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日本のプロ野球チーム ウィキペディアから
オリックス・バファローズ(英語: ORIX Buffaloes)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。
オリックス・バファローズ | |
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ORIX Buffaloes | |
会社名 | オリックス野球クラブ株式会社 |
創設 | 1936年1月23日 |
今シーズン | |
2024年のオリックス・バファローズ | |
ロゴデザイン | |
所属リーグ | |
パシフィック・リーグ | |
歴代チーム名 | |
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本拠地 | |
京セラドーム大阪(大阪府大阪市西区) | |
収容人員 | 36,627人(京セラドーム大阪) |
永久欠番 | |
なし | |
獲得タイトル | |
日本一(5回) | |
リーグ優勝(15回) | |
セ・パ交流戦優勝・最高勝率(2回) (2015年から2018年までは最高勝率) | |
成績(タイトル以外) | |
日本シリーズ出場(15回) (太字は勝利した年) | |
5勝10敗 | |
クライマックスシリーズ出場(5回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) | |
3勝2敗 | |
プレーオフ(前後期制)出場(5回) (太字は勝利した年、斜体は後期優勝) | |
2勝3敗 | |
球団組織 | |
オーナー | 井上亮 |
運営母体 | オリックス |
球団社長 | 湊通夫 |
GM | 福良淳一 |
監督 | 岸田護 |
選手会長 | 杉本裕太郎 |
オリックス・バファローズ | ||||||||
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YouTube | ||||||||
チャンネル | ||||||||
活動期間 | 2014年4月26日 - | |||||||
ジャンル | 野球 | |||||||
登録者数 | 23.3万人 | |||||||
総再生回数 | 90,496,928回 | |||||||
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チャンネル登録者数・総再生回数は 2023年10月27日時点。 |
大阪府を保護地域とし、大阪市西区にある京セラドーム大阪を本拠地、兵庫県神戸市須磨区にあるほっともっとフィールド神戸を準本拠地としている。また、二軍[注釈 1](ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は大阪市此花区にある杉本商事バファローズスタジアム舞洲を使用している。
阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)を親会社とする阪急軍として1936年に発足。1947年に阪急ブレーブスと改称。1952年から兵庫県を保護地域とする(2007年まで)。1988年シーズン終了後にオリエント・リース(現・オリックス)へ球団が譲渡され、オリックス・ブレーブスと改称。1990年シーズン終了後に兵庫県西宮市にあった阪急西宮球場からグリーンスタジアム神戸(現・ほっともっとフィールド神戸)へ本拠地を移転し、オリックス・ブルーウェーブと改称。
大阪府を保護地域とし、大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)を本拠地としていた大阪近鉄バファローズを2004年シーズン終了後に吸収合併し、オリックス・バファローズと改称して現在に至る。2006年にヤクルトスワローズの球団名が現在の東京ヤクルトスワローズに改称後、球団名が全て片仮名表記の唯一の球団となった。2005年から2007年まで暫定措置として大阪府と兵庫県を保護地域としていたが、2008年から大阪府のみとなった。
現在のチーム愛称、保護地域、本拠地が近鉄と一致しているが、球団史において大阪近鉄バファローズは傍系となる(近鉄の歴史については当該記事を参照)。
NPB12球団の中で、読売ジャイアンツ、阪神タイガース、中日ドラゴンズに次いで4番目に創立した球団であり、パシフィック・リーグの中では最古のチームである。
阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)は1920年に日本最初のプロ野球球団とされる「日本運動協会」の経営を引き取り、「宝塚運動協会」として運営していたが、1929年7月に解散。後の阪急ブレーブスとの球団としての繋がりはない。しかし、小林一三はいずれプロ野球時代が来ると予見。1934年12月26日に読売新聞社が大日本東京野球倶楽部を創設。翌1935年に小林は欧米視察の途に就くが、読売新聞社は阪神甲子園球場を所有する阪神電気鉄道に対して球団創設を積極的に働きかけ、同年12月10日に阪急のライバル企業でもある阪神電気鉄道が大阪野球倶楽部を創設した。阪神球団創設の電報がワシントン滞在中の小林に届くや、小林はすぐさま球団創設と新球場建設を村上実に指示し、1936年1月23日に大阪阪急野球協会が創設された。発足当時の球団で球場を自前で新たに建設することを計画したのは阪急だけである。小林一三が慶應義塾大学出身だったこともあり、宮武三郎、山下実、山下好一ら慶應義塾大学のスター選手を入団させ、初代監督にも同OBの三宅大輔を招いた[1]。同年2月5日に結成された日本職業野球連盟に参加。球団名に企業名を入れた日本で最初のプロ野球球団である[2]。
トーナメント制の夏季の大阪大会で首位となった。
5月1日、阪急西宮球場が開場。春季は8球団中4位となったが、監督の三宅は妥協を許さぬ厳しい姿勢が選手の反発を招いて解任され、村上実が秋季の指揮を執るも、チームは投手陣が弱く、粘りがないとされ、8球団中7位に終わった。村上の後任には山下実がプレイングマネージャーで就任。
投手陣の健闘で春、秋共に3位となるが、上位の首位の巨人や2位のタイガースにはどうしても勝てないという状況だった。
この年より1シーズン制通しての成績で優勝、順位を決め、便宜上春夏秋の3季制としたが、春季は投手陣が踏ん張り、9連勝もあり、首位となったが、巨人には未勝利のままで、年間を通じても巨人、大阪に次ぐ3位に終わった。
井野川利春を4番選手兼任監督に迎える。森弘太郎が28勝を挙げ、山田伝が打率5位になるが、3年続けて巨人、大阪に次ぐ3位に終わった。
戦局悪化で各球団共に選手の応召が続き、戦力が低下するが、森弘太郎がノーヒットノーランを達成するなど、30勝を挙げ、最多勝となり、チームも勝率.631[注釈 2]の成績を挙げるが、首位巨人と9ゲーム差の2位に終わっている。
この年以降も応召が続き、8球団中4位。
選手兼任監督の井野川が応召され西村正夫が監督になるが、8球団中7位。
夏季終了時点で応召による選手不足でリーグ戦続行が不可能となり、途中打ち切りとなり、3位に終わった。
西宮球場の倉庫でボールやバットが保管されていたこともあり、11月の戦後プロ野球初試合となる東西対抗戦が神宮球場で開催された。
この年からリーグ戦が再開され、他球団に比べ、用具がそろっていたことや、野口二郎や今西錬太郎が加入したことで、阪急の下馬評は高かったが、投手陣が6月に調子を落とし、長打力不足もあって、チームは8球団中4位に終わる。
チーム愛称の義務化により、チーム名を「阪急ベアーズ」と改称したものの、オープン戦での成績が悪く、ベアー(熊)には株式用語で「下落」や「弱気」という意味があり、阪急本社の幹部から「縁起でもない」と批判され、レギュラーシーズン開幕日の4月18日に阪急ブレーブスと再改称した[4][リンク切れ]。総監督に浜崎真二、西村正夫が助監督、これに井野川利春も復員してきて助監督という首脳陣となった。野口二郎が24勝、今西錬太郎が21勝を挙げるが8球団中4位に終わり、オフには青田昇が巨人に移籍。
投手は良いが、青田が抜けて長打力不足となったのが響き本塁打がリーグ最低の25本で、3年連続8球団中4位に終わる。
長打力不足はこの年も続き、投手陣では天保義夫と今西錬太郎の2人で43勝をあげ、対巨人戦では11勝8敗と勝ち越すがそのうち7勝は天保が挙げており、この年は2位となった。この年のオフ2リーグ分立に伴い、阪急はパシフィック・リーグ所属となる。
パ・リーグ参戦初年度の開幕4戦目から球団新記録の11連敗と低迷[注釈 3]し、54勝64敗2分で首位の毎日オリオンズと28.5ゲーム差の4位に終わる。
天保義夫と野口二郎で合わせて13勝止まりで、7球団中5位と低迷。オフにはジミー・ニューベリー、ジョン・ブリットンが入団。
ニューベリーが11勝、ブリットンが打率3割の活躍を見せるが、2年連続7球団中5位。
西宮球場にナイター設備が完成し、5月5日よりナイター試合が行われるようになった。阪急はこの年のナイター試合で26戦21勝と「夜の勇者」のあだ名がつくほど強く、新加入のルーファス・ゲインズが14勝、ラリー・レインズが盗塁王になるなど、8月から9月には首位に立つこともあり、9月2日には大映、阪急、南海の3チームがゲーム差無しのそれぞれ1厘差で並んでいたが、ここから南海が12連勝、逆に阪急は5連敗で優勝争いから後退し[5]、最終的に南海と4ゲーム差の2位で終わっている。オフには梶本隆夫が入団。
新人の梶本隆夫がこの年の開幕戦の対高橋ユニオンズ戦で初登板で初先発し、初勝利を挙げている。梶本はこの年20勝をあげる活躍を見せるが、チームはその他の投手陣が安定せず、後半戦に息切れして 8球団中5位。ラリー・レインズが首位打者となるが、この年限りで退団。
新加入のロベルト・バルボンが1番打者で163安打、49盗塁を記録し、チームも夏場まで好調だったものの、9月以降投手陣が不調となり、80勝を挙げたものの、99勝の南海から19ゲーム差の4位に終わる。
米田哲也の入団に関して、阪神との二重契約問題が生じていたが、2月13日にコミッショナー裁定で阪急入りしている。その米田は9勝、梶本隆夫が28勝、種田弘が17勝を挙げるなど、リーグ1の投手陣と、盗塁のシーズン日本プロ野球記録を更新した河野旭輝の活躍で3位。監督は藤本定義が就任。オフには地元の西宮出身で東京六大学では長嶋茂雄らと競い合って首位打者にもなった慶應の中田昌宏が入団。
1月25日、球団創設者である小林一三が死去[6]。梶本隆夫が24勝、米田哲也が21勝とヨネカジコンビが共に防御率1点台の成績を残すが4位に終わる。オフには立教大学の「立教三羽烏」の1人、本屋敷錦吾が入団。
前半戦を2位で折り返し、8月には首位に立つこともあり、南海、西鉄との首位争いとなるが、3位に終わる。チーム73勝のうち、米田と梶本で53勝を占めた[7]。
米田、梶本が5月まで勝てず、チームは前半戦に8連敗、オールスターを挟んで8月1日に11連敗を記録し、球団史上最低勝率を更新する.369で5位に終わる。藤本定義はシーズン途中で監督を辞任しており、戸倉勝城が指揮を継いだ。
あまりの打撃の不振から西宮球場にラッキーゾーンが設置され、本塁打は前年より7本増えたが、それでもリーグ最低の数字で、相手チームの本塁打も増える結果となり、梶本隆夫と米田哲也が共に20勝するものの4位に終わる。
中田昌宏が南海の野村克也と共に最多本塁打を獲得するが、得点力不足で、米田、梶本は2年連続ともに20勝だが5位に終わり、この頃には「地味」という意味で「灰色の阪急」というあだ名が定着している。このオフ、コーチに西本幸雄を招いている。
8月半ばまで2位を保つが、最終的には4位に終わっている。11月6日、西本が監督に就任。
梶本隆夫がプロ入りして初めて勝利数が二桁に届かない5勝、米田哲也がリーグ最多敗の23敗で、投手陣は石井茂雄が頼りという状況で、8連敗を3度記録するなど、最終的に57勝92敗1分で首位の西鉄から30.5ゲーム差の最下位に終わる。
ダリル・スペンサーとゴーディ・ウインディが加入し、野球の戦術を熟知したスペンサーは阪急に「考える野球」をもたらし、やがて来る黄金時代へと大きく貢献する。チームは前半戦を首位で折り返し、南海との首位争いとなり、8月に対南海戦3連敗で2位に落ち、9月12日に南海との首位攻防戦に勝利し0.5ゲーム差としたが直後に3連敗[8]、9月19日の東京オリオンズ戦に阪急が負けたことで南海が優勝[9]、最終的に3.5ゲーム差の2位に終わる。
チームは前半戦だけで首位と27.5ゲーム差と離され、打線はスペンサー頼みで、スペンサーは7月にはサイクル安打を達成し[注釈 4]、野村克也と本塁打王争いとなるが、10月に交通事故でシーズンを棒に振る。チームは4位に終わる。この年初めてドラフト会議が行われ、長池徳二や住友平が入団。
梶本隆夫が9月27日に15連敗を記録するなどこの年は2勝止まりで、打線は頼みのスペンサーが20本塁打63打点に終わり、チームも5位に終わる。10月14日、監督の西本幸雄の信任投票事件が起きて、西本は辞意を表明し[注釈 5]、球団は青田昇を後任監督に進めるが、それを聞いたオーナーの小林米三が自ら西本を説得し、西本は19日に辞任を撤回している。
スペンサーが30本塁打、長池徳二が27本塁打するなど攻撃力がアップ、投手陣は足立光宏が20勝、米田哲也が18勝、梶本隆夫が15勝を挙げる。オールスター前には2位に8ゲームをつけ首位、10月1日、対東映フライヤーズ戦のダブルヘッダー(西京極)では第1戦に勝利、第2戦は日没コールド負けとなるも、試合中に2位の西鉄が敗れた為、球団史上初のリーグ優勝を達成する(球団創立から32年目での初優勝は日本プロ野球史上最も遅い記録となっている[11])。しかし、初出場となる日本シリーズでは巨人に2勝4敗で敗退。
投手陣は米田哲也が29勝、打線ではそれまで9年間で8本塁打の矢野清がこの年27本塁打で「10年目の新人」と呼ばれる活躍を見せる[12]。チームは南海との首位争いとなり、10月11日の共にシーズン最終戦を同率で並び、阪急は対東京戦(西宮)、2点ビハインドの9回裏に矢野が同点打を放ち、10回裏にサヨナラ本塁打で勝利を収めている。阪急の試合終了の8分後、同時に試合を行っていた南海が近鉄に敗れたことで2年連続、本拠地で初のリーグ優勝を飾った[注釈 6]。しかし、日本シリーズでも2年連続で巨人に2勝4敗で敗退。ドラフトでは後に「花の(昭和)44年組」と呼ばれることになる山田久志、福本豊、加藤秀司が入団[注釈 7]。
近鉄との優勝争いとなり、10月19日に対近鉄戦(藤井寺)に勝利して3年連続リーグ優勝達成[13]。長池徳二が本塁打と打点の二冠王となる。しかし、日本シリーズでは3年連続で巨人に2勝4敗で敗退。
福本豊が一番に定着し初めて盗塁王を獲得し、この後福本は13年連続で同タイトルを獲得することになる。山田久志が10勝を挙げるが、打線が低調で4位に終わる。オフに前広島コーチの上田利治を打撃コーチとして招聘する[14][注釈 8]。
オールスター前までに2位に6ゲーム差をつけ、オールスター直後のロッテ戦2連勝で差を広げるが、この直後8連敗した[15]。それでも9月28日のロッテ戦に勝利し、2年ぶり4度目のリーグ優勝達成[13]。長池徳二が31試合連続安打を記録[注釈 9]するなどMVPとなり、山田久志が最優秀防御率を獲得。新旧戦力がかみ合った年になった。しかし、日本シリーズは巨人と4度目の対戦で、第3戦で9回二死から山田が王貞治に逆転サヨナラ3ランを打たれて敗れるなど、1勝4敗で敗退。オフには東映の大橋穣、種茂雅之らを阪本敏三、岡村浩二、佐々木誠吾との交換トレードで獲得。
移籍の大橋穣と種茂雅之が揃ってダイヤモンドグラブを獲得するなど、守備が強化され、福本豊がシーズン盗塁数のメジャーリーグ記録(当時)を上回る106盗塁[注釈 10]を挙げるなど、最終的には2位に14ゲーム差をつける強さで、9月26日に南海に勝利して2年連続5度目のリーグ優勝達成[13]。しかし、5度目の巨人との日本シリーズでは、2年連続1勝4敗で敗退。V9時代の巨人とはこれが最後の戦いとなったが、すべての年で3勝以上挙げられずに敗退しており、V9時代の日本シリーズで最も多く巨人に負けた球団となった。
この年よりパ・リーグは前・後期の2期制によるプレーオフ制度を導入。前期は3位に終わったものの、後期は前期優勝の南海に12勝0敗1分として、他球団を圧倒して10月5日に優勝する[17]。阪急有利とみられた南海とのプレーオフは第5戦までもつれ、0対0で迎えた9回表に2点を取られて、3勝2敗で南海の「死んだ振り」[18] に敗退し、西本幸雄は監督を辞任[注釈 11]、西本の後任にはヘッドコーチの上田利治が就任[19]。この年のドラフト会議で作新学院高等部江川卓を1位指名したが入団拒否。
前期は最終的にロッテとの優勝争いとなり、5月まで不調だった阪急は対南海3連戦に3連勝したことで調子をあげて6月20日に前期優勝決定。後期はロッテ、南海との優勝争いとなるが3位となり、通年では2位に終わる。ロッテとのプレーオフでは3連敗で敗退。
前期は関西大学から松下電器を経て入団した新人の山口高志が7勝を挙げるなどあり、優勝。後期は6位だったものの、近鉄とのプレーオフでは山口の2完投もあり3勝1敗で3年ぶり6度目のリーグ優勝達成。勝率0.520で両リーグ最低勝率での優勝であった(2022年現在でもこれを下回るチームは出ていない)。投手陣はチーム最多勝が山口と山田久志の12勝だったが、この年の2桁勝利投手は山口、山田らを含めて5人となった。打線では新外国人のボビー・マルカーノ、バーニー・ウイリアムスの活躍があった。広島東洋カープとの日本シリーズでは4勝0敗2分で6度目の日本シリーズで初めて日本一を達成。但し前述の通り後期が最下位だったことが影響し年間勝率は2位(1位は近鉄)だった。
山田久志が最多勝を獲得し、この年より日本プロ野球史上初の3年連続MVPを獲得。福本豊が盗塁王、加藤秀司が打点王になるなど「花の44年組」がいずれもタイトルを獲得し、「阪急史上最強の年」とまで言われ、前後期とも優勝で2年連続7度目のリーグ優勝達成。4年ぶりに巨人との6度目の日本シリーズとなったが、阪急が3連勝のあと、巨人に3連勝されて迎えた第7戦は足立光宏が完投し、4勝3敗で日本一。
前期は南海、近鉄との在阪3球団による優勝争いとなり、6月3日からの対南海戦を3勝1敗とし、64試合目に優勝決定している。後期は先行するロッテ、それを追う阪急との優勝争いとなり、近鉄との最終3連戦で3連勝すれば逆転の可能性も残っていたが、近鉄に敗れたことで、1分2厘の差で2位に終わる。ロッテとのプレーオフでは3勝2敗として、3年連続8度目のリーグ優勝。2年連続巨人との日本シリーズは山田久志の投打にわたる活躍で4勝1敗で3年連続日本一を達成。投手陣では新人の佐藤義則が7勝を挙げて新人王を獲得。打線では代打本塁打の記録をもつ高井保弘が、2年前より導入された指名打者制のおかげでレギュラーに定着し、この年は4番にも入っている。
前後期ともに優勝し4年連続9度目のリーグ優勝。投手陣ではこれまで6勝の今井雄太郎が完全試合を達成するなど、2年目の佐藤義則と共に13勝を挙げ、打線では簑田浩二がレギュラーに定着、この年より8年連続ダイヤモンドグラブを獲得する活躍を見せる。ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは3勝3敗とした第7戦、ヤクルトの大杉勝男のレフトポール際への本塁打の判定を巡って監督の上田が1時間19分の猛抗議をするも判定は覆らず。先発していた足立光宏が試合再開後に降板し、ヤクルトの松岡弘に完封されて3勝4敗でシリーズ敗退。上田は抗議の責任を取る形で、翌日監督を辞任。梶本隆夫が監督に就任する。
前期は近鉄とは1ゲーム差の2位に終わる。後期は優勝で、近鉄とのプレーオフに3連敗で敗退し、5年ぶりにリーグ優勝を逃す。加藤英司が首位打者と打点王の二冠王。
山田久志、山口高志の故障もあり、前期4位、後期は5位で10年ぶりのBクラスとなる5位に終わり、梶本は監督を辞任し、投手コーチに降格。後任には上田利治が3年ぶりに監督に復帰。
エースの山田久志が13勝12敗で貯金を作れず、前期3位、後期2位の通年2位。
前期は2位で、この年山田が16勝するなど復調したが、後期は主軸打者が不振で5位となり、通年でも4位に終わった。
広島の水谷実雄が加藤英司とのトレードで入り、水谷は4番で36本塁打、114打点で打点王になり、トリプルスリーを達成した簑田浩二や、ブーマー・ウェルズらと強力なクリーンアップを形成するものの、チームは首位の西武と17ゲーム差の2位に終わる。
開幕から3連勝し、5月から6月にかけて球団記録の13連勝で独走態勢に入り、9月23日の対近鉄戦(藤井寺)で6年ぶりにリーグ優勝達成[23][注釈 12]。ブーマー・ウェルズが外国人選手初の三冠王を獲得も、広島との日本シリーズではブーマーが徹底的にマークされ、3勝4敗で敗退。この年が阪急最後の優勝となった。
勝ち越すものの、首位の西武と15.5ゲーム差、3位の近鉄とゲーム差無しの1厘差で4位に終わる。
6月4日に近鉄と首位が入れ替わると、そのまま後退し、3位に終わる。佐藤義則の故障などで先発陣が不足するなど、監督の上田は「選手層が薄いと実感した」とコメントした1年となった。
首位の西武と9ゲーム差の2位となるが、かつての先発3本柱の山田久志が7勝、佐藤義則が7勝、今井雄太郎が4勝に終わる。
開幕10試合で1勝9敗で、シーズン通して3位以上とならないまま、監督の上田として初の負け越しで4位となる。阪急電鉄の創立記念日で尚且つ10.19で知られる試合が行われた10月19日、球団がオリエント・リースに買収されることが発表され、この年が阪急ブレーブス最終年となった。オフには山田久志と福本豊が現役引退。また、この年同じくダイエーへ球団買収となった南海の門田博光がダイエー球団の本拠地の福岡へ行くことを拒み、オリックスに移籍。
種類 | 株式会社 |
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略称 | オリックス球団 |
本社所在地 |
日本 〒550-0023 大阪市西区千代崎3丁目北2-30 |
設立 |
1936年1月23日 (阪急軍としての球団創立日) |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 9120001119851 |
事業内容 | プロ野球球団経営 |
代表者 |
井上亮(オーナー) 湊通夫(代表取締役社長) |
資本金 | 1億円(2020年3月31日現在) |
純利益 |
42億8,400万円 (2024年3月期)[24] |
総資産 |
111億3,500万円 (2024年3月期)[24] |
決算期 | 3月末日 |
主要株主 | オリックス 100% |
関係する人物 | 小林一三(球団創立者) |
外部リンク | http://buffaloes.co.jp/ |
特記事項:1936年に大阪阪急野球協会として設立、1988年にオリエント・リース(現:オリックス)に球団譲渡。 |
1988年11月4日、正式に阪急電鉄からオリエント・リース(翌1989年4月1日にオリックスに社名変更)に球団が譲渡された。球団譲渡の際に阪急電鉄側から「本拠地は阪急西宮球場を継続して使用すること」、「愛称はブレーブスを継続して使用すること」、「上田監督を続投させること」を条件として出されたため、本拠地は阪急西宮球場、一軍監督は上田利治をそのままに、球団名はオリックス・ブレーブス(ORIX Braves)、会社名は「オリックス・ブレーブス株式会社」に変更された(のち1990年9月には、現在のオリックス野球クラブ株式会社へ社名変更)。ただ、ユニフォームはそれまでの黒と赤を基調とした配色から、オリックスブルー(紺色)とブレーブスゴールデンイエロー(黄金)のデザインへ変更され、ブレーブスの赤はヘルメットの差し色に継承された。
阪急グループの娯楽事業では阪急ブレーブスと、宝塚歌劇団がいずれも1980年代には年間8億円の赤字を出していた。ブレーブスはオリックスに売却し、自助努力で採算向上が可能な宝塚歌劇団に専念することになった[25]。
前述の小林一三は「私が死んでもタカラヅカとブレーブスだけは売るな」と遺言を遺していた[26]。宝塚歌劇団は今なお同社の傘下にあるが、ブレーブスについては売却された。小林一三の孫婿にあたる小林公平は会見で「球団創立50年を迎えて、球団を持つ使命を終えました。丁度オリエント・リースから球団譲渡の申し入れがあり、今後のブレーブスのために望ましいと判断して了承しました。」と述べた。尚、阪急は2006年に阪神との経営統合により、かつて競合関係にあった阪神タイガースを傘下に収めたことで、実質的にプロ野球業界に再び参入することとなった。
阪急時代のブレーブスは無料券を配布して集客していたが、鉄道収入と球場売店の売上はあった。親会社がオリックスになると、無料券は廃止された[27]。
球団事務所はそれまでの大阪府大阪市北区角田町から同府同市同区曾根崎新地に移転した。球団オーナーは小林公平から宮内義彦オリックス社長に交代し、球団社長(兼球団代表)に近藤靖夫が就任。球団幹部は一般公募を実施し、結果として丸善石油出身で、上智大学硬式野球部監督を歴任するなどアマチュア野球指導の経験がある井箟重慶が1989年には常務取締役事業本部長(のちに1990年から2000年まで球団代表)、帝人出身の金光千尋が取締役事業本部長に就任した[28]。
当初は本拠地として阪急西宮球場の使用が継続されたが、1988年に完成したグリーンスタジアム神戸を準本拠地とすることも併せて発表された。グリーンスタジアム神戸は阪急時代だった1988年5月の対南海戦でも使われたが、1989年には主催試合が14試合と増加し、1990年も13試合組まれた。監督は上田が続けた。
球団譲渡後の初年度となったシーズンは開幕8連勝でスタートダッシュに成功。南海から移籍した門田博光を加えたブルーサンダー打線がチームを引っ張ったが、9月25日のダイエー戦で門田がブーマーとハイタッチした際に脱臼し戦線を離脱、投手陣の駒不足も深刻でエース佐藤義則とルーキーの酒井勉が全てのポジションを担っていたがシーズンが進むにつれスタミナ切れで失速したことが響き、優勝した近鉄にゲーム差なし、勝率1厘差の2位となった。酒井は西武の渡辺智男との新人王争いを制し新人王に選ばれた。
ブーマー・福良淳一の怪我や不調、また課題だった投手陣の整備ができず西武の独走を許す形になり2年連続の2位に終わる。上田監督が辞任し、門田は退団しダイエーに移籍した。
1991年より本拠地を阪急西宮球場からグリーンスタジアム神戸に移転した。オリックスは、コンサルタント会社を使って阪急西宮球場周辺の市場リサーチをしたが、阪急西宮球場は競輪場(西宮競輪場)としても使用されていたため、公営競技である競輪が行われる場所は「男がビール片手に集まる場所」とのイメージがあった。西宮市には女子大学が多いにもかかわらず、野球観戦をする女子大生らが足を運びにくいとの調査結果が出たのが、本拠地移転の動機だった。移転の候補地としては、札幌市、千葉市、大宮市も検討されたが、結局はグリーンスタジアム神戸に決まった。その理由は、すでに同球場が準本拠地のような位置づけだったことに加え、神戸市から熱心な誘致活動があったこと[29]、同一県内での本拠地移転はオーナー会議での承認が不要であったこと、施設所有者である阪急電鉄に球場使用料を払う必要があったことなども要因である。神戸市当局からはグリーンスタジアム神戸への大型スクリーン設置の約束をとりつけ、入場者数によって球場使用料を変えたり、球場内の売店の売り上げや広告収入を球団と神戸市が折半したりするなど、当時の慣例にとらわれない使用契約を結ぶことができたことも大きかった。本拠地移転と同時に、公募の結果チーム名を長年使用したブレーブスからブルーウェーブ(BlueWave)に変更[注釈 13]、オリックス・ブルーウェーブとなる。担当記者達は長年チームを率いた上田の後任は二軍監督であった福本豊が最有力との観測もあったが[31]、地元神戸市出身の土井正三(読売ジャイアンツOB)が就任することとなり、さらに脱阪急色が進んでいった。
開幕5連敗でスタートダッシュに失敗。以降も4月24日から6連敗、5月6日から8連敗を喫し、5月終了時点で14勝27敗で最下位に沈むなど低迷したが、投手では新人の長谷川滋利、野手では7年目の高橋智の活躍もあり6月以降は復調。しかし自慢のブルーサンダー打線は上手く機能せず、投手陣も若手ベテラン問わず不調や怪我があり3位に終わる。この年のドラフトでは1位で田口壮、そして4位で鈴木一朗(イチロー)を獲得。ブーマーが退団しダイエーに移籍。
開幕権はこの年から新しく本拠地を千葉マリンスタジアムに移転したロッテが本拠地の開幕戦を熱望したため、交渉の結果オリックス側が譲渡した。前年リーグ3位の打率ながら本塁打と打点はリーグ4位と中途半端な打撃成績の一方で、リーグ5位の失策数もあり、脱ブルーサンダー打線、繋ぎの野球、守り重視の野球を目指したが、前年に続き4月8日から5連敗、5月9日から8連敗と序盤から低迷。脱ブルーサンダー打線も打率こそリーグ2位になったが本塁打数はリーグ最下位と苦しみ、野手陣の怪我や不調を投手陣がカバーするのがやっとで年間成績は首位西武と18ゲーム差で、またしても3位に終わった。阪神タイガースから松永浩美とのトレードで野田浩司を獲得。
阪神から移籍の野田が最多勝に輝く活躍を見せたが、阪急世代のベテランらが目立った活躍ができず、3年連続の3位に終わり、土井は監督を退任し、後任に仰木彬が就任した。
仰木の下でレギュラーとして起用されたイチロー(この年に登録名を変更)は初の規定打席到達にして日本新記録の年間210安打を樹立し、当時のパ・リーグ新記録となる打率.385を記録。その功績に対してオフには正力松太郎賞が贈られた。また、それまで内野手だった田口を外野手に転向。左翼田口・中堅本西厚博・右翼イチローは当時12球団最強の外野陣と言われるほどの守備力の高い布陣となった。開幕から主力投手陣の不調や大砲不在と苦しいスタートだったがこの年から導入された予告先発を上手く利用し多種の先発オーダーを展開、前半は佐藤義則と山沖之彦の両ベテランが支え、後半は主力投手陣が本来の力を取り戻し、優勝争いにも加わった。しかし、対戦成績では近鉄・ロッテ・日本ハムには大きく勝ち越したものの、ダイエーには9勝17敗、優勝した西武とは7勝18敗と大きく負け越し、チームの打撃成績でも最多本塁打がイチローと藤井の13本が最高と大砲不在が最後まで響き、最終順位は2位に終わった。それでもイチローフィーバーに後押しされたチームは観客動員も球団記録を大幅に更新した。
1月17日に発生した阪神・淡路大震災では、当時の本拠地・神戸市が甚大な被害を受けた一方で、神戸市西区内の強い地盤の上に建つ「青濤館」(球団所有の選手寮兼室内練習場)では被害が軽微にとどまった。そのため、震災の直後には、館内に備蓄していた水や食糧を近隣の被災者へ無料で配布した[32]。球団関係者は全員無事だったものの、春季キャンプ以降のスケジュールの大幅な変更を余儀なくされたほか、一時は神戸での試合開催が危ぶまれた。しかし、地元・神戸市出身の宮内オーナーが、「こんなとき神戸を逃げ出して何が市民球団だ。一人も来なくてもいいから、スケジュール通り絶対、神戸でやれ」という表現で神戸での開催を主張。結局、当初の予定に沿って神戸で公式戦を開催することが決まったため、チームは「がんばろうKOBE」を合言葉にシーズンへ臨んだ[23]。被災した神戸市民を励まそうと一丸となったチームは、6月には月間20勝を超える躍進を見せ、ペナントレースは独走状態となり、7月末に早くもマジックが点灯した。前年までの覇者西武には直接対決15連勝を記録し、6年ぶりに勝ち越し、対戦成績では21勝5敗と大きく勝ち越した。また、4月19日の対ロッテ戦(千葉マリンスタジアム)で野田浩司が1試合奪三振19の日本新記録を達成すると、佐藤義則が8月26日の対近鉄戦(藤井寺球場)で、当時の史上最年長でのノーヒットノーランを記録。また2年目の平井正史が抑えの切り札として当時の日本記録となる42セーブポイント(15勝、27セーブ)を挙げた。「マジック1」とした後の地元神戸での4連戦(近鉄戦1試合、ロッテ戦3試合)に全敗し念願の地元胴上げはならなかったものの、西武球場で行われた9月19日の対西武戦に勝利し、1984年以来11年ぶりにして球団譲渡後初のリーグ制覇を達成した。日本シリーズではヤクルトスワローズに1勝4敗で敗れたが、被災地とともに戦うチームの姿は大きな感動を呼び、ファンは熱烈な応援でチームを支えた。この年の「神戸」と「ブルーウェーブ」の関係はホームタウンとプロスポーツチームの理想的な関係として各方面で取り上げられた。
日本ハムに先行を許し、5ゲーム差の2位で前半戦を終えたが、後半戦に入ると日本ハムとの直接対決で(引き分けを挟んで)5連勝を記録し、8月末に首位に立つ。9月23日の日本ハムとの直接対決(グリーンスタジアム神戸)ではイチローのサヨナラ安打で勝利を収め、リーグ2連覇と2年越しの「神戸での胴上げ」を実現した。8月17日から優勝決定までは21勝4敗2分という驚異的な勢いであった。日本シリーズでも巨人を4勝1敗で下し、地元神戸で1977年以来19年ぶりにして球団譲渡後初の日本一に輝いた[注釈 14]。この年は観客動員数も大幅に伸び、過去最高の179万4000人を記録している。なお、オリックスは2005年に近鉄バファローズとの合併により球団名が「オリックス・バファローズ」に変更されるため、ブルーウェーブとしてのリーグ優勝はこの年で最後、日本一は最初で最後となった。1991年新人王の長谷川滋利がMLBアナハイム・エンゼルスに移籍。
この年から2021年にかけて25年間、リーグ優勝から遠ざかることとなる
4月・5月はほぼ勝率5割であったが、6月になると月間16勝3敗1分という快進撃を見せ首位に浮上。8月上旬の時点で2位西武に4.5ゲーム差をつけ、リーグ3連覇を視界に捉えたが、そこから投手陣が崩壊。さらに若返りを焦ったあまり2連覇に貢献したベテランを相次いで放出してしまった結果、勝負所で若い選手のミスが敗戦に繋がり、西武とのマッチレースに敗れ、2位に終わる。なお、23年ぶりに全球団に勝ち越しながら優勝を逸するという珍記録も残している。オフに中嶋聡が西武にFA移籍。
開幕6連敗を喫するなど波に乗れないまま、借金14の最下位で前半戦を折り返す。後半戦に入ると復調しリーグトップの勝率を記録、最大15あった借金を完済したが、勝率5割の3位に終わった。また、優勝戦線には一度も絡めず、激戦のパ・リーグの中で唯一首位に立てなかった。この年のドラフト会議で、沖縄水産高校の新垣渚を指名し、交渉権を獲得したが、入団交渉は難航し、球団編成部長の三輪田勝利が自殺するという事態が起きた。新垣は入団せず九州共立大学に進学し、後にダイエーに入団している(詳細は三輪田勝利#1998年のドラフト、突然の死参照)。
8月半ばの時点では首位ダイエーと4ゲーム差の3位につけていたが、そこからダイエーと2位の西武に合わせて6連敗を喫し、優勝戦線から脱落。最終的には打率リーグ1位、防御率2位となったものの、若手の伸び悩みが目立って3位に終わった。この頃から1995年と1996年のリーグ連覇を担った選手たちが、引退・トレード・FA等で次々とチームを去っており、弱体化の傾向が目立つようになる。そして、それ以降は優勝争いができないシーズンが続くことになる(観客動員数も年々減少)。
ファームの収益性改善・独立採算を目指し、ファームのチーム名をサーパス神戸( - こうべ、SURPASS KOBE。後にチーム名は「サーパス」に変更)に改称した。「ファームとは本来選手がいてはいけないところ」という理念のもとにファームの改革に着手する。シーズン序盤はダイエー・西武と首位争いを繰り広げ、首位と0.5ゲーム差の3位で前半戦を折り返したが、8月に4位に転落すると、イチローの戦線離脱が追い討ちとなってAクラス争いからも脱落。結局、4位に終わり、オリックスへの球団譲渡後としては初、球団としては阪急時代最後のシーズンである1988年以来12年ぶりにBクラスに転落した。また、オフにイチローがポスティング制度を利用してシアトル・マリナーズに移籍。この年オフから3年間、ドラフト下位指名選手は「契約金ゼロ」での入団(活躍後の後払い)を実行するなど、若手にハングリー精神を植え付けようとする試みを始めたものの、効果は出ず、チームの弱体化に歯止めはかからないままだった。
ハンファ・イーグルス(韓国)から獲得した具臺晟や新人の大久保勝信を加えて臨んだ。イチローの守っていた右翼では若手の葛城育郎がレギュラーを確保し、大久保も抑えとして新人王を獲得する活躍で、8月初旬では首位近鉄に2.5ゲーム差の位置につけていた。しかし、8月下旬に7連敗を喫し5位にまで転落すると9月26日の対近鉄戦(大阪ドーム)では、大久保が北川博敏に代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打を喫した。終盤に盛り返し、シーズンを4つの勝ち越しで終えたものの、順位は4位と2年連続のBクラスに終わった。このシーズンをもって仰木は監督を退き、後任には石毛宏典が就任。この年に左翼のレギュラーで、チームの精神的支柱の田口壮がFA宣言を行い、セントルイス・カージナルスに移籍。
この年はチーム打率.235と極端な貧打に悩まされた。この貧打により、主戦投手の金田政彦が防御率2.50で最優秀防御率のタイトルを獲得するも4勝9敗、具臺晟もリーグ2位の防御率2.52を記録しながら5勝7敗と投手陣を見殺しにする試合が多く、阪急時代の1963年以来39年ぶりとなる球団史上2回目の最下位に転落してしまった。特に接戦に弱く、1点差だと15勝23敗、2点差だと8勝21敗であった。5月14・15日にはダイエーの主催ゲームとして台湾・台北市立天母棒球場で2連戦を開催、球団としては阪急時代の1962年に当時の米国統治下にあった沖縄での対大毎戦以来40年ぶりの日本国外での試合となった。また、藤井康雄がこの年をもって引退した。中日から平井正史とのトレードで山﨑武司を獲得。
前年の極度の貧打を受けてシーズンオフにはメジャーリーグで将来を嘱望されたルーズベルト・ブラウン、ホセ・オーティズや中日で本塁打王を獲得した実績のある山﨑武司など長距離砲を積極的に補強したが、大砲に偏った構成が響いて開幕から打線のつながりを欠いて低迷。当初不振に喘いでいた外国人選手の起用を巡っての球団との対立もあって、4月23日に石毛は解任された。後任には打撃コーチを務めていたレオン・リーが就任し、オーティズを二塁手で起用するなどの極端な攻撃重視のオーダーを組んだ。これにより、打率と本塁打の向上こそ見られたが、得点力には必ずしも結びつかず、逆に投手陣に故障や不振が続出したところに、ブラウンやオーティズなど守備力に難がある選手が多かったことが重なり、ディフェンス面が壊滅。特に、7月26日から8月1日までの1週間で91失点し、その後も大量失点する試合が目立った。結局、シーズンを通しての失点は927(818自責点)にものぼり、シーズン通してのチーム防御率も5.95という日本プロ野球史上ワーストの成績に終わる。特に対ダイエー戦では20失点以上を6月から9月にかけて毎月に計4度記録するなど[注釈 15]、守乱が目立った。48勝88敗4分、最終的な借金が40と大惨敗であった。球団史上初の連続最下位となり、レオンが引責辞任。後任にはこの年まで西武の監督だった伊原春樹が就任。オフにダイエーからFA宣言した村松有人、阪神からトレイ・ムーアを獲得している。
後述する近鉄との球団合併問題が発生し、ブルーウェーブとしての最後の年となった。この年もチーム防御率5.66と投手陣が崩壊し、3年連続最下位に終わっている。特にダイエーには4勝23敗、うち後半戦は10戦全敗と大敗した。これはこのカードの最多敗戦記録であり、プロ野球全体でも同一カード最多敗戦タイ記録である[注釈 16]。後半戦で全敗したことについて、当時監督だった伊原春樹は「後半戦はダイエー戦の前にいつも西武戦が組まれていて、ダイエー戦ではまともな投手がいなかった」と述べている。また、山﨑武司や具臺晟といった一部の主力選手と伊原との確執も囁かれていた。9月27日のYahoo! BBスタジアムでの最終戦は合併相手であり、こちらもこの試合が球団として最終試合となる対近鉄戦となったが、7-2で勝利している。
2004年6月13日、日本経済新聞により大阪近鉄バファローズとオリックスの球団合併が報じられ、球団合併を両球団が検討していることが判明した。以後、紆余曲折を経て12月1日、球団経営の抜本的立て直しを目的として、同じパ・リーグの近鉄と合併することとなり、オリックス・バファローズとなった[注釈 17]。なお、この時に選手分配ドラフトが開催され、選手の約半数(主には一軍戦力としては不要な選手)を新規参入球団東北楽天ゴールデンイーグルスに譲渡している。合併後の監督には近鉄・オリックス両球団で監督経験のある仰木彬(1988年 - 1992年:近鉄、1994年 - 2001年:オリックス)が復帰。保護地域に関しては兵庫県を保護地域としてきた阪神タイガースとの兼ね合いもあり、2007年度までの3年間のみ暫定措置として、従来からのオリックスの保護地域である兵庫県と、近鉄の保護地域だった大阪府の両方を阪神タイガースとともに保護地域とするダブルフランチャイズの形が取り入れられ、神戸総合運動公園野球場と大阪ドームの両方を実質的な本拠地球場とした(専用球場の扱いについてはまとめて後述)。球団事務所については引き続き神戸市内に置くことになった。
合併により、近鉄から有力選手が加入したことに加え、仰木が監督に復帰したことから、戦力は大幅に向上して臨んだシーズンとなった。仰木は肺がんに侵されながらも、指揮を執った。楽天相手には勝利を重ねる一方で、ソフトバンクには前年後半からの苦戦を引きずる形でこの年も苦しみ、一時は夏場まで1勝しか挙げらないほどだった。それでも楽天が最下位を独走するほどの低調ぶりで5位以上に留まり、チームは最後までAクラス争いを続けたが、西武に振り切られ、Aクラス入り・プレーオフ進出を逃がした。また、日本ハム相手には主催ゲームでは1勝しか挙げられず、9月の主催4連戦では全敗を喫し、Aクラス入りが遠のく一因となった。それでも2001年以来4年ぶりに最下位から脱出し、4位でシーズンを終了した。だが、仰木は癌の影響で体調面に問題があることから、この年限りで監督辞任を表明し、後任にゼネラルマネージャーだった中村勝広が監督に就任。編成を司るGMより監督への就任は日本球界初となる。オフに仰木は球団シニアアドバイザーに就任するも、12月15日に肺がんによる呼吸不全のため、70歳で死去した[33]。巨人を自由契約となった清原和博を獲得。ロサンゼルス・ドジャースに所属していた中村紀洋が2年ぶりに復帰。
大阪ドームが京セラとネーミングライツ契約を結び、7月1日付で「京セラドーム大阪」に改称された。清原や中村、広島を戦力外となったトム・デイビー、ロッテからはダン・セラフィニ、新外国人のジェイソン・グラボースキーなどを獲得し、シーズンに臨んだ。デイビーは開幕から好投を続け、開幕投手の川越も期待に応えたが清原と中村は故障に苦しみ、前年から在籍するクリフ・ブランボーは不振で、ガルシアは試合前の長電話で中村監督の怒りを買うトラブルを起こして成績も不調で、前年奮闘したリリーフ陣も菊地原毅と加藤大輔を除けばほとんど調子を落とし、低調な戦いが目立った。また、谷佳知も不振を脱却できず、規定打席に到達したのは村松、塩崎真、谷の3人だけと主軸を固定できなかった。8月27日の北海道日本ハムファイターズ戦で敗れ、7年連続Bクラスと1980年以来26年ぶりの5位が確定した。成績不振の責任を取って中村が監督辞任、後任はテリー・コリンズが就任。オフに巨人から低迷期より主戦打者だった谷佳知との1対2トレードで鴨志田貴司、長田昌浩を獲得。11月20日よりこれまで神戸市(スカイマークスタジアム内)にあった球団事務所を大阪市北区堂島に移転した(後に京セラドーム大阪内に再移転)。この結果、球団業務の大半(球団本部、大阪営業部、ファンサービス部等)は大阪に集約され、神戸事務所は神戸営業部等一部の業務のみに規模を縮小するなど、球団の経営機能は大幅に大阪にシフトしていくことになった。一方で、選手の入団会見や契約更改は、現在でも主に神戸にて行われる[34][35]。また、専用球場の登録はこの年に限り、暫定的に神戸に移したが、シーズン終了と共にまた大阪に戻し、試合数を大幅に増やすことになる(後述)。
1月6日に前川勝彦が大阪市内でひき逃げ事故を起こし、さらに無免許[注釈 19]だったことが発覚して、業務上過失傷害と道路交通法違反の疑いで逮捕された。これを重く見た球団は、1月18日付で前川を懲戒処分として所属契約を解消、その騒動の最中だった1月17日に大幅な減俸を提示されて契約交渉が決裂した中村紀洋も同様に契約を解消した。このほか、球団の編成も完了している時期の契約解消について、選手会が野球協約上、問題のある交渉ではないかと批判している。シーズン開幕前に新外国人としてタフィ・ローズを獲得して臨んだシーズンだったが、選手起用などで混迷は続いた。4月下旬から5月半ばにかけて17試合で1勝16敗と大きく負け越すと優勝争いはおろか、Aクラス争いにすら加わることなく、パ・リーグ現存5球団に負け越し、2004年以来3年ぶりの最下位が確定した。オフにかつてオリックスに在籍していた前巨人のジェレミー・パウエルの獲得を発表したが、1月29日になって福岡ソフトバンクホークスとの間で二重契約問題が発生し、パウエルはソフトバンクに入団した(詳しくはジェレミー・パウエル#二重契約問題を参照)。
この年より協約上での保護地域を大阪府に統合。3月1日にこれまで共同出資を行っており、袖のユニフォームスポンサー契約を結んでいた近畿日本鉄道とのスポンサー契約を更新しないことが発表された(出資も引き揚げ)。これにより、近鉄は1949年の近鉄パールス創設以来かかわって来たプロ野球事業から完全に撤退した。
序盤は開幕から4月にかけて12勝19敗と低迷が続き、借金生活に。結局、5月21日に監督のコリンズが辞任し、併せて大石大二郎ヘッド兼内野守備走塁コーチが監督代行として指揮を執ることを発表した。
※2008年の監督代行時代も含める。
大石の監督代行就任後、6月3日の巨人戦に勝利し、阪急時代も含めて通算4500勝を達成[注釈 20]するなど、チームは持ち直していった。
8月1日、監督代行の大石が正式に監督に昇格した。9月24日の対ソフトバンク戦に勝利して2001年シーズン以来7年ぶり、オリックス・バファローズとしては初のシーズン勝ち越しを決め、29日の対西武戦に勝利して、初のクライマックスシリーズ進出を決めた。レギュラーシーズン2位として挑んだクライマックスシリーズでは第1ステージで3位日本ハムと対戦するも、2連敗で敗退し日本シリーズ出場とはならなかった。15勝を挙げて新人王を獲得した小松聖を筆頭に、山本省吾、金子千尋、近藤一樹が先発10勝、加藤大輔が最多セーブ、坂口智隆はゴールデングラブ賞、ローズは打点王を獲得するなど、チームの戦力は大幅に充実した。清原和博が現役を引退した。
1月19日にファームとネーミングライツを契約していた穴吹工務店との契約満了に伴い、10年ぶりにファームのチーム名が「サーパス」から一軍と同じ「オリックス・バファローズ」に変更された。2月23日、ビジター用ユニフォームと球団旗のデザイン変更が発表される(後述)。3月28日、関西プロ野球球団初の球団公式チアリーリングチームがデビューし、4月10日にチーム名「Bs Dreams(ビーズ・ドリームズ)」が発表された。この年は、楽天を退団したホセ・フェルナンデスを加え、ローズ、アレックス・カブレラ、グレッグ・ラロッカの4人でビッグボーイズを結成するなどし、開幕前の野球解説者の予想でも上位にあげられていたが、これら4人の外国人選手全員が骨折するなど、極度の不運に見舞われ、主力選手の多くが怪我で離脱した。先発投手陣も、前年大活躍をした小松が開幕から大不振に陥ったのをはじめ、近藤が5月から不調に陥り、復帰した平野佳寿も開幕直後に体調不良で戦線離脱、開幕から金子と共に好調を維持していた岸田護も故障で離脱した。さらに、抑えの加藤を擁するリリーフ陣も不安定な投球が目立ち、9月以降は先発要員の金子が抑えに起用された。チームは5月に9連敗、6月に7連敗と大型連敗を繰り返し、6月は4勝14敗と大きく負け越して低迷。6月10日から一軍投手コーチ(ベンチ)の赤堀元之をブルペン、一軍投手コーチ(ブルペン)の清川栄治をベンチに配置転換した。6月18日からは一軍チーフ投手コーチの佐々木修を二軍投手コーチに降格、先日一軍投手コーチとなった清川栄治を一軍チーフ投手コーチに昇格する人事を発表している。しかし、これでも好調の兆しは最後まで見られず、優勝した日本ハムに8勝16敗、2位楽天には4勝19敗1分と大きく負け越すなど苦戦を強いられ、9月にはシーズン3度目の6連敗を喫した。9月9日の対楽天戦で敗戦を喫して2007年以来2年ぶりにシーズン負け越しが決定。9月27日の対ロッテ戦で引き分けになり、勝率差でロッテに及ばなくなったため、2007年以来2年ぶりに最下位となった。その責任を受けて中村GMと大石監督が解任。大石の後任には2008年まで阪神の監督を務めた岡田彰布が就任した。阪神を自由契約となったアーロム・バルディリス、巨人から高木康成とのトレードで木佐貫洋を獲得。
1月23日にシカゴ・カブスを自由契約となっていた田口壮が9年ぶりに復帰。だが、2月5日にキャンプ地の宮古島市のホテルで小瀬浩之が転落死[36]する事態が起きた。直後に西武から阿部真宏とのトレードで赤田将吾を獲得。3月20日から3月26日まで1989年以来のパ・リーグ開幕4連勝を果たす。4月2日から4月7日まで5連敗・合計37失点と大量失点されたこともあり、4月8日にバッテリーコーチの三輪隆を二軍バッテリーコーチに降格、二軍バッテリーコーチの吉原孝介をバッテリーコーチに昇格させる人事を発表した。交流戦に入ると、16勝8敗の好成績を残し、6月13日の対横浜ベイスターズ戦を7-2で勝利し、交流戦6年目で初優勝。同日にはセギノールが8年ぶりにオリックスに復帰。交流戦後の後半戦に入ると、一時は3位に浮上したものの、主力選手の不振等で連敗を繰り返し、その後もCS出場圏内に留まっていたが、9月26日に日本ハムが勝ち、勝率差で日本ハムにはおよばなかったため、2年連続Bクラス、9月28日に2006年以来4年ぶりの5位が決定した。T-岡田が本塁打王、金子千尋が最多勝を獲得した。オフに横浜から一輝、山本省吾、喜田剛との計3対4トレードで桑原謙太朗、野中信吾、高宮和也、寺原隼人、ロッテから光原逸裕とのトレードで齋藤俊雄を獲得。
「オリックス・バファローズ改造計画」と称し、球団旗・ユニフォーム・ペットマーク・ロゴマークを全部一新、新マスコット(バファローブル、バファローベル)を導入した。一方、既存マスコット(ネッピー、リプシー)は引退となった。
4月29日にロッテから金銭トレードで竹原直隆を獲得。交流戦は2位。チーム防御率リーグワーストと投手陣が低迷していたため8月3日付で一軍投手チーフコーチの福間納を育成担当へ降格、育成担当の赤堀元之は一軍投手コーチ(ブルペン)、ブルペン担当だった小林宏はベンチに昇格した。4年連続でシーズン中に投手コーチが交代することになった[37]。その後、8月28日の対ロッテ戦から9月7日の対楽天戦まで1997年以来14年ぶり、オリックス・バファローズとして初の9連勝を達成した[38]。9月は18勝6敗1分という好成績で3位となり、調子を落とした2位の日本ハムと一時は1.5ゲーム差にまで縮めるが、10月は3勝9敗1分と調子を落とし、最後は西武との3位争いの末、18日のシーズン最終戦において[注釈 22]オリックスがソフトバンクに敗れ、同じくこの日最終戦だった西武が日本ハムに勝利したため、わずか勝率1毛差(.0001差)で4位に転落し、3年連続のBクラスに沈み、2008年以来3年ぶりのAクラス入りとクライマックスシリーズ出場を逃した。オフに李承燁、朴賛浩、加藤大輔、田口壮が退団。西武からFA宣言した許銘傑、新外国人として李大浩を獲得。
3月28日に元阪神の井川慶を獲得。4月19日に勝率5割とした以外はすべて勝率5割を切った。5月20日に新外国人としてボビー・スケールズを獲得。月間別勝率でも7月と10月に勝ち越した以外はすべて負け越し、6、8、9月は勝率3割台で、9月には12連敗で球団記録を更新するなど、タイ記録となった同月24日の対ロッテ戦で最下位が確定し[40]、翌25日にシーズンの最後まで指揮を執ることになっていた[41]監督の岡田とヘッドコーチの高代延博が休養し、併せてチーフ野手兼内野守備・走塁コーチの森脇浩司が監督代行として指揮を執ることを発表した[42]。
※2012年の監督代行時代も含める。
9月25日の対ソフトバンク戦に敗れ、連敗の球団新記録となり[43]、翌26日の対ソフトバンク戦に勝利して連敗を止め、森脇の監督代行就任以降の成績を7勝2敗とした。10月7日に京セラドームで行われた引退試合を最後に北川博敏が現役を引退した。西が10月8日のシーズン最終戦で小久保裕紀の引退試合となった対ソフトバンク戦でノーヒットノーラン達成[44]。チーム打率、防御率は共にリーグ最低で、最下位チームからは史上6人目の打点王となった李大浩が打点を挙げた試合では30勝27敗2分と勝ち越すが、打点0の試合では27勝50敗8分と大きく負け越した。監督代行の森脇が翌年から正式に監督として指揮を執ることを発表した[45]。オフに日高剛が阪神、寺原隼人がソフトバンクにFA移籍。スケールズが退団した。巨人から香月良太、阿南徹との2対2トレードで東野峻、山本和作を獲得。ロッテを自由契約となった松本幸大、中日を自由契約となり、かつて在籍していた平井正史を獲得。阪神からFA宣言した平野恵一が6年ぶりに復帰。平野の人的補償として高宮和也が阪神に移籍。FAでソフトバンクに復帰した寺原の人的補償として馬原孝浩、日本ハムから大引啓次、木佐貫洋、赤田将吾との3対2トレードで糸井嘉男、八木智哉を獲得[46]。
エースの金子千尋はケガのため、オープン戦に登板できなかったものの、ぶっつけ本番で開幕投手を任され、好投するもチームは延長12回の末サヨナラ負け。交流戦は13勝10敗で巨人・日本ハム・ロッテと同率の3位とした[47]。9月21日にシーズン前のトレード相手の日本ハムを抜いたことで、最下位から脱出するも、10月1日の対ソフトバンク戦に2対9で敗れ、5年連続Bクラスが確定し、クライマックスシリーズ進出を逃した[48]が、それでも6日の対ロッテ戦に3対1で勝利し、2010年以来3年ぶりの5位が確定した[49]。個人では金子千尋が沢村賞を24勝無敗の偉業を成し遂げた楽天の田中将大に譲ったが、田中もできなかった沢村賞の選考基準全項目を満たし、奪三振王のタイトルを獲得した。また、糸井は3番ライトを担い、この年も24本塁打を記録した4番の李大浩、5番のアーロム・バルディリスと共に強力なクリーンアップを築き、自身5年連続となる打率3割・ゴールデングラブ賞を達成し、自己最多の安打、本塁打、盗塁を記録するなど投打の柱は共に活躍した。オフにバルディリスと李大浩の両外国人選手が退団した(バルディリスはDeNA、李大浩はソフトバンクに移籍)。日本ハムを自由契約となった榊原諒と育成契約を結んだ。巨人を自由契約となった丸毛謙一を支配下選手として獲得したと同時に谷佳知が8年ぶりに復帰。ソフトバンクからFA宣言した山崎勝己、西武を自由契約となったエステバン・ヘルマン、ソフトバンクを退団したウィリー・モー・ペーニャ、楽天から後藤光尊とのトレードで鉄平を獲得。
この年は楽天が、球団創設初の年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一を達成したため、オリックスは現存11球団の中で広島、DeNA、ヤクルトと共に「新球団に年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一を先にされた球団」となった[注釈 23][注釈 24]。
4月を首位で終えると、ソフトバンクとの熾烈な首位争いを繰り広げ、1995年以来19年ぶりに前半戦を首位で終える。一方、7月8日に榊原諒を支配下選手に昇格させた。また、7月29日に中日から三ツ俣大樹とのトレードで岩﨑恭平を獲得。9月17日には2008年以来6年ぶりのAクラスとクライマックスシリーズ進出が決定した[51]。ソフトバンクとの優勝争いは続き、9月終盤には残り試合数の関係で、一時は2位ながらも、優勝マジックが点灯した。10月2日のソフトバンク戦(ヤフオクドーム)、オリックスはこの試合に勝って残りシーズン2試合を2連敗さえしなければ、1996年以来18年ぶりのリーグ優勝、この試合がシーズン最終戦となるソフトバンクはこの試合に勝てばリーグ優勝という事実上の優勝決定戦を迎える。試合は9回では決着がつかず、延長に突入するが、10回裏にサヨナラ負けを喫したことで、優勝を逃し、1位との勝率僅か2厘の差で2位に終わった[注釈 25][注釈 26][52]。日本ハムとのCSファーストステージでは1勝2敗で敗退した[53]。この年は各選手がキャリアハイレベルの成績を達成し、打撃陣では3番や4番を務めた糸井が前半戦終了時点で打率、安打、盗塁、出塁率、長打率でトップに立ち、最終的に19本塁打と81打点、31盗塁に加え、首位打者と最高出塁率のタイトルを手にする大活躍を見せると、ペーニャも32本塁打、91打点の活躍で退団した李大浩の穴を埋め、T-岡田も24本塁打を放ち、チームとして長打力が大幅にアップ。また、ヘルマンが30盗塁の活躍で退団したバルディリスの穴を埋め、安達了一が29盗塁と課題の機動力も大きく向上した。投手陣では最多勝、最優秀防御率、最高勝率の投手三冠に輝き球団史上初の沢村賞を獲得したエース・金子千尋[54]、開幕8戦全勝の球団記録を樹立した西、さらに9勝を挙げたブランドン・ディクソンら先発陣に、48ホールドポイントを挙げ2年連続ホールド王に輝いた佐藤達也、当時パ・リーグ新記録の40セーブを挙げ、初のセーブ王を獲得した平野佳寿に加え、32ホールドの馬原孝浩、パ・リーグ記録の34試合連続無失点を記録した比嘉、55試合に登板した岸田護ら強力なリリーフ陣の活躍で、リードした試合は落とさない安定した戦いを見せた。オフに八木智哉、ペーニャが自由契約となった(八木は中日、ペーニャは楽天に移籍)。阪神から桑原謙太朗とのトレードで白仁田寛和、中日を自由契約となった田中大輔を獲得。チームが好成績を残したことで、フロントが大型補強を敢行。日本ハムからFA宣言した小谷野栄一、メジャーリーグに挑戦していた中島裕之、DeNAを自由契約となったトニ・ブランコ、広島を自由契約となったブライアン・バリントンを獲得。戦力流出の阻止としてはFA権を行使しての国内移籍の意向を示していた守護神の平野佳寿を球団のリリーフ投手史上最高の年俸3億円の3年総額9億円契約を締結[55]。さらには12月15日に日本ハム時代からポスティングシステムを利用してのメジャーリーグ挑戦を切望していた主砲の糸井には日本人外野手最高の年俸3億5,000万円の単年契約で残留にこぎつける[56]。そして12月24日にFA権を行使し、国内・海外への移籍への交渉を行っていたエースの金子を球団の投手史上最高の年俸5億円の4年総額20億円という超大型契約[57][58] で投打の柱の3選手の流出を阻止した。合計50億円超(推定)の大型増強を行った。
開幕から打撃陣が総じて不振に陥り、故障者も続出。投手陣もエースの金子や昨年活躍したリリーフ陣の出遅れなどが響いて大きく負け越した。チーム打率.232はリーグ5位と低迷、それを受けて4月19日の埼玉戦終了後に一軍打撃コーチの佐藤真一と二軍打撃コーチの下山真二の配置転換を発表した[59]。しかし、チームは浮上することなく、5月31日に早くも自力優勝が消滅した[60]。6月2日に監督の森脇が低迷の責任を取って休養し、併せてヘッドコーチの福良淳一が監督代行として指揮を執ることを発表した[61]。
※2015年の監督代行時代も含める。
前年まで二軍打撃コーチを務めていたフロント業務未経験の北川博敏を事業本部企画事業部のプロジェクトマネジャー(PM)に異動。選手時代からの知名度や人気の高さを生かして、ファンの開拓に向けたPR業務に携わる傍ら、球団主管試合のテレビ中継での解説、球団情報番組『オリックス日和』(TwellV)のMC、京セラドーム大阪でのスタジアムツアーのガイドなど幅広く活動していた(北川は2016年シーズンから打撃コーチとして現場に復帰したことにより、『オリックス日和』の司会は、お笑いコンビ・ますだおかだの岡田圭右が就任)。
交流戦はパ・リーグ球団では唯一負け越しの8勝10敗の9位に終わる。6月22日に群馬ダイヤモンドペガサスからヨヘルミン・チャベスを獲得したこと、群馬ダイヤモンドペガサスのシニアディレクターを務めていたアレックス・ラミレスが巡回アドバイザーに就任することを発表した[62]。しかし、交流戦以降もチームは低迷を続け、前半戦を首位・ソフトバンクと18.5ゲーム差の最下位でターンした。後半戦になっても浮上できず、8月16日の対ロッテ戦に敗れ、自力でのクライマックスシリーズ進出の可能性が消滅した[63]。8月25日の対楽天戦に勝ち、最下位から脱出するも[64]、その後3連敗を喫し、最下位に逆戻りした[65]。8月27日に休養していた監督の森脇が31日付けで退任することと、球団シニアアドバイザーへの就任を発表した[66]。ヘッドコーチの福良が監督代行のまま指揮を執る。9月15日のソフトバンク戦(京セラドーム大阪)に6-1で勝利し、前身の阪急時代から数えてリーグ戦通算5000勝を達成した。なお、NPB所属の球団では巨人、阪神、中日に次いで4球団目で、パシフィック・リーグ所属球団としては初であった[67]。9月23日に元GM・監督の中村勝広が66歳で急逝した。終盤は楽天との5位・6位争いとなり、10月3日の対ソフトバンク戦に勝利したことで、最下位から脱出し、2013年以来2年ぶりの5位が確定した[68]。大型補強を行い、優勝候補と謳われながら、首位ソフトバンクと30ゲーム差のBクラスに終わった[69]。監督代行の福良が翌年から正式に監督として指揮を執ること、球団OBの田口壮が二軍監督に就任することを発表した[70]。しかし、オフに谷佳知と平野恵一の両ベテランが現役を引退し、馬原孝浩、坂口智隆が自由契約となり、井川慶、ヘルマン、榊原諒、鉄平ら移籍組は戦力外通告を受け、相次いでビックネームが退団した(坂口はヤクルトに移籍、馬原、ヘルマン、榊原、鉄平は現役を引退)。また、この年には日本ハムのバッテリーコーチ兼捕手の中嶋聡が現役を引退したことにより、阪急→オリックス・ブレーブスに所属した選手と、西宮球場時代に在籍した選手が全員引退した。ドラフトでは10位選手まで指名し、大幅な「血の入れ替え」となった[71]。新外国人としてブレント・モレル、ブライアン・ボグセビック、エリック・コーディエを獲得。
キャンプ直前に昨年まで正遊撃手を担っていた安達了一が潰瘍性大腸炎を発症して離脱、キャンプ中には新外国人としてパット・ミッシュを獲得。オープン戦を中日、DeNAと同率の最下位(10位)で終えると、シーズンに入っても、投打ともに低調な状態が続き、金子、西といった先発陣だけでなく、新守護神として期待されていたコーディエら救援陣も大量失点する試合が目立った。打線もリーグ制となってからワーストとなる「チームとして開幕から13試合連続無本塁打」の記録を樹立してしまった[72]。その後も貧打は続き、5月17日に元・中日のマット・クラークを獲得[73]。交流戦は5勝13敗で最下位に終わる一方で、7月17日にヤクルトから近藤一樹とのトレードで八木亮祐を獲得[74]。後半戦も低迷から抜け出すことはできず、本拠地最終戦となった9月29日の楽天戦に敗れ、2年連続Bクラスと2012年以来4年ぶりの最下位が確定した[75]。同一シーズンでオープン戦、交流戦、公式戦、二軍のすべてが最下位となるのは史上初で[76]、さらに公式戦では全球団に負け越し、交流戦でもシーズン中のトレード相手のヤクルトを除く全球団に負け越す結果となった[77]。しかしながら、シーズンのチーム捕逸数が「0」という日本プロ野球史上初の記録を達成した[78]。また、チーム打率・得点・安打・チーム防御率リーグ最下位、本塁打・失点は5位に低迷した[79]。オフに齋藤俊雄が戦力外通告を受け、その後現役を引退した。新外国人としてフィル・コーク、ゴンザレス・ヘルメン、マット・ウエスト、ステフェン・ロメロを獲得。モレル以外の外国人選手3人が自由契約となった(ミッシュはサザンメリーランド・ブルークラブスに移籍)。糸井嘉男が阪神にFA移籍[80]。
この年から二軍の本拠地が舞洲サブ球場へと移転。練習場と合宿所も含めて神戸から大阪へ移る形となった(詳細は後述)。首位楽天と2ゲーム差の2位で4月を終えるが、5月は4連敗、6連敗、そして2003年以来の球団ワーストタイ記録の9連敗、9カード連続負け越しを喫し[81]、5月下旬の交流戦前に一時順位は5位まで下がった。5月22日、奥浪鏡が運転免許停止中に自家用車を運転して交通事故を起こした(8月3日に契約を解除)[82]。5月28日のロッテ戦で山岡が初勝利した。その後、長打力不足解消のため、5月30日に新外国人としてクリス・マレーロを獲得。交流戦に入ると、6月4日の巨人戦まで7連勝し、交流戦を単独首位でスタートするが、6月11日の中日戦から17日のDeNA戦まで6連敗を喫する。6月19日のDeNA戦で逆転勝ちし、交流戦再編後初の勝ち越し、交流戦で6位に入った。なお、広島には3年連続で3連敗した[83]。交流戦初戦から単独4位に浮上するが、その後は順位の変動がなく、3位楽天と15ゲーム差の4位が確定した。モレルが現役を引退した。オフに日本ハムからFA宣言した増井浩俊、新外国人としてアンドリュー・アルバースを獲得。モレル以外の外国人選手3人が自由契約となった(コークはモンクローバ・スティーラーズ、メルヘンはシカゴ・ホワイトソックス、ウエストはデトロイト・タイガースに移籍)。平野佳寿がアリゾナ・ダイヤモンドバックスにFA移籍。
開幕からロメロ、T-岡田ら中軸は打撃不振に陥ったものの、田嶋大樹、アルバース、増井ら新入団の投手の奮闘で一時はAクラスに立った。一方、7月7日に新外国人としてドン・ローチ、9日にDeNAから伊藤光、赤間謙との2対2トレードで髙城俊人、白崎浩之を獲得。入団3年目の吉田正尚がシーズン中盤から4番打者に定着。オールスター明けには8連敗を喫した[84]。最終的には4年連続Bクラスと2年連続4位が確定した[85]。10月5日に京セラドーム大阪で行われた引退試合を最後に小谷野が現役を引退した[86]。福良が監督を辞任し、後任にヘッドコーチの西村徳文が監督に昇格する形で就任することが発表された[87]。オフに中島宏之、金子千尋、ローチが自由契約となった(中島は巨人[88]、金子は日本ハム[89]、ローチはシカゴ・ホワイトソックスに移籍)。西勇輝が阪神にFA移籍[90]。新外国人としてジョーイ・メネセス、タイラー・エップラー、ヤクルトを自由契約となった成瀬善久を獲得。
この年は平成最後のペナントレースだったので、オリックスは現存12球団の中でロッテ、DeNA、阪神と共に「平成時代に1度もクライマックスシリーズを1位通過できなかった球団」となった。
2019年から英字略称および帽子やヘルメットのロゴマークが「Bs」から「B」に改められた。
3月21日にシアトル・マリナーズに復帰していたイチローが現役を引退した。5月1日に張奕を支配下選手に登録させた。6月27日に禁止薬物を使用していたことが発覚したメネセスとの契約を解除した。6月30日に中日から松葉貴大、武田健吾との2対2+金銭トレードで松井雅人、松井佑介、スティーブン・モヤを獲得[91]。しかし、5年連続Bクラスと2016年以来3年ぶりの最下位が確定した[92]。9月29日に京セラドームで行われた引退試合を最後に岸田護が現役を引退した[93]。山岡泰輔が最高勝率[94]、山本由伸が最優秀防御率を受賞[95]。オフに髙城俊人、成瀬善久、ロメロとエップラーの両外国人選手が自由契約となり(髙城はDeNAに復帰、成瀬は栃木ゴールデンブレーブス、ロメロは楽天に移籍)、マレーロが退団し、その後現役を引退した。新外国人としてアダム・ジョーンズ、タイラー・ヒギンス、アデルリン・ロドリゲスを獲得。
この年は令和最初のペナントレースだったので、オリックスは「令和最初のパ・リーグ最下位球団」となった。
新型コロナウイルス感染症の影響もあり、開幕が6月19日に延期となった。引き分けを挟まずに開幕戦9連敗とし、パ・リーグ記録に並んだ[注釈 27][96]。6月23日から始まったZOZOマリンスタジアムでのロッテとの6連戦では最終日の28日まで勝利を飾ることができず、日本プロ野球史上初となる同一球場同一カード6連敗を喫した[97]。同日に先発した昨年最高勝率の山岡泰輔がこの試合で緊急降板、戦線離脱した。一時は5位に何とか持ち直すも、その後ソフトバンクに連敗し、再び最下位に転落。8月20日の試合終了後に西村は会見を行い、成績不振を理由に監督を辞任(事実上の解任)し、併せて二軍監督の中嶋聡が監督代行として指揮を執ることを発表し、コーチ陣も一・二軍間の入れ替えなど、大幅なテコ入れを図った[98]。
※2020年の監督代行時代も含める。
山﨑福也が8月21日の監督代行就任初戦の対西武戦で好投し、2安打1失点。打線はジョーンズがホームランなど3打点を記録し、初陣勝利となり[99][100]、9月9日にT-岡田が代打で5球団目となる球団8500号となるホームランを放った[101]。しかし、低迷したチームを立て直すことなく、借金が増えていき、14日の対ロッテ(ZOZO)に敗れ、シーズンワーストの借金23にまで達し、10月29日の対日本ハム(札幌ドーム)で敗れ、球団合併後初の6年連続Bクラスと2年連続最下位が確定した[102]。最下位確定後は高卒ルーキーの紅林弘太郎をプロ初出場から5試合連続でスタメン起用するなど[102]、翌年に向けて若手を起用した。監督代行の中嶋が翌年から正式に監督として指揮を執ることを発表した。オフに白崎浩之、松井佑介、アルバースとロドリゲスの両外国人選手が自由契約となった(白崎は大分B-リングスに移籍、松井は現役を引退、アルバースはミネソタ・ツインズに復帰、ロドリゲスは2022年シーズン途中、阪神に入団)。阪神を自由契約となった能見篤史を投手兼投手コーチとして獲得。楽天を自由契約となったロメロが2年ぶりに復帰。
この年よりコーチ陣の見直しを図り、中嶋監督・小林宏二軍監督を除く一軍・二軍コーチの区別をなくした。2月6日にシアトル・マリナーズからFAとなった平野佳寿が4年ぶりに復帰[103]。しかし、開幕戦を10連敗とし、パ・リーグ記録を更新すると[注釈 27]、4月・5月は勝率5割を切る低空飛行が続いたが、交流戦に入り、一気に躍進し、12勝5敗1分(勝率.706)で2010年以来11年ぶりに交流戦優勝を決めた[104]。その勢いのまま6月20日に2014年7月25日以来7年ぶりとなる単独首位に立ち[105]、23日に1984年以来球団37年ぶりとなる11連勝を遂げ、10月12日のロッテ戦で引き分けたことにより、2014年以来7年ぶりのCS進出が決定した[106]。以降はロッテと首位争いを広げ、一時はロッテにマジックが点灯するも、10月25日のシーズン最終戦で楽天に勝利し、ロッテがソフトバンクに敗れたことで、首位に浮上[107]。10月27日にまだ試合が残っていたロッテが楽天に敗れたことで、オリックス・ブルーウェーブとしてリーグ優勝を決めた1996年以来25年ぶり13度目、近鉄と合併してからは初のリーグ優勝を果たした[108]。前身を含め、OB監督によるリーグ優勝は球団史上初[109][注釈 28]。これにより、パ・リーグ現存6球団と2004年に消滅した近鉄を含む全7球団がリーグ優勝をしたと同時に、球団名を1度も変更していない楽天を除く同5球団と近鉄を含む全6球団が現在の球団名(近鉄は2001年の大阪近鉄バファローズ時代)になってからリーグ優勝をした[注釈 29]。なお、パ・リーグにおいて前年最下位の球団がリーグ優勝した前例は2001年の近鉄以来20年ぶりでパ・リーグで2度目、セ・リーグを含め7度目の事例であり、2年連続最下位からの優勝もそれ以来となった[113]。また、自チームの全日程終後に他球団の結果待ちにより、優勝が決定した事例は1988年の西武(10.19)以来33年ぶりのことであった[114]。
クライマックスシリーズを突破し、出場した日本シリーズでは同じく前年リーグ最下位からセ・リーグ優勝を果たした(両リーグ共に前年最下位球団がリーグ優勝したのはプロ野球史上初[113])ヤクルトと対戦。第1戦・第5戦で勝利を挙げたものの、第2戦は2点差、その他の試合は全て1点差で惜敗。シリーズ2勝4敗で1996年以来25年ぶりの日本一を逃した[115]。
投手陣では山本が最多勝利(18勝)・最優秀防御率・最多奪三振(2年連続)・最高勝率の投手4冠[116]、高卒2年目の宮城大弥が13勝[117]、田嶋と山﨑福がキャリアハイの8勝を挙げ[118]、野手陣は吉田正が.339で2年連続首位打者と.429で初の最高出塁率[119]、杉本裕太郎が32本塁打で初の本塁打王を獲得した[120]。また、沢村賞を山本、ゴールデングラブ賞を山本(投手)と宗佑磨(三塁手)が受賞し、共に初受賞となった[121]。
オフにジョーンズら外国人選手4人が自由契約となり、新たにブレイビック・バレラ、ジェイコブ・ワゲスパック、ジェシー・ビドルを獲得[122]。
3月25日の西武戦に6対0で勝利し、2012年以降続いていた開幕戦の連敗を10で止めた。直後に前年には無かった5連敗を喫するなど、序盤は低迷が続いたが、交流戦明けから復調し、徐々に上位に進出していく。終盤にはソフトバンクとの優勝争いを演じ、ソフトバンクにマジック「1」が点灯した状態で最終戦を迎え[123]、その最終戦で楽天に逆転勝ちする一方で、ソフトバンクが敵地でロッテに逆転負けを喫した。最終成績が76勝65敗2分けとなった両球団が勝率で並んだが、直接対決で15勝10敗と勝ち越したため、規定により、2年連続14回目のリーグ優勝を果たした[124]。
クライマックスシリーズではソフトバンクの2019年のCSファーストステージ第2戦から続いたポストシーズンでの連勝を18で止め、アドバンテージを含めて4勝1敗で突破[125][126]。2年連続での顔合わせとなったヤクルトとの日本シリーズは第3戦まで2敗1分と苦しんだが、そこから4連勝を収め、1996年以来26年ぶりの日本一を達成した。前身を含め、OB監督による日本一は球団史上初[109][注釈 30]。これにより、パ・リーグ現存6球団全てが日本一になったと同時に、球団名を1度も変更していない楽天を除く同5球団全てが現在の球団名になってから日本一になった[注釈 31]。10月30日に明治神宮球場で行われた第7戦を最後に能見が現役を引退した。
山本が前年獲得した投手4冠を全て連続して受賞した。
オフにポスティングで吉田正尚がボストン・レッドソックスに移籍、FAで森友哉(前西武)を獲得、伏見寅威が日本ハムへ移籍、外国人選手はワゲスパック以外の5人が自由契約となり、ジャレル・コットン、フランク・シュウィンデル、マーウィン・ゴンザレス、レアンドロ・セデーニョ(育成)を獲得した。
阪急から球団譲渡以降34年間に渡りオーナーを務めてきた宮内義彦が今年限りで退任。オリックスグループCEOの井上亮が後任[127]。
9月9日、山本がプロ野球史上100度目のノーヒットノーランを達成し、2年連続の達成は亀田忠以来82年ぶりで2リーグ制後初、複数回達成は外木場義郎以来51年ぶりでパ・リーグ所属選手では初(外木場は達成数は3回で、広島所属)と、記念づくしとなった[128]。
その11日後の9月20日、京セラドーム大阪で行われたロッテ戦。阪急時代以来54年ぶりにリーグ3連覇を果たし、本拠地でのリーグ優勝はオリックス・ブルーウェーブとしてリーグ優勝を決めた1996年以来27年ぶり、近鉄と合併後は初の快挙となった。これにより、20世紀に創設されたパ・リーグ現存5球団と2004年に消滅した近鉄を含む全6球団が前身を含め、本拠地で年間勝率1位によるリーグ優勝決めた[注釈 32]。なお、セ・リーグ優勝は阪神だったため、両リーグとも関西にフランチャイズを置く球団の同時優勝は1964年の南海と阪神以来59年ぶりとなった[注釈 34][129]。その阪神との日本シリーズでは6戦終了時点で「23点–23点」という拮抗したシリーズとなり、第7戦を1-7で敗戦し、3勝4敗で1976年以来の日本シリーズ連覇を逃した。
オフに山本由伸がポスティングでドジャースと12年総額3億2500万ドル(約465億円)で契約し移籍、山崎福也がFAで日本ハムに移籍。FAで広島より西川龍馬を獲得、人的補償として日高暖己が移籍した。
同年オフにはジーロング・コリアで現役に復帰していた具臺晟が現役を引退し、選手兼任監督として石川ミリオンスターズで現役に復帰していた後藤光尊が選手兼任監督を退任したことにより、オリックス・ブルーウェーブに所属した選手と、球団合併前に在籍した選手が全員引退した。
9月20日、2リーグ制以降で1961年の22度を更新する球団ワースト23度目の零敗を喫した[130][131]。2リーグ制以降球団史上初の2桁得点なしに終わったのと規定投球回に到達した投手もいなくなってしまい、最終的にシーズン5位に終わり、中嶋監督はシーズン最終戦の10月6日の対東北楽天戦(楽天モバイルパーク宮城)終了後に、今シーズン限りで退任することを表明した[132]。
2005年より球団合併に伴う暫定処置として3年間限定で「ダブルフランチャイズ制」が認められ、合併前に両球団が本拠としていた2球場をともに本拠地球場扱いとした[注釈 40]。ただし、野球協約における正式な本拠地球場である専用球場については規定通り1つとされ、大阪ドームが登録された。この年は大阪で34試合、神戸で32試合(他東京ドーム遠征2試合)が開催されている。球団は最終的には神戸での試合数を削減した上で大阪ドームに本拠地を一本化する方針であった(大阪ドームでの主催公式戦、当初案は2006年:42試合→2007年:54試合→2008年:60試合)。
ところが2005年10月、大阪ドームを運営する第三セクター「大阪シティドーム」が会社更生法を申請し、その後のドームの運営体制が不確定な事態となった影響から、オリックスは2006年、専用球場の登録をスカイマークスタジアムに変更し、主催公式戦を半数ずつ[注釈 41]開催する措置を執った。同年4月、オリックスが大阪ドームの買収に乗り出し、同年6月にシティドーム社を100%減資した上で施設とともにオリックス子会社のオリックス・リアルエステート(現:オリックス不動産)が買収した(詳細は大阪シティドーム参照)。これを受けてオリックスは2007年、再び大阪ドームを専用球場として登録。同年も予定を変更して主催公式戦のうち48試合が大阪で開催された。
2008年以降はダブルフランチャイズ制が終了、専用球場の選択は保護地域の大阪府内にある京セラドーム大阪(大阪ドーム)に限られることになった。ただし神戸総合運動公園野球場(ほっともっとフィールド神戸)の準本拠地としての使用も継続とし、年間20試合程度を開催していった。2011年度からは大阪ドームでの試合数を増やし、近鉄との合併後初めて20試合をきった。これまで必ず行われ特別料金が設定されていた神戸での対巨人戦と対阪神戦もなくなった。神戸で中止になった試合が発生した場合は、あらかじめ組み込まれている予備日を除いて大阪で振り替えられるようになっている。また、2017年は神戸での試合数は従来通り15試合を確保しているものの、うち週末の開催は土曜日の2試合のみ(いずれもデーゲーム)と、週末の開催が前年より大幅に削減された(2016年は週末の開催が8試合あった)。2018年は前年比で週末の開催が増やされたがトータルでは13試合とされ、うち2試合が雨天中止・大阪ドームへの振り替えとなったため実際は11試合に留まった。2019年も当初予定として11試合、2020年以降は1991年の神戸移転後では初めて1桁の8試合(2020年のみ新型コロナウィルス感染拡大による防疫の観点からさらに3試合まで縮小)となり、減少が続いている(但し神戸での予備日の設定がある)。
正式な本拠地球場は1つであるが、選手名鑑などでは両球場を併記している場合もある(1999年までの近鉄も本拠地と準本拠地が併記されていたことがあった)[134]。
大阪・神戸以外のいわゆる「地方球場」開催における主催は、合併後2005・2007-09年の東京ドーム以来行われなかったが、2015年に阪急時代の準本拠地・わかさスタジアム京都で1試合を主催、以後2017年(当初から地方開催予定なし)を除き、毎年地方開催を復活させている(なお2019年と2020年はわかさスタジアムでそれぞれ2試合予定されながら、2019年は雨天により、2020年は新型コロナウィルスの感染拡大による防疫の観点からそれぞれ全て中止となり、結局地方開催自体が消滅した)。
球団合併以後の大阪ドーム、神戸総合運動公園野球場の試合数(中止分を反映した実勢試合数)は以下の通りである。
年度 | 大阪 | 神戸 | その他 | 備考 |
---|---|---|---|---|
2005年 | 34試合 | 32試合 | 東京ドーム2試合 | |
2006年 | 34試合 | 34試合 | なし | この年に限り神戸を専用球場とした。 |
2007年 | 48試合 | 22試合 | 東京ドーム2試合 | |
2008年 | 48試合 | 22試合 | 東京ドーム2試合 | |
2009年 | 49試合 | 21試合 | 東京ドーム2試合 | 神戸の雨天中止分1試合を大阪に振替。 |
2010年 | 51試合 | 21試合 | なし | 神戸の雨天中止分1試合を大阪に振替。 |
2011年 | 58試合 | 14試合 | なし | 神戸のノーゲーム分1試合を大阪に振替。 |
2012年 | 58試合 | 14試合 | なし | 神戸の雨天中止分1試合を大阪に振替。 |
2013年 | 59試合 | 13試合 | なし | 神戸の雨天中止分2試合を大阪に振替。 |
2014年 | 57試合 | 15試合 | なし | |
2015年 | 58試合 | 12試合 | わかさスタジアム京都1試合 | 神戸の雨天中止分3試合を大阪に振替。 |
2016年 | 55試合 | 15試合 | 那覇セルラースタジアム2試合 | 9月に2年ぶりとなる神戸での3連戦を開催。 |
2017年 | 56試合 | 15試合 | なし | |
2018年 | 59試合 | 11試合 | KIRISHIMAサンマリンスタジアム宮崎1試合 わかさスタジアム京都1試合 | 神戸の雨天中止分2試合を大阪に振替。 |
2019年 | 60試合 | 11試合 | なし | わかさスタジアム京都の雨天中止分2試合を大阪に振替。 |
2020年 | 57試合 | 3試合 | なし | 当初大阪62、神戸8、わかさ京都2の計72試合予定だった。 |
2021年 | 66試合 | 6試合 | なし | 神戸の雨天中止分2試合を大阪に振替。 |
2022年 | 64試合 | 7試合 | なし | 神戸の雨天中止分1試合を大阪に振替。 |
2023年 | 65試合 | 7試合 | なし | 神戸の雨天中止分1試合を大阪に振替。 |
2024年 | 61試合 | 8試合 | 沖縄セルラースタジアム2試合 |
オリックス球団は、ブレーブスとしての初年度(1989年度)から、ファームチーム(二軍)の本拠地を神戸市に設定。1991年に初代「青濤館」(選手寮)を神戸総合運動公園の近くに設ける一方で、公園内のサブ球場(グリーンスタジアム神戸サブ球場)を本拠地として使用した。サーパス神戸時代の2000年からは、「青濤館」を残したまま、本拠地を北神戸田園スポーツ公園野球場(あじさいスタジアム北神戸)に移転。その一方で、2010年からは、神戸サブ球場の使用も再開した。
しかし、オリックスでは2007年以降、大阪ドーム(京セラドーム大阪)を一軍の本拠地として本格的に使用。「青濤館」の老朽化が進んでいることもあって、2010年代の前半からは、二軍の本拠地を一軍と同じ大阪市内へ移転することを検討してきた。2015年には、舞洲ベースボールスタジアムがある舞洲(大阪市此花区)が、移転の候補地として浮上。同年12月7日には、大阪ドームを運営する球団関連会社の大阪シティドームが、大阪市所有の舞洲ベースボールスタジアムおよび近隣の未利用地(舞洲野球場北西用地)の運営委託に関する一般競争入札に応募した。その結果、2016年4月1日から50年間にわたってスタジアムおよび未利用地の運営を委託されることが決まった[135]ため、オリックス球団は舞洲への本拠地移転計画を正式に発表した。この発表では、球団社長の西名宏明が、「大阪に本拠地を置く球団として、京セラドーム大阪から近い場所(スタジアムのある舞洲スポーツアイランド内)にスポーツ施設が整っていたことが(移転決定の)大きな要因」と述べている[136]。
上記の計画によれば、大阪シティドームと大阪市による事業用定期借地権契約の締結後に、オリックスが総工費約30億円で舞洲ベースボールスタジアムの北西に球団の練習施設(サブ球場、室内練習場、第2代「青濤館」、クラブハウス)を建設。竣工後の2017年シーズンから、初代の「青濤館」を閉鎖した[32]うえで、二軍の本拠地を同スタジアムおよびサブ球場へ移転した。球団主催分のウエスタン・リーグ公式戦については、大半の試合を舞洲サブ球場で実施しつつも、神戸市内の上記球場でも一部の試合を引き続き開催[135]。一軍の主催公式戦についても、神戸総合運動公園野球場(ほっともっとフィールド神戸)で一部試合の開催を継続する。また、舞洲に新設する練習施設では、一軍の選手が常時利用することも想定している[136][137][138][139][140]。
オリックス球団では、二軍本拠地の移転に先駆けて、2016年9月14日付で連携協力に関する包括協定を大阪市と締結[141]。以前から舞洲に練習の拠点を置いているプロスポーツチームのセレッソ大阪(Jリーグ)・大阪エヴェッサ(Bリーグ)と共同で、2017年春から「舞洲プロジェクト」(大阪市と民間企業の連携による舞洲スポーツ振興事業)に参画している[142]。その一方で、初代「青濤館」の建物と敷地については、舞洲への本拠地移転後に所有権を放棄した[143]。
実際には、本拠地移転初年の2017年シーズンのみ、ウエスタン・リーグ主管試合の大半をナイター照明設備のない舞洲サブ球場で開催。設備のある舞洲ベースボールスタジアム(3年間の命名権契約によって同年6月15日から「大阪シティ信用金庫スタジアム」に改称)では開催を見送ったため、舞洲エリアでの主管試合は全試合デーゲームであった。2018年には、1月22日から舞洲サブ球場を「舞洲バファローズスタジアム」へ改称する一方で、大阪シティ信用金庫スタジアムでもナイトゲーム限定で主管試合の一部を開催した。2019年からは、舞洲サブ球場にも命名権を設定したため、同球場を「オセアンバファローズスタジアム舞洲」→2022年から命名権契約満了に伴い新スポンサーとなる「杉本商事バファローズスタジアム舞洲」に改称された。
※太字はリーグ優勝、◎は日本一[注釈 42]
1950年から1988年まで、パ・リーグは沢村栄治賞の選考対象外だったことから、米田哲也や山田久志らは受賞していない。山本由伸は史上5人目および最多タイ記録となる3回受賞を達成。またパ・リーグ初の3年連続受賞者である[149]。
オリックスでの投手三冠王の達成者は1人。また山本由伸が複数回達成している。3回達成はプロ野球最多記録となっている[150]。
オリックスでの三冠王の達成者は1人。また、ブーマー・ウェルズが外国人打者として史上2人目の三冠王を達成している。
オリックスの投手で最優秀選手を複数回受賞しているのは2人。また、山田久志、山本由伸が投手最多タイ記録となる3回受賞および3年連続受賞を達成している[152]。
オリックスの打者で最優秀選手を複数回受賞しているのは1人[153]。
当球団は、50年を超える伝統を持つチームを吸収合併し、なおかつ存続側の球団自体もオーナー企業の変更や本拠地移転を経験した複雑な歴史を持つ[注釈 46]。
球団は2006年に「阪急ブレーブス・近鉄バファローズ・ブルーウェーブの『3つのB』の伝統を大切にする」と宣言し、球団理念にもそれをうたっている[158]。2005年から2018年までの球団ロゴに複数形を示す「's」を加えていたのも、その理由であった[160]。
その一方、公式ウェブサイトの「ヒストリー」においてはオリックスが球団を買収した1988年(ブレーブスについては同年10月)以降の歴史のみが本文に記載されている[179]。近鉄については合併当初は創立時から記載していた(アーカイブ)。
パ・リーグでは東北楽天ゴールデンイーグルス以外の5球団がオーナー企業の交代と本拠地移転を経験しているが、このうち千葉ロッテマリーンズ公式ウェブサイト「チームヒストリー」、福岡ソフトバンクホークス公式ウェブサイト「「ホークスの歩み」」や埼玉西武ライオンズ公式ウェブサイト「伝説の西鉄ライオンズ」では、前身球団創設以来の歴史を記載している[注釈 47]。ただし、ホークスの場合南海時代の歴史やエピソードが積極的に取り上げられるようになったのは、ソフトバンクに親会社が交代してからで、ダイエー時代は「南海色をできるだけ消すという姿勢は、なかなか改められなかったようだ」という指摘がある[180]。ライオンズの場合も西鉄時代の歴史が記載されるようになったのは、西武による買収・移転から約30年を経た2008年からである。
球団関係者からは2007年の時点で「それぞれの球団のファンにすると、中途半端な印象があるのかもしれません」「2つの球団が合併したとはいえ、選手の大半は近鉄側でしたから、大阪に力点を置いた事業展開を行うべきだったのかもしれません」といった、複雑な成立過程を持つ球団ゆえの悩みを認める発言がなされている[181]。
2011年シーズンには「LEGEND of Bs 2011 蘇る黄金の70's」と題して1970年代の阪急・近鉄に光を当てたイベントが実施され、両球団の復刻ユニホームの使用や当時の選手とかつての阪急応援団長・今坂喜好による始球式がおこなわれたほか、このイベントの専用ウェブサイトでは両球団の創立以来の歴史も(1970年代を中心とする形ながら)記載された[182]。
2012年は前記の通り「LEGEND of Bs 2012 劇的 感動の80's」と題して1980年代の阪急・近鉄をクローズアップしたイベントを実施。1980年代の両チームの歴史を記載した専用ウェブサイトも開設された[183]。
2013年現在、これらの専用ウェブサイトへのリンクが上記「ヒストリー」のページに掲示されており、間接的な形ながら前身球団の歴史を公式ウェブサイトから知ること自体は可能になっている。京セラドーム大阪でも、「LEGEND of Bs 2011 蘇る黄金の70's」の開催を機に、前身球団(阪急・近鉄・ブルーウェーブ)の復刻ユニフォーム・キャップを3階のコンコースに常時展示している。
2013年シーズンには、オリックス・近鉄両球団の1990年代以降合併までの歴史を振り返る「LEGEND of Bs 2013 Miracle!夢が叶ったあの時」として、大阪近鉄が2001年のリーグ優勝時に着用した最後のユニホームを復刻。パリーグ6球団共同企画「レジェンド・シリーズ2013」では、ブルーウェーブ時代のユニフォームの復刻版が披露された。また、同年は大阪に本拠を置いた南海ホークス(1988年にダイエーが買収・本拠地を福岡へ移転)の創立75周年にも当たることから、後継球団の福岡ソフトバンクホークスとの間で「OSAKA CLASSIC 2013」(4月17日 - 19日の京セラドーム3連戦)を開催。オリックスナインが1978 - 1996年の近鉄、ソフトバンクナインが1984 - 1988年の南海仕様のユニフォームを着用した[184]。2014年の「OSAKA CLASSIC 2014」(5月16日 - 18日の京セラドーム3連戦)では、オリックスナインが1966年 - 1973年前期の近鉄、ソフトバンクナインが1972年 - 1973年後期の南海仕様のユニフォームで試合に臨んでいる(なお、2015年も5月1日から3日間開催された)。
「LEGEND of Bs」「OSAKA CLASSIC」の対象試合では、7回裏へ入る前(「OSAKA CLASSIC」の場合には7回表も含む)に前身球団の応援歌を流すなど、応援のスタイルも前身球団に沿った内容に変えている。球場内の売店では、前身球団の本拠地で人気を博した「スタジアムメニュー」や弁当の販売を復活させるほか、復刻ユニフォームのデザインや前身球団のマスコットにちなんだスペシャルグッズを発売。シリーズ終了後には、選手が試合で実際に着用したユニフォームを対象に、公式サイトでオークションを実施している。試合によっては、前身球団の著名なOBが試合前の無料トークショーや始球式に登場したり、前身球団の本拠地で「ウグイス嬢」や「スタジアムDJ」を務めた人物が試合中の選手コールやアナウンスを担当したりすることもある。シーズンの最終成績が5位であった2013年度には、このような復刻企画を繰り返したこともあって、主催72試合の平均観客動員数が前年度比8.1%増の19,979人を記録した。
2014年3月4日からは、オリックス主催試合の開催日(試合開始予定時刻の3時間前から試合終了30分後まで)に限って無料で開放することを条件に、京セラドーム2階「スタジアムモール」の三塁内野席寄り(手形展示スペース付近)に「Bs SQUARE」という展示施設を常設[185]。前身球団で活躍した選手が実際に使用した野球用具・ユニフォームや、現役選手の手形・グラブ・ミットを展示している。また、(前身球団を含めて)球団史上重要な節目になった優勝を、写真・映像・資料(球団に贈られた記念のペナントやトロフィーなど)を通じて紹介する。
ちなみに、映像については、「『プロジェクトBs』シリーズ」(過去の「LEGEND of Bs」開催期間中に京セラドームやほっともっとフィールド神戸のビジョンで上映されたスペシャルムービー)の素材を流用。2013年までは2階の別フロアにあった「B's CLUB」(球団公式ファンクラブ)の受付や、球団主催イベントの開催にも対応したダイヤモンド状のフロアも設けられている。
かつて運営していた事業者の側だと、ブレーブスの親会社だった阪急電鉄は、2006年の阪神電鉄との経営統合で阪神タイガースとの間接的な関係が生じた後も、正雀工場での阪急レールウェイフェスティバルでブレーブス関連のヘッドマークの展示やミニチュア標識板、ブレーブス坊やのグッズなどの物品販売が行われた年度がある。また阪急西宮ガーデンズでは「阪急西宮ギャラリー」で阪急ブレーブスに関する展示が行われている他、かつて球場敷地にあった「ブレーブス子供会記念碑」や「ブレーブス後援会記念樹」も再設置されている。また、阪急電鉄創業者・小林一三の旧宅に開設された小林一三記念館でも球団関連の展示が行われている他、ブレーブスOBによるトークショーが行われたことがある。ただし、阪神電鉄及び阪神タイガースへの配慮もあり、阪急阪神ホールディングス公式ウェブサイトの「グループのあゆみ」では、旧ブレーブスについての記述はない他、オリックス球団による阪急復刻企画への直接の協賛は行わなかった[注釈 48]。
その一方、旧バファローズの親会社だった近畿日本鉄道(近鉄)では、球団に関する権利関係のほとんどをオリックス球団およびオリックスグループ関連企業に譲渡しているためか、公式ウェブサイト上でも保有・売却の事実があったことを社史「近畿日本鉄道100年のあゆみ」から引用する形で簡略的に触れる程度で、サイト上の 歴代ポスターギャラリー でも旧バファローズ関連については一切掲載されないなど消極的な扱いとなった。
結果的に、現在も阪神電鉄・阪神タイガースを通じてプロ野球との一定の関係が残っている阪急阪神東宝グループと、一切手を引いた近鉄グループの間では前身球団へのスタンスに温度差がみられる。ただし、近鉄グループの中でも近鉄百貨店ではあべのハルカス近鉄本店でイベントを開いたり、2021年には当球団の応援セールやリーグ優勝セールを中日ドラゴンズ本拠地の近鉄パッセを除く各店舗で開くなど一定の関係を保っている[186][187]。
なお、阪急東宝グループ→阪急阪神東宝グループは、関係企業(阪急共栄物産など)が保持していた「ブレーブス」の商標権を期限切れ後に更新しなかったため、失効後はMLB球団のアトランタ・ブレーブスがロゴマークなど一部の分野で登録している。
オリックス・バファローズでは、上記の本拠地以外にも、関西地方の野球場でウエスタン・リーグの主催公式戦を年々増やしている。2012年からは、藤井寺球場のあった大阪府藤井寺市の近隣に位置する富田林市の「富田林市立総合スポーツ公園野球場」(1997年に開催されたなみはや国体の軟式野球会場)で、毎年7月の第2(または第3)日曜日(2014年から土・日曜日)に同リーグの公式戦を開催。同年12月11日には、富田林市と「スタジアムニックネーム協定」を締結したことによって、同野球場に「富田林バファローズスタジアム」というニックネームが常時付くようになった[188]。この協定は、自治体(富田林市)によるスポーツ振興施策の提案にプロ野球の球団(オリックス・バファローズ)が賛同したことによる無償でのニックネーム使用契約という日本初の事例[189] で、球場名・チーム名に関する前述のネーミングライツ契約とは異なる。ちなみに、(大阪)近鉄バファローズも、1985年から2004年まで藤井寺球場に「バファローズ・スタジアム」というニックネームを冠していた。
2015年9月23日に佐藤薬品スタジアム(奈良県橿原市)で開催されたウエスタンリーグ・対阪神戦では、「球場を満員にするプロジェクト」(前述)によるワンデイニックネームとして、スタジアム名を1日だけ「佐藤薬品バファローズスタジアム」という名称に変更した[178]。2016年からは、佐藤薬品スタジアムにとどまらず、豊中ローズ球場(大阪府豊中市)に「豊中ローズバファローズスタジアム」、花園セントラル球場(同府東大阪市)に「花園セントラルバファローズスタジアム」という名称を主管試合の開催日のみ使用。2017年からは、高槻萩谷球場(同府高槻市)で主管試合を開催する場合にも、「高槻萩谷バファローズ球場」というワンデイニックネームを冠している。さらに、2018年1月22日からは、二軍の本拠地(舞洲サブ球場)でも「舞洲バファローズスタジアム」という名称を常時使用している。
2009年8月7日 - 9日の対千葉ロッテマリーンズ戦において初開催された。特別ユニフォームは開催日により異なる3種類のデザインが採用された。ベースは赤地であり、入場者に配られたユニフォームの背中部分には大きく「大阪夏の陣」の文字がプリントされていた。7日開催分のデザインと8日、9日の文字デザインは異なっていた。
戦前の1939年5月6日、甲子園で行われた南海とのダブルヘッダー第2試合では、南海の宮口美吉・平野正太郎両投手に無安打に抑えられながら2-1で勝利した。4回裏に1点を先制されたものの6・7回に犠打・失策・四球をからめて1点ずつを取り逆転勝利したもの。無安打に抑えられながら得点をあげた試合は他に1939年の金鯱(8月3日の対イーグルス戦・西宮)・1959年の巨人(5月21日の対阪神戦・甲子園)・1964年の南海(5月13日の対近鉄戦・大阪)があるが、勝利したのはこの時の阪急だけである。
1940年4月6日に西宮で開かれた南海戦で、阪急は32-2の30点差という大量得点で勝利を飾った。これは1試合の最多得点及び、最多得点差勝利の日本プロ野球記録である。
1944年5月16日、西宮での対産業戦の7・8回に記録。その時の打撃は以下の通り(太字は押し出し四球)。
1950年11月5日、阪急西宮球場で開かれた、対毎日オリオンズ戦。当時阪急の監督だった浜崎真二は毎日の湯浅禎夫総監督に「(毎日の)リーグ優勝が決まった後なので、わしが投げるからあなたもどうだろう」と持ちかけて、湯浅も「よし」と快諾。両監督が先発投手になった。
この当時の年齢は浜崎が48歳10か月、湯浅が48歳1か月で2人合せて96歳11か月という最年長先発投手となった。浜崎は3回2/3を投げて、21人の打者に対して8本の被安打、5失点(自責点も5点)で敗戦投手。一方の湯浅は4回を投げて勝ち投手にはなれなかったが19人に対して2本の被安打、2失点(自責点も2点)と好投した。
1999年6月11日からはダイエーの本拠・福岡ドームでダイエーとの3連戦をオリックスの主催ゲームとして開催した。これは神戸が屋外球場なので梅雨時の試合消化が難しくなることを懸念し、ダイエー側の許諾を得て福岡ドームで主催ゲームを開催することになった。しかしベンチのスペース上、主催のオリックスは三塁側、ビジターのダイエーは一塁側と通常のダイエー主催ゲームと同じ配置だった。また、当時ダイエーの監督だった王貞治は、「(本拠地でビジターとして試合しようとも)とにかく勝てばいいんだよ」と、珍事には動じていないことを強調した。13日には試合途中で控えの内野手を使い切ってしまったため、外野手のイチローが三塁を守るというハプニングもあった。イチローが公式戦で外野以外のポジションを守ったのはNPB時代はこの時だけである[注釈 53]。
オリックスのホームゲームであるにもかかわらず観客の大半がダイエーを応援し、ダイエーが勝った試合終了後には花火の打ち上げとヒーローインタビューが行われるなど、ダイエーのホームゲームと変わらない球場の雰囲気だった。ただし、観客動員は3試合ともホークス主催の同球場同カードより1万人程度低く、観客動員の当ては外れた形となった[注釈 54]。
これより10年前、ダイエーは1989年に当時親会社のヘッドオフィスがあった神戸を準本拠地として主催試合を開催することを計画していたが、兵庫県をフランチャイズとしているオリックス(当時の本拠地は阪急西宮球場)と阪神の許諾を得られず実現に至らなかった経緯もあり、それに配慮する形でオリックスは同年の主催ダイエー戦全13試合は神戸での開催とした(但し、うち2試合は中止となり、後日西宮に振り替えた)。
ちなみに、この前年の1998年3月29日には、オリックス主催のオープン戦・対中日ドラゴンズ戦を中日の本拠地であるナゴヤドームで開催している。
2000年から2002年のドラフトで契約金を出来高制とした“契約金ゼロ”の選手を入団させ話題になった。これはドラフトの時点ではドラフトにかかるには一歩足りないと思われる選手を入団テストの上でドラフト指名して二軍で育成し、その後一軍登録日数が一定に達するなどの条件で出来高として契約金相当額を支払う、という現在の育成選手制度に近いものであった。2001年に北川智規が7試合に登板(先発3、救援4)したほか、2002年には高見澤考史が一軍に定着し、出来高を受け取っている。しかし北川はその後一軍に定着できず、高見澤は故障に泣き、どちらも2004年までに自由契約となった。
その他の選手はほとんど一軍で戦力になることはなく、中島俊哉(2005年から2014年まで楽天に所属)以外は2005年までにプロ野球を去っている。なお、この時入団した選手は前述の高見澤、北川、中島の他、高橋浩司・庄司大介(以上2000年入団)、板倉康弘・深谷亮司・藤本博史・橋本泰由(以上2001年入団)、塩屋大輔(以上2002年入団)である。開田博勝のように契約金ゼロでの指名ということを事前に伝えておらず、入団拒否に至った例もある。
結局「契約金ゼロ枠」の選手がほとんど活躍していないこともあり、2003年秋から05年まで常務GMを務めた中村勝広が「夢や憧れだけで入団させることは本人やチームのためにならない」とし、同年から廃止された。以降、2000年代には育成選手も梶本達哉のみしか指名されておらず、怪我などで育成枠に降格する例としては宮本大輔などがいたが、育成枠自体があまり積極的に活用されることはなかった。しかし、2010年代にはフレディ・バイエスタスなどの外国人を育成枠で獲得し、2011年度のドラフト会議で稲倉大輝・柿原翔樹が育成枠指名された(バイエスタスは2012年途中に自由契約、稲倉、柿原も2013年10月1日に戦力外通告されている)。その後も2015年度に赤松幸輔を育成枠で指名し、2016年7月には三軍創設を念頭に育成選手を獲得する動きがあると報じられ[203]、10月20日のドラフト会議では5人の選手を育成枠で指名した[204]。
2003年、対ダイエー戦で2回も大量失点試合を喫した。まず7月26日に福岡ドームで7-26・続いて8月1日にヤフーBBで1-29と大敗を喫した。後者は2リーグ分立以降の1試合の最多失点・最多失点差敗北の記録となってしまった。この年は他にも6月17日に岩手県営野球場で11-21・9月14日にヤフーBBで11-20で敗れており、同一カードでの20失点以上を4試合もしてしまったのは日本プロ野球史上ワースト記録である。
2006年、ボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」がやってきて、審判にボールを手渡すという、当時広島やロッテがファンサービスの一環で行っていた「ベースボール・ドッグ」に対抗した「ベースボール・モンキー」を導入した。
しかし、大観衆・大声援を前にしたストレスから体調を崩してしまい、同年限りで引退。
オリックスは1991年 - 2004年まで神戸を本拠としており、1995年の阪神・淡路大震災以後、復興のシンボルとして注目を集めた。2005年に近鉄と合併してからは大阪ドーム(現在の京セラドーム大阪)との併用となり、年間30試合程度に試合数が削減されたが、やはり神戸のチームという印象が根強く、観客動員の面でも神戸での試合が大阪よりも比較的よく入っていたというデータ[205] があった。
近鉄との球団合併最初のシーズン、かつ震災10周年の2005年は、神戸と東京での主催試合では「がんばろうKOBE」のロゴを入れたワッペンをつけて試合に臨んだこともあった。これ以後も、阪神・淡路大震災の発生から節目の年度に当たる一部の神戸での主管試合(2010年度、2015年度など)では、ブルーウェーブ時代のユニフォームの復刻版を採用して着用したり、震災の記憶を風化させないためのプロジェクトなどイベントを継続して行っている。
前述のように2007年に事実上京セラドームに一本化(協約上は2008年度以後)され神戸を含めた兵庫県での主催試合も20試合程度に削減され、2011年 - 2015年は15試合(ただし予備日の無い振替試合は大阪開催)とさらにその数を減らしている。
2017年からは、二軍の練習拠点を神戸市内から舞洲スポーツアイランド(大阪市此花区)へ移転した。当初、移転計画を発表した2015年の時点で、一軍公式戦のうち球団主管で15試合を神戸で開催することを西名球団社長が明言した[206] ものの、2018年は13試合(実際は雨天中止の2試合が京セラドーム大阪に振り替えれられたため11試合)、2019年は11試合、2020年は3試合(当初5試合がコロナのためさらに縮小された)と徐々に神戸での開催を縮小している。なお、二軍でも、ウエスタン・リーグ主管試合の一部を移転前に続いて神戸市内で開催している(上述表参照)。
ちなみに神戸はメインだった2003年から合併後の今日まで、オリックス球団が管理許可制度の下で球場の運営を行っていることもあり、神戸市営地下鉄西神・山手線の電車の窓には主力選手のステッカーが貼られているほか(女性専用車両は除く)、神戸での公式戦開催日にはバファローブル(2010年シーズンまではネッピー)が描かれたヘッドマークが2021年シーズンまで取り付けられていた。また現在も三ノ宮駅高架下(神戸交通センタービル1階)にはオフィシャルグッズショップがあるほか、2022年の日本一決定日には新聞の号外が市民に配布されている[207]。
ブルーウェーブ時代の2004年、現在のフランチャイズが確立してから関西に本拠地を置く球団としては初めて東京都(東京ドーム)で主催公式戦・対北海道日本ハムファイターズを開催した。福岡ドームでの件とは違い、これまで同地を本拠としていた日本ハムが札幌ドームに移転したために伴うものと、オリックスが会社設立40周年を迎えたことを記念して、現在のオリックスの本社がある東京[注釈 55]で主催ゲームを開催することにしたものである。
2006年は専用球場を一時的に神戸にした関係上、東京ドームでの主催ゲームはなかったが、その年以外では2009年まで毎年「オリックスグループお客様感謝DAY」と銘打ち、オリックスグループの社員と取引先の顧客を無料で招待する試合として、リーグ戦期間中の週末の2試合を利用して開催した。
対戦相手は、バファローズとなった2005年も2004年に続いて対日本ハム戦を行った。2007年は対西武ライオンズ戦2試合を開催。ちなみに西武が東京ドームでパ・リーグのチームと試合をするのは、日本ハムが北海道に移転する前の2003年以来で、2008年は対千葉ロッテマリーンズ戦2試合、2009年は対東北楽天ゴールデンイーグルス戦2試合が行われたが、福岡ソフトバンクホークスとのカードは開催されていない。東京ドームでの主催試合の通算成績は5勝5敗である。
2010年以降は開催されていない。なお、2010年のオリックスグループの社員と取引先の顧客を招待する試合は、3月30日、3月31日に行われた日本ハム主催試合のビジターゲームにて行った。
2010年6月7日、対広島東洋カープ戦4回戦(福山市民球場)の6回表1死1塁、坂口智隆の二塁内野安打から荒金久雄、後藤光尊、T-岡田の3者連続タイムリーに北川博敏の3ランで打順一巡の猛攻。坂口の左前打までプロ野球新記録となる1イニング最多連続打席安打、前身の阪急時代の9者連続安打を抜く10者連続安打を達成した。しかし、奇しくも同日の15分前に千葉ロッテマリーンズも同記録を達成しており、タイ記録扱いとなった。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
オリックス | 2 | 0 | 1 | 5 | 0 | 8 | 1 | 4 | 0 | 21 |
広島 | 0 | 3 | 1 | 0 | 3 | 0 | 2 | 0 | 1 | 10 |
阪急時代は同じく阪急電鉄が大株主であった関西テレビとの結びつきが強く、土曜・日曜のデーゲームを中心に数多くの試合を放送していた[注釈 57]。朝日放送・毎日放送・読売テレビは1960年代から70年代に関西テレビが編成上の都合で放送できない(特に1961年はキー局・フジテレビの方針で野球中継から一時撤退)ごく一部のカードを中継していた[注釈 58]。
オリックス・ブルーウェーブへの改称後は、毎日放送[注釈 59]が多数の中継を担当した。また、関西テレビではフジテレビ制作の巨人戦全国中継に差し替えて中継することもあった。現在は、朝日放送テレビと関西テレビで対阪神の交流戦と、それ以外の年数試合を関西テレビと読売テレビで深夜に録画放送が行われるのみである。読売テレビ・テレビ大阪・毎日放送は系列局やキー局系列BS放送への技術協力(球団制作映像と併用)が中心(ノンクレジットの場合あり)。
サンテレビはオリックス売却後はナイター中継中心となったが、阪急時代は阪急電鉄・阪急百貨店の筆頭提供で、デーゲームを放送することもあった。以前は対阪神の交流戦のほか、阪神戦がない日や、中継権獲得不可能な阪神の試合(主に東京ドームの対巨人戦)の裏カード時などに年数試合完全生中継が行われていた。2015年限りで原則として撤退し、それ以降は対阪神の交流戦に限定する形で水曜日に朝日放送テレビとのトップ&リレー中継(2017年)を、他曜日に自社制作の完全中継(2019年土曜。同年は関西テレビと並列)を行うのみとなった(阪神主催は2018年に自社制作と朝日放送テレビとトップ&リレー中継を各1試合実施)。対阪神戦の場合、ベンチリポートを両サイドに配置し、オリックスが勝利してもヒーローインタビューを放映するなど、中継内容は通常の阪神戦より中立的となる。また中継縮小後も、ファンフェスタへの協賛と賞品の贈呈は継続している。
かつて、テレビ大阪も阪急ブレーブス時代に数試合、オリックス・ブルーウェーブ時代〜2007年に数試合中継されることもあった。また、2015年と2016年にはテレビ東京で関東ローカル中継が各年1試合放送された。
京都放送(KBS京都エキサイトナイター)は、阪急ブレーブス時代に京都市西京極総合運動公園野球場での主催試合を、オリックス売却後は同球場での近鉄バファローズ主催でのビジター扱いの試合を自社制作で放送したことがあるが、阪急主催の対近鉄戦は、近鉄主催の後者と同様『近鉄エキサイトアワー』として近鉄グループがスポンサーにつき、近鉄応援の放送となっていた。
2005年まで(パリーグ同士の対戦については2004年)はフジテレビ系列(関西テレビ・フジテレビ共同制作または関西テレビ単独制作。阪急時代に球団と関西テレビが兄弟会社だった関係で年1試合程度ナイターの全国生中継が行われていた。また、2000年代前半には年1試合程度、土日のデーゲームの全国生中継が行われていた。)、2006年まではテレビ朝日系列(朝日放送制作)、2007年までテレビ東京系列(テレビ東京・テレビ大阪共同制作)でも全国中継していた。ほか、1989年-1990年代末期まではTBS系列(毎日放送制作)でも放送されたり、対巨人のオープン戦に限り日本テレビ系列(読売テレビ制作)で放送された。
いずれも放送地域のみで一部試合を中継
李承燁と朴賛浩の韓国人選手が加入した2011年から韓国SBSテレビが主催ゲームの放映権を獲得し、スポーツ専門チャンネル「SBS CNBC」にて放映されることとなっている。
CS放送は球団が制作著作権を保有。2022年からは関西テレビが制作協力を行っている。過去には関西テレビ放送の関連会社メディアプルポ・エキスプレスが共同で制作協力していた。パ・リーグTV向けの映像はCS向けと同一内容。
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