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閉店した百貨店 ウィキペディアから
株式会社橘百貨店(たちばなひゃっかてん)は、宮崎県宮崎市に本社を置き、かつて百貨店を運営していた企業である。店名・会社名は本社・本店のある宮崎市内の橘通りに由来する[1]。
宮崎県内で「橘百貨店」、宮崎市において「ボンベルタ橘」を運営していた。「ボンベルタ」は、かつて属していたイオングループが展開していた百貨店の店舗ブランドである[注 1]。現在はドン・キホーテに買収され、パン・パシフィック・インターナショナル・ホールディングス(PPIH)グループに属する。
日本ショッピングセンター協会に加盟し、日本百貨店協会には加盟していないが1975年に倒産した旧法人時代は加盟していたと思われる[2]。宮崎県内では、後述する宮崎山形屋のみが日本百貨店協会に加盟。ボンベルタ橘の東館7階には、かつて宮崎交通が本社を置いていた[3]。
橘百貨店をはじめとする橘グループは、有力な地元資本の共同により設立され、のちに後藤家による同族経営、とりわけ後藤良則初代社長のワンマン経営となった[4]、百貨店を核とする企業である。1952年に会社を設立し、同年10月21日に橘百貨店本店が開店した。
本店の建物は、当初は橘通りに面する地上4階建てであったが、1956年10月に地上5階建て・地下1階建て、1961年は地上6階建て・塔屋1階にそれぞれ増築し、増築部分の地下に食料品売場も設置された。さらに1967年には裏通りを隔てた場所にも店舗が建設され、既存館と連結された[5][6]。
橘百貨店グループは、全盛期には映画館「橘会館」、スーパーマーケット「橘ストアー」(後述)、ホテル、各種レジャー施設などを経営し、当時の宮崎県において宮崎交通、宮崎銀行と並ぶ宮崎三大資本に数えられた[7]。宮崎市民には、夜9時に流される「家路(新世界より)」のサイレンによって親しまれていた。
宮崎資本の百貨店であったものの主力銀行は福岡相互銀行(西日本シティ銀行の前身)・安田信託銀行(みずほ信託銀行の前身)・三井信託銀行(中央三井信託銀行を経て三井住友信託銀行)の3行であり、橘百貨店の建設を提唱した宮崎銀行は経営方針の相違などを理由に1964年頃に主力銀行から離脱し[8]、1973年には完全に手を引いていた[9]。
しかし1975年の橘百貨店(初代法人)の倒産により、グループの力は急速に衰退した。橘百貨店グループが宮崎市中心部に所有していた不動産は、橘会館が宮崎放送(建て替えを経て1984年に「MRTセンター」として移転、MRT miccなど)、ホテルが宮崎セントラル会館(2005年にイオンモール宮崎に「宮崎セントラルシネマ」として移転。現・セントラルシネマ宮崎)など、様々な企業に受け継がれた。
宮崎市には1972年以降、イズミヤ(1972年10月開店・2020年2月閉店、レマンショッピングセンター)、寿屋(1973年開店、2002年の一時閉鎖を経て現・カリーノ宮崎)、ユニード(1974年4月開店・アピロスに改称後に閉店[注 2]、現・アゲインビル)、ダイエーの宮崎ショッパーズプラザ(宮交シティの核テナント。1973年開店、現・イオン南宮崎店)と県外資本の大型店が相次いで開業し、全国的にも有数の商業激戦区となった。
そのため、橘百貨店は1973年10月10日に都城市の都城駅前に新規出店して拡大路線へ舵を切った[11]。しかし当時の都城市は「全国一の大型店激戦地区」であり[12]、NHKに取り上げられた程のオーバーストア状態だった。
さらに、都城駅前の土地区画整理事業も完成前であった[注 3]ため人通りはまばらでありかつ十分な駐車場を確保しなかったこと、そして、都城大丸、ナカムラデパート、寿屋都城店、ダイエー都城店との店舗規模拡大を伴う過度な競争に敗れ、年間売り上げ35億円を目標としていた売り上げは14億8300万円(1974年度、1974年2月 - 1975年1月)にとどまり、わずか1年4か月後の1975年2月28日には撤退へと追い込まれた[14]。橘百貨店都城店の土地と建物は1975年5月29日に旭化成サービス(本社:延岡市、本店はイオン延岡ショッピングセンターの前身)が12億1800万円で買収し[15]、1975年10月17日に「旭化成サービス都城店」として開店。都城市ではその後約20年間にわたりこの5店舗が競い合う状況が続いた。
主戦場となる宮崎市でも、橘通りにある百貨店の宮崎山形屋が同時期に高級路線へと転換し増収に成功した[注 4][16]のとは対照的に、橘百貨店のフロアや接客態度は旧態依然としたままで売り上げは低迷し[注 5]、ある大手スーパー幹部からは進出計画策定時に橘百貨店を「"敵"に勘定しなかった」と言われる状況であった[17]。
拡大路線後の1973年には第1次オイルショックが発生して景気が後退した。翌1974年9月には従業員の給与の一部を商品券としたことに対し、労働基準法違反として労働基準監督署から厳重勧告を受け、社会的信用も失いつつあった[18]。倒産直前に大手資本のニチイ(2011年イオンリテールへ吸収合併)と全面提携に踏み切った[注 6]ものの、遅きに失した状態であった[20]。
そして1975年に手形詐欺に遭ったことがとどめを刺し、橘百貨店は倒産した[20]。この事件は資金繰りに窮した橘百貨店に、全国的に暗躍していた手形パクリ屋の一味が元代議士の手引きにより食い込み、1975年4月15日から同月24日までの間、橘百貨店から手形割引斡旋と称して、橘百貨店引き受け為替手形47通(額面3億3500万円)などを詐取したものである[21]。それ以外にも同年12月末までに、被害総額7億9604万円を超える詐欺・横領・恐喝などの事件が「橘百貨店被害手形詐欺事件等捜査本部」により検挙された[21]。この事件の犯行地域は12都府県、被疑者は17人、うち9人が逮捕に及ぶ大規模なもので、宮崎県内でも県民に親しまれた地元資本百貨店の倒産を招いたことで大きな反響を呼んだ[21]。
橘百貨店は1976年にジャスコ(現在のイオン株式会社)が支援に乗り出し、橘ジャスコ株式会社を設立。橘百貨店本店は1977年1月にいったん閉店し、同年4月27日に量販店業態の「橘ジャスコ」として再オープンした[22]。
1982年には会社更生計画を終結し、橘ジャスコ株式会社と合併した。存続会社は橘ジャスコであるが、商号は(2代目)株式会社橘百貨店とした。
1988年5月25日には本店を全面的に改築した(建て替えた)上で、イオングループの百貨店「ボンベルタ橘」としてオープンした[23]。若者と中年以下の年齢層を主なターゲットとした品揃えで競合の宮崎山形屋と棲み分けを図ったが、そのため2005年のイオンモール宮崎開業による打撃は宮崎山形屋より大きかった。
1996年4月24日には、宮崎県延岡市に開業した延岡ニューシティショッピングセンター(旧・旭ジャスコ、現・イオン延岡ショッピングセンター)の準核店舗として「ボンベルタ延岡ニューシティー」を出店したが、わずか2年後の1998年8月20日に閉店している。
2006年の宮崎山形屋の新館オープンを前に、ボンベルタ橘では顧客層とするキャリアウーマン向けのブランドをさらに充実させるリニューアルを行い、宮崎山形屋やイオンとの差別化を図ったが苦戦し、その後は事実上、百貨店から専門店ビルへ業態転換した。またイオングループの中でも、百貨店という業態が今後も存続するのか非常に不透明な状況であった。
イオングループはイオンモール宮崎出店時に「ボンベルタ橘は存続させる」としていたが[24]、結局2007年9月28日にイオンは百貨店事業を縮小することを決定[25][26]。2007年11月1日付でクアトロエクゼキューションズ(本社:東京都中央区)がイオンの所有する全株式(600万株のうち99.97%)を取得したことにより、イオングループから離脱した[25][27]。
しかし、橘百貨店を地元回帰させようという動きが起こり、宮崎出身の生え抜きの会社役員がMBOを目的として県内財界に出資の呼びかけを行った結果、宮崎の有力企業である米良電機産業と坂下組が出資し、株式会社橘ホールディングスが設立された。そして橘ホールディングスは2008年7月9日にクアトロエクゼキューションズの所有する全株式を取得し、橘百貨店は橘ホールディングスの完全子会社となった[28]。
その後は「県民百貨店」としてのリニューアル計画を進めていたが、リーマンショックによる不況や、宮崎県で猛威をふるい県内経済に大きな打撃を与えた口蹄疫の発生により、その時期がずれ込んでいた。
ようやくこれらの影響に目処が立ち、2011年春に5年ぶりとなるリニューアルが実施された。このリニューアルでは、100円ショップ大創産業の新業態「ダイソージャパン」、東急ハンズ(現・ハンズ)「トラックマーケット」[注 7]が出店するなど、従来の百貨店業態に拘らない大胆な売場作りを行い注目を集めた。このリニューアルが宮崎市中心市街地全体の集客にも波及効果を及ぼしたため、同社の役割には期待が大きく、全国的に不振が続く地方百貨店の中でも健闘している部類に入るとみられていた。
2011年1月に県内資本であった都城大丸が経営破綻したことにより、橘百貨店は宮崎県内で唯一の地元資本の百貨店となった。その後は橘ホールディングスが2013年2月、ボンベルタ橘に隣接するエアラインホテルを買収し子会社化するなど[29]、経営を多角化していた。
2015年7月からは、都城市に本社を置く地元スーパーマーケットのハーティながやまが地下食品売場に出店したが、わずか2年半後の2018年2月20日をもって閉店した[30]。これにより地下の大部分が閉鎖状態と化すなど、集客力の高い専門店の撤退が相次いだこともあり業績が悪化した[29]。
2019年5月、橘ホールディングスは橘百貨店の営業時間を24時間に拡大することを明らかにし、宮崎県に対し大規模小売店舗立地法に基づく届出を行った。住民への説明や大規模小売店舗立地審議会の審査を経た上で、2020年1月14日からの実施を目指すとの届出であったが、橘ホールディングスは「今(2019年12月)の時点で24時間営業のテナントが決まっているわけではない」とコメントしていた[31][32]。
2020年2月3日、PPIH傘下のドン・キホーテが橘ホールディングスを同年2月1日付で買収し、グループ会社化したと発表した[33][34][35]。これに伴い同日付で経営陣は退任すると共に、県内地元資本による百貨店は消滅した[36]。
同年4月中旬以降はボンベルタ橘の営業を続けながら改修を行い、11月中旬頃にディスカウントストアのドン・キホーテを核店舗とする複合商業ビルとしてリニューアルオープンする予定と公表された[35][37][38]。宮崎日日新聞など一部の報道機関では「同年3月末でボンベルタ橘を閉店する」と報じられていたが[36]、その報道について当初PPIHと橘百貨店は否定していた[35]。しかし「ボンベルタ」はイオン株式会社が管理する商標であるため、ドン・キホーテの買収により店舗名変更は避けられない状況となった[29]。
その後、5月末には地下1階~地上3階部分は直営売場と大塚家具などの商業テナントが退去して閉鎖され、その他の階においても一部残る売場が順次退去が進んだため、百貨店としてのボンベルタ橘は閉店するとみられていた。さらに7月末には地元マスコミにより屋上看板の撤去と店舗名変更が報じられた。翌8月には一部営業していた百貨店の売場が閉鎖し屋上看板が撤去され、結果的にボンベルタ橘は閉店した。
同年8月には、ショッピングセンターの新名称が「宮崎ナナイロ」に決定し[39]、11月中旬に「MEGAドン・キホーテ宮崎橘通店」を核店舗としてリニューアルオープンすることが発表された[29][40]。ドン・キホーテの複合商業施設ブランド「ナナイロ」としては九州初出店、ドン・キホーテは宮崎県内で4店目となる[29]。隣接するエアラインホテルもパン・パシフィック・インターナショナルホールディングスに買収されてグループ企業となる。
ドン・キホーテは、2005年に地元ディスカウントストアのビッグバンが倒産するに当たり、商品の全在庫を買い取り、同店で売り尽くしセールを行ったことがある。それから4年後の2009年、宮崎市神宮東の国道10号線沿いにドン・キホーテ宮崎店を出店し、宮崎県に進出した。
橘ストアーはかつて宮崎県内でスーパーマーケット、コンビニエンスストア、ディスカウントストアを展開していた企業。
スーパーマーケット「橘ストアー」、コンビニエンスストア「ハピーマート[注 9][注 10] 」、ディスカウント・フードストア「サンスポット」を展開していた[注 11][59]。
ハピーマートはすべて直営だが店長はおらず、本部の統括が1日1回全店を回って管理していた。荒利は約24%で、競合の緩やかな地域に出店していた[59]。
サンスポットもすべて直営店で、売り場面積は平均約230㎡、生鮮食品を強化しており夜間10時まで営業していた。夜間勤務のパートを除けば店長以下全員が女性であった。荒利は約14%で、競合の激しい地域に出店していた[59]。
地名は当時のもので、下記店舗以外にも存在していた。
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