河野旭輝

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河野旭輝

河野 旭輝(こうの あきてる、1935年1月1日 - 2014年1月25日[1])は、和歌山県和歌山市[2]出身のプロ野球選手内野手外野手)・コーチ監督

概要 基本情報, 国籍 ...
河野 旭輝
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阪急時代(1956年)
基本情報
国籍 日本
出身地 和歌山県和歌山市
生年月日 (1935-01-01) 1935年1月1日
没年月日 (2014-01-25) 2014年1月25日(79歳没)
身長
体重
174 cm
64 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手外野手
プロ入り 1954年
初出場 1954年3月27日
最終出場 1967年8月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
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1956年に年間85盗塁を記録し、当時の日本記録を樹立。同年の最多盗塁死29はその後破られていない[3]。セ・パ両リーグで盗塁王を獲得した唯一の人物である[4]

来歴・人物

要約
視点

和歌山工業から松下電器に入社し、1953年都市対抗にチームとしての初出場を果たす。

1954年阪急ブレーブスへ入団し、1年目の同年は開幕から二塁手に抜擢され定位置を獲得[2]。2年目の1955年には、前年の首位打者で帰国したラリー・レインズの後継として遊撃手に回り、初めて規定打席(リーグ15位、打率.283)に到達した[2]。3年目の1956年に85盗塁を記録し、盗塁王に輝く[2]。この記録は1972年に後輩・福本豊に抜かされるまで日本記録であった[2](現在4番目の記録で福本を除けば1番目である)。1957年ロベルト・バルボンと一、二番を組み、56盗塁で2年連続の盗塁王を獲得。河野の後に盗塁王を3度獲得したバルボンは、プレースタイルや日本での生活の手本のほとんどを2歳下の河野に求めていた。バルボンは後年「河野さんは、ボクのティーチャーです。恩人です。河野さん親切にしてくれたから、ボク日本におれたと思うわ、ホンマ」と振り返っている[5]1958年本屋敷錦吾の入団で三塁手に回るも、人見武雄との競争に敗れ行き場を失うが、1959年には中堅手にコンバートされ復活した。1961年岡嶋博治との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍[2]すると、同年にはチャンスメーカーとしてリーグ8位の打率.275を記録し、遊撃手のベストナインを獲得[2]1962年には再び自慢の俊足で3回目の盗塁王を獲得[2]するが、セ・パ両リーグで盗塁王を獲得したのは河野だけである。1963年も自己最高でリーグ8位の打率.294を記録し、1964年牧田政彦との交換トレードで阪急へ復帰[2]阪神に移籍した本屋敷に代わり、2年間はレギュラー遊撃手として活躍するが、1966年山口富士雄に定位置を譲る。1967年西鉄ライオンズへ移籍し、同年限りで現役を引退[2]

引退後は西鉄(1968年 - 1969年一軍打撃コーチ)、ヤクルト1972年 - 1973年一軍内野守備コーチ, 1984年一軍内野守備・走塁コーチ)、日本ハム1974年 - 1975年一軍守備・走塁コーチ)、ロッテ1976年 - 1980年一軍内野守備・走塁コーチ)、阪神(1981年 - 1983年一軍内野守備コーチ, 1985年 - 1986年二軍守備・走塁コーチ→1987年二軍総括守備・走塁コーチ, 1988年1992年 - 1994年二軍監督, 1989年 - 1991年チーフコーチ)で監督・コーチを歴任。

1回目のヤクルトコーチ就任はヘッドコーチの中西太の推薦で就任した[6]。日本ハムコーチ時の監督は中西だった。ロッテコーチ時代は朝に一番乗りして、遅くまで落合博満の練習に付き合った[7]。最初はノックを打っているが、そのうちグラブを手に実演を始め、後に落合は「打球をさばく一連の動きは、レギュラーを張っているどんな選手よりも美しかった」と絶賛[8]。河野を「守備の師匠」と呼び[8]、講演などでは「河野さんに守備、走塁を基本から学んだ。素晴らしいコーチだった」と語り、著書にも記している[7]。中日監督時代に荒木雅博井端弘和のコンビを育てたノックは河野流であったが、阪神時代に指導を受けた岡田彰布も河野のノックを懐かしんでいた[7]水上善雄の派手だが雑であった守備も、雑な部分を徹底的に指導し、徐々に丁寧な捕球が出来るようにした[9]。阪神2軍監督時代コーチだった柏原純一は「コーチとしてイロハを教えてくれる人もいた。2軍監督だった河野旭輝さんと出会えたのも自分の財産になった。コーチなりたての頃は、現役の気分も残っているから、担当外の守備だったり、投手のことにまで口を出したくなる。「こうしたらいい」とか言ってみたくなるんだ。そこを注意してくれたのが河野さんだった。みんなに分からないように呼び出して「言いたいことは分かる。間違ってもいない。」と認めた上で「でも、その場で言っちゃいけない。それぞれ立場もあるんだ。これからは気づいたことがあったら、私に言ってきなさい。」と指導してくれた。社会人として、組織の一員としての心構えを教えてくれた。感謝している。」[10]と述べている。

阪神退団後は社会人軟式野球の強豪である大阪市信用金庫アドバイザーも務めた[7]

2014年1月25日死去[1]

詳細情報

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毎日オリオンズ戦で三盗を決める河野(1956年7月。三塁手は小森光生

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
















































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P
S
1954 阪急 11833829341711546112208216123--5795.242.308.382.691
1955 124480434541232579189602081272710652.283.325.435.761
1956 14458150868137158518370852913648467014.270.340.360.700
1957 12353446972112176615943569425623713.239.324.339.663
1958 511501371426200285175011002311.190.255.204.459
1959 11342638340991566144422718733023887.258.317.376.693
1960 10125623522524257519116121800563.221.277.319.596
1961 中日 1244954475712312591724023121313212776.275.326.385.711
1962 114437393531011501014633268742904656.257.315.372.686
1963 1144343884211427014183549410228065213.294.351.472.822
1964 阪急 12349245051107155715336365231045912.238.293.340.633
1965 130473427511061901617347647135037312.248.310.405.715
1966 5495836160001632110110090.193.287.193.480
1967 西鉄 581471368264003080121701234.191.236.221.457
通算:14年 1491533847835791213185439317634802931139833385103981888.254.314.369.683
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  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録

タイトル

表彰

記録

背番号

  • 11 (1954年 - 1960年)
  • 12 (1961年 - 1963年、1965年途中 - 1966年)
  • 5 (1964年 - 1965年途中)
  • 9 (1967年)
  • 50 (1968年 - 1969年)
  • 63 (1972年 - 1973年)
  • 62 (1974年 - 1975年)
  • 83 (1976年 - 1980年)
  • 82 (1981年 - 1983年)
  • 67 (1984年)
  • 77 (1985年 - 1987年)
  • 80 (1988年 - 1994年)

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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