光山英和

ウィキペディアから

光山英和

光山 英和(みつやま ひでかず、1965年11月20日 - )は、大阪府大阪市生野区出身の元プロ野球選手捕手)・コーチ解説者評論家。現在は千葉ロッテマリーンズの一軍・二軍統括コーチ兼球団本部一軍・二軍統括コーディネーターを務める。

概要 千葉ロッテマリーンズ 一軍・二軍統括コーチ兼球団本部一軍・二軍統括コーディネーター #90, 基本情報 ...
光山 英和
千葉ロッテマリーンズ 
一軍・二軍統括コーチ兼球団本部一軍・二軍統括コーディネーター #90
Thumb
東北楽天ゴールデンイーグルスコーチ時代
東京ドームにて(2019年)
基本情報
国籍 日本
出身地 大阪府大阪市生野区
生年月日 (1965-11-20) 1965年11月20日(59歳)
身長
体重
186 cm
100 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1983年 ドラフト4位
初出場 NPB / 1986年4月5日
KBO / 2003年
最終出場 NPB / 2002年6月11日
KBO / 2003年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
閉じる

経歴

要約
視点

プロ入りまで

上宮高校では3年次の1983年春の選抜へ出場し、1回戦で仲田幸司仲田秀司のバッテリーを擁する興南高校を破るが、2回戦で明徳高校に敗退[1]。1年先輩のチームメイトに笘篠誠治が、1年後輩に控え外野手笘篠賢治(誠治の実弟)、2年後輩に西山秀二がいた。

同年のドラフト会議では、近鉄バファローズから4位指名を受け、入団した。

現役時代

近鉄時代

1985年までは二軍生活であった。

1986年からは正捕手・梨田昌孝の衰えなどもあり、山下和彦古久保健二と共に一軍に帯同することが多くなった。

1989年は序盤ケガで出遅れたものの終盤に復帰し、シーズン最終戦となった10月15日の西武ライオンズ戦(藤井寺)では渡辺智男から5打数4安打の活躍を見せた[2][3]読売ジャイアンツとの日本シリーズでは同22日の第2戦(藤井寺)で負傷退場した山下に代わって途中出場し2打数2安打、先発マスクを被った同24日の第3戦(東京D)ではシーズンで1本も打てなかった本塁打を宮本和知から放ち[4]、先発の加藤哲郎と共にヒーローインタビューを受けている[2]

1990年には野茂英雄とバッテリーを組み、古久保との併用も有ったが正捕手の座を獲得。打撃面でも自身唯一の2桁となる12本塁打を記録し、この年以降も100kgの巨体から繰り出される豪快なバッティングを見せた。

1995年1月に野茂がメジャーリーグ挑戦のため退団すると、的山哲也ら若手の成長もあって出場機会が減った。

1996年9月には打撃練習中に自打球が当たり、右足薬指を骨折している[5]

中日時代

1997年開幕直前の3月31日に、控え捕手の故障が相次いでいた中日ドラゴンズへ金銭トレードで移籍[6]するが、中村武志矢野輝弘の2人が一軍に固定されており出場機会が少なく、結果を残すことができなかった。

巨人時代

1999年、シーズン途中の5月16日に吉原孝介との捕手同士の交換トレードで巨人へ移籍[7]。当時の巨人は、正捕手・村田真一が顔面への死球を受けて戦列を離れており、経験豊富な捕手を求めかつ中堅の底上げを望み、中日との交渉により光山の獲得が実現した。妻子を名古屋に残し、一人で独身寮に住む単身赴任となる。

移籍後すぐに先発出場した同19日のヤクルトスワローズ戦(神宮)では1打席目から3打席連続安打を放った[8]。しかし、4打席目では、同点の二死満塁で制球の定まらない五十嵐亮太からボール球を何度も振って三振して結局延長戦負けの一因になった挙げ句、この打席から43打席連続無安打を喫するなど、現在でも球団野手ワースト記録[9]となった。結局、これにより打率も一時.075まで落ち、次の安打が出たのは8月25日だった。

2000年はベテランの杉山直輝や若手の村田善則ら他の捕手陣が好調であったため一度も一軍に上がることなく戦力外通告を受けた。

ロッテ時代

2001年千葉ロッテマリーンズに在籍[10]。同年故障者が多かったチームで、特に終盤の守備固めとして期待されていた[10]。しかし、4月1日のオリックス・ブルーウェーブ戦(千葉マリンスタジアム[11]で死球を受けて右足親指を骨折し、離脱したことで[12]、この年の出場は6試合にとどまり、オフに戦力外通告を受けた。オフにはアトランタ・ブレーブスの入団テストを受けた[13]ほか、リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルにも参加した。

横浜時代

2002年3月15日、捕手の故障が相次いでいた横浜ベイスターズへ入団[14]。3番手捕手として期待されたが、8試合の出場にとどまり、3度目の戦力外通告を受けた。

ロッテ・ジャイアンツ時代

同年シーズン終了後に一度は現役を引退したが、コーチとしてのオファーを受けて参加した韓国プロ野球ロッテ・ジャイアンツの秋季キャンプで動きを評価され、選手として入団[15]。同年引退。日韓ロッテ球団、日韓ジャイアンツのそれぞれ双方で現役を経験したこととなった。

現役引退後

引退してしばらくは知人の酒屋勤務とGAORA解説者を兼務し、その後は飲食店経営者としても成功した[16]。GAORA、STVラジオ道新スポーツにて評論家として活動。並行してNOMOベースボールクラブコーチ[17]を務めた。

2004年からは少年野球チーム「光山ベースボールクラブ」を創設し、同チームと合併した「オール松原」の監督[18]2007年より務める。山形県内の中学生チームを指導したことがきっかけで、同県で2004年より硬式野球大会・光山英和杯の開催に協力している[19]

2007年11月に北京オリンピック日本代表にスタッフの一員として招集され、アジア予選同本戦に帯同した。

2011年からは埼玉西武ライオンズ一軍バッテリーコーチに就任。

2012年シーズン途中から作戦コーチを兼任した。

2013年10月15日に球団からコーチ契約を更新しないことを通告された[20]炭谷銀仁朗に猛練習を課し、レギュラーを取るための下地を作り、炭谷とは楽天でもコーチと選手の関係になった[21]

2014年から2015年まで再びGAORA・STVラジオ解説者を務めた。

2016年からは横浜DeNAベイスターズ一軍バッテリーコーチに就任[22]アレックス・ラミレス監督からは「マイベストコーチ」と信頼され、選手との橋渡し役にも貢献[23]戸柱恭孝を正捕手に育て上げた[24]

2018年シーズン終了後に慰留される中で退団した[23][25]

2019年からは西武時代にコーチと選手の関係であった石井一久ゼネラルマネージャーの要請で楽天のコーチに就任[26]。同年は一軍バッテリー兼守備作戦コーチを[27]2020年からは一軍バッテリー兼守備戦略コーチを務めた[28]

2022年も同コーチを務めていたが、Bクラスが決定した9月29日の西武戦(楽天生命パーク宮城)終了後に辞任する意思を固め、石井監督からは慰留されるも[29]、同年限りで退任した[30]

同年オフも複数球団からオファーを受ける中、12月11日、2023年から近鉄時代にバッテリーを組んだ吉井理人が監督を務めるロッテの一軍・二軍統括コーチ兼統括コーディネーターを務めることが発表された[31][32]。背番号は90[33]

2025年からは役職の肩書が一軍・二軍統括コーチ兼球団本部一軍・二軍統括コーディネーターに変更された[34]

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球 団 ...
















































O
P
S
1986 近鉄 4349465132001510120100131.283.298.326.624
1987 2321183410182001000230.222.300.444.744
1988 22332902000210011101110.069.125.069.194
1989 1412120410050000000040.333.333.417.750
1990 87227206256260121043311621102473.301.339.505.844
1991 7415013510284034191041802341.207.260.304.564
1992 741761612243628772213315062110.267.312.478.790
1993 862442172157809922011612000456.263.324.424.747
1994 892292063250905742000531312623.243.290.359.649
1995 6211510552150232110141500400.200.234.305.539
1996 60164141834302431541921101362.241.297.305.602
1997 中日 25383414100520010300120.118.189.147.336
1998 15770100010000000020.143.143.143.286
1999 巨人 38686127100800010511161.115.194.131.325
2001 ロッテ(M) 611101220040000000111.200.273.400.673
2002 横浜 8550000000000000000.000.000.000.000
2003 ロッテ(G) 7991100141000000040.111.111.444.556
NPB:16年 72615491393135332492425111368843128321834728.238.288.367.654
KBO:1年 7991100141000000040.111.111.444.556
閉じる
  • 表中のロッテ(M)(2001年在籍)は、NPBの千葉ロッテマリーンズ
  • 表中のロッテ(G)(2003年在籍)は、KBOのロッテジャイアンツ

年度別守備成績

さらに見る 年 度, 球 団 ...


捕手










1986 近鉄 4218153.200
1987221284.333
198822972.222
198911633.500
199071633726.413
199171462620.435
199264574116.281
199378824933.402
199487694029.420
199557392514.357
199660463610.217
1997 中日 21752.286
199815321.333
1999 巨人 3723185.217
2001 ロッテ 61091.100
2002 横浜 6330.000
通算 670493324169.343
閉じる
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

初記録

背番号

  • 56(1984年 - 1989年)
  • 44(1990年 - 1996年、1998年 - 1999年途中、2002年)
  • 17(1997年)[注 1]
  • 39(1999年途中 - 2000年)
  • 60(2001年)
  • 40(2003年)
  • 89(2011年 - 2013年)
  • 90(2016年 - )

関連情報

出演

脚注

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.