前橋市
群馬県庁所在地 ウィキペディアから
群馬県庁所在地 ウィキペディアから
前橋市(まえばしし)は、群馬県の中南部に位置する市。群馬県の県庁所在地であり、中核市に指定されている。県内では高崎市に次ぐ第2位の人口を抱える。またこの市を中心とする前橋都市圏は隣接する高崎市を包括しており、北関東1位の人口規模を誇る。
まえばしし 前橋市 | |||||
---|---|---|---|---|---|
| |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 関東地方 | ||||
都道府県 | 群馬県 | ||||
市町村コード | 10201-6 | ||||
法人番号 | 9000020102016 | ||||
面積 |
311.59km2 | ||||
総人口 |
326,473人 [編集] (推計人口、2024年8月1日) | ||||
人口密度 | 1,048人/km2 | ||||
隣接自治体 | 高崎市、桐生市、伊勢崎市、渋川市、沼田市、北群馬郡吉岡町、榛東村、佐波郡玉村町 | ||||
市の木 | ケヤキ、イチョウ | ||||
市の花 | バラ、ツツジ | ||||
キャッチフレーズ | 水と緑と詩のまち | ||||
前橋市役所 | |||||
市長 | 小川晶 | ||||
所在地 |
〒371-8601 群馬県前橋市大手町二丁目12番1号 北緯36度23分22秒 東経139度03分48秒 前橋市役所 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
特記事項 | |||||
ウィキプロジェクト |
1889年に東群馬郡前橋町として町制施行。1892年市制。2001年に特例市、2009年に中核市へ指定される。周辺町村の編入により、旧勢多郡(旧東群馬郡及び旧南勢多郡)・旧群馬郡(旧西群馬郡)・佐波郡(旧那波郡)の区域にまたがっている。
戦国時代には厩橋という地名であり、江戸時代に前橋に改められた。
江戸時代には前橋城を藩庁とした前橋藩の城下町となったが、前橋城が廃城となり川越藩(埼玉県川越市)の飛び地となった時期もあった。
明治時代には製糸業で栄えた都市の一つとなった。第二次世界大戦後は工場誘致を積極的に行い、同時に区画整理を推進した。群馬県の県庁所在地である一方、県内の交通・商業の中心は一部新幹線も停車する高崎駅を擁する高崎市が担っており、前橋市は行政都市である。隣接する高崎市との双子都市であり、高崎市を包括する前橋都市圏は都市圏としては北関東最大の規模である。
2001年4月1日に特例市に指定、2009年4月1日に中核市へ移行した。行政の中心地域は旧東群馬郡前橋町を中心とする地域である。
ニュースなどでは「まえばし」の「え」の部分のみが高いアクセントで読まれるが、地元では平板型アクセントで発音するのが普通である。「前橋市」と読むときの「まえばし」である。NHKでは2016年にアクセント辞典を改訂した際、「まえ\ばし」を第1アクセントとしつつ、平板型の発音も「地元放送局アクセント」として許容している[1]。
市章は1909年の制定で、旧前橋藩主・越前松平氏の馬印「輪貫」(わぬき)から採用された[2]。外円と内円の半径比は1対0.73に規定されている[2]。
市歌は1982年11月1日制定の「赤城嶺に」(作詞・和田利男、作曲・川崎祥悦)。日本の自治体歌としては珍しい交声曲(カンタータ)で、通常は後半3分の1に当たる部分の短縮版が演奏されるが完全版は約30分に及ぶ長大な楽曲である。
『前橋風土記』『直泰夜話』が前橋の古名を厩橋と伝える通り、前橋という地名が生まれる前、戦国時代の地名は厩橋であった。
「厩橋」の確実な文献上の初出は大永7年(1527年)[注 1]の「長尾顕景書状」に現れる「厩橋宮内大輔」という人名である[3]。
「前橋」の表記が初めて現れるのは天正17年(1589年)の「北条家人数付」(『群馬県史・資料編7』『新編高崎市史・資料編4』所収)であり、これ以降「厩橋」と「前橋」が混在して使われている[4]。
『直泰夜話』には酒井忠挙の時代に公儀に届出をして「厩橋」から「前橋」に改めたとあるが、史料上はそれより前の酒井忠清時代の慶安2年(1649年)以降は一貫して「前橋」表記となる[5]。
「厩橋」の読みは通説では「まやは(ば)し」とされてきた[注 2]。
その根拠は、前述の「長尾顕景書状」と一連のものである「徳雲軒性福条書写」において「まやはし殿」が現れる[6]他、長楽寺の僧義哲による『永禄日記』(永禄8年(1565年))では「マヤ橋」、酒井忠世による元和年間の文書にも「まやはし」とあるためである。このため、「厩橋=うまやはし」から「まやはし」に音が転化し、それに対し「前橋」と書かれるようになった、と説明されてきた[3]。
他方で、「厩橋」を「まへはし」と読む史料も存在し、1510~1560年と推定される和歌山県熊野那智大社実報院『諸国旦那之大帳』で、「まへはし殿」が現れる。また天文21年(1552年)に日叙(身延山久遠寺15世)が満善寺(伊勢崎市)で書いた「仁王経科註見聞私」の奥書に「厩橋」に「マヘハシ」との振り仮名がある[7]。
「前橋」表記が生まれる前から併存していた「まやはし」と「まへはし」の読みであるが、地名表記が「前橋」に統一された後も両者は併存し続け、万延元年(1860年)の各国武鑑においても「まやはし」との記述が見られる[8]。
『直泰夜話』に、「平岩殿など在城のころは、利根川細くて、厩廓より利根川に橋を架けて、古市村の方へ往来有りし故、厩橋と申し候。」とあるが、上述の通り厩橋は平岩氏入城以前からある地名である[3]。
尾崎喜左雄『前橋小史』などに引かれる説で、古代東山道の駅のうち、群馬(くるま)の駅は上野国府(元総社町)付近と想定されるところ、その駅の近くにあった橋に由来して厩橋という地名が付けられたとする[3]。
しかしながら、上述のように厩橋の地名の初出は戦国時代であり、それ以前は『吾妻鏡』『東路の津登』といった近辺の地名(大胡、青柳など)の現れる文献中にも見られない。したがって、厩橋を古代の駅に由来する地名とみるには、史料が不足している[9]。
平成の合併により、面積は2倍ほどになった。 そのため、現市域は関東平野の北西端、赤城山の南麓から平野にかけて位置する。全国の都道府県庁所在地では海から最も遠い。 市内には利根川、広瀬川などの利根川水系が流れる。 広瀬・桃ノ木川以北は赤城山麓(丘陵、扇状地、緩やかな平地)が広がる。広瀬・桃ノ木川以西南は広瀬低地面帯、利根・端気川以西は前橋台地である。
中心の鉄道交通は両毛線で、特に前橋駅と駒形駅があるが、群馬県の主要幹線(北陸新幹線・上越新幹線および高崎線)から外れている。よって、主要の停車駅の高崎駅へ行くには、新前橋駅を経由しなければならない。 上毛電鉄も存在するが、始発点ともに他の幹線に接続していないため利用者は少なく、主要であるとは言えない。
また、海岸より100km以上離れた内陸に位置するにもかかわらず、現市域の中南部以南は海抜が100m前後と低い[10]。また、市の北部には海抜1,000m以上の地点も存在し、旧富士見村の赤城山(特に黒檜山)南面は1,800m以上の地点がある一方、下阿内町の利根川河川敷では海抜60m強である[10]。よって、市内で標高差が1,700m以上もある。 なお、最高地点は約1,826mで、黒檜山(1,828m)山頂より僅かに南にずれた地点である。
太平洋側気候と内陸性気候を併せ持つ。冬の群馬県は新潟県・長野県から北西の季節風が吹き、県境の山岳部に甚大な積雪をもたらす。が、県中部の前橋市域に達するころには乾燥している。この季節風は「からっ風」や、赤城山を吹き下ろすため「赤城颪」と呼ばれる。この影響で冬は晴天の日が多いが、数年に一度30cmを超える激しい大雪に見舞われることもあり、平成26年豪雪で前橋観測所は観測所の史上最高となる最深積雪73cmを記録した。
群馬県の平野部にある前橋市、伊勢崎市から埼玉県熊谷市にかけての高崎線沿線沿いの上武地域は冬の最低気温が比較的高く、南関東内陸部の地点(東京都府中市、八王子市、神奈川県海老名市、千葉県佐倉市など)よりも高いことが多い。
夏は内陸部に位置するため地表が温まりやすく、埼玉県熊谷市などと並び暑さが烈しい。2001年(平成13年)7月24日には最高気温40.0°Cを観測。気象官署[注 3] で40°C以上の最高気温を観測したのは、1978年(昭和53年)8月3日に山形県酒田市で最高気温40.1°Cを観測して以来23年振りであり、平成初の記録であった。更に、この高温多湿などにより、雷が多い特徴がある。
前橋市昭和町(前橋地方気象台、標高112m)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 22.0 (71.6) |
24.6 (76.3) |
27.1 (80.8) |
32.4 (90.3) |
36.5 (97.7) |
39.5 (103.1) |
40.0 (104) |
39.8 (103.6) |
38.1 (100.6) |
33.0 (91.4) |
27.3 (81.1) |
25.2 (77.4) |
40.0 (104) |
平均最高気温 °C (°F) | 9.1 (48.4) |
10.0 (50) |
13.5 (56.3) |
19.3 (66.7) |
24.2 (75.6) |
26.8 (80.2) |
30.5 (86.9) |
31.7 (89.1) |
27.3 (81.1) |
21.7 (71.1) |
16.4 (61.5) |
11.5 (52.7) |
20.2 (68.4) |
日平均気温 °C (°F) | 3.7 (38.7) |
4.5 (40.1) |
7.9 (46.2) |
13.4 (56.1) |
18.6 (65.5) |
22.1 (71.8) |
25.8 (78.4) |
26.8 (80.2) |
22.9 (73.2) |
17.1 (62.8) |
11.2 (52.2) |
6.1 (43) |
15.0 (59) |
平均最低気温 °C (°F) | −0.5 (31.1) |
0.0 (32) |
3.1 (37.6) |
8.2 (46.8) |
13.6 (56.5) |
18.0 (64.4) |
22.0 (71.6) |
23.0 (73.4) |
19.3 (66.7) |
13.2 (55.8) |
6.9 (44.4) |
1.9 (35.4) |
10.7 (51.3) |
最低気温記録 °C (°F) | −11.8 (10.8) |
−9.0 (15.8) |
−7.8 (18) |
−3.1 (26.4) |
0.3 (32.5) |
6.0 (42.8) |
11.9 (53.4) |
13.6 (56.5) |
8.4 (47.1) |
0.6 (33.1) |
−3.5 (25.7) |
−7.4 (18.7) |
−11.8 (10.8) |
降水量 mm (inch) | 29.7 (1.169) |
26.5 (1.043) |
58.3 (2.295) |
74.8 (2.945) |
99.4 (3.913) |
147.8 (5.819) |
202.1 (7.957) |
195.6 (7.701) |
204.3 (8.043) |
142.2 (5.598) |
43.0 (1.693) |
23.8 (0.937) |
1,247.4 (49.11) |
降雪量 cm (inch) | 8 (3.1) |
9 (3.5) |
2 (0.8) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
1 (0.4) |
19 (7.5) |
平均降水日数 (≥0.5 mm) | 3.5 | 4.4 | 8.3 | 9.0 | 10.6 | 14.5 | 16.6 | 14.0 | 13.4 | 9.9 | 6.1 | 3.8 | 114.2 |
平均降雪日数 | 7.6 | 7.9 | 5.6 | 0.5 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.2 | 4.2 | 26.1 |
% 湿度 | 54 | 52 | 52 | 55 | 60 | 70 | 73 | 72 | 72 | 68 | 62 | 57 | 62 |
平均月間日照時間 | 213.1 | 201.2 | 211.0 | 205.2 | 197.4 | 138.5 | 146.3 | 167.7 | 134.9 | 155.6 | 181.0 | 202.0 | 2,153.7 |
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1896年-現在)[11][12] |
旧石器時代
縄文時代
弥生時代
古墳時代
飛鳥時代
奈良時代
平安時代
鎌倉時代
南北朝時代
室町時代
江戸時代
明治時代
大正時代~昭和戦前
戦後
本庁管内9つの地区に細分化され、概ね各小学校区域に沿っている。
(2020年(令和2年)12月31日時点)
前橋市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 前橋市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 前橋市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
前橋市(に相当する地域)の人口の推移
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より |
代 | 氏名 | 在職期間 |
---|---|---|
初代 | 下村善太郎 | 1892年(明治25年)5月19日 - 1893年(明治26年)6月2日 |
2 | 弥城友次郎 | 1893年(明治26年)7月23日 - 1898年(明治31年)9月22日 |
3 | 笹治元 | 1898年(明治31年)11月11日 - 1902年(明治35年)5月9日 |
4 | 稲葉秀作 | 1902年(明治35年)6月13日 - 1910年(明治43年)1月14日 |
5 | 江原桂三郎 (初代) | 1910年(明治43年)2月28日 - 1911年(明治44年)9月20日 |
6 | 今鉄平 | 1911年(明治44年)10月23日 - 1913年(大正2年)6月14日 |
7 | 木村二郎 | 1913年(大正2年)8月30日 - 1925年(大正14年)8月30日 |
8 | 竹内勝蔵 | 1925年(大正14年)9月16日 - 1931年(昭和6年)10月6日 |
9 | 田中稲一 | 1931年(昭和6年)11月7日 - 1933年(昭和8年)12月9日 |
10 | 江原桂三郎 (2代) | 1933年(昭和8年)12月24日 - 1941年(昭和16年)12月23日 |
11 | 堀康雄 | 1942年(昭和17年)2月23日 - 1946年(昭和21年)11月13日 |
12 | 関口志行 | 1947年(昭和22年)4月5日 - 1958年(昭和33年)5月31日 |
13 | 石井繁丸 | 1958年(昭和33年)7月12日 - 1978年(昭和53年)7月11日 |
14 | 藤井精一 | 1978年(昭和53年)7月12日 - 1988年(昭和63年)1月11日 |
15 | 藤嶋清多 | 1988年(昭和63年)2月28日 - 1996年(平成8年)2月27日 |
16 | 萩原弥惣治 | 1996年(平成8年)2月28日 - 2004年(平成16年)2月27日 |
17 | 高木政夫 | 2004年(平成16年)2月28日 - 2012年(平成24年)2月27日 |
18 | 山本龍 | 2012年(平成24年)2月28日 - 2024年(令和6年)2月27日 |
19 | 小川晶 | 2024年(令和6年)2月28日就任 |
現市長は小川晶(おがわ あきら)。前群馬県議会議員で、2024年(令和6年)2月4日に行われた市長選挙により選出され、2024年(令和6年)2月28日就任。前任は、山本龍(やまもと りゅう)で、3期・12年間、前橋市長を務めた。4期目を目指し2024年の市長選挙に出馬したが、小川に敗れた。
2004年(平成16年)2月15日の市長選挙(有権者数225,986人、投票率48.83%)の結果は次の通りである。
2008年(平成20年)2月17日の市長選挙(投票率52.40%)の結果は次の通りである。
2012年(平成24年)2月19日の市長選挙(投票率49.06%)の結果は次の通りである。
2016年 (平成28年) 2月14日の市長選挙 (投票率30.97%) の結果は次の通りである。
2020年 (令和2年) 2月9日の市長選挙 (投票率43.16%) の結果は次の通りである。
2024年 (令和6年) 2月4日の市長選挙 (投票率39.39%) の結果は次の通りである。
この地域の合併協議は最終的な決着まで紆余曲折があった。
政府の合併推進施策を受け、以前から結びつきの強かった前橋広域圏(前橋市・大胡町・宮城村・粕川村・富士見村)の首長は、2001年(平成13年)夏に新潟県を視察中、同県弥彦村で会合(いわゆる「弥彦会談」)を行った。この席で、「合併特例法期限内に熟度の高まった所から順次合併」という方針が決められ、関係市町村は合併検討に動き出した。
弥彦会談では、実質的には4町村が「前橋市に編入」で大筋合意となっていた。しかし、富士見村と粕川村は諸事情により、議会から待ったがかかる形となり、2002年(平成14年)に任意合併協議会が開催された時、参加したのは前橋市・大胡町・宮城村であった。4か月後、議会の了承を取り付けた粕川村も任意合併協に加わる。
富士見村は当時の関口村長が自立を表明。しかし市から移住してきた新しい住民などは反発し村長はリコールで失職する。リコールによって「前橋市との合併」という意思が示されたものの、その後就任した星野村長は当初「中立」というスタンスをとった。そして住民投票を行ったところ結果は合併賛成が63%となり、前橋市との1市1村で法定合併協議会を設置する。
この間にも、前橋・大胡・宮城・粕川の合併協議会は順調に進み、2003年(平成15年)秋に合併調印。そして2004年(平成16年)12月5日に合併。前橋・富士見の合併協議も2004年(平成16年)夏に「2005年(平成17年)5月1日合併」で一度は決着し、調印となった。
しかし、その後富士見村議会が合併に反対。2度出された合併議案を共に否決し、星野村長は「自立」表明することになる。合併協議会は解散、合併調印も取り消された。
前橋広域圏は、合併に伴って富士見村1村のみが孤立して残存し、自動的に広域圏行政が消滅することとなった。富士見村は消防など一部行政を前橋市へ事務委託しなくてはならず、合併解消に際しては県の仲裁で何とかこれを取りつけた。
調印を反故にされた形の前橋市側は実質的な報復措置として、富士見村民の前橋市営斎場利用料や市立工科大学入学料をはじめとする優遇措置を廃止、前橋市に通勤・通学する村民以外の市立図書館の利用を禁止した。 これにより、村民は以前よりも不便を強いられることになった。また、広域中学総体や市大会での参加が黙殺され、たとえ優勝などの好成績を得ても表彰されない、という差別があった。さらに、市側は村民が市立前橋高校への入試が不利になる圧力や風潮が見られた。
このような過度に圧力をかけた理由は、2004年の合併における市側の利益や財産が、予想より少なかったという、焦りがみられたためでもある。時間がたつにつれ富士見村の村内社会の分裂が進み、合併を強制的に受け入れざるを得ない一般村民が増えた。
結果、2007年(平成19年)の富士見村長選では合併推進派が村長に当選。さらに村議会議員選でも、合併推進派の勢力が拡大した事に伴い、2008年(平成20年)1月15日に3度目の正直となる合併協議会が設置され、2009年(平成21年)5月5日に富士見村は前橋市に合併された。
日本国外の3都市、日本国内の1都市と交流関係を結んでいる。前橋市ではいずれも「友好都市」名義である[33]。
固有名詞の表記は前橋市のウェブサイトに従った。
市内各所に合計十七ヶ所の工業団地を造成している(カッコ内は主な進出企業)。
この他、粕川町中之沢に近自然工法を取り入れたサンデンの赤城事業所(サンデンフォレスト)、元総社町に理研鍛造、岩神町に富士機械がある。市内を代表する大工場として、JR前橋駅南東にダイハツ車体本社・工場があったが、2004年(平成16年)11月をもって大分県中津市に移転した(現在のダイハツ九州)。「サッポロ一番」のサンヨー食品は前橋で創業し、現在は朝倉町に本社工場を構える。登記上の本社は東京都港区に置かれている。
2012年(平成24年)12月時点で分譲を行っている工業団地は以下の通り(市工業課)。
前橋市の2007年(平成19年)農業産出額は310億円で、市町村別で全国16位、群馬県内の農業産出額に占める割合も13.8%に達する。ちなみに「平成の大合併」前の2003年(平成15年)農業産出額でも県内一位で、168億6千万円であった。
特徴的なのは、畜産業の産出額210億円(全国6位)、乳用牛の産出額55億円(全国17位)、豚の産出額69億円(全国9位)と畜産関連の生産額が突出していることであり(いずれも農林水産省平成19年農業産出額データより)、これは前橋の農業産出額を全国トップレベルに押し上げている要因でもある。いずれの数値も群馬県内全体の産出額の20%前後のシェアを占めている。近年では「TONTONのまちまえばし」として、官民挙げてPR活動を行っている。
畜産以外でも大正時代から市内の耕地整理を進めており、1980年代までに市内の大部分で耕地整理が行われ、整然と区画された耕地が郊外に広がっている。
このほかにみずほ証券が前橋プラネットブースを、大和証券グループ本社が前橋営業所を開設している。
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
中心市街地は商業の衰退が著しく、再活性化が目下の最重要課題とされている。反面商業施設は、後述の要因により市街地外周や郊外に多く立地している。
以前の前橋では、千代田町2丁目-5丁目に位置する中心商店街が商業の中心であった。1990年代ごろになると、前橋駅前に出店したイトーヨーカドーやサティなどの大型店舗や、郊外の駐車場完備・ロードサイド展開の専門店などに利用客が流れるようになった。加えてライフスタイルの変化や自動車保有率全国1位という車社会、市の中心駅である前橋駅と離れた商店街の立地、駐車場の不足、市内中心部の人口減少などの要因のほか、旧日本銀行前橋支店跡地の八番街開発の停滞や商店の後継問題なども絡んで商店街の衰退が進み、全国有数の「シャッター商店街」としてマスコミに取り上げられることも多くなった。1972年(昭和47年)に6万人近くあった平日の商店街歩行者通行量は、1992年(平成4年)には4万人弱、2004年(平成16年)には1万人程度となった[45]。2020年(令和2年)は8千人程度であり1972年のおよそ1/7にまで激減している。
2000年代以降も中心商店街の外周や郊外にはショッピングセンターが相次いで出店した。2007年(平成19年)3月には前橋駅南東の文京町に大型ショッピングモール「けやきウォーク前橋」が、2009年(平成21年)4月には小屋原町の駒形バイパス沿いに「ガーデン前橋」がオープンした。また中心商店街から東に2.5kmの上泉町にはスーパーマーケットのベイシアが大型店(前橋モール店)を出店したほか、地場スーパーのフレッセイは、駒形町と若宮町、荒牧町に中規模のショッピングセンターのほか、中心街の前橋プラザ元気21内に、前橋プラザ店をオープンさせている。2020年(令和2年)11月には公田町の前橋長瀞線沿いに「ツルヤ前橋南店」がオープンした。
商店街の最盛期には以下に代表される大型店舗があったが、スズラン以外全て中心商店街から移転および撤退した[注 4]。
ニチイは千代田町の店舗を一旦閉店させた後、中心商店街から1.2km北に位置する国領町のグンゼ工場跡地にサティ(前橋サティ)として移転オープンさせた。また、ダイエーも六供町と国領町のシルクプラザ内に2店舗あったが、ダイエーは完全撤退した(※ダイエーの撤退は、イトーヨーカドーやサティとの競合やダイエー自体の業績悪化によるものである[要出典])。
2006年(平成18年)1月29日にLIVIN別館で単体として残っていたWALKが閉店したことにより、WALKの中にあったテアトル前橋西友も閉店。後にユナイテッド・シネマが開業するまで前橋市から映画館も全て無くなった。その後テアトル前橋西友跡は、前橋芸術週間という団体の運営により2009年(平成21年)12月4日に名画座「シネマまえばし」(現・前橋シネマハウス)として再オープンしている。
けやきウォークや郊外のショッピングセンターの相次ぐ開業に加えてGMS業態自体の不振により、イトーヨーカドー前橋店は2010年(平成22年)8月16日[46] に、前橋サティは同年10月17日[46] に閉店した。その後イトーヨーカドー前橋店はエキータ前橋として、前橋サティは前橋リリカとして再オープンした。
最近まで、イオングループが北関東自動車道前橋南IC南側の農地に超大型ショッピングセンターを建設する計画があった。この土地はかつてカルフールが出店を計画していた場所であり、それよりも広い敷地(約25ha)で、全国最大規模のショッピングセンターとなる予定だった。しかし、関係各署との調整難航や大型店の郊外出店を規制する「まちづくり三法」改正で出店が難しくなったために出店を断念した。
前橋市および地元まちづくり対策協議会は、上記イオン進出予定地含む周辺地域の開発事業「前橋南部拠点地区開発」の主たる事業者をベイシアに決定。ベイシアやカインズホームを核店舗とする、同社最大になる敷地面積23haの「パワーモール前橋みなみ」が2010年(平成22年)12月に第1期オープンした。
家電量販店最大手にまで成長したヤマダ電機は前橋で創業、日吉町に本社を構えていたが2008年(平成20年)7月1日をもって本社を高崎駅前に移転した。会社の急拡大に伴い横浜市のみなとみらい地区に本社機能の一部を移し大型店鋪を併設する計画だったが、周辺道路の渋滞を懸念した横浜市側が土地の譲渡売却を断念。その後、JR高崎駅東口へ新本社を移転新築した。
一方で、ベイシアは前橋に本部を移転した。前橋南ICに近い亀里町に、ベイシア本体とセーブオン・ベイシア電器などグループ企業十社の本社が、創業地の伊勢崎から2006年(平成18年)1月に移転し、業務を開始している。近年ではさらに前橋南IC付近の開発が進み、先述の「パワーモール前橋みなみ」に北関東初進出となるコストコがオープンした。なお、コストコ隣接地にIKEAが土地を取得しており、2024年(令和6年)1月18日にIKEA前橋がオープンした[47][48]。また前橋南IC北西の公田町に、ツルヤ前橋南ショッピングパークが2020年(令和2年)11月にオープンした。同年12月にはエキータ前橋が改装し、アクエル前橋としてオープンした。
前述の通り、市の商業施設の郊外移転や自動車保有率全国1位という車社会から、公共交通機関の利用者は減少傾向にある。特にバスにおいては1990年代より不採算路線の相次ぐ廃止や上毛電鉄の路線バス事業撤退、自治体による欠損補助を受けて運行を維持する路線の拡大など深刻な状況下にある[49]。
※ かつては前橋大島駅付近に東前橋駅が、下増田町に下増田駅が設置されていたが、1968年(昭和43年)の両毛線全線電化に際して休止(実質廃止)、1987年(昭和62年)に正式廃止されている。
利用者が多い前橋駅と県庁前の区間においては、6社がダイヤを調整して、2022年度から等間隔運行される[50]。
追加する場合出典付きでお願いします |
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.