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日本の俳優、映画監督、芸能プロモーター、評論家 (1940-2018) ウィキペディアから
津川 雅彦(つがわ まさひこ、1940年〈昭和15年〉1月2日[1][注 1] - 2018年〈平成30年〉8月4日[3][4])は、日本の俳優・映画監督・芸能プロモーター・時事評論家。
つがわ まさひこ 津川 雅彦 | |||||||||||||||
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本名 | 加藤 雅彦(かとう まさひこ) | ||||||||||||||
別名義 | マキノ 雅彦 | ||||||||||||||
生年月日 | 1940年1月2日 | ||||||||||||||
没年月日 | 2018年8月4日(78歳没) | ||||||||||||||
出生地 | 日本・京都府京都市中京区 | ||||||||||||||
死没地 | 日本・東京都 | ||||||||||||||
身長 | 171 cm | ||||||||||||||
血液型 | O型 | ||||||||||||||
職業 | 俳優・映画監督・芸能プロモーター・評論家 | ||||||||||||||
ジャンル | 映画・テレビドラマ・舞台 | ||||||||||||||
活動期間 | 1945年 - 2018年 | ||||||||||||||
活動内容 | |||||||||||||||
配偶者 | 朝丘雪路(1973年 - 2018年) | ||||||||||||||
著名な家族 | |||||||||||||||
事務所 | グランパパプロダクション初代代表取締役・創業者 | ||||||||||||||
公式サイト | 津川雅彦オフィシャルサイト | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
映画
テレビドラマ | |||||||||||||||
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芸能事務所グランパパプロダクションに所属し、同社の代表取締役を務めた。位階は従五位。
俳優としては1956年の映画『狂った果実』が本格デビューであり、1959年に木下恵介監督の『惜春鳥』、1960年には大島渚監督の『太陽の墓場』など多くの話題作に出演[5]。80年代以降は『マルサの女』(主役の板倉亮子(宮本信子)の上司役)『スーパーの女』(スーパー「正直屋」の専務役)など伊丹十三監督作品に多数出演し存在感を示した[5]。1999年には『プライド・運命の瞬間』で東條英機役を演じ日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞[5]。2000年にはNHK大河ドラマ『葵 徳川三代』で主役の徳川家康を演じた[5]。映画監督としてはマキノ 雅彦(マキノ まさひこ)を名乗り、3本の作品を監督した[5]。
俳優業のかたわら、おもちゃの「グランパパ」の経営を行ったり、スコットランドの古城「ロックハート城」を解体し日本へ移築することを試みるなど、経営者や事業家としての一面もあった。→#経営者・事業家
歌舞伎役者の澤村国太郎を父に、女優のマキノ智子を母に、本名は加藤 雅彦(かとう まさひこ)として、誕生。祖父は映画監督の牧野省三であり、演劇人一族、芸能一家の一員として育つ。兄は俳優の長門裕之(本名:加藤晃夫)。その他の身内についてはマキノ家を参照。京都府京都市中京区で生まれ育つ。
幼い頃から両親の大きな期待を背負い、1945年の映画『狐の呉れた赤ん坊』で子役デビュー[2]。以後、兄同様に子役として数本の映画に出演した。
本格的な銀幕デビューは16歳のとき、1956年の日活映画『狂った果実』である[2]。この映画が本格的な主演デビューとなる石原裕次郎の弟役を探していた石原慎太郎が一目見て気に入り、沢村家に頼み込んで強引にキャスティングして名付け親ともなった。当時津川は新聞記者に憧れて早稲田大学高等学院に在学しており、「夏休みだし1本くらい出てもいいか」と軽い気持ちだったというが、映画のヒットとともにたちまちスターダムに上り詰めた。人気絶頂の1958年、松竹へ移籍したがヒットに恵まれなかったこともあって人気が下落した[2]。
フリーに転身してテレビなどに活動の場を広げるものの、1969年のデヴィ・スカルノとの不倫騒動を起こし、世間からバッシングされるなどして仕事が激減[2]。窮地に陥っていたところ、1972年から開始された必殺シリーズの悪役に起用され、この演技で再びブレイクしたのを期に他作品でも積極的に悪役を演じるようになる[2]。必殺シリーズでは、演出を担当した松本明から「世の中のみんなはお前が嫌いなんだから殺される悪役をやれ!」と言われて起用されたが、かつての美男スターのプライドを捨てて悪役をこなす中で多くを学んでいったという[6]。
津川から熱烈なアプローチをかける形で女優の朝丘雪路と交際をスタートさせ、1973年に結婚[2]。
1982年、『マノン』で第24回ブルーリボン賞助演男優賞を受賞[2]。
叔母の沢村貞子からは「雅彦、お前は顔がいいんだから、芝居は4倍うまくならないと認めてもらえない」と若い頃に口酸っぱく忠告されていた[2]。20代半ばに差し掛かる頃より徐々に肥え始め、それに伴い独特の癖のある風貌が強くなっていったが、逆にその個性を活かした[7]。
ジェームス三木作品のほか、1985年の『ひとひらの雪』を始めとする渡辺淳一作品[注 2]に多数出演。また、『お葬式』『マルサの女』等の伊丹十三監督作品[注 3]の常連出演者でもあり、主にコミカルな役どころを演じて演技の幅を広げた[2]。後に本人は「ジェームス三木、渡辺、伊丹の3人を自分にとって『三種の神器』のような存在であり、彼らなくして今日の自分はなかった」としている[8]。
時代劇では三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)をすべて演じている他、徳川氏の役を演じることが多く、大河ドラマでは『独眼竜政宗』等で家康、『八代将軍吉宗』で綱吉、『勝海舟』で一橋慶喜を演じている(後述)。
2018年4月27日、妻の朝丘雪路と死別。同年5月20日に妻の死を受けて会見を開いた。この時、前年秋に肺炎を患った影響で酸素吸入器のチューブを鼻につけた状態で会見に臨んだが、これが公の場に出た最後の姿となった[4]。
7月11日放送(収録日6月30日)の『昭和偉人伝』(BS朝日)が生前最後のメディア出演となった。最後に「もう周りに誰もいなくなりましたからね、もう寂しいなんてことはないですね。だけど(自分が今、肺と心臓の病気をしたから)僕もあまり長持ちしないなあと思っていますので、いつ死んでもいいと思っています。こうして生きているうちはなるべく精一杯元気に生きたいな、ともうそれだけですね。」と語っている。
映画監督の伊丹十三は津川について、「魂があって、理解力があって、それを表現する技があって。しかも、自分では“下手だ”と思っていて演技への追求心が強い。津川雅彦は私にとって理想の俳優だ」と評したことがある[2]。
宮本信子は、津川について「伊丹作品で何度も共演した雅彦ちゃんとは、本当にいいコンビでした」と語っている[注 5]。また、津川個人としては「華やかな恋愛や売れない頃の苦労など色々な経験をなさって、まるで日本のマストロヤンニ[注 6]ですね。」と評している[2]。
奥田瑛二は、「津川さんの演技は自我を出さず、役の幅が広い。それにはたゆまぬ努力が必要なはずです。でも津川さんは時々、『役作りはやっているけれど、それを人に見せたくない』と言っていた。ひけらかさず、我欲がなく、でも魅力的。その姿はとても職人的でした」と語っている[2]。
一人娘の真由子を溺愛しており[注 7]、もし彼女に恋人ができたとしても、「(娘の彼氏という立場の男を)好きになれるはずがない」と、断固娘の恋人を拒否し続けていた。津川が亡くなる直前に真由子は俳優の友山裕之助と結婚した。
兄の長門裕之とはデビュー以来何かと比較されライバル関係が続いていた[23][24]が、『マノン』の演技で津川が1982年度のブルーリボン賞最優秀助演男優賞を受賞した際に、長門が津川の実力を認め、和解している。長門の晩年には共演が多く、『八代将軍吉宗』『サラリーマン金太郎』『刑事☆イチロー』『相棒』『戦国自衛隊・関ヶ原の戦い』などがある。また自身の監督作品『寝ずの番』『次郎長三国志』にも長門が出演した。また長門が死去した際、妻の南田洋子を既に亡くし、子供もいなかったため、津川が葬儀の喪主を務めた。
緒形拳とは親友同士であった[25]。「ガタ」と呼び[25]、お互いのことは何でも話し、幾多の困難を共に切り抜けてきた仲。
2008年10月5日に緒形が71歳で死去した際、緒形の家族とともに臨終を看取った。緒形は「お前身体大事にしろよ! 良い映画沢山作ってくれよな! 治ったら、鰻喰いに行こうな! 白焼きをな!」と冗談を交えつつ、医者に危篤を宣言されている患者とは思えないような口調で津川に明るく振る舞ったという。しかし、その4時間後に緒形は帰らぬ人となった。津川はブログで「歌舞伎役者のように、虚空を睨み付けながら、静かに、静かに、息を引き取った!実に安らかに、名優らしい!カッコいい!立派な最期だった!俺もあんな死に方したいと本気で思えた!臨終に間に合い、話ができてつくづく良かったと思ってる!」と綴っている。没後、「緒形拳を偲ぶ会」を立ち上げた。
保守的思想を持つとともに、左翼嫌いで知られた。「みんなで靖国神社に参拝する国民の会」発起人、「首相の靖国神社参拝を求める国民の会」発起人、「日本の美」総合プロジェクト懇談会座長[26]などを務めた。
映画『プライド・運命の瞬間』で東條英機役を演じる際、東條家を訪れて話を聞いたうえで役作りに生かしたという。その演技ぶりは東條の遺族に「まるで東條英機が生き返ったようです」と絶賛された。なお、この時朝日新聞の記者から「A級戦犯を演じることの是非」を問われ、「じゃあ君(質問した記者)はどう思うのかね!」と返した[27]。撮影中「ある映画監督に制作を妨害された。ある小説家は、自宅前でのロケを、『うるさい』といって追い払った」[28]。また、『落日燃ゆ』(2009年、テレビ朝日)では吉田茂を演じた。
ブログなどでも政治的な発言をしばしば行い、民主党や日本教職員組合を批判し、自由民主党(特に清和政策研究会)を支持した。大江健三郎を「中国韓国に媚び、自身の売込みに必死なエセ文化人の反日分子」と批判した[29]。京都国際映画祭準備委員会会合では「山田洋次のような左翼の監督が日本をダメにした。左翼が武士をだらしなく描くようになって、日本映画はダメになった」と発言した[30]。
2012年7月15日より、評論活動引退により番組を降板する三宅久之より指名を受けて『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ)のレギュラーパネリストとなった。番組内では準レギュラーパネリストである田嶋陽子や、左派・リベラル系の出演者と意見が対立することが多かった。
同年9月5日、津川、三宅久之、すぎやまこういちなど保守系の著名人28人は、同年9月の自由民主党総裁選挙に向けて、「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」を発足させた[31][注 8]。同日、同団体は安倍晋三の事務所に赴き、出馬要請をした[42][33]。9月26日、総裁選が実施され、安倍が当選した。
徳川家将軍の役を演じることが多い。徳川家康は特に多く5回(NHK大河ドラマで2度)演じている。『独眼竜政宗』では、勝新太郎が演じる強大な支配者である豊臣秀吉の横で、感情表現も少なく、腹の中では何を考えているのか分からない、底の知れない家康を演じた。反対に大河ドラマ主演として家康を演じた『葵 徳川三代』では、秀吉がこの世を去った後から物語が開始されるため、ハイテンションで一族のボスに相応しいゴッドファーザーのような役であり、大河ドラマ史上最高齢で主人公を演じた。家康を演じた最も後年のものである2006年の『戦国自衛隊・関ヶ原の戦い』でも貫禄ある老年期の家康を演じ、兄・長門裕之、更にはドラマ最後の出演となった長門の妻であり義姉・南田洋子と共に出演を果たしている。
役柄 | ドラマ |
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徳川家康 |
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徳川家綱 |
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徳川綱吉 |
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徳川家斉 |
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徳川慶喜 |
一時期、女性問題や所属事務所移籍問題の影響を受けて、仕事の入らない時期があった。そんな中、当時朝日放送でディレクターとして活躍していた親友の松本明からの熱心な誘いを受けて、『必殺仕掛人』に悪役としてゲスト出演した。それまでの正統派二枚目俳優のイメージを覆した個性的な悪人を演じた上、仕置される時には妙な奇声をあげて殺られる演技が大きな反響を呼び、以降も初期の必殺シリーズ(第2作『必殺仕置人』 - 第7作『必殺仕業人』)の常連悪役として、作品に花を添えた。第24作『必殺橋掛人』では主人公へ昇格、初期作品に通ずるドラマ作りに大きく貢献した[要出典]。
映画監督の金子修介は、CMを演出した縁から津川に可愛がってもらったといい、津川は金子作品に短いシーンでも出演することが多い[54]。津川は、金子について義理人情に厚く、笑顔が可愛いので惚れてしまったと語っていた[55]。
映画監督マキノ雅弘の甥である津川は、マキノ雅彦名義で映画監督として活動している。
ほか多数。
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