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松村邦洋

日本のお笑いタレント、ものまねタレント (1967-) ウィキペディアから

松村邦洋
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松村 邦洋(まつむら くにひろ、1967年(昭和42年)8月11日[1][4] - )は、日本のお笑いタレントものまねタレントYouTuber山口県熊毛郡田布施町出身。山口ふるさと大使[5]、たぶせふるさと応援大使[6]太田プロダクション所属。

概要 松村(まつむら) 邦洋(くにひろ), 本名 ...
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概要 松村邦洋, YouTube ...

日本史上の人物やタレント、アスリート、政治家など幅広くモノマネをしている[2]。愛称はまっちゃんバウバウ

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略歴

要約
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山口県熊毛郡田布施町出身[2]山口県立田布施農業高等学校に進学(1年の留年を経て[7])卒業[2]九州産業大学に進学[8]→中退。

高校時代から、山口や広島県のローカルテレビ・ラジオ番組に出演。中国放送サテライトNo.1』でアルバイトADをしていたことがあり、得意のものまねを披露し人気者となり、番組レギュラーにもなった。

大学在学中に『発表!日本ものまね大賞』(フジテレビ系・1988年6月14日放送)に出演[8]。ビートたけしをはじめ石橋貴明古舘伊知郎らのものまねを披露し、敢闘賞を受賞[注 1]。その後、テレビ西日本でケーブル捌きのアルバイトをしていた当時、番組に出演した松村のネタを見ていた片岡鶴太郎が『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』の中継で同局を訪れ、鶴太郎に「君いいよ、面白いよ」と見出されたことがきっかけで、1988年に大学を中退し上京した。

鶴太郎の在籍する太田プロに所属し、芸能界デビュー。当時同じく太田プロに所属していた爆笑問題太田光代(当時は松永光代)、春一番らと下積みを重ねながら、『ものまね王座決定戦』(フジテレビ系)の常連として、ビートたけしや掛布雅之のものまねで茶の間を沸かせるようになる。

1992年1月、第8回『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』の「冷凍室ダジャレ→ものまね合戦」にて披露した、高田文夫のものまね「バウバウ」でブレイクする。この回での活躍により番組の常連となり、ダチョウ倶楽部出川哲朗らとともに「リアクション芸人」の代表挌となる。同年7月からは松本明子とともに『進め!電波少年』で司会を務め「アポ無し取材」で人気を博した。

林家ブー」や「バウバウ」のネタで高田文夫に気に入られ、1992年4月から『たまにはキンゴロー』などでの共演を経て、1993年秋からは『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』の金曜レギュラーを務めている。

1992年には、第30回ゴールデン・アロー賞芸能新人賞を、1994年にも第32回の同賞で芸能賞を受賞した。また、『an・an』の「抱かれたくない男性タレント」の上位に出川哲朗とともにランキングしていたことでも有名。

1993年から1999年にかけて『松村邦洋のオールナイトニッポン』でパーソナリティを務める。一時はパーソナリティを降板したものの、3か月後に復帰。通算で約6年に渡る長寿番組となった。1997年には、『電波少年』を降板させられた(進め!電波少年#松村降板騒動)ものの、以降もテレビ・ラジオのレギュラー出演を続けている。

1990年代には俳優としても活躍(『STATION』では吉田栄作に次ぐ準主役、『ハンサムマン』では長野博とのW主演)。1995年には『君を忘れない』で、当時若手として伸び盛りだった木村拓哉反町隆史らとともに名を連ねている。

2000年4月に関西の人気番組である『探偵!ナイトスクープ』のレギュラー(探偵)に抜擢された。探偵抜擢の1年後には自身がモノマネ対象にしている西田敏行が2代目局長に就任し、共演することになった。

2013年7月に『アメトーーク!』で「本当はスゴイ!!松村邦洋」が放送される。また同年下半期は堺雅人がブレイクしたことから、堺の物真似をしている松村の仕事も増加した[9]。一方で9月27日放送分を以って13年半出演し続けた『探偵!ナイトスクープ』を卒業した[10]

2020年8月20日、YouTubeチャンネル「松村邦洋のタメにならないチャンネル」を開設[11]

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人物

要約
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  • 3人兄弟の長男。生家は農家だが元々は江戸時代から商取引をしていて一方で戦前までは質屋をしていた[12]
  • 千葉ロッテマリーンズなどで活躍した元プロ野球選手・河本育之は、小学・中学時代の同級生。「河本とは同じ野球部でバッテリーを組んでいた」とよく言われるが松村は中学時代は野球部でなかったため[13]、このエピソードは誤りである。
  • 高校時代に留年したため、卒業後から行われている同窓会には2回(2学年分)参加している[8]
  • 上京した頃の体重は75kg程だったが、一時期は141kgまで太っていた。後述するダイエットにより、大きく減量している。
  • 進め!電波少年』(以下、『電波少年』)の企画で公募された一般視聴者と1日だけ夫婦になった[注 2]。これにより夫婦関係の実態が全く無いものの婚姻・離婚の事実だけ残るため、いわゆるバツイチである。また、後に伊丹空港でこの女性と偶然再会を果たしている[14]
  • 野球選手の似顔絵を描くことで知られ、2008年に母校の九州産業大学で展覧会を開き[15]、2015年東京美術倶楽部チャリティー企画にアクリル絵3作品を出品した[16]
  • タバコ嫌いであり、酒が全く飲めない下戸である。

考え方など

ものまねに関して本人は、「似てる・似てないは関係なく、その人を好きになることが大事」と語っている[17][18]。また、「僕はどちらかと言うとその人に似せたいというよりも、その人自身になりたい」という考えを持つ[8]

日常生活で人からの頼み事や仕事の依頼を受けることについて、「頼まれごとは、試されごと」との考えを持っている。「向こう(仕事の依頼者など)がダメだと思ったら、使われなくなる。こっちは、試されているんだから一生懸命やるだけです」と語っている[8]

日常生活で何かと我慢が必要な時は、“運のポイントを貯める”という独特の考え方で乗り越えている[注 3]

生きていくためには、「驚くことが大切」との考えを持つ[注 4]

下積み時代から交流が続く高田文夫と、デビュー前から何かと気にかけてくれている片岡鶴太郎のことを「芸能界での恩人」と評している[8]

高田について、「高田先生からは古今の演芸についてもそうですし、挨拶や礼儀が大切だということ、他にも色々なことを教えて下さいます。また先生は、『タレントにおける人気とは、高さではなく長さ』ってよく言うんです。(何かをきっかけに)一気に売れたり有名になることも大切だけど、コツコツ続けることも大事だっておっしゃるんです」と語っている[8]

周りからの評価

『電波少年』のディレクターで、ロケに同行した〆谷浩斗からは、「松村くんはピュアなんです。アポなしロケのときも変な計算(こうすれば視聴者にウケる等)をしない」と評されている[注 5]

松村のマネジャーを30年以上務める大竹昇司からは、「彼は一般常識など人間として欠けているところがいっぱいある。ですが、その分だけ集中して突出した長所がある」と評されている[8]

高田文夫からは、「松村はある時は天才に見え、ある時は本物のバカに見える」と評されている[注 6]

原田龍二とは、時代劇専門チャンネルの旅番組『龍ちゃん・松ちゃんぶらり探訪東海道』で共演して以来、親交がある[8]。原田は「松ちゃんはものまねの天才に見えて、ものすごく努力の人。思いやりも深い」と評している[注 7]

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エピソード

要約
視点

学生時代

子供の頃から目立つことが好きで、ものまねの原点は、通っていた中学校に15人ほどいた教師たち(全員をマスターした)や、テレビで見る小西博之やドラマ『3年B組金八先生』の生徒・加藤優役といった有名人のものまね[8]。また当時は、1980年代前半に大流行した「ツッパリブーム」に影響され、中学校時代からヤンキーだった半面、いじめられるようなタイプでもあった[19]。なお、ヤンキーではあったが、悪いことはせず、友人とお菓子を食べながら雑談に花を咲かせていた。

高校生頃までは痩せており、ある日友達から「顔がビートたけしに似てる」と言われたことがきっかけで、彼のモノマネをやり始めた[注 8]。また、高校2年時に8科目が赤点となり1年留年し、修学旅行に2回行ったという[7]

卒業後の進路としてお笑い芸人の道を本気で目指していたと言い、当初大阪にある吉本興業の養成所・NSCに入ることを考えていた[8]。学校の視聴覚室で教師にビデオを回してもらい、得意のものまねを収録したテープを吉本興業に送付したという。しかし、高校に4年通った経験から“遠回りの発想[注 9]”ができ、進路変更して九州産業大学に進学した[8]。また、進路変更には高校3年の12月に起きたフライデー襲撃事件の影響でビートたけしのものまねを一時自粛せざるをえなくなったことも影響したという。

ものまねタレントとして人気に

『発表!日本ものまね大賞』の敢闘賞を受賞した直後、とある芸能事務所から電話でものまねタレントとしてスカウトされたが、上記の遠回りの発想から断っている[8]。その後太田プロに所属したが、しばらくはショーパブでバイトしながら芸を磨く下積み時代を過ごした[8]。思うような結果が出ないこともあったが、当時出会ったダチョウ倶楽部春一番爆笑問題などの芸人たちの励ましに支えられた[8]

下積み時代に出会った高田文夫の飲み会の席に爆笑問題の太田の紹介で彼と初対面した[8]。その際、高田にビートたけしのマネで「高田さんよォ、オイラもさぁ」といきなり話しかけ[注 10]、このものまねを気に入られたことで、以後高田との交流が始まった[8]

ほどなくして高田の「手を叩きながら“バウバウ”という笑い方[注 11]」のものまねもするようになった[8]。同時期に憧れのビートたけしとも数々の番組で共演し、本人の前で彼のものまねも披露するようになった[注 12]

『進め!電波少年』

バラエティー番組『進め!電波少年』のアポなしロケでは、渋谷のチーマーに体当たりロケ企画「渋谷のチーマーを更生させたい!」も行った。一触即発の雰囲気があったが、高校時代に不良に絡まれることがよくあったため、チーマーも特に怖いとは思わなかったという[注 13]

「豪邸のプールで泳ぎたい!~アラブ首長国連邦編~」のロケでは、豪邸に向かう途中の砂漠で一時遭難し、脱水症状になって危うく死にかけた[8]

『電波少年』の突然の降板はショックではあったが、“時間に余裕ができた”と気持ちを切り替え、以前から大好きな野球や大河ドラマをじっくり見られるようになった[8]。この結果達川光男などの野球解説者や、津川雅彦などの役者のものまねレパートリーの開発に繋がった[注 14]

ダイエット

  • ダイエットを決意したきっかけは主に2つあり、あるテレビ特番で人間ドックを受けた際、「このままでは長生きできない」と宣告されたことと、石塚英彦伊集院光内山信二・松村らで作られる「デブの健康組合」で「みんな一緒にやせればバレない。一緒に5キロずつやせよう!」と決せられたが、松村だけ逆に10キロ増え「まっちゃん、そのまま行くと死ぬよ」と身を案じて言われたことだった[20]
  • 中でも成果を上げたものはCanCamダイエット」なるもので、これは、『CanCam』を読みながら夜道をウォーキングするというものである。歩いている途中で辛くなった時にCanCam(特に蛯原友里押切もえ山田優が写っているページ)を見ると、モデルが「まっちゃん、がんばって」などと励ましてくれる感じがして、よりダイエットが捗ったという。その成果あって、2006年の時点で30キロ超減って110キロ台になっていた[20]
  • 後述の東京マラソンでの心肺停止事件をきっかけに自身の健康管理のため、2016年末にライザップを始め、減量に取り組んだ。2017年9月13日に行われたライザップ新CM発表会見では、約8か月で体重110.6キロから80キロと30キロの減量に成功した姿を見せた[21]

マラソン

  • ダイエットを通じてマラソンに興味を持つようになり、和田アキ子から「走ってこい!」と言われた2007年7月1日の「ゴールドコーストマラソン」に参加し、フルマラソンに挑んだ。このマラソンは7時間10分以内にゴールしないと完走と認められないが、松村は諦めずに9時間9分6秒かけて走りぬいた。時間オーバーのため記録には残らないが、主催者側の心遣いで、松村にもメダルが贈られた。森脇健児とトレーニング方法について綿密にメールで連絡し合っていたという。
  • 続いて、『TokYo,Boy』の企画でもマラソンに挑戦することになり、2008年2月17日の「東京マラソン2008」に出場。しかし、35km地点で時間切れとなり完走には至らなかった。同年7月6日の「ゴールドコーストマラソン2008」にも出場し、6時間51分40秒で完走。初めて制限時間内にゴールした。
  • 2009年3月22日、『TokYo, Boy』の企画として再び「東京マラソン2009」に出場。しかし、スタート地点から約15kmの港区高輪2丁目付近で急性心筋梗塞による心室細動で倒れ、一時心肺停止状態となる。丁度付近で取材していた右松健太が救急車を即座に呼んだ他[22]、伴走していた国士舘大学の救護班がAEDを使用したり、医師団の処置により意識を回復、入院して順調に回復した[23]。その後、入院から12日で退院。「復帰の際には蛯原友里安倍晋三から祝福のコメントが寄せられ、入院中に安否を心配する関係者や芸人仲間などから合計486通ものメールが携帯に届いていた」と述べている。また、松村の退院の模様は通常の報道番組でも取り上げられた。
  • 2011年10月1日放送の「オールスター感謝祭'11秋 芸能界No.1決定戦SP」では、心肺停止以来控えていた「赤坂5丁目ミニマラソン」に久々に参加した。
  • 健康関連のイベントに呼ばれて心肺停止状態の経験談を語ることがある[24]

趣味・嗜好

歴史・大河ドラマ・高校野球・プロ野球に詳しいことで知られている[2]。また松村の自宅には、大河ドラマを始めとするドラマの気に入ったセリフのメモ(自らの手書きによる)が、壁一面にぎっしりと貼られている[8]

野球

  • 熱狂的な阪神タイガースファンである父親に影響され、自身も大変な野球好きである[25]
  • 子どもの頃は広島東洋カープが強い時代で、周りはカープファンが多かったが[26]、「自身があまのじゃくな性格から阪神ファンになった。もし大阪に生まれていたら阪神ファンにはなっていなかったと思う」と話している[26]。自身も野球をするようになり、高校時代(軟式野球部)にキャッチャーを務めるが1試合で27盗塁を許した経験を持つ弱肩で「デブ = キャッチャーという固定観念で決められた」などと述べている[7][27]
  • デイリースポーツ』の特命応援団長に任命されており、同紙で連載を持つほか、過去に『週刊ベースボール』ではカラーグラビア見開きで自ら選手の絵も描いていた。
  • 阪神にドラフトで入団する選手に対し、会場や[28]選手の実家に「阪神入団おめでとう 松村」と書かれた大きな花を贈る。球団側から頼まれている訳ではなく、自分の意志により自腹で贈っている。選手も、その花が届く事で「阪神に入団したんだ」と実感するという[29]。ちなみに松村としては俊足タイプの選手に興味を持っており、「野村克也さんもこういう阪神であることを喜ぶだろう」と述べている[30]
  • 阪神以外のプロ球団、また高校野球大学野球に関する知識も相当なもので、阪神以外の球団の試合や春季キャンプにも駆けつけることが多くあり、ファイターズ鎌ケ谷スタジアム由宇球場にも足を運んでいる。かつては、中山秀征率いる草野球チームに初代キャッチャーとして所属していた。また、竜兵会の草野球にも参加しており、出川軍との試合にも竜兵会の一員で出場している。
  • 正月に実家へ帰省する際、知り合いの現役やOBの野球選手を自腹で呼び、近所の子供を集めて無償で野球教室を開いている[29]
  • プロ野球再編問題で球界が揺れていた頃、プロ野球ファンの集会に参加し、12球団、2リーグ制の維持を訴えた。登壇した松村は「プロ野球は皆のもの。渡邉恒雄のものではありません」と名指しで批判発言し、その模様はテレビでも放送された。
  • 世界ウルルン滞在記』では、北米独立リーグフロンティアリーグロンドン・ウェアウルブズ英語版の試合に、松村が代打として出場する模様が放映され、公式記録[31] として残されている。
  • 世代が全く違う飯野雅と交友があり、掛布や川藤、高木らと「桜坂ちゃんねる」に出演、野球に関する対談している。

好角家

  • 野球界のみならず、相撲界にも人脈を持つ。
  • 中野区の自宅アパートの近所に二子山部屋(後の貴乃花部屋)があったことが縁で、貴乃花親方と交流を持つようになった。朝稽古を見学した後、ちゃんこを御馳走になることもあった。貴闘力忠茂とは特に親しく、断髪式でも鋏を入れた。
  • 振分親方のものまねも得意としている。2019年2月、貴ノ岩の断髪式に出席し、「ただ断髪するよりも、呼ばれたからにはお客さんを喜ばせたいと思って」と土俵上で鋏を入れるときも[32]、その後のパーティーでも貴乃花のものまねをして会場を和ませた[33]

テレビっ子

日本史

  • 戦国大名毛利元就中国地方を征服して“中国の覇者”になったが、毛利元就以前の中国地方は戦国大名・大内氏尼子氏が“二大勢力”だった。松村の先祖は“大内氏の家臣”である。
  • その影響で松村は、1997年のNHK大河ドラマ・『毛利元就』(主演・中村橋之助)の大ファンとなり、毎週ビデオに録画して見ていて、NHK大河ドラマがきっかけで“大の日本史好き”になり、DJ日本史など歴史関連番組や企画に多数出演。全国の歴史に関するイベントにもパネラーとして参加している[34][35]。自宅の本棚には多数の“歴史の本”がずらりと揃えられている。

描画

  • 高田文夫の勧めで阪神の歴代選手を題材にした絵画製作にも力を注いでいる。
  • デイリースポーツや週刊ベースボールではコラムとともに紹介され、2000年には1冊の本にまとめた画集『愛しの虎 松村邦洋の阪神タイガース応援日記』(太田出版)、2004年にはカレンダー『松村邦洋・阪神タイガース画集 2004年度カレンダー』を発表している。
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ものまね

要約
視点
  • 堺雅人など全く逆の声質の有名人のモノマネが出来る。有名人であるモノマネであっても、弔辞(上岡龍太郎から横山ノックへ、古舘伊知郎から放送作家・腰山一生へ、など)を切り取り、結果としてマニアックな内容になってしまうこともある。最初にやったモノマネはドラマ『3年B組金八先生』の加藤優で、これは自信作と言っていたが、当の本人がどこかに行ってしまったと語る。のちに、直江喜一本人から、『金八先生ファイナル』に15年ぶりの出演にあたり、「加藤ってどうやるの?」と相談され、松村が本家に演技指導したほか、金八ファイナル終了後は金八ファンの為に直江と動画サイトで共演している。現在、直江は松村と同じ中野区に住んでおり、コロナでダウンした時は、夫婦で見舞いに来てくれたという。
  • 出川哲朗は無名時代からやり続けている十八番ネタであるが、出川が有名になった途端、多数の芸人が出川のモノマネを始めてしまったと語る。
  • ものまねの対象とする有名人には、お中元とお歳暮をよく贈っている。津川雅彦西田敏行に違いを指摘されていたが、お中元を贈った所、本家が松村に合わせるという本末転倒なことになった。津川を「シャレのわかる人」と評している。モノマネ中にしきりに顔を振るのだが本人は実際あまり顔を振らないので、『松村ちゃん、僕はそんなに顔を動かさないよ』と注意したらしいが、松村がお中元とお歳暮を贈ったところ、津川が松村の気持ちに応えるように顔を上下に動かしながら「これで良いのかな?」と松村に語り、本家がモノマネ芸人に合わせるという、くだけた優しい一面を見せたという他、津川に色々と面倒見て貰ったという[36]。また、津川から「西田は似てるけど、僕は似てない」と言われ、反対に西田も「津川は似てるけど、僕ははあんな笑い方しない」と言われてネタにしている。[37]
  • 中尾彬(同じ誕生日でもある)のモノマネをやるにあたり、事前に中尾にお中元を贈ってからモノマネを始めたところ、中尾は妻の池波志乃に「松村のモノマネが一番似てるねぇ」と言っている。野村克也が「松村が出ているなら番組に出る」と出演依頼を快諾したこともあった。また、ビートたけしは「どんどんやってくれ」と言っていた他、『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』のロケの時に、リアクションが上手く取れなかった松村にリアクションの取り方をマンツーマン指導したことがあり、「バイク事故を起こした時の顔」のものまねをした時には、「表情が左右逆だ」と指摘をしたこともあった[38]他、北野武とビートたけしを演じ分けもでき、今と昔の違いも出来るので、渡部陽一は「武のモノマネは松村の右に出る者は居ない」と言うほどレベルが高い。
  • そのほか、小泉純一郎貴乃花光司小泉孝太郎花田優一から絶賛する程似ていると評されている。
  • 本人が芸能界きっての歴史好き、大河ドラマ好きであることもあり、糸井重里が提案し、イベント『ほぼ日刊イトイ新聞ニッポン放送 presents 「ほぼ織田信長のオールナイトニッポン 〜本能寺の変スペシャル〜」』を開催した[39]。松村がビートたけしの声真似のまま、織田信長になりきって本能寺の変の直前に、本能寺をキーステーションにオールナイトニッポンを放送するというもので、その後松村の持ちネタとなっている。
  • 自身のモノマネの歴史をプロジェクトXの要領で披露する『松村ものまねプロジェクトX』というネタもある。
  • アウトレイジ ビヨンド及びアウトレイジ 最終章のDVD&Blu-ray発売のCMでは、出演者全員の声をアテレコし、緊迫したシーンに松村がそっくりのモノマネで宣伝していくという松村にしか出来ないCMで話題を呼んだ。本人と間違われないためにワイプで松村が出演している。
  • 「ものまね紅白」等で共演しているコージー冨田は、松村の普段の話し方をものまねレパートリーに加えている。

ものまねレパートリー

注釈なきものは事務所の公式プロフィール[1] に掲載されているもの。オビスポ森光子[注 15]などといった一部のレパートリーはビバリー昼ズなど、披露する場が限られている[40]。アスリート、役者、議員が中心。浅香の前でモノマネを披露した際には、本人からメガネをもらっている。木村拓哉はトークとかは似ているが容姿が全然違うため、キムタクファンから「ふざけるな」とクレームが来ると言う。本人と共演した時は本人を「松村」と呼び「ニセモノ」扱いする事もある。

レパートリーは約150(「お願い!ランキング」2012年2月11日「最新のランキング」より)。

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出演

テレビ番組

レギュラーおよびゲスト出演の多い番組

過去に出演・終了した番組

ラジオ番組

現在出演中の番組

過去に出演した番組

テレビドラマ

映画

Vシネマ

  • テクニカル・ヴァージン(1990年)
  • パチンコ・バトル・ロワイアル
  • パチンコ・バトル・ロワイアルII
  • 湘南純愛組! - 理容師 役
  • 借りなきゃバウバウ〜天下の御迷惑人・松村邦洋(1993年)

インターネット配信番組

Webドラマ

テレビアニメ

  • ヤッターマン 第26話「歴代三悪オールスター勢揃いだコロン!」(2008年12月1日、読売テレビ) - 本人、コーコーキュージ 役(2役)

CM

MV

ビデオ教材

  • 「自てん車安全大作戦!歌おう!ぼくらの交通安全」(警察庁交通局監修)
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作品

著書
  • マツムラ―天然松村邦洋解禁!!(太田出版、1993年)
  • ためにならない本(読売新聞社、1995年)
  • デブの真実(角川書店、1996年)
  • 愛しの虎 松村邦洋の阪神タイガース応援日記(太田出版、2004年)
  • 武将のボヤキ 松村邦洋のお笑い裏日本史(武田ランダムハウスジャパン、2010年)
  • 東京右側「笑芸」さんぽ(高田文夫との共著、講談社、2017年、ISBN 978-4-06-220698-3
  • 松村邦洋の高校野球ベストバウト(洋泉社、2018年)
  • 松村邦洋「鎌倉殿の13人」を語る(プレジデント社、2021年)
  • 松村邦洋 今度は「どうする家康」を語る(プレジデント社、2022年)
  • 松村邦洋 まさかの「光る君へ」を語る(プレジデント社、2023年)
  • 松村邦洋 懲りずに「べらぼう」を語る(プレジデント社、2024年)
文庫解説
画集
  • ボクの神様〜心に残るトラ戦士(リベロ社
  • 松村邦洋画集・虎戦士Vカレンダー2004(天田印刷加工
個展
  • 松村邦洋似顔絵展(2007年12月12日 - 2008年2月3日、筆の里工房
  • 九州産業大学OB 松村邦洋似顔絵展 -可能性へのメッセージ-(2008年9月8日 - 2008年11月3日、九州産業大学美術館)
  • 高田文夫プロデュース 松村名人会(2011年7月29日 - 8月7日、GALLERY工)

CD

シングル
  • ピロピロダンス(1993年)
  • 冬場のI LOVE YOU(1995年)明星食品「一平ちゃん」CM曲。「一平ちゃんとれいこちゃん」としてかとうれいことデュエット。
  • それでいいのだ!(1998年)「K・松村」名義。
  • 負ける気せんね 〜野村阪神応援ヴァージョン〜(1999年)森たけしとデュエット。
  • 嵐は西から(2003年)「Tigers Freaks Band」として。
アルバム

DVD

  • 熱烈!!トラトーク(2011年)
  • 泣き虫先生の7年戦争 スクール☆ウォーズ(2019年)映像特典「スペシャル座談会」

ゲームソフト

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脚注

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参考文献

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外部リンク

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