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日本の野球指導者、解説者、評論家、タレント、元プロ選手 (1967-) ウィキペディアから
大久保 博元(おおくぼ ひろもと、1967年〈昭和42年〉2月1日 - )は、茨城県東茨城郡大洗町出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)、野球解説者・野球評論家、YouTuber、プロゴルファー、実業家。
東北楽天ゴールデンイーグルス監督時代 (2015年、東京ドームにて) | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 茨城県東茨城郡大洗町 |
生年月日 | 1967年2月1日(57歳) |
身長 体重 |
180 cm 108 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1984年 ドラフト1位 |
初出場 | 1985年7月30日 |
最終出場 | 1995年6月22日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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愛称はデーブ、ブーちゃん。現役引退後はデーブ大久保名義で活動しており、埼玉西武ライオンズコーチ時代は登録名としても使用した。第59代巨人4番打者、第5代東北楽天ゴールデンイーグルス監督。東京都港区新橋・居酒屋「肉蔵でーぶ」オーナー、東京/横浜「デーブ ベースボールアカデミー」主宰者。
水戸商業では2年次の1983年夏、捕手として出場した茨城大会で決勝に進出するが、エースの加茂川重治を擁する茨城東高に前年秋の県大会準決勝に続いて敗退。
3年次の1984年夏も茨城大会で敗れ、甲子園には出場できなかったものの高校通算52本塁打を記録。
1984年度ドラフト会議にて広沢克己のクジを外した西武ライオンズからの1位指名で入団[3]。契約金は4,500万円で[4]、1985年の卒業式では母校に100万円を小切手で寄付した[5]。
入団当時から長打力が注目され、1986年の1年間は1A・サンノゼ・ビーズに野球留学のため渡米した。引率を担当した和田博実二軍打撃コーチから、太っている体型から「デーブ」というあだ名を付けられた。また当時の西武球団の慣習(2年目の選手が新人の教育係となる)から、渡米前には1年後輩の清原和博の教育係を務めていた。一塁手として起用の構想もあったが清原の活躍で立ち消えとなり、一時は三塁手にも挑戦した。
帰国した1987年にはジュニアオールスターゲームでMVPを獲得。1989年には当時イースタン記録となる24本塁打・70打点でイースタン二冠王に輝く[6]。だが当時の正捕手には伊東勤が定着しており森祇晶監督からはリードを評価されず、ほとんどが代打や指名打者ばかりで捕手としての先発出場はなかった。
1988年以降はタイラー・リー・バンバークレオやオレステス・デストラーデの加入で、指名打者での出場もなくなり二軍生活が続いた。
1992年5月11日、中尾孝義との交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍。西武では活躍の場がない大久保のために、同じ茨城県出身である球団管理部長の根本陸夫が主導したトレードだった。
巨人ではいきなり正捕手として起用され、6月には月間MVPを獲得し、オールスター前までに打率.300・12本塁打を放つ活躍を見せた。大久保が本塁打を打った試合は必ず勝利していたため、「大久保が打てば負けない」というジンクスまで生まれ、藤田元司監督の進言もあって球団から前半戦終了時に2000万円のボーナスを得た。しかし、2000万円という金額については藤田も想定外であり、「大久保だけボーンと2000万円…。これはみんな、雰囲気悪くなりますよ。チームじゅうで、雰囲気が悪いんです。いや、これには、まいりました」[7]とのちに述べている。大久保も、オールスター後は大きく失速し、チームが優勝を争った終盤戦には村田真一に正捕手の座を奪われた。
長嶋茂雄が監督に就任した1993年は開幕から村田との併用で起用されていた。ハイペースで本塁打を量産し、5月27日のヤクルト戦(神宮)ではプロ入り初盗塁を決める。しかし、その試合で高津臣吾から死球を受け、左手首を骨折し9月まで長期にわたり戦線離脱を余儀なくされた。復帰後となる10月2日と翌3日の広島戦(東京D)では初めて4番・一塁手で先発出場し、結果は7打数1安打1打点で、2日に秋村謙宏から放ったソロ本塁打で記録したものであった。同年は巨人の日本人選手では原辰徳・松井秀喜に次ぐ10本塁打を放つも、本塁打以外の打点が2しかなかったため、16打点であった。オフに年俸3,100万円で契約更改した[8]。
1994年は、劇的なサヨナラ本塁打を複数放つなど打撃は好調だったが、リードやキャッチングの面から再び村田が正捕手となり、二番手捕手や代打要員にとしての起用が主だった。9月10日の広島戦(東京D)で3-11と大きくリードされた6回1死で打席に立った大久保は、2球目の直後に後ろを振り向くと、西山秀二と球審へ怒りの形相でクレームをつけ始めた。ネクストサークルの福王昭仁と一塁ベースコーチの中畑清一軍打撃コーチが慌てて駆けつけて仲裁に入ったが、これは西山の故意死球をほのめかすささやきに大久保が過剰反応したものであった。プレー再開後も怒りが冷めやらぬ大久保は、1-1から望月秀通の直球を思い切り空振りし、フルカウントから外角低めに落ちる球をまたも空振りし三振に倒れた。まんまと広島バッテリーの術中にはまった悔しさがさらなる怒りを呼んだのか、直後の大久保はバットを2度にわたり、地面に叩きつけ、荒々しく放り投げた。ヘルメットもグラウンドに投げ捨て、大暴れするなど大人げない行動にスタンドは唖然。しかし「みんなスカート履いて野球やってるよ」と、闘志を前面に出さない選手らに不満を抱いていた長嶋監督は、逆に大久保の振る舞いを評価した[9][10]。9月17日の阪神戦(東京D)では、中西清起からサヨナラ2ラン本塁打を放った際に大口を開けて泣いている。8月下旬から2勝12敗と低迷していたチームは再び盛り返し、中日との10.8決戦を制したことで4年ぶりのリーグ優勝を果たした[9]。古巣・西武との日本シリーズでは、10月26日の第4戦(西武球場)9回2死で杉山賢人から同点本塁打を放ち、日本一に貢献。
1995年は1994年オフからの契約更改交渉が長引き、自費キャンプとなったうえ、サインをしたのは2月のキャンプ初日だった。2年ぶりに開幕戦捕手として出場し、斎藤雅樹の2年連続開幕戦完封勝利に貢献。しかし、4月26日の広島戦(広島市民)で空振りした際にバランスを崩し尻もちをついて足首を骨折。NPB球団の所属選手からなる外国人選抜チームと日本人選抜チームが対戦した「阪神大震災復興支援チャリティードリームゲーム」(7月24日、福岡ドーム)では、外国人側に捕手がいなかったため、あだ名が外国人的であること、また海外留学経験から英語が話せるという理由で、「デーブ」の登録名で外国人チームとして参加。もう1人の捕手として、当時ロッテの正捕手だった定詰雅彦が「ジョー」の登録名で出場している。
同年28歳で現役を引退。当時は故障(骨折)による引退と思われていたが、コーチとの確執が原因であったことを後年明かしている[11]。
引退後の1996年、個人事務所「デーブカンパニー」を設立。フジテレビ(2000年 - 2007年)・ニッポン放送(1996年 - 2007年)野球解説者、サンケイスポーツ野球評論家(2000年 - 2007年)となる傍らで、「デーブ大久保」名義でタレント活動を始めた。
1999年から『週刊パーゴルフ』で始めた連載をきっかけに、プロゴルファーとしても活動する[6]。2001年のクォリファイングトーナメントに挑戦し、最初の関門であるファーストクォリファイを突破してセカンドに進んだ。サードへの進出は果たせなかったが、主催者推薦での出場が可能となり、2002年のダイヤモンドカップトーナメントでツアーデビュー。その後も12試合のレギュラーツアーに参戦したが、予選通過試合はなかった。
2008年、渡辺久信監督の強い要望により、古巣・西武に一軍打撃コーチとして16年ぶりに復帰。登録名はニックネームでもある「デーブ大久保」とした[12]。
メジャー流の早朝練習「アーリー・ワーク」を取り入れ、10数通りのケースバッティングを叩き込み直し、打線を機能させる意識改革を行った。アーリー・ワークについては、野村克也が自著『あぁ、監督』で一定の評価をしていた[13]。自身の一軍半が長かった経験から、一軍・二軍コーチの綿密な連絡の有無が若手の成長に影響を与えるという考えで、コーチ陣会議を開催して円滑な選手育成を行った。
ベンチでは「野次将軍」を担当。5月7日の日本ハム戦(西武ドーム)では、9回裏に片岡治大がダルビッシュ有からサヨナラ安打を放ち勝利したが、ベンチを飛び出て喜びの余りバッターランナーの片岡を追いかけたところ、両足大腿部の肉離れを起こし、細川亨とクレイグ・ブラゼルに抱えられ、ベンチ裏のトレーナーズルームに運ばれた。前日の5月6日には、ヒラム・ボカチカがサヨナラ本塁打を放ったが、すでに大久保の右足には異変が起きていた。医師からは肥満体であることを指摘された。
2009年はコーチ職を離れ、編成部プロ担当を1年間務める。2010年には二軍打撃コーチとして現場復帰。しかし、7月22日に西武球団から、コーチとして不適切な行為があったとして、同日付で大久保をコーチから外し、球団本部長付にすると発表された[14]。球団は選手ら関係者へのヒアリングの結果、大久保による暴力行為が認められたため、同29日に大久保の解雇を発表した[15]。
退団後は、プロ野球コーチとしてのノウハウを活かし、一般向けの野球指導を行う「デーブベースボールアカデミー」を開講。少年野球の選手・指導者を中心に指導を行っている。
2012年、星野仙一監督率いる東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍打撃コーチに就任[16]。大久保によれば、西武から解雇された時点で「事実上の球界からの永久追放」と認識していたが、楽天球団の取締役だった米田純から「星野と選手の間で大きな溝ができているので、選手側の立場で星野との仲立をして欲しい」と依頼され、球界復帰を決意したという[17]。同年シーズン終了後には二軍監督へ異動[18]。
2014年5月、星野監督が腰椎椎間板ヘルニアと胸椎黄色靱帯骨化症で休養となり、監督代行を佐藤義則が務めていたが、7月2日より大久保が監督代行に就任する旨が発表された。佐藤は投手コーチに専念、酒井勉が二軍監督代行を務めることとなった[19]。前年リーグ優勝したことで、星野が指揮を執るはずだった同年のオールスターの指揮については辞退している[20]。7月24日、星野が監督復帰したことで再び二軍監督となる[21]。しかし、シーズン終了後には星野の退任・球団副会長への異動があり、大久保は二軍監督から監督へ昇格、10月14日に就任が発表された[22]。
監督を務めた2015年は、序盤こそ勝率.500前後を維持するも、6月のセ・パ交流戦終了後以降は次第に失速。チームの借金は2桁に達し、順位も最下位に後退。クライマックスシリーズ進出の可能性が完全消滅した9月22日、シーズン終了をもって辞任することを発表した[23][24]。退任発表時は1つでも上の順位を目指すとしていたが、10月3日にチームの最下位が確定し、同6日のシーズン最終戦であるロッテ戦(コボスタ宮城)をもって退任となった。監督退任後に、星野から「翌年は編成本部長として球団に残って欲しい」旨の打診を受けたものの、「球団に不利なことを喋らせないための口止め料だと感じ『そんな金を貰わなくても余計なことは喋らない』として辞退した」ことをのちに明らかにしている[17]。
楽天監督退任を受け、横浜DeNAベイスターズの中畑清監督が、大久保のコーチ入閣をDeNAフロントに要請したが、高田繁GMを始めとしたフロント陣の反対で、横浜入りは立ち消えになった。ちなみに要請を却下された中畑も、不服として監督を辞任している[25]。
2016年3月4日、食品衛生管理者の資格を取得し、東京・新橋に居酒屋「肉蔵でーぶ」を開業。その傍ら、フジテレビの野球解説者、サンケイスポーツの野球評論家としての活動を再開している。
また、2018年にはプロゴルファーとしての活動も再開し、12年ぶりに下部ツアーであるAbemaTVツアーの「HEIWA・PGM Challenge II 〜 Road to CHAMPIONSHIP」へ出場した。
2022年10月13日、2023年より監督・原辰徳の招聘で[27]、読売ジャイアンツの一軍打撃チーフコーチに就任することが発表された[28]。しかしチームの成績は低迷。原の監督退任を受け、大久保も1年で退団した[29]。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
11月12日に知人女性が大久保から暴行を受けたとして警視庁品川署に被害届を提出していることが発覚[39]。
大久保は「刑事罰を受けるようなことは自分の中ではしていない。」と否定したが、2日後の14日に傷害罪の疑いで書類送検されるに至った。この件について大久保は球団から厳重注意処分を受け、優勝パレードなど球団行事への参加を自粛した。
2009年度も前年同様に西武一軍打撃コーチを務める予定で発表されていたが、この影響から12月9日にはコーチ職を解かれ、編成部プロ担当への異動が発表された。会見では知人女性への暴行を否定していたが、検察側に対して本人が容疑を全面的に認めたため、東京区検に2009年3月13日までに傷害罪で略式起訴され、東京簡裁は3月27日、検察側の請求通り、大久保に罰金20万円の有罪判決を出した。
2010年度に二軍打撃コーチとして復帰するも、選手に対する暴力問題で解任された。
解任後、大久保は西武球団を相手に地位保全と報酬の仮払いを求めた仮処分申請を東京地裁に行ったが、11月19日に東京地裁は申請を却下。これに対し、東京高裁に即時抗告を行ったが、12月28日に東京高裁は即時抗告を却下した。2011年1月27日、大久保は西武球団を相手に契約解除の無効、未払い報酬の支払い、名誉毀損に対する損害賠償2,000万円を求め、東京地裁に提訴した[40]。
西武球団は当初、どの選手に対し暴力行為があったかなどを明らかにしなかったが、大久保が菊池雄星を名指し出廷を求めるなどしたため、暴行を受けたのが菊池であることを球団として2月16日に公表した。自主練習である「アーリー・ワーク」への遅刻に対するペナルティとして、球団非公認の私設による罰金を徴収していた(つまり恐喝罪に該当する)が、それに反発した菊池が告げ口したと見なし、大久保が菊池に暴力を働いたことを、球団が問題視したことが明らかになった[43]。
『週刊ポスト』の取材で、謹慎期間中に自殺未遂をしたことを告白しているが真相は定かではない[要出典]。2012年から楽天のコーチ就任が決定したことに伴い、西武に対する訴訟について請求を放棄し、裁判が終結した[44]。楽天とのコーチ契約交渉の中で、西武との訴訟を取り下げることが楽天球団から条件として要請されたことをのちに明かしている。
2016年2月、シニアディレクターの渡辺久信を通じ、西武球団および菊池と和解している。また、2021年8月18日、自身のYouTubeチャンネルにおいて暴言はあったものの暴行の事実はなかったこと、上記の和解の際に菊池から謝罪を受けたことを話している[45]。
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985 | 西武 | 5 | 4 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .250 | .250 | .250 | .500 |
1987 | 56 | 78 | 71 | 4 | 17 | 1 | 0 | 3 | 27 | 17 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | 3 | 18 | 1 | .239 | .282 | .380 | .662 | |
1988 | 13 | 13 | 10 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 5 | 0 | .100 | .250 | .100 | .350 | |
1989 | 11 | 14 | 13 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | .077 | .143 | .308 | .451 | |
1990 | 13 | 18 | 16 | 2 | 3 | 0 | 0 | 2 | 9 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 5 | 1 | .188 | .278 | .563 | .840 | |
1991 | 5 | 8 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1992 | 巨人 | 84 | 285 | 260 | 37 | 72 | 14 | 0 | 15 | 131 | 43 | 0 | 0 | 0 | 1 | 20 | 9 | 4 | 48 | 7 | .277 | .337 | .504 | .841 |
1993 | 40 | 121 | 110 | 14 | 24 | 2 | 0 | 10 | 56 | 16 | 1 | 0 | 0 | 0 | 9 | 3 | 2 | 29 | 3 | .218 | .289 | .509 | .798 | |
1994 | 62 | 130 | 119 | 14 | 35 | 2 | 0 | 9 | 64 | 18 | 0 | 0 | 0 | 1 | 9 | 4 | 1 | 27 | 2 | .294 | .346 | .538 | .884 | |
1995 | 14 | 25 | 24 | 2 | 4 | 1 | 0 | 1 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 8 | 0 | .167 | .200 | .333 | .533 | |
通算:10年 | 303 | 696 | 635 | 75 | 158 | 20 | 0 | 41 | 301 | 100 | 1 | 0 | 1 | 4 | 45 | 16 | 11 | 147 | 15 | .249 | .308 | .474 | .782 |
年度 | 試合 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 | 失策 |
---|---|---|---|---|---|---|
1987 | 6 | 3 | 3 | 0 | .000 | 0 |
1988 | 3 | 3 | 3 | 0 | .000 | 0 |
1989 | 3 | 3 | 3 | 0 | .000 | 1 |
1990 | 3 | 2 | 1 | 1 | .500 | 0 |
1991 | 3 | 6 | 4 | 2 | .333 | 0 |
1992 | 75 | 52 | 38 | 14 | .269 | 2 |
1993 | 28 | 29 | 22 | 7 | .241 | 3 |
1994 | 46 | 25 | 15 | 10 | .400 | 2 |
1995 | 8 | 14 | 9 | 5 | .357 | 1 |
通算 | 175 | 137 | 98 | 39 | .285 | 9 |
※通算成績には2014年楽天での監督代行17試合(7月3日から7月23日、8勝9敗)を含む
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