吉原 孝介(よしはら こうすけ、1969年3月29日 - )は、岡山県岡山市出身(兵庫県西宮市生まれ)の元プロ野球選手捕手)・コーチ

概要 基本情報, 国籍 ...
吉原 孝介
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県岡山市
生年月日 (1969-03-29) 1969年3月29日(55歳)
身長
体重
176 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1990年 ドラフト2位
初出場 1991年5月5日
最終出場 2004年9月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • オリックス・バファローズ (2007 - 2010)
  • 読売ジャイアンツ (2011 - 2015, 2018 - 2019)
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経歴

選手として

岡山東商業高から社会人野球川崎製鉄水島を経て、1990年のプロ野球ドラフト会議読売ジャイアンツから2位指名を受け、入団。

強肩、俊足と、ガッツ溢れるプレーで1年目の1991年シーズンは35試合に出場、スタメン2試合目には、初安打を初本塁打でマークし、猛打賞・初盗塁も記録し、守っても盗塁を刺すなど.375、1本塁打という幸先の良いスタートを切る[1]。その後、打撃が低迷するなどスタメン定着とはいかなかった。

1992年シーズンには正捕手の村田真一が故障したため、自身初の開幕スタメンを勝ち取り、開幕4試合目まで11打数5安打、打率.455と最高のスタートを切るも、この4試合目で左膝の靱帯を損傷[2]し、戦線を離脱する。しかし、自己最多の49試合に出場した(特に桑田との相性を買われ先発投手では最多10試合コンビを組んだ)がトレードで大久保博元が加入し、一軍には常時ベンチ入りするものの出場機会が恵まれずにいた。

1993年は、開幕から大久保と村田がマスクを被ることが多く、初スタメンは5月30日であったが、そこから6試合連続スタメンで20打数9安打、打率.450、1本塁打を記録するなど、最高のスタートを切り「打てる吉原」として報じられた[3]。この年は、ヤクルト戦の乱闘で退場処分を受ける。この年は、秋に左肩の手術を受けた[4]

1994年は、チームが5年ぶりに日本一になるも、一軍出場はなく、ジュニアオールスターに出場した[5]。翌年以降も毎年ある程度の試合数には出るものの3番手捕手扱いからの脱却はできなかった。

1998年シーズンは7月31日甲子園での阪神タイガース戦でバルビーノ・ガルベスが審判に向かい、ボールを投げ付ける事件に伴う乱闘の際、ガルベスの肘が顔に当たり、口中を切る傷を負った。

1999年シーズンは序盤に村田が左の頬骨を骨折したため、控えの捕手陣が総動員され、二軍に落ちていた吉原も一軍へ上がり、数試合先発出場することになった。球団側はベテラン捕手獲得を目指していたため、直後に同じ捕手である光山英和との交換トレードが発表され中日ドラゴンズへ移籍するが、当時の中日には中村武志、後にオリックスでも同僚となる鈴木郁洋といった捕手がいたため、3番手捕手にとどまった。

2001年シーズンには巨人時代の同僚・柳沢裕一[6]との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍。主に日高剛三輪隆に次ぐ3番手捕手として起用された。

2004年シーズンは9月27日近鉄戦(ヤフーBBスタジアム)では途中からマスクを被り、両チームの最後の瞬間も守備に就いていた。また、ブルーウェーブ最後の打者となっている。

2005年シーズンは分配ドラフトを経てオリックス・バファローズと契約するが以降は近鉄との合併もあり、一軍に一度も呼ばれず、二軍生活が続いていたが豊富な経験を買われ、サーパス神戸ではバッテリーコーチ補佐を任された。

2006年10月5日戦力外通告を受け、同年のシーズン限りで現役を引退。

指導者として

引退後もオリックスに残り、二軍ブルペン兼育成コーチ(2007年 - 2008年)に就任。

2009年より二軍バッテリーコーチを務めた。

2010年4月8日から投手陣の低迷で二軍バッテリーコーチに降格となった三輪の後任として一軍バッテリーコーチに昇格[7]。同シーズン終了後本人の申し入れで退団[8]

2011年には古巣・巨人の二軍育成チーフコーチとして復帰。

2014年には一軍バッテリーコーチに転任するが、同年5月20日には打撃コーチの村田がバッテリーコーチを兼任することになり、吉原はブルペン担当を兼ねることになった。これについて原辰徳監督は「コーチそのものは全く変わっていない。チームが勝つためという中で、配置を変えたところがあるということ」と説明した[9]7月17日にはシーズン後半戦より育成コーチとして二軍で指導にあたることが発表されたが[10]8月1日には再度の配置転換で二軍バッテリーコーチに転任し[11]2015年まで務めた。

2016年から2017年にはスコアラーを務めた。

2018年から巨人の三軍バッテリーコーチとして、3年ぶりに現場復帰。

2019年退団。

2020年からは中日でプロスカウトの職務に就く。

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
















































O
P
S
1991 巨人 356458792011413120103141.155.210.241.451
1992 498874112020022820201220173.270.372.297.669
1993 3992855196012870050200201.224.241.329.571
1995 2120183100011001100041.056.053.056.108
1996 25242147101113101010150.333.391.524.915
1997 26494357200910020301122.163.234.209.443
1998 3568628151011940011410102.242.284.306.590
1999 6550000000000000000.000.000.000.000
中日 7991200020000000040.222.222.222.444
'99計 1314141200020000000040.143.143.143.286
2000 1723215720090000020060.333.391.429.820
2001 オリックス 2330263610072103010062.231.259.269.528
2002 10981000000000010030.000.111.000.111
2003 2321100010000010000.500.667.5001.167
2004 8880000000000000020.000.000.000.000
NPB:13年 303492440549417041232771172283510312.214.267.280.547
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年度別守備成績

さらに見る 年度, 試合 ...
年度試合企図数許盗塁盗塁刺阻止率
1991331192182
19924127198.296
19933817611.647
199516321.333
19962213103.231
19972418117.389
199825862.250
19996110.000
200015532.400
200119532.400
20027321.333
20032000-
20048110.000
通算 2561127339.348
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記録

背番号

  • 39(1991年 - 1999年途中)
  • 44(1999年途中 - 同年終了)
  • 00(2000年)
  • 32(2001年 - 2006年)
  • 72(2007年 - 2008年)
  • 73(2009年 - 2010年)
  • 84(2011年)
  • 106(2012年 - 2013年)
  • 86(2014年 - 2015年)
  • 102(2018年 - 2019年)

脚注

関連項目

外部リンク

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