建設された地下1階・地上8階建てのビルの地下1階から地上3階までを使用して当社初のショッピングセンターとなる調布店(調布とうきゅう)を開設し、大型店の運営に参入することになった[広報 3]。
調布店は、都心に流出している購買力を地元に引き付ける狙いから有力な店舗をテナントとして導入する戦略をとったため、テナント比率が高まったものの、土地・建物ともに自社所有であることから高い収益力を持つ店舗となった[広報 3]。
こうした大型店舗でのテナントの導入はその後も続けられ、当社としては2番目のショッピングセンターである厚木店では地元の老舗などからなる暖簾街の導入が図られ、水戸店では外国の有名メーカーのライセンス生産によるファッションを扱う売り場の導入をしたほか、水戸店では陶器類も扱うなど徐々に品ぞろえを拡充していくことになった[広報 3]。
また同年10月に開設した大和店では郊外型の週末中心の来客を想定して、喫茶店やビアガーデンなどの飲食施設や遊戯施設、休憩所など物販以外の施設の充実を図った[広報 3]。同年11月に鎌倉駅前に開設した鎌倉店では、百貨店や専門店が当社のようなスーパーに陳列されるのを嫌がるような海外メーカーの服などを扱ったため、取り扱いを中止させようとする動きが一部で見られるような状況まで生じた[広報 3]。
このように大型店の出店に伴い、衣料品や雑貨類の販売比率が増大することになり、店舗間の販売力などに大きな差が生じたことから、店舗を規模や立地などで5分類して各々の戦略を立てる形へ変化していくことになった[広報 3]。
出店エリアの拡大
母体となった東急沿線の他に、東急電鉄や東急不動産が進めている地域開発型の不動産事業展開の一環として出店したほか、比較的高所得者層が多いとされる湘南地区や神奈川県中央部など首都圏の人口急増が生じていた地区に出店を集中的に行うドミナントエリアとする出店戦略を採った[広報 3]。
このため、東急沿線では溝の口店(1970年(昭和45年)10月開店)や学芸大学店(1970年(昭和45年)11月開店)、祐天寺店(1970年(昭和45年)11月開店)、二子玉川店(1970年(昭和45年)12月開店)、湘南地区では辻堂店(1969年(昭和44年)11月開店)や鎌倉店(1971年(昭和46年)11月開店)、神奈川県中央部では厚木店(1971年(昭和46年)5月開店)や大和店(1971年(昭和46年)10月開店)等の出店を行うことになった[広報 3]。
また、東急電鉄や東急不動産が進めている地域開発型の不動産事業展開の一環として1966年(昭和41年)8月に青葉台店を開設したほか、同年9月の狭山店や南柏店などグループ戦略に伴う出店も行った[広報 3]。
東急グループが東海地方に東急鯱バスを運営していたことから、富士製鉄の依頼を受けて同社が従業員向けに建設した宮津団地内で商業施設の運営を引き受けることになり、1969年(昭和44年)4月に東海東光ストアを設立し、知多半島へ進出することになった[広報 3]。東海東光ストアは1969年(昭和44年)8月に宮津店を開設したのを皮切りに、翌年1970年(昭和45年)5月に上野台店、1974年(昭和49年)3月に粕谷台店、1980年(昭和55年)に知多店を開設するなど知多半島への出店を進めて行った[広報 3]。
1972年(昭和47年)7月15日に[1]定山渓鉄道(現・じょうてつ)66.6%、東光ストア33.3%の出資比率で株式会社定鉄商事(現:東光ストア)を設立して[6]同年10月に第1号店となる木の花店を開設したほか[7]、これとは別に1974年(昭和49年)7月1日に北海道東急ストアを設立して同年10月13日に宮の森店を開設。東急ストアの名称は本州より先に北海道で使われることとなった[広報 4][広報 5]。
→詳細は「東光ストア」を参照
このように東急グループの拠点がある地域へ出店する戦略を採っていった[広報 3]。
さらに、長崎屋と提携して同社が得意とする衣料品との相乗効果を狙い、長崎屋サンショッピングセンター内で食料品や雑貨を扱う店舗をスーパーマーケットを出店する契約を結ぶなど、他社と提携した出店戦略も展開していった[広報 3]。
こうした積極的な出店の一方で、1969年(昭和44年)1月に芦花公園店を閉鎖したのを皮切りに、1970年(昭和45年)8月に(初代)阿佐谷店、同年9月に荏原店、1971年(昭和46年)12月には(初代)本八幡店と不採算店舗の閉鎖も進めたほか、1972年(昭和47年)から1974年(昭和49年)にかけて26店舗の改装を行うなど既存店の活性化も進めて行った[広報 3]。
関連会社の設立や吸収による商品力の強化
1971年(昭和46年)8月20日に渋谷米穀店と荻窪米穀店を母体にして東光食糧販売株式会社(現・東光食糧)を設立して米穀の精製・販売に乗り出し、1973年(昭和48年)7月に当社の青果部門のテナントや直営青果部門への納入業者であったミツバ商店を傘下に入れて東光青果を設立して青果部門を直営化した[広報 3]。
同年10月には水産部門の東光水産、同年12月25日に東光デイリー食品株式会社(現・東光食品)を設立して、1974年(昭和49年)1月30日に水戸内原工場を完成させて同年8月9日から日配品の製造・販売に乗り出すなど食品の販売力強化を目指した関連会社の設立を進めた[広報 3]。
また、日本国内の紳士靴大手である日本製靴との合弁で1975年(昭和50年)7月14日にトップシューズを設立し、同年8月の荻窪店を皮切りに靴売り場を展開したほか、1976年(昭和51年)11月25日には株式会社東光ドラッグを設立するなど専門性が必要な分野の商品を扱う関連会社の設立も進めて営業力の強化を図っていった[広報 3]。
1979年(昭和54年)2月に東光青果株式会社と東光水産株式会社を吸収合併したほか、東光デイリー食品と東光ピクルスの販売部門、レストラン東急の総菜部門の譲渡を受けて食料品の主要部門を完全に直営化することになった[広報 3]。
社名変更と店舗網の見直し
東急ストアの名称は本州より先に北海道東急ストアで使われていたが、これに次いで東光ストアは1975年3月に社名を東急ストアに変更した。 食料品を中心としたスーパーマーケット店(以下、SM店)の名称を同じく「東急ストア」に改め、名実共に東急グループの一員としての看板を掲げることとなった。
東急ストアの名称は本州より先に北海道東急ストアで使われていたが、これに次いで東光ストアは1974年(昭和49年)には売上高が1000億円を突破して東急百貨店と共に東急グループの流通部門の基幹企業となり、「名実ともに東急グループとしての一員であることを明確にする」ため、1975年(昭和50年)3月1日に社名を株式会社東急ストアに変更した[広報 3]。食料品を中心としたスーパーマーケット店の名称を同じく東急ストアに改め、名実共に東急グループの一員としての看板を掲げることとなった[広報 6]。それに合わせて同年5月、定鉄商事の札幌東光ストアも札幌東急ストアへ店名変更した[8][9]。また、1975年(昭和50年)11月1日に生活情報誌『ファミリー109』を創刊している[広報 3]。
その一方でグループの開発戦略上の役割を果たした店舗などを中心に、1978年(昭和53年)12月に狭山店を閉鎖したのを皮切りに、1979年(昭和54年)3月に元石川店、同年7月に本八幡店と溝の口店(初代)、同年8月につくしが丘店、同年12月に大谷ロ店、1980年(昭和55年)1月に三軒茶屋店と上大岡店、同年9月に水戸店、同年12月に久が原店と2年強で10店舗の閉鎖を行うなど、店舗網の見直しを進めた[広報 3]。
こうした店舗閉鎖だけでなく、1979年(昭和54年)11月に伊勢原店を増築して増床し、1980年(昭和55年)2月には五反田店を都市型大型店として新装開業したほか、同年4月には厚木店で鮮魚など生鮮食料品売場の強化を図ったのを皮切りに各店で生鮮食料品売り場の強化を図り、当社の初期の大型店である調布店や鎌倉店なども大型店の大規模な改装を進めて黒字転換を目指すなど店舗網の強化を図った[広報 3]。
そうした大型店強化の一環として、東急グループが開発を進めていた多摩田園都市全域を商圏として、延べ床面積約19,270m2に9,492m2の売り場を配した大型店であるさぎ沼店(現:フレルさぎ沼店)を1978年(昭和53年)9月に開設した[広報 3]。さぎ沼店は食品や衣料品だけでなく、家具やインテリアなどの住関連商品まで幅広く取り扱うと共に専門店街も充実させ、1980年(昭和55年)度に当社で初めて年間売上高が100億円を突破する当社の主力店の一つとなった[広報 3]。
さらに、1984年(昭和59年)9月には国鉄(現在のJR) 大森駅ビルプリモの開設に伴って大森店を同ビル内に移転して71店舗のテナントを併設した大型店とし、翌年1985年(昭和60年)10月に取手駅西口駅前再開発事業によって建設された地下1階・地上8階建てのビルほぼ全館を借り入れて取手店を開設したほか、同年度には中央林間店を開設するなど大型店の出店を進めた[広報 3]。
こうした大型店は順調に売り上げを伸ばし、当社はさぎ沼店と五反田店、中央林間店、取手店と年商100億円を超える店舗を4店舗持つようになった[広報 3]。
また、この間の1982年(昭和57年)12月15日に東京証券取引所第二部に上場し[広報 1]、1987年(昭和62年)8月1日に東京証券取引所第一部へ昇格しており[広報 3]、東急グループとしては10番目の一部上場企業となった[広報 3]。
食品特化の小型店の展開
大型店の強化の一方で、食品を中心にして日用雑貨や肌着などの日用衣料品を扱う食品スーパー業態の店舗として、1988年(昭和63年)4月に成田線布佐駅前に布佐店、同年11月に阿佐ケ谷駅前に阿佐谷店と根岸駅前に根岸店を開業したほか、既存店13店舗の全面改装を実施するなど小型店の強化も並行して進められた[広報 3]。これら小規模店舗の改装においては、住関連商品や日用品の取扱の縮小と生鮮食料品の強化を図り、食品スーパーへの業態特化が図られた[広報 3]。
こうした小型店戦略の一環として、半径500mを商圏とした売場面積250から500m2の小型スーパーでドミナント戦略を強化することになり、1987年(昭和62年)8月にマインズ第1号店桂台店(売場面積445m2)を開店したのを皮切りに多店化を進め、1988年(昭和63年)5月には株式会社マインズとして独立させた[広報 3]。マインズ店舗では、生鮮食品を新設した加工センターで一括加工で店内での処理廃止して床面積の約80%を売り場とすることや、パートタイマーの比率を高めることで正社員を減らすなどで経費を抑制すると共に、午前10時から午後9時までという当時としては長時間の営業をすることで採算確保を目指した[広報 3]。
東急グループの開発に乗った出店
東急グループが中心となって開発が進められていた千葉県のあすみが丘ニュータウンの一角にある土気駅前に開設された「バーズモール」内に[10]1989年(平成元年)4月に土気店を開設したほか[広報 3]、同年6月には東急沿線に新丸子店と溝の口店(2代目)を開設した[広報 3]。
東急グループの住宅開発に合わせて筑紫野市美しが丘南に[11]1993年(平成5年)5月18日に筑紫野店を開店して九州へ進出したほか[12]、あすみが丘ニュータウン中心部に2000年(平成12年)10月6日に開業した[13]ショッビングセンター「プランニューモール」[10]の核店舗として土気あすみが丘店を開店する[13]など東急グループ開発を生かした出店戦略を展開した。
東急沿線への回帰とグループの再編
だがその後は東急沿線から遠く離れた地区での店舗網の縮小を進め、2003年(平成17年)1月31日に北見東急ストアを解散して5店全店舗を閉鎖した[14]。2007年(平成19年)3月には近隣に大型商業施設が相次いで開業した影響で赤字が続いたため筑紫野店を閉店して九州から撤退した[11]。2009年(平成21年) 10月30日には札幌東急ストアが株式会社アークスの子会社となって東急グループから離脱する[15][16]。
首都圏以外の遠隔地に限らず、2010年(平成22年)2月期に青山店など5店舗、翌年2011年(平成23年)2月期に取手店など首都圏でも沿線以外の不採算店舗の整理統合を進める一方で、東急沿線の駅前立地に小型店を出店するなど親会社の沿線等への店舗網の集約を進めている[17]。不採算店の閉鎖は、2013年(平成25年)8月に馬込店、さらに2014年(平成26年)だけでも錦糸町オリナス店(1月10日閉店[18])・金沢シーサイド店(1月20日閉店[19])・橋本店・武蔵小山店[20]・上尾店・矢口店・プレッセ日本橋店・中野店・白金台店が閉店するなど、東急沿線を含めた首都圏でも進められた。
また、1999年(平成11年)12月に八王子駅南口再開発ビルへの出店に関する覚書を締結し、建設中のサザンスカイタワー八王子の核店舗テナントとして出店を予定していたが、2008年(平成20年)4月に東急側の都合により白紙撤回(理由は不明)。結局出店は見送りとなり、同ビルには地元企業のスーパーアルプスが出店した。八王子駅南口市街地地区再開発組合は東急ストアに対し「損害賠償を請求する」としていた[21]。が、その後の展開は不明。なお、八王子駅近辺の東急グループの商業施設としては八王子東急スクエアがある(東急ストアは出店していない)。[要出典]
消費者の食の安全への関心の高まりを受け、2006年(平成18年)11月より「手紙のついた野菜と果物」という青果ブランドを立ち上げ、野菜や果物等を販売している。商品パッケージに付記されたQRコード、URLを携帯電話やパソコンから検索すると、生産者や産地等の情報が閲覧可能。内容はトレーサビリティーはもちろんの、生産者の情緒や産地の栽培環境や取組み、農産物の食べ方等が「手紙」という形式で表現されている。[要出典]
2008年(平成20年)に上場廃止し、同年7月1日付で簡易株式交換により東京急行電鉄の完全子会社となっている[広報 1]。
2011年(平成23年)5月20日に[22]総合スーパー(GMS)業態であった鷺沼駅前の「さぎ沼とうきゅう」をリニューアル、テナント店舗を大幅に導入してショッピングセンター「フレルさぎ沼」とするなど、大型店についてはショッピングセンターへの業態転換も模索している[23]。同年5月27日には自由が丘に新業態「フレル」2号店「フレル・ウィズ自由が丘」が開店した。どちらもキーテナントとして東急ストアが出店する形態になっている。
2022年(令和4年)3月1日には東急電鉄各線の駅構内売店などを運営していた東急ステーションリテールサービスを吸収合併し、同社が運営していた業態(MY SWEETSのみ東急モールズデベロップメントが継承)を東急ストアが引き継いだ[広報 7]。
2023年 LINEと東急ポイントカードを連携したサービスを開始。[要出典]
年表
- 1956年(昭和31年)
- 1957年(昭和32年)
- 1958年(昭和33年)10月 - 高円寺店で2階にセルフサービス方式を導入。以降スーパーマーケットの本格的チェーン展開を開始。
- 1966年(昭和41年)3月 - 東京急行電鉄の関連会社となる。
- 1969年(昭和44年)
- 1970年(昭和45年)6月 - 東光ストアグループのシンボルマーク(現・ファミリーマーク)制定。
- 1971年(昭和46年)8月20日 - 東光食糧販売株式会社(現・東光食糧)を設立[広報 3]。
- 1972年(昭和47年)
- 1973年(昭和48年)12月25日 - 東光デイリー食品株式会社(現・東光食品)を設立[広報 3]。
- 1974年(昭和49年)
- 1975年(昭和50年)
- 1976年(昭和51年)
- 1978年(昭和53年)9月21日 - 東急ストアとして初の総合スーパー「鷺沼とうきゅう」開店[広報 3]。
- 1979年(昭和54年)2月 - 東光青果株式会社、東光水産株式会社を吸収合併。
- 1982年(昭和57年)
- 1983年(昭和58年)11月1日 - 東光サービス株式会社を設立[広報 3]。
- 1987年(昭和62年)8月1日 - 東証1部指定替え[広報 3]。
- 1988年(昭和63年)
- 1997年(平成9年)
- 1998年(平成10年)
- 2003年(平成15年)1月31日 - 北見東急ストアを解散し、5店全店舗を閉鎖[14]。
- 2004年(平成16年)
- 2005年(平成17年)
- 2006年(平成18年)
- 2007年(平成19年)2月 - 東急百貨店運営の総合スーパー「東急バラエティストア」の営業権を取得。「市が尾東急ストア」として営業を開始。
- 2008年(平成20年)
- 2009年(平成21年)
- 2011年(平成23年)
- 2020年(令和2年)
- 2022年(令和4年)
- 3月1日 - 東急ステーションリテールサービスを合併[広報 7]。
店舗業態
要約
視点
食品スーパー


以下の4種の業態を展開している。出店エリアは首都圏の1都3県(東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県)と静岡県(東急グループの1つである伊豆急行沿線地域のみ)。各業態とも東急グループ各線を中心としたレールサイド戦略による展開(グループ内の東急百貨店同様)が中心となっており、公式サイトの店舗検索にも「地域別検索」「五十音検索」のほか、「沿線別検索」がある。なお、千葉県と埼玉県はにはかつて複数店舗存在したが、現在は1店舗づつである。
各店舗の詳細については公式サイト「店舗のご案内」を参照。
東急ストア
- 東急ストアの主力業態。食品スーパーマーケット。
とうきゅう
- ゼネラルマーチャンダイズストア(GMS)。東急ストアの総合スーパー業態の大型店舗。
- 1号店は調布とうきゅう。
プレッセ (Precce)
- 「食の専門館」を標榜する高級志向の食品スーパー[25]。
フレル (fullel)
- 東急グループリテール戦略の一環で、2011年より展開開始した店舗ブランド。
- 東京急行電鉄との連携で、既存GMS業態「とうきゅう」からの業態転換により、東急ストアを核店舗とするショッピングセンターとしたもので2店舗のみ。
- フレルさぎ沼と、ウィズ自由が丘がある。
東急ストアフードステーション
駅売店・コンビニエンスストア
2022年3月に東急ステーションリテールサービスから運営を継承し、社内に設置されたステーションリテール事業室が運営する。
トークス(toks)
→「toks」も参照
- 東急線各駅に設置されている売店。東急電鉄の主要駅などに展開。
ローソン・トークス(LAWSON+toks)
薬局・ドラッグストア
無人販売店舗
過去に存在した業態
- マインズ
- 半径500mを商圏とした売場面積250から500m2の小型スーパー。ドミナント戦略を強化するために展開された[広報 3]。
- 生鮮食品を新設した加工センターで一括加工で店内での処理廃止して床面積の約80%を売り場とすることや短時間労働者(パート)の比率を高めることで正社員を減らすなどで経費を抑制すると共に、午前10時から午後9時までという当時としては長時間の営業をすることで採算確保を目指す業態であった[広報 3]。
- 1987年(昭和62年)8月に第1号店桂台店(売場面積445m2)を開店したのを皮切りに多店化を進め、1988年(昭和63年)5月には株式会社マインズとして独立した[広報 3]。
過去に存在した店舗
要約
視点
北海道
北海道東急ストア
直営で店舗を運営していた時期もあったが、すべて当時子会社の札幌東急ストアに譲渡。 2009年(平成21年)10月30日付けで札幌東急ストアの全株式をアークスが取得して東急グループを離脱し、同年11月5日に商号を「東光ストア」へ変更した[広報 13]。
→当社として営業していない(札幌東急ストアとしてのみ営業された)店舗については東光ストア#歴史を参照
北見東急ストア
東急グループの北見バスの関連会社の北見バス興産が運営していたが、北見バスの経営再建策の一環として同社が整理された[26]。 その際に、9店舗のうち5店舗の営業は[26]、札幌東急ストア(現・東光ストア)とじょうてつ共同出資で設立された(株)北見東急ストアが継承した[27]。 しかし、業績低迷のため、2003年(平成15年)1月31日に北見東急ストアを解散し、5店全店舗が閉鎖となった[14]。
東京都
渋谷区
港区
中央区
文京区
目黒区
世田谷区
品川区
大田区
中野区
杉並区
板橋区
練馬区
墨田区
江戸川区
足立区
武蔵野市
立川市
八王子市
町田市
小金井市
青梅市
- 河辺とうきゅう(青梅市河辺町10-7-1[107]、2007年(平成19年)4月20日開店 - 2019年(平成31年)4月30日閉店[108][109][出典無効])
- 河辺駅前の再開発ビル「河辺タウンビル」A棟に出店していた[108]。駅前再開発によりビル完成時に出店。
- 店舗跡には2019年8月9日にイオンスタイル河辺[107]が出店[108][110]。河辺とうきゅうに出店していたテナントは、1階フードコートのミスタードーナツ河辺とうきゅうショップ[111]が同年1月15日[112][出典無効]、3階のパシオス河辺店が同年5月12日に閉店[113][114][出典無効]。4階のダイソー、1階食品フロアのサンジェルマン、文明堂、伊藤園はイオンスタイル河辺に引き継がれた[110]。河辺とうきゅうの撤退後、地元からの強い要望で3か月での居抜き出店となったことから[108]、店舗設備は河辺とうきゅうの什器・備品の多くを引き継ぎ[108][110]、パート従業員約40名も河辺とうきゅうからイオンスタイル河辺へ転職した[108][110]。
神奈川県
横浜市
鶴見区
緑区
港北区
港南区
金沢区
磯子区
青葉区
旭区
戸塚区
川崎市
- (初代)溝の口店(高津区溝ノ口字南耕地304[118]、1965年(昭和40年)11月20日開店[広報 3][118] - 1971年(昭和46年)12月閉店[広報 3])
- 売場面積は1,332m2[118]
綾瀬市
厚木市
藤沢市
大和市
相模原市
伊勢原市
埼玉県
- こま武蔵台店(日高市武蔵台1丁目23番9号[広報 3]、1978年(昭和53年)4月開店[149] - 2008年(平成20年)4月閉店[150])
- 売場面積は699m2[広報 14]。
- こま武蔵台ニュータウン(閉店前後の人口は約2200戸、6000人)内唯一のスーパーだったが、車で5分ほどの場所にも競合店が出店するなどして不採算となったため閉店した[150]。
千葉県
千葉市
- 土気駅前店(千葉市緑区あすみが丘1-20-4[広報 15](旧・千葉市土気町1758-18[152])、1989年(平成元年)4月25日開店[152] - 2011年(平成23年)8月31日閉店[要出典])
- あすみが丘ニュータウン中心部に2000年(平成12年)10月6日に開業した[13]ショッビングセンター「プランニューモール」[10]の核店舗として出店していた総合スーパーである[13]。売場面積12,355m2[13]。東急レクリエーション運営のボウリング場やカルチャーセンターが併設されていた。ブランニューモール内の一部店舗(ビバホームなど)は営業を継続し、1階のとうきゅう跡にはカスミフードスクエアが2011年11月に開店[要出典]。
市川市
松戸市
柏市
我孫子市
茨城県
- 水戸店(水戸市南町3丁目6番33号[158]、1971年(昭和46年)5月30日開店[158] - 1980年(昭和55年)9月15日閉店[広報 3])
- 取手店(取手市新町1丁目9番1号[広報 3]、1985年(昭和60年)10月6日開店[159] - 2010年(平成22年)8月31日閉店[160])
- 敷地面積約4,695.49m2[159]、鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階地上9階建て[159]、延べ床面積約27,567.11m2[159]、売り場面積約12,000m2[161]、駐車台数約1,000台[159]。
- 常磐線取手駅西口駅第1種市街地再開発事業で建設された取手駅西口再開発ビルの[159]ほぼ全館を使用し[広報 3]、売り場面積約12,000m2に食料品から服飾・雑貨まで幅広く扱う総合的な品ぞろえをして[161]、開業当初は年商100億円を突破していた大型店舗であった[広報 3]。
- 周辺の地域に競合する大型店舗の出店が相次いで競合が激化した上、つくばエクスプレスが開業して取手駅の利用客が減少するなど集客力が低下して収益の見通しが立たないとして閉店することになった[161]。
- 閉店に伴い専門店を含めて閉鎖されて一時期空きビルとなり、取手駅前の商業施設は駅ビルのボックスヒルだけが残る形となったが、2012年12月6日に「リボンとりで」としてリニューアルした[160]。1階が西友、2階はダイソーなど、3階はドラッグストアやファッション関連店、4階は全フロアが宮脇書店である[160]。
- かつて1980年代から1992年3月まで文化放送で放送されていた番組『とうきゅうサウンドパラダイス』は「ショッピングプラザ取手東急」名義での単独提供であり、本店内の特設会場で公開収録が行われていた[広報 25][162]。
群馬県
愛知県
福岡県
- 筑紫野店(筑紫野市美しが丘南1丁目12番1号[11][172]、1993年(平成5年)5月18日開店[12][172] - 2007年(平成19年)3月閉店[11])
- 敷地面積約28,681m2[173]、地下2階地上3階建て[174]、延べ床面積約50,200m2[172]、売場面積17,937m2[広報 14]。
- 5フロアの大型店舗で[174]、地下2階に[174]メリーゴーランドやゲームなど、ビデオシアターなどを設置した娯楽施設を併設した郊外型大型ショッピングセンターであった[11]。
- 東急グループの住宅開発の関係で出店していたが、近隣に大型商業施設が相次いで開業した影響で赤字が続いたため閉店し、九州から撤退することになった[11]。
- なお、施設自体は京都市の不動産会社に売却し[11]、2007年(平成19年)10月31日に商業施設「筑紫野ベレッサ」として再オープンし[175]、九州を基盤とする大手スーパーサンリブが核店舗として出店していたが、[要出典]2018年現在はルミエール、サンドラッグ等が出店している[広報 26]。
ロゴマーク
1970年6月、現行の赤いシンボルマーク「ファミリーマーク」と店舗ロゴを制定[広報 27]。デザインはグラフィックデザイナーの鳥越修治(東京都世田谷区代沢在住)[広報 28]。
なお、鳥越は東急グループ関連のロゴデザインを多数手がけており、東急ストア系列の花屋「とうきゅうフローラ」、前述の「マインズ」店舗ロゴデザイン、東急ストアも加盟する八社会のプライベートブランド「Vマーク バリュープラス」のロゴデザインや商品パッケージデザイン、渋谷のファッションビル「109 (商業施設)」のネーミングとロゴデザイン、東急文化会館のレストラン街「特選食堂街」、東急レストラン各店のロゴデザインなども担当している[広報 29]。
関連会社
- 東光食品 - 食品の製造ならびに仕入販売(2012年3月に旧「東光食糧」と旧「東光食品」が合併。旧「東光食糧」を存続会社として、社名を「東光食品」に変更した。)
- 東光フローラ - 生花・観葉植物等の仕入、販売、花の専門店「とうきゅうフローラ」、「FLEUR KAREN」の経営
- 東光サービス - 警備、人材派遣業
過去の関連会社
- 東光ストア - 定鉄商事として設立されて札幌東光ストア(後の札幌東急ストア)を運営していたが[広報 3]、2009年(平成21年) 10月30日には札幌東急ストアが株式会社アークスの子会社となって東急グループから離脱した[15]。
- 北海道東急ストア - 北海道下で店舗展開を行っていたが、1984年(昭和59年)6月に当社へ店舗譲渡[広報 3]。1997年4月に、定鉄商事へ移管された。それまでは札幌圏で2社が併存する形で営業していた[176]。
- 北見東急ストア - 北見市内で店舗展開を行っていた[26]。
- 東海東光ストア - 愛知県下で店舗展開を行っていた[広報 3]。
- 協同技術センター - 設備管理[広報 3]、リサイクル事業を行っていたが、2011年に東急ファシリティサービスの関連会社に変更された。
脚注
関連項目
外部リンク
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