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日本のアナウンサー ウィキペディアから
松本 秀夫(まつもと ひでお、1961年7月22日[3][4] - )は、日本のフリーアナウンサー。本名:松本 秀雄(読み同じ)[3]。
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まつもと ひでお 松本 秀夫 | |
---|---|
プロフィール | |
本名 | 松本 秀雄 |
愛称 |
ヤギ リチャード めえめえ いっき松本[1][2] |
出身地 | 日本 東京都大田区 |
国籍 | 日本 |
生年月日 | 1961年7月22日(63歳) |
身長 | 170cm |
血液型 | AB型 |
最終学歴 | 早稲田大学政治経済学部 |
勤務局 | ニッポン放送(契約) |
所属事務所 |
株式会社チェンジアップ フジ・メディア・テクノロジー |
部署 | CP局報道スポーツコンテンツセンタースポーツ部 |
職歴 | ニッポン放送(1985年 - 2017年3月) |
活動期間 | 1985年 - 現在 |
ジャンル |
スポーツ番組 バラエティ番組 |
配偶者 | あり |
公式サイト | 株式会社チェンジアップOfficialWebSite |
担当番組・活動 | |
出演中 |
ニッポン放送ショウアップナイター プロ野球ニュース |
出演経歴 |
今夜もオトパラ! グラゼニ 草野満代 夕暮れWONDER4 伊集院光のOh!デカナイト |
備考 2012年のナイターオフ期まで、番組出演時のファーストネーム表記を平仮名で「松本ひでお」としていた |
東京都大田区出身。文教大学付属小学校、芝中学校・高等学校卒業[4]。入学後は生物部魚班(後述)で活動[3][4]し、1985年3月、早稲田大学政治経済学部[3]を1年留年して卒業後、同年4月[3]、ニッポン放送に入社。同期は、元アナウンサーの西田麻里、元アナウンサー、フリーアナウンサーで洗足こども短期大学幼児教育保育科准教授の内村直子、元デジタル&イベント局デジタルコンテンツ部長、編成局長、専務で現・同社代表取締役社長の檜原麻希。
スポーツアナウンサーを志望していたが、入社以後は編成局制作部に所属し、『NISSANラジオパラダイス・湯浅明の全国歌謡ヒット速報』の中継リポーターにてアナウンサーデビュー[5]。以後、バラエティ番組のリポーター等を2年担当し、1987年、入社時に希望であったスポーツ実況担当の部署である、編成局スポーツ部へ異動。同年7月24日[4]、後楽園球場で行われたジュニアオールスターゲーム中継で実況デビュー。以後、『ショウアップナイター』の実況を1000試合以上担当[4]。
スポーツ部異動年に、ロッテオリオンズを担当した縁でロッテファンとなった。
入社5年目に幼馴染の保育士と結婚したが、後年、離婚(時期不明)[6]。60歳の時に年下の女性と再婚。
55歳になったのを機に早期退職優遇制度を活用し、2017年3月にニッポン放送を退職してフリーアナウンサーへ転向[7]。ニッポン放送の社員として最後に、3月31日に東京ドームで催された2017年セントラル・リーグ開幕戦の読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズ戦を、里崎智也の解説とともに実況中継した[8]。以後、個人事務所の株式会社チェンジアップを設立し、ニッポン放送とは契約アナウンサーとして、『ショウアップナイター』の実況と並行し、各プロ野球球団やプロ野球OB主催のイベント司会や実況等の活動を継続している。また、元来興味を抱いていた芝居にも挑戦しており、過去に芝居脚本を複数回執筆していたが[9]、2018年に「劇団チェンジアップ」を旗上げし、全編野球コント芝居の「笑(しょう)アップアップナイター」の興行を行った[10][11]。
2018年10月より、『草野満代 夕暮れWONDER4』に出演を開始。もともとナイターオフはシーズン限定のバラエティ番組への出演をしていたこともあってその代替ともとらえられるが、草野満代との掛け合いが好調であったことや、双方がスポーツ番組の経験があることからスポーツコーナーの要素も兼ねることにもなり2020年7月まではナイターへの出演を縮小させながら出演していた。2020年7月以降は再度スポーツ中継を中心に活動。その傍ら、5年先輩の上柳昌彦とのかかわりから『ラジオ de Show』(高嶋秀武を加えた3人でのイベント)や『上柳昌彦 あさぼらけ』の代行を請け負うこともある[12]。
スポーツアナウンサーになってから10年ほど、競馬の実況も担当した。初めての競馬実況は大井競馬場である。ナイター競走のトゥインクルレースがスタートした当時、大井競馬場では場内ミニFM放送を行っており、ニッポン放送の関連会社がその制作を請け負っていた関係で、ニッポン放送のアナウンサーがレース実況を担当した。その後、中央競馬の実況も担当したが、先輩の胡口和雄から「お前の実況は馬が千鳥足みたいだなぁ」と苦言されたり、リスナーから何枚もの便箋に毛筆書きで実況に対するクレームが来るなど実況の方は安定していなかった。本人もそのことは承知しており、「僕が実況に呼んでもらえるわけないじゃないですか。僕が実況すると馬がみんなこけちゃうんですから」と言っている。その後、ナイターのシーズンオフの番組を担当するようになってからは年間を通じて平日出勤のため、日曜日に放送がある競馬中継には参加できなくなってしまったが、2011年より15年ぶり[23] に競馬実況の仕事を再開することが決定した。 復帰後最初の実況は1月9日の中山競馬場12レース(ただしニッポン放送での放送ではなく裏送りでの放送)。その後は特別競走や準メインレース、重賞でないメインレースを担当するようになり、重賞競走では9月25日に産経賞オールカマー(GII)の実況を担当している。
サッカーにはあまり詳しくないものの、2008年の北京オリンピックでは女子サッカー実況を担当することになり、必死でルールを覚えた。その後は不定期ではあるが、Jリーグ RADIOでリポーターを務めることがある。
2008年1月30日に国立代々木競技場で開催された男子ハンドボールアジア予選を、初めてラジオ中継して実況を担当した。1月29日に女子の試合を担当する洗川雄司アナウンサーとともに資料ビデオなどで練習する様子が、2008年1月25日にスーパーニュースで放送された。tvkでハンドボールの実況を担当する吉井祥博アナ[24]、熊本放送の本田史郎アナウンサー[25]など、ハンドボールの実況や試合経験がある人物を招いて指導を受けた。
自他共に認める「おっちょこちょい」と「酒癖の悪さ」が災いして、失敗談には事欠かない。
ハマの大魔神こと佐々木主浩とは取材を通じて公私共に仲良くなり、佐々木は松本の出演する番組へのお祝いのメッセージをよせたり、電話出演をすることも多い。1997年・1998年オフには『佐々木主浩のスポーツキング』という番組を2人で担当。その後、2001年4月より3ヶ月強の間、当時シアトル・マリナーズに所属していた佐々木を追いかけるためアメリカに出張。ここでも様々なエピソードが繰り広げられた。
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