石井茂雄

日本のプロ野球選手 (1939-2005) ウィキペディアから

石井 茂雄(いしい しげお、1939年昭和14年〉5月6日 - 2005年平成17年〉3月28日[1])は、岡山県真庭郡久世町(現:真庭市)出身[2]プロ野球選手投手)。

概要 基本情報, 国籍 ...
石井 茂雄
基本情報
国籍 日本
出身地 岡山県真庭郡久世町
(現:真庭市
生年月日 (1939-05-06) 1939年5月6日
没年月日 (2005-03-28) 2005年3月28日(65歳没)
身長
体重
180 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1957年
初出場 1958年8月7日
最終出場 1979年9月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
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来歴

1957年8月、勝山高定時制を中退し、阪急ブレーブスに入団[2]。高校時代に地元で行われた大学野球部の練習試合に混ざってプレーした際、大学生打者から次々と三振を取り、受けた捕手に「本当に高校生か」と聞かれたという。2年目の1958年から一軍に上がり、1962年には開幕投手に抜擢される。この年は先発陣の一角として起用されるが4にとどまる。翌1963年にはチーム最多の17勝を挙げ、初めて規定投球回に達して、リーグ9位の防御率2.92を記録。その後は足立光宏梶本隆夫米田哲也らと共に1960年代の阪急の主力投手として活躍し[2]、翌1964年には自己最高の28勝をマークするも、小山正明東京オリオンズ)が30勝を挙げたため最多勝には届かなかった[2]1967年最優秀勝率(9勝4、.692)のタイトルを獲得[2]。同年からのリーグ3連覇、1971年からの2連覇に貢献。読売ジャイアンツとの日本シリーズでも1968年1969年の第1戦に先発するが、両試合とも勝敗はつかず、1968年の第4戦で救援し敗戦投手となった。

1973年に金銭トレード太平洋クラブライオンズに移籍した[注 1]。この年は東尾修に次ぐ先発として12勝を挙げる。その後も活躍を続けるが、1978年オフに球団は西武ホールディングスに譲渡され、投手陣の再編に伴い自由契約となる。福岡県北九州市スナックを開くが、知人の紹介で1979年に巨人の入団テストを受け、開幕直後に入団。同年限りで現役を引退し、福岡県福岡市にてスナックの営業を再開した[2]

2005年3月28日に死去。65歳没

選手としての特徴

元々は身長が180cmあった体格の良さを活かした伸びのある速球主体の本格派であったが、年齢を重ねて体力の衰えを感じるうちに技巧派へと転身。カーブスライダーに「シゲボール」と呼ばれたシンカー系の逃げる球とキレのよい多彩な変化球キャッチボールのような超スローボールを織り交ぜて打者を翻弄し、長嶋茂雄監督に「これがプロのピッチング。芸術品だ」と言わしめた。

バッティングにも非凡なものがあり、入団当初はウエスタン・リーグの打撃ベスト10に入るほどであった[2]。1964年には103打数27安打打率.262)、3本塁打と投手としては好成績を記録。1965年5月21日東映フライヤーズ戦で3二塁打を記録し、4打席目で右中間を破る強打を放つと「1試合4二塁打」の日本記録達成などものともせず全力疾走し、見事に三塁打にしたことがある[2]

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...




















































W
H
I
P
1958 阪急 6300000--------6818.01313011400552.500.89
1959 25400001----.00023155.24382500410033284.501.22
1960 27411122----.50028267.15432700551030233.041.20
1961 11100011----.50011926.231570091020165.331.43
1962 471910049----.308622147.113785245981075704.261.28
1963 492711121717----.5001046256.02532259311441096832.921.22
1964 623318342815----.6511325325.0304216358176101221032.851.13
1965 513418452117----.5531215302.027727513415111115952.831.09
1966 382711401013----.435763189.1170174914721065582.761.16
1967 361751094----.692561134.213882715471067563.731.23
1968 41297421114----.440740180.2172174787791072592.931.21
1969 4425812126----.667792197.2179214144861079683.091.11
1970 403313231612----.571927229.12022654541092090823.221.12
1971 261141077----.50038890.29182846430041333.261.31
1972 231830054----.556435100.2115162403390059464.101.38
1973 太平洋
クラウン
40276221213----.480824196.1187205936631277733.351.25
1974 33195018111--.421642151.1156195441542376714.231.39
1975 2820512992--.500496117.0133122413320066644.921.34
1976 2222802590--.357574133.2148122714450073604.031.31
1977 21203105110--.313438101.1112202803301063595.261.38
1978 2019734580--.385460108.1126111817271060514.251.33
1979 巨人 155000220--.50016939.04071002210020163.691.28
通算:22年 70541713429301891853--.505131173168.0308130977748781435176140412193.461.22
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  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 太平洋(太平洋クラブライオンズ)は、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)に球団名を変更

タイトル

記録

初記録
  • 初登板・初先発:1958年8月7日、対近鉄パールス17回戦(阪急西宮球場)、4回1失点
  • 初奪三振:同上、3回表に加藤晃郎から
  • 初勝利:1960年7月3日、対近鉄バファロー13回戦(阪急西宮球場)、5回表に2番手で救援登板・完了、5回無失点
  • 初先発勝利・初完投勝利・初完封勝利:1960年7月31日、対東映フライヤーズ18回戦(阪急西宮球場)
  • 初セーブ:1974年8月22日、対近鉄バファローズ後期7回戦(日生球場)、8回裏2死に3番手で救援登板・完了、1回1/3を無失点
節目の記録
  • 1000投球回数:1965年6月9日、対東映フライヤーズ11回戦(後楽園球場) ※史上108人目
  • 1500投球回数:1967年9月19日、対東京オリオンズ21回戦(東京スタジアム) ※史上59人目
  • 100勝:1968年8月13日、対南海ホークス18回戦(大阪スタヂアム)、先発登板で7回1失点 ※史上45人目
  • 1000奪三振:1970年5月22日、対西鉄ライオンズ7回戦(平和台野球場)、3回裏に菊川昭二郎から ※史上37人目
  • 2000投球回数:1970年7月3日、対東映フライヤーズ10回戦(後楽園球場) ※史上35人目
  • 500試合登板:1971年9月8日、対南海ホークス22回戦(西京極球場)、9回3失点(自責点1)完投勝利
  • 150勝:1973年7月29日、対近鉄バファローズ後期3回戦(津山市営球場)、先発登板で5回3失点 ※史上23人目
  • 2500投球回数:1973年10月3日、対近鉄バファローズ後期11回戦(日生球場) ※史上23人目
  • 600試合登板:1975年4月8日、対近鉄バファローズ前期1回戦(平和台野球場)、先発登板で3回1/3を3失点で敗戦投手 ※史上12人目
  • 3000投球回数:1977年8月24日、対日本ハムファイターズ後期7回戦(後楽園球場) ※史上15人目
  • 700試合登板:1979年6月23日、対阪神タイガース14回戦(阪神甲子園球場)、3回裏1死に2番手で救援登板、2回2失点(自責点1) ※史上8人目
その他の記録
  • リーグ最多敗戦を記録せずに通算185敗 ※歴代最多
  • オールスターゲーム出場:3回 (1964年、1965年、1968年)

背番号

  • 57(1957年 - 1959年)
  • 20(1960年 - 1978年)
  • 37(1979年)

脚注

関連項目

外部リンク

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