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日本のロックバンド ウィキペディアから
L'Arc〜en〜Ciel[注釈 3](ラルク アン シエル[注釈 4])は、日本の4人組ロックバンド。通称・略称は、主に「ラルク」が用いられている。
L'Arc〜en〜Ciel | |
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基本情報 | |
出身地 | 日本 大阪府大阪市 |
ジャンル | |
活動期間 | 1991年 - |
レーベル |
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事務所 | MAVERICK(1992年 - ) |
共同作業者 | 岡野ハジメ(共同プロデューサー、1996年 - ) |
公式サイト | L'Arc-en-Ciel Official Web Site |
メンバー | |
旧メンバー |
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YouTube | |
チャンネル | |
活動期間 | 2019年12月3日[注釈 2] - |
ジャンル | 音楽 |
登録者数 | 53.7万人 |
総再生回数 | 2億6202万8496回 |
チャンネル登録者数・総再生回数は 2024年3月6日時点。 |
1991年にtetsuya(Ba.)を中心に結成[4]。現在バンドに在籍するメンバーはtetsuyaを含め、hyde(Vo.)、ken(Gt.)、yukihiro(Dr.)の4名。過去にはhiro(Gt.)、pero(Dr.)、sakura(Dr.)がメンバーとして参加していた。バンド名はフランス語で"虹"を表しており、tetsuyaにより名付けられている。
1993年に発表した1stアルバム『DUNE』がインディーズチャートで首位を獲得するなど、インディーズシーンで絶大な人気を得て[4]、1994年7月にビデオシングル「眠りによせて」でメジャーデビューを果たす[4]。1990年代は「flower」「虹」「winter fall」「HONEY」「花葬」「Driver's High」などの楽曲でヒットを記録し[3]、2000年代・2010年代には「NEO UNIVERSE」「READY STEADY GO」「叙情詩」「MY HEART DRAWS A DREAM」「DAYBREAK'S BELL」「DRINK IT DOWN」「X X X」などでチャート首位を獲得している。そして現在までに、計12作品のスタジオ・アルバムを発表している。
楽曲は、バンド活動の最初期の頃、メンバーがルーツとする1980年代のニューウェイヴやポストパンクからの影響を感じるものが多く発表されている[3]。ただ、活動が進むにつれ、グランジやオルタナティヴ・ロックなど[3]、その時代の刺激的なサウンドを吸収し[3]、多彩なアレンジを施した独創的なポップ・ミュージックを手掛けるようになっている。また、メンバー4人全員がメインコンポーザーとして作曲を手掛け、多様な方向性のアプローチにつなげている点も、バンドの大きな特徴のひとつとなっている[3]。
1990年代後半以降の活動では、スタジアムクラスの会場で頻繁にライブを行うようになっている。1999年には野外特設会場をまわる全12公演のツアーで65万人を動員、2000年には4大ドームツアーを敢行している。さらに2014年には、国立競技場(現:旧国立競技場)の最多収容人数記録となる8万人(2日間計16万人)を集めた公演を開催。そして近年は、各メンバーのソロ活動もしくは別バンドでの活動と並行しつつ、日本国外でもライブを行っており[4]、これまでにソウル、台北、上海、香港、シンガポール、バンコク、ジャカルタ、パリ、ロンドン、ホノルル、ボルチモア、ニューヨークといった都市で公演を行っている。なお、2012年にはニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンで、日本人アーティストとして初めて同所での単独公演を開催している[5]。
マネジメントはMAVERICKが担当。レコード会社はソニー・ミュージックレーベルズの社内レーベル、Ki/oon Musicに所属している。
公式ファンクラブ名はフランス語で"空"を意味する「LE-CIEL」[注釈 5](1995年設立、デジタル版は2021年設立)。公式モバイルサイト名は「L'mobile」[注釈 6](2009年設立)。
メンバープロフィール | ソロプロジェクト・バンド遍歴 | パート[注釈 7] |
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hyde (読み:ハイド) (本名:寶井 秀人[6]) 1969年1月29日 和歌山県和歌山市出身 |
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ken (読み:ケン) (本名:北村 健) 1968年11月28日 滋賀県米原市出身 |
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tetsuya (読み:テツヤ) (本名:"非公表") 1969年10月3日 滋賀県米原市出身 ※リーダー |
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yukihiro (読み:ユキヒロ) (本名:淡路 幸宏) 1968年11月24日 千葉県市川市出身 |
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メンバープロフィール | パート | 在籍期間 | 備考 |
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hiro (読み:ヒロ) |
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1991年2月 - 1992年6月12日 |
詳細
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pero (読み:ペロ) |
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1991年2月 - 1992年12月30日 |
詳細
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sakura (読み:サクラ) (本名:桜澤 泰徳) 1969年11月20日 東京都練馬区出身 |
1993年1月16日 - 1997年11月4日 |
詳細
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1990年前後に、大阪の有名レコード店(ワルツ堂)でアルバイトをしていたtetsuyaは[10]、バンドを組むべくメンバー探しを行っていたという[11][12]。そのような中でtetsuyaは、アルバイト先で当時大阪のシーンで有名だったバンド、BILLY & THE SLUTSのボーカルを務めるSAMMYと知り合っている[11][12]。そして、SAMMYから「いいギターがいる」と、L'Arc〜en〜Ciel結成メンバーとなるhiroを紹介されたという[11][12]。その後tetsuyaは、hiroと2人でバンドを結成する方向で動いていたが、形にならず終わってしまう[12]。このあともメンバーを探すため、ライブハウスに頻繁に訪れていたtetsuyaは、とあるギタリストに「今度スタジオで音を出そうと思ってる、ちょうどベースがいないから合わせてみる?[11]」と誘われ[11][12]、そのセッションに参加することにする[11][12]。そこで、L'Arc〜en〜Cielの結成メンバーとなるhydeとperoに出会ったという[11][12]。また、余談だが、この当時tetsuyaはバンドメンバーを探すため、多くのミュージシャン志望の人とセッションしていたといい、その中には当時Luis-Maryのボーカリストとして高い知名度を持ち、後にT.M.Revolutionとしても活動を始める、西川貴教(当時は"灰猫"名義で主に活動)もいたという[12]。
一方、hydeもtetsuyaと同様に、バンドを組むべく、大阪でメンバー探しを行っていたという[11][13]。そして、Kiddy Bombsというバンドと知り合い、同バンドのドラマー、peroと交流を持つようになる[13][14]。その後、Kiddy Bombsがボーカル脱退に伴い解散状態となり、peroはhydeに「一緒にバンドやろう」と声をかける[13]。こうしてhydeとpero、さらにKiddy Bombsのギタリストとベーシストを加えた4人は、新たなバンド、Jelsarem's Rodを結成する[13][14]。そして結成してすぐに、ベーシスト以外の3人は、tetsuyaも参加した前述のセッションに赴いたという[13][14]。
上記のセッションを振り返り、tetsuyaは2010年に発表された書籍のインタビューで「課題曲を決めておいて、セッションで何曲か合わせて…お互いに様子見ですよね、お見合いみたいな。peroとhydeは一緒にバンドをやってて、僕は僕で、別のところで、hiroとふたりでメンバーを探してたんですよ[12]」と述懐している。また、hydeは2012年に発表した自叙伝で「当時はJelsarem's Rodを作ったばかりだったから、他のバンドには興味が持てなくて。peroが"行こうよ"って言うから行ったけど、ひと通り演奏して帰ったっていう感じだったね。まあ、"上手だな〜""うちのバンドとは全然違うな〜"とは思ったけど[14]」と述懐している。そして、このセッションでhydeとperoと出会ったtetsuyaは、L'Arc〜en〜Ciel結成に向け、大きな一歩を踏み出すことにする。
というのも、tetsuyaはhydeとperoと出会った際に、"hyde、pero、hiro、自分で全部がつながった"、"すごいバンドになる"と直感的に感じたという[12]。そのため、tetsuyaは「自分とバンドを組まないか」とhyde、peroの2人に打診したという[12]。ただ、前述の通り、「Jelsarem's Rodを結成したばかりだから」という理由で、hydeに断られてしまう[12]。それでも諦め切れなかったtetsuyaは、Jelsarem's Rodのライブに足繁く通い、hydeとperoを口説き続けたという[12][14]。この当時のtetsuyaの熱烈な勧誘を振り返り、hydeは「その時(セッションの時)にtetsuyaは俺らに目をつけてたみたいで。それから、毎回、俺らのバンドのライブに来てくれるようになって、打ち上げにも来たし電話もあったんだけど、"どう?バンド、調子ええ?"って聞くから"うん、調子ええよ"って言うと、"そっか"って残念そうにしてたな(笑)[14][15]」と述べている。また、後年tetsuyaは、このときの自身の行動について「ちょっと今では考えられない(笑)。当時はもっとおしゃべり、おしゃべりじゃないな、積極的な少年やって[13]」と振り返っている。なお、peroはtetsuyaの誘いに乗り気だったようで、tetsuya曰く「"hydeがOKしたら俺はいつでも行くよ"的なことを言ってた[13]」という。
止めどないラヴ・コールを受け続けたhydeは、Jelsarem's Rodの先行きが見えなかったこともあり、tetsuyaと一度セッションすることを決意する[13]。そして、1991年2月頃、hyde、tetsuya、peroに、tetsuyaと共にバンドメンバーを探していたhiroを加えた4人で、兵庫県西宮北口駅のスタジオでセッションを行う[13][16][15]。このセッションでhydeは「やっぱり自分たちのバンドとは全然クオリティーが違う[15]」と感じ、tetsuyaからの誘いに「一緒にやろう」と返答し[15]、Jelsarem's Rodを解散させ[15]、新たなるバンド、L'Arc〜en〜Cielを結成することを決断する。なお、後年hydeは、Jelsarem's Rodの解散を決めたときを振り返り、2012年に発表した自叙伝で「そうこうしてるうちに、俺らのバンド(Jelsarem's Rod)もすごく行き詰ってきて。毎回、ギターソロは、スケールが外れてるし(笑)。友達としては大好きだったんだけど、バンドとしてこれでは無理だと気がついて来たんだ。その後、Jelsarem's Rodの解散を切り出す事になるんだけど、とてもつらかったのを覚えてる[15]」と綴っている。
こういった紆余曲折があり、hyde(結成当時のアーティスト名義は"hide")(ボーカル)、hiro (ギター)、tetsuya(結成当時のアーティスト名義は"tetsu")(ベース)、pero (ドラムス)の4名から成るロックバンド、L'Arc〜en〜Cielが結成された。
余談だが、L'Arc〜en〜Cielは結成後、3回にわたりメンバーの脱退・加入が繰り返されているが、新加入したメンバーはいずれも、バンドの発起人であるtetsuyaの知り合い、もしくは直接知り合っていないながら、奇しくもバンド結成の流れの中に居合わせていた人物となっている。例えば、hiroと入れ替わるかたちで1992年に加入したギタリストのkenは、tetsuyaとバンドを組んでいたことがあった幼馴染で、客としてL'Arc〜en〜Cielを観たこともあった[17]。そして、peroと入れ替わるかたちで1993年に加入したsakuraは、tetsuyaがアルバイトしていたレコード店に訪れたロックバンド、DEAD ENDでドラムを担当していた湊雅史のローディーを務めており、tetsuyaと直接知り合っていないものの、アルバイト先に赴いていたことがあった[12]。そして、sakura脱退後の1998年に加入したyukihiroは、当時ZI:KILLのドラマーを務めており、tetsuyaが、hydeとperoの2人も赴いた最初のセッションに招待したギタリストとライブハウスで接触した当日に、奇しくもそこでライブをしていたという[12]。
以上のように、L'Arc〜en〜Cielは結成メンバー4人、そしてのちに加入するメンバー3人、合わせて計7人によって歴史が紡がれていくことになる。なお、L'Arc〜en〜Cielというバンド名は、後述の"バンド名の由来"の項目にあるように、大気光学現象のひとつである「虹」を意味している。そして、虹の色数は、日本では一般的に「7色」とされており、これは奇しくも「L'Arc〜en〜Cielに在籍したメンバーの数」と一致する。この偶然の一致について、tetsuyaは、2006年に受けた音楽雑誌のインタビューにて「今までのラルクのメンバーって7人(hyde, hiro, tetsuya, pero, ken, sakura, yukihiro)いるんですよ。なんかそれも運命かなぁって。誰ひとり欠けても今のラルクはない[18]」と述べている。ちなみにアーティストが自身のメモリアルイヤーを定める際、メジャーデビュー年を起点に算出するミュージシャンと、結成年・活動開始年を起点に算出するミュージシャンの2パターンに分かれることが多いが、L'Arc〜en〜Cielは後者の"結成年"を基準にしていることが多い。L'Arc〜en〜Cielの場合、結成年を基準にすることにより、結成メンバー4人でアマチュアバンドとして活動していた時期も年数に含めることができるが、このことが"結成年"を基準にしている理由かどうかは定かでない。
バンド名は、結成時にオリジナルメンバー4人が各々で、様々な案を考えたという[19]。結果的にtetsuyaが提案した、フランス語で「虹(=空に架かる橋)」を意味する『arc-en-ciel[注釈 48]』を由来とした「L'Arc〜en〜Ciel(カナ表記ではラルク アン シエル)」(フランス語発音: [laʀkɑ̃sjɛl] ラルコンスィエル、ラフコンスィエル[注釈 49])という言葉がバンド名に採用されている[19]。ちなみにバンド名は、そのときのデザインによって「L'Arc-en-Ciel」という表記で記載している場合もある。
L'Arc〜en〜Cielというワードは、tetsuya曰く、当時本屋などをまわり、様々な資料をもとにバンド名に適した言葉を探していたときに、たまたま見つけた言葉だったという[19]。この言葉を見つけた経緯について、tetsuyaは2011年に受けた音楽雑誌のインタビューで「当時はインターネットとかなかったので、本屋さんとかでいろんな資料を見たんですが、その中にこのフランス語の言葉があった。意味は虹ですけど、分割すると、天空にかかる橋。見た目もいいし、響きもいい。音楽でいろんな色を表現するというところでも合うなと。長くて、覚えにくいものではあるけれど、ローマ字で表記したときにインパクトがあると思ったんです[19]」「(この言葉には)洋服のブランドみたいな雰囲気もあって、いいかなって[19]」と語っている。
なお、2012年に受けたアメリカの経済雑誌『フォーブス』のインタビューで、バンド名の由来を聞かれた際に、hydeは「名前を付けようと思ったときに、英語の単語はもう全部他のバンドに使われていたから新鮮だったフランス語にした[20]」「特に最初意味はなかったんだけど、今のバンドの音楽性が多彩なので、それを上手く表している名前だな、と僕たちも思う[20]」と述べている。ちなみに、結成当初に作られたL'Arc〜en〜Cielのバンドロゴやチラシは、hydeの手で制作されている。なお、hydeはミュージシャンを志す前に、画家や漫画家、デザイナーといった職業に憧れ、「絵の道に進もう」と考えていたことから、かつてデザイナー学校に通っていた[21]。後年hydeは、結成当初にバンドロゴや、ライブのチラシを作っていた頃を振り返り「俺が出来る事と言えば、バイト先のカラーコピー機を無断使用してライブのチラシを作る事だった。ベルトと手袋の会社で梱包のバイトをしてたんだけど、俺の経歴のデザイナー学院卒を見てくれて、企画を手伝うことになったんだ。ファッションデザイナーが描いてくるベルトの絵を、商品化しやすいような絵に変えるような仕事がメインだったかな。ほとんどは一人で作業してたから、当時は1枚100円くらいしたカラーコピーを何十枚も刷ってたね(笑)。見つかったら怒られるだろうからヒヤヒヤしながらやってたよ(笑)。CDをリリースしてた訳じゃないからバンドのアートセンスはチラシで決まる所もあって、結構時間をかけた。それこそまさにアナログでカラーコピーを駆使した「self portrait」(音楽雑誌『R&R NewsMaker』で連載していたhydeによるアート企画)の原型だね。L'Arc〜en〜Cielの質を上げるのに貢献したと思うよ。そこのデスクで初代のロゴも作った。カッターとのりで切り貼りしたヤツを何度もコピーしたから少し歪んでるけどね(笑)[21]」と述懐している。
余談だが、バンド名の由来に関し、"当時tetsuyaが阪急梅田三番街にあった喫茶店の名前を気に入り、そこから取った"という根も葉もない噂が世間で流布されたことがあったが、この説は、バンドの名付け親であるtetsuya本人の口から何度も明確に否定されている[19][22]。このデマについて、tetsuyaは音楽雑誌『WHAT's IN?』2011年2月号でのインタビューで「梅田に同じ表記の喫茶店があって、そこからとったという説がずーっとWikipediaに書かれてたんですよ。でもまったく関係ないです。冷静に考えてみてくださいよ、喫茶店の名前からバンド名をとるわけないじゃないですか!?[19]」と述べている。
ちなみに、1995年2月1日付けでバンドの公式ファンクラブ「Ciel」が設立されている。それから約5年後の2000年4月21日には、公式ファンクラブの名称が「LE-CIEL」に変更されている。なお、公式ファンクラブの名称は、フランス語で「空」という意味を持つ『ciel』が由来となっており、この名称には「ファンとバンドが"空"と"虹"のような関係でいれたら」というL'Arc〜en〜Cielの想いが込められている。
1991年2月頃のセッションを経て、新たに結成されたバンド、L'Arc〜en〜Cielは、同年5月30日に難波ロケッツで記念すべきファーストライブを開催する[23]。このライブはいわゆる対バン形式だったが、100人以上の動員を記録。そして、1991年9月27日に同所でL'Arc〜en〜Cielとして初のワンマンライブを行い、300人以上の観客を集めている[23]。こうしてL'Arc〜en〜Cielは、結成して間もなくバンドが軌道に乗り始め、大阪を中心に様々な活動を展開していくことになる。なお、L'Arc〜en〜Cielが結成当初から一定の人気を獲得できていたのは、hyde曰く、hiroが以前組んでいたバンドで名を知られていたことや[21]、tetsuyaの考えたプロモーション・イメージ戦略によるところが大きいという[21]。
結成当時のL'Arc〜en〜Cielの活動を振り返り、後年hydeは2012年に発表した自叙伝で「面白かったのは、L'Arc〜en〜Cielって最初から戦略的だった事。俺なんかは、いいライブさえやっていれば、いつかそれが人目に付いて、動員が増えてプロになれるんじゃないかな?くらいに考えてたんだけど、L'Arc〜en〜Cielはとても戦略的で、tetsuyaはもう既に大勢の人の名簿を持っていて、それを元にダイレクトメールを送ったり、ギターのhiroは、元々ちょっと名前の知れた子だったから、その子が復活するってだけでも話題になったり、最初のライブは150人だったかな?ちょっと普通ではありえないような動員があったね[15][21]」と綴っている。また、後年tetsuyaは「今だと個人情報保護とかでダメだと思うんですけど、当時僕がアルバイトしていたレコード店にあるお客さんのリストを使って、ライブ開催のダイレクトメールを送ったりしてましたね[24]」と当時を振り返っている。
その後L'Arc〜en〜Cielは、この当時のアマチュアバンドが行っていたありがちな活動とは逆の戦略を展開し始める。この当時のアマチュアバンドの多くは、手作りのデモテープを販売することで活動資金を集め、それをもとに様々な地域でツアーと称し、長期的なライブ活動を行うことが定番になっていた[22][24]。こういったバンドが溢れる中、活動最初期の頃のL'Arc〜en〜Cielはデモテープの販売を避け、あえて大阪からあまり動かず、先々のライブ予定も発表しないスタンスをとっていた[22]。この当時の活動方針について、tetsuyaは「当時ね、周りの同じようなバンドはライブをいっぱいやってたんですよ。数をこなす、みたいな。月に2〜3回はライブやって、それこそツアーで全国を回るとか。でも僕らは月1回に絞って、それ以上はやらない、ツアーもやらない。で、大阪に観に来てもらう、東京からでも来てもらう…ぐらいの気持ちでやってました。ライブの本数をあえて絞りましたね[22]」「あと、他のバンドは先々のスケジュールまで発表しちゃうんですけど、そうじゃなくて、次のライブは観に来た人に伝える。ライブに来て初めて、次のライブをいつどこでやるのかわかる。逆に、来ないとわからない。次はいつ観られるかわからないっていう状況をあえて作りましたね[22]」と語っている。このようにライブの開催数を減らし、長期のライブスケジュールを発表しない戦略をとったことによって、口コミが喚起され、動員数が増加していったとtetsuyaは当時を述懐している[22]。なお、ライブを行った際は、メンバー主導で音楽雑誌編集者に対し、公演の模様や動員数などの情報を送り、より外に話題を広げていくためのプロモーション施策を行っていたという[24]。後年hydeは、こういったバンドを広める戦略について「バンドがたくさん居る東京に行くよりも、大阪で一番になったほうが目立つだろうっていう、tetsuyaの考え方もすごく賢いと思ったし。実際その通りになった[25]」と述懐している。
ちなみに、あえてデモテープを販売しなかった背景には、「ライブに来ないと(曲を)聴けない[22]」「自分たちが納得できるタイミングで音源を出したい」というtetsuyaなりの考えがあったという。そのため、L'Arc〜en〜Cielは結成してすぐに、レーベルからの勧誘、あるいは「デモテープを販売しないか」という催促があったにもかかわらず、それらすべてを断っていたという。tetsuyaは、2011年に公表されたインタビューで「インディーズバンドに群がる大人っていっぱいいるんですよ、今も昔も。ライブハウスでちょっと動員があると聞くと、すぐ飛んできて"うちでやらないか"って声をかけてくる、金儲けを考える大人たちがたくさんいる。俺らのとこにもいっぱい来ました。自分たち的にはタイミングとしてまだ何も出したくなかったので、メジャーから話が来ても断っていました[26]」と当時を述懐している。
他にも、この当時のアマチュアバンドの中には、観客との距離を詰め、ライブの打ち上げに客を参加させるバンドも多く存在していたが、L'Arc〜en〜Cielはこういったファンとの過度なコミュニケーションを一切行わないようにしていた[10]。また、tetsuya曰く、ブランディングの観点から、メンバーが自作したライブのチラシやフライヤーを直接配布する行為をしないようにしたり[26]、会場に出入りする観客の前でメンバーが演奏機材を運搬するといった行動を避けるため、結成当初からローディーやスタッフを雇っていたという[10]。こういったイメージ作りについて、後年tetsuyaは、2022年に公開された自身がパーソナリティを務めるインターネットラジオ番組で「ブランディングとして人気があるように見せた、最初から[10]」「ラルクとして機材を自分達で(会場に)運んだなんてことは歴史上ない[10]」「売れる前から徹底してやってたんですよ。"勘違いしてる"と言われようと[10]」と述べている。
上記のような、頭を使った戦略をとったことで、L'Arc〜en〜Cielは結成してすぐにワンマンライブで観客を埋めることができ、先輩バンドに頼み込んで前座でライブに出させてもらったり[24]、全国を行脚して対バンライブで知名度を上げていくといった施策を行わなくて済んだため、当時のバンドの滑り出しとしては、稀に見る順風満帆な始まり方となった。そのため、tetsuyaは当時について「L'Arc〜en〜Cielって、苦労してないんですよ(笑)[24]」と冗談交じりで述懐している。また、tetsuyaは当時の活動方針について「やるべきことはやったんですよ?やるべきことはやったけど、無駄な努力はあまりしてないっていうか、ムダな下積みは。努力って、的を射た努力しないと意味がないと思ってて。なんかがむしゃらに頑張っても、意味のない努力をいくら頑張っても結果出ないじゃないですか。だからちゃんと目標を決めて、どこに向かいたいのか、どうしたいのか、そのための努力は何なのか、っていうのを考えて、そのためのやるべきことをやってきた。それをやっただけですよ[24]」と語っている。さらにtetsuyaは、結成当初に対バンライブをあまり行わなかったことについて「対バンで3バンド、4バンド一緒にライブやるのとか、そういうことは本当にしたくないなって思ってたんで、僕が、個人的に。(対バンライブで他のバンドのファンがこちらに興味を持つといった)そういう戦略もあると思うんですけど、僕はそれを当時は取りたくなかったんですよ。やっぱり3バンドも4バンドも出てたら、ゴチャゴチャじゃないですか、楽屋まわり。そういうのがイヤだったんでしょうね。だからホントにワンマンがやりたかったんですよ、それこそ最初から。最初からワンマンでやれるバンドにしたくて。で、本当に最初の数回ですよ、対バンでやったの[24]」と述べている。
余談だが、L'Arc〜en〜Cielは上記にあるように、当時のアマチュアバンドの中ではあまり対バンライブを行わない珍しいバンドであったが、数少ない対バン相手としてロックバンド、黒夢がいた[24]。tetsuyaは「黒夢(との対バン)はお互いにメリットがあったというか。黒夢は黒夢で、もうある程度の立ち位置にいて、固定のファンもある程度いて。黒夢にとってもラルクにとっても…お互いがハッピーになるような感じだったから、"対バンしよう"って言う話になったんです[24]」と述べている。ちなみにtetsuyaは、2022年に自身がパーソナリティを務めるラジオ番組で[27]、「L'Arc〜en〜Cielのライバルバンドは?」と聞かれ、「我々の一番のライバルは黒夢[27]」と答えている。なお、黒夢の中でも、特にボーカルの清春は、L'Arc〜en〜Cielの現メンバーのほとんどと現在でも交流があり、お互いがメジャーデビューした後もライブイベントや楽曲制作の場で共演している。
1992年に入り、3月にはオリジナルのビデオ『L'Arc-en-Ciel』のプレゼントライブを大阪の他に東京でも行い、関東地方にも活動拠点を広げるが[28]、6月12日の難波ロケッツで行われたライブ終了をもってギタリストのhiroが脱退することとなった。後釜にはtetsuyaと学生時代に親交のあったkenが加入。kenは同年6月25日の新宿ロフトで行われたライブでL'Arc〜en〜Cielとして初めてステージに立つこととなった。
ken加入直後からアルバム制作のためレコーディングを行い、1992年10月1日に発売されたオムニバスアルバム『Gimmick』にバンド初の音源となる「VOICE」を提供した。しかし、アルバム自体は、メンバー曰く「出来映えが気に入らなかった」ため、完成直前まで漕ぎ着けていたが全曲をボツにし発売しない意向を取った[29]。また、これに関しては脱退したhiro側から「自分の曲を使わないでほしい」と言われたことも理由の一つになっている。この一件で当時所属していた事務所との間に軋轢が生まれ、レコーディングに掛かった経費などの支払いを命じられることとなる。これとほぼ同時期に、デンジャークルー・レコード (現:マーヴェリック・ディー・シー・グループ) 社長の大石征裕から「うちの事務所に来て欲しい」と誘いがあり、そのままデンジャークルー・レコードへ移籍。この時の金銭問題は、事務所間での話し合いで全て白紙となった[29]。ちなみに、インディーズ時代に唯一リリースされた生産限定シングル「Floods of tears/夜想花」は、前述の金銭問題を処理する為にリリースされたものである[29]。また、この移籍の話が出たころにtetsuyaがバンドのリーダーとなっている。tetsuyaをバンドのリーダーにしようと提案したのはhydeで、後年にhydeは「先導が誰かに決める必要があったんだと思う。本人が"リーダーになる"って言えないだろうから、"tetsuyaがリーダーに相応しいと思う"って言ったんだよ。tetsuyaは当時からしっかり者だったからね[30]」と振り返っている。しかし、前述のシングルリリース直後の1992年12月30日に、大阪ミューズホールで行われたオールナイトライブをもってドラマーのperoが脱退することとなり、後任のドラマーを探すこととなった。
1993年1月16日、前年脱退したperoに代わりsakuraが加入。加入後に約1ヶ月間のレコーディングに入り[31]、1stアルバム『DUNE』をデンジャークルー・レコードより発売した。1993年5月10日付のオリコンインディーズアルバム週間チャートでは首位を獲得し、インディーズでの人気を不動のものとする。
1993年夏、当時レコード店でアルバイトをしていたtetsuyaが「店に来た担当の人間を気に入った」という理由から[32]、1992年にソニー・ミュージックエンタテインメント内で新規レーベルとして設立されたばかりのキューンソニーレコードと契約を結ぶ。所属事務所の社長である大石征裕は、「当時のソニーはメジャー志向のアーティストを続々とヒットさせていて、当時はサブカルチャー寄りだったラルクに興味を持ってくれるか最初は不安だった[33]」と述べている。
1994年7月1日、ビデオシングル「眠りによせて」を発売しメジャーデビューする。同年7月14日には2ndアルバム『Tierra』、同年10月21日にはシングル「Blurry Eyes」を発売し、メジャーレーベルでの本格的な活動を開始した。この当時に制作された楽曲は、メンバーが好んで聴いていたニュー・ウェイヴやゴシック・ロックからの影響を受けたものが多い。なお、L'Arc〜en〜Cielの所属事務所の代表の大石征裕は「4人ともザ・キュアーのようなUKロックをよく聞いていたと記憶しています[34]」と述懐している。ちなみに、メジャーデビューの発表は当時メンバーの口から一切行われていない。このことに関し、tetsuyaは「ライブや広告でメジャーデビューを発表するトレンドが嫌だった[35]」と述べている。
メジャーデビュー直後はインディーズ時代からのファンも多かったが、デビュー後初めて行った全国コンサートツアー「Tour Sense of time '94」の東京ベイNKホール公演などでチケットがソールドアウトしないという事態が発生した。以後は「スタッフに全て任せきり」だったコンサートの会場決め、プロモーションなどをインディーズ時代のようにメンバー主導で行うようになった[36]。当時を振り返り、hydeは「自らが主導権を握って活動していなければ、多分(バンドは)終わっていたと思う。そこからは変わってないと思うんですよね、それぞれがいろいろ経験して大人にはなったけど[37]」、tetsuyaは「メジャーに来たらある程度はスタッフにお任せして、自分達は音楽に専念できる環境が整ったんですけど、ふたを開けてみたら”あれ?”と思うことが多くて。メジャーデビューして1年ぐらいしてからやっぱり自分たちのやり方に戻した方がいいなと思った[37]」と述べている。
1995年1月からは公式ファンクラブ『Ciel(現・LE-CIEL)』の発足記念ライブツアー「Ciel/winter '95」を開催。同年5月21日からはライブツアー「in CLUB '95」を開催。ツアー初日に合わせ、ビデオシングル『and She Said』を発売。さらに、同ツアーでは同年9月にリリースされる3rdアルバム『heavenly』の収録曲を先行披露して廻るなど、ライブを積極的に行う活動にシフトしていった。また、アルバムを引っ提げて行われたライブツアー「TOUR heavenly '95」では初の日本武道館公演を開催し、徐々に人気を広げ動員規模を拡大していった。
1996年5月には、ライブ「Kiss me heavenly deadly '96 REVENGE」を開催し、2年前のリベンジとなる東京ベイNKホールでのソールドアウトを達成。また、同年7月からシングル3作品を立て続けにリリースした。中でも10月17日に発売したシングル「flower」は累計30万枚以上を売り上げるヒット作となった。さらに、同年12月には4thアルバム『True』を発売。過去のアルバム3作と異なり、富樫春生、岡野ハジメ、秦野猛行、小西貴雄、西平彰、佐久間正英の計6人の共同プロデューサーを迎えて制作された。本作以前のアルバムは、ほとんどの楽曲がセルフプロデュースで制作されていたが、思っていたほどセールスが伸びていなかったことから、バラエティに富んだポップ色の強いアルバムとして本作が制作された。本作について、hydeは「僕らにやりたいことが山ほどあったから、ここでポップな曲での攻撃を覚え始めた[38]」、kenは「(L'Arc〜en〜Cielが)売れねえって声が聞こえた時、当時自分が一番曲を書いていたから、"曲が悪いんだろう"、"俺が悪いんだろう"、"そりゃ売れねえの作ってるよ、俺は"と思っていた。だから"じゃあ売れるの作りましょうか"っていう気分で『True』の制作にあたった[39]」と述べている。その結果、本作は発売6週目でメジャーデビュー後では自身初となるオリコン週間アルバムチャート首位を獲得。その後、チャートに自己最長となる110週ランクインし続け、シングル・アルバム通じて初のミリオンセラーを記録し、「L'Arc〜en〜Cielの前期の集大成[40]」と呼べる作品となった。
また、この頃から作品リリースに合わせ、プロモーションのため、テレビ朝日系番組『ミュージックステーション』などの音楽番組に頻繁に出演するようになる。hydeはテレビ出演に関し、「正直言うと、僕はそんなに売れっ子アーティストになりたかったわけでもなく。まさかテレビで歌うとかそこまで思ってなかった。でも、いざこの世界に入ってきて自分の芸術を表現したいときって、売れてないと出来ないことが多くて。そこでやっぱどんどん拍車がかかったんだと思う[41]」と述べている。
前年から1997年初頭にかけ、初のアリーナ公演を含むコンサートツアー「CONCERT TOUR '96〜'97 Carnival of True」を開催するなど人気は過熱しはじめ、ヒット街道を驀進するものと思われたが、同年2月にドラマーのsakuraが覚醒剤取締法違反で逮捕される。これにより、活動予定を全て白紙化することとなった。それに留まらず、これまでにリリースした全てのシングル・アルバム・映像作品の出荷を一時停止し、バンドは活動休止状態となった。
sakuraの逮捕後、「曲作りとリフレッシュ」の名目で渡英する。シングルの制作やプロモーションのため一旦日本に戻るも、ミュージックビデオの撮影も兼ねて再度渡英、さらにドイツを巡るなど数ヶ月の間ヨーロッパに滞在することとなる。この間にサポートドラムとして元ZI:KILL、DIE IN CRIESのドラマー、yukihiroが参加したセッションなどが行われ、1997年10月に長い休止から復活。直後発売したシングル「虹」は初動30万枚、累計70万枚以上を売上げ、当時の自己最高初動・最高売上を記録した。同年11月4日には、sakuraがバンドから正式に脱退することが発表された。
同年12月には、L'Arc〜en〜Cielのコピーバンド"the Zombies"を期間限定で結成。同月16日から18日の3日間限定で、変名バンド名義でライブ「Live Tour NIGHTMARE BEFORE CHRISTMAS EVE」を東京・大阪のライブハウスにおいて開催した。さらに12月23日には、L'Arc〜en〜Cielとして初となる東京ドーム公演となる復活ライブ「L'Arc〜en〜Ciel 1997 REINCARNATION」を開催。当時の東京ドームの愛称であった「ビッグエッグ」にちなみ、<おおきなあたたかいたまごから僕たちはもう一度生まれた>というコンセプトのもと再始動を予告した。本公演のチケットは当時の最速記録である4分で完売し、当時絶頂にあったバンドブームと重なり休止前までには無かったほどの爆発的人気を得ることになった。また、後年tetsuyaはこの公演を振り返り、「賭けだった」と述べており、「同じような会場で同じようなことをやっても、ラルクはもうダメになっちゃったと思われるんじゃないかって、だから絶対に良くなったって思わせたかった[42]」と語っている。
1998年1月1日にはサポートドラマーとして参加していたyukihiroが正式に加入。加入直後にシングル「winter fall」を発売し、自身初となるオリコン週間シングルチャート首位を獲得。シングルリリースの翌月には5thアルバム『HEART』を発売。前作の制作に参加した岡野ハジメ(ex.PINK)が本格的に共同プロデューサーとして携わる最初のアルバムとなった。ドラマーが手数の多いyukihiroに変わりドラムがタイトかつシャープなスタイルになったことや、kenのギターの音色がグランジ寄りに変化し始めたことから、以前と比べグランジ、オルタナ色の強い音楽性に変化していくこととなった[43]。また、本作はアジア各国でアルバムの海賊盤が多数出回り始めたことや、海外からの要望が高まったことから、日本の他、台湾、香港、タイ、マレーシア、シンガポールのアジア6ヶ国においてリリースされ[44]、結果的にこれがL'Arc〜en〜Cielとして海外進出する第一歩となった。
yukihiroが正式加入して初めてのツアーとして、1998年5月より自己最長となる全国45都市56公演にも及ぶホールツアー「Tour'98 ハートに火をつけろ!」を敢行。tetsuyaは後年この長期ツアーを振り返り、「yukihiroが加入した後だったので、この4人がL'Arc〜en〜Cielなんだというイメージを植え付けたいという意識がどこかにあった[45]」「そのためにはそれまでにやった以上に数多くのライブをやることだな、たくさんリリースすることだなって思ってた[45]」と述べている。
前述のアルバム発売以降も連続かつ集中的なリリースパターンを取り、1998年7月には「HONEY」「花葬」「浸食 〜lose control〜」のシングル3作を同時発売した。この同時発売により、発売2週目にはオリコン週間シングルチャート1位と2位を独占し、「HONEY」「花葬」の2作がシングルとしては初のミリオンセラーを記録。中でも自身のシングル最高売上を記録した「HONEY」は、全日本有線放送大賞を獲得する他、初出場となったNHK紅白歌合戦において披露された。さらに、10月には「snow drop」「forbidden lover」のシングル2作を2週連続発売し、オリコンチャート史上初の2度目のシングルチャート1位と2位の独占を達成し大きな注目を浴びた。なお、この年リリースしたシングル7作全てがオリコン年間シングルランキングTOP30入りを果たした。
そして翌1999年1月、当時B'zやGLAYといったJ-POPアーティストのベストアルバムが市場を席巻していたことから、巷で「ラルクもベストアルバムを出すのでは?」と噂されていたが、こういった世間の予想や思惑を外すように「本年もよろしくお願いします。L'Arc~en~Cielは、1999年ベストアルバムは出しません。オリジナルアルバムをお楽しみに」という年初の挨拶広告を新聞紙面に大々的に打ち出している[46]。その予告通り、7月には6thアルバム『ark』と7thアルバム『ray』のアルバム2作を同時発売。2作合わせ初動300万枚以上、トータルセールス600万枚以上を売り上げ[47]、2作ともオリコン歴代アルバムランキングTOP100にランクインするほどの大ヒット作となった。また、本作は日本を含め、台湾、香港、タイ、マレーシア、シンガポール、フィリピンのアジア7ヶ国においてリリースされた[48]。
また、同時期からフリーの映像ディレクター・箭内道彦が主な広告ディレクションを担当するようになり[49]、藤原喜明、風間杜夫やユースケ・サンタマリア[注釈 50]の起用を始めとするバラエティに富んだ広告展開を行うようになる。テレビCMでは「グループ名『L'Arc〜en〜Ciel(ラルク・アン・シエル)』の正しい読み方を広く認知させる」もの[注釈 51] や「記者会見風の『活動予定告知』告知」を流し、新聞広告では「新曲の着信メロディの作成方法」や、コンピュータグラフィックスで作成した「坊主頭のメンバーの写真」などのような、それまでにはない奇抜なものを掲載するなどして注目を集めていった。後年に箭内は当時のディレクションを振り返り、「アンチで人を驚かせるようなものはマイナーな場所には山ほどあるが、それをメジャーシーンでやることに意義がある[50]」として、<メジャーで、アンチで、びっくり[50]>をテーマに広告を制作していたと述べている。また、箭内は「常に世の中やファンを裏切るような、次に何が出てくるかわからないような流れを作りたかった[50]」と述懐している。こういった様々なメディアを活用した世間を手玉に取ったようなプロモーション戦略について、hydeは「俺としては、世の中をなめた感じの表現の仕方は"ロックでカッコいいな"って思ってたけど、同時に"そこに芸術性はないな"とも思ってたね。だから、"おちゃらけた話題をどんどん出したり、リリースをするのはいいけど、芸術性を高めないと次がないんじゃないかな?"っていう不安が、ずっーとあった[51]」と自叙伝にて述べている。
なお、1990年代の終わりごろは、当時交流がなかったにもかかわらず、メジャーデビューのタイミングが同時期だったという理由のみで、ロックバンドのGLAYとよく比較されていた。tetsuyaは、音楽の嗜好が異なるGLAYと比較されていたことを当時から不思議に思っていたようで、2022年に「当時も今もそうだけど、ラルクとGLAYって全然違うじゃないですか、音楽性が。だからなんでそこで比較するんだろうなって思ってました[52]」と語っている。また、tetsuyaはL'Arc〜en〜Cielと同じくザ・キュアーやザ・スミスといった洋楽の影響を受けていたスピッツの名前をあげ、「音楽性で言ったら、僕はスピッツの方が近いと思ってた[52]」とも述べている。ちなみに、この当時日本のポップシーンの中心にいた小室哲哉は、1998年に発売された雑誌『日経エンタテインメント!』の"L'Arc〜en〜Ciel、GLAY、LUNA SEAの3バンド特集企画"の中で、「演奏がうまいのはLUNA SEAですね。アルバムは3枚とも聴きました。音楽的な好みもあるんでしょうけど。でもラルクの方が売れることを気にせずに、思い切りやりたいことをやっているという印象を受けました。3バンドとも"オレたちは、媚びていない"という意味では同じなのでしょうが、中でもラルクがいちばん独創性がある。しかも"スキなことをやっている"風に見せながら、あれだけ売っているのは大したものだと思います。カリスマ性のようなものがあるのかな?と想像したりしています。(中略)GLAYはいい意味で(戦略などが)読めるんです[53]」とそれぞれの印象の違いを綴っている。
1999年7月からは自身初の野外ライブツアー「1999 GRAND CROSS TOUR」を全国6都市で開催。ツアータイトルの「グランドクロス」は同年8月に惑星が十字に並び、世紀末不安と重ね不吉の前兆とされた特殊な天体現象の名称からとられている。また、「誰もコンサートをやっていないところでライブをやろう[54]」という目的から、本公演では既存のスタジアムを用いず、各会場に特設ステージを設置する大掛かりなものとなり、全12公演で65万人を動員する自己最大規模のツアーとなった[55]。hydeはこのツアーをバンドの歴史の中で一番記憶に残っているコンサートとして挙げており、「このコンサートはホントに未だに夢のように思いますね。人の地平線に向かって歌えたという。この時期の集大成です[41]」と述べている。同年8月21日・22日に行われたこのツアーの東京・東京国際展示場 駐車場特設ステージ公演では、自己最多動員数となる12万5千人 (両日25万人)を動員したライブを敢行した。さらに、21日の東京公演はViewsic (現・MUSIC ON! TV)で、自身初のアジア各国におけるコンサートの同時生放送が行われた。
1999年12月31日から2000年1月1日にかけて、自身初のカウントダウンライブ「RESET>>LIVE *000」を開催。資生堂「ピエヌ」CMソングに起用された「NEO UNIVERSE」を2000年代突入の一曲目として初披露し、同月にメジャー初の両A面シングル「NEO UNIVERSE/finale」としてリリースされた。同年7月にはシングル「STAY AWAY」をリリース。同曲のミュージック・クリップは、CGを用いたダンス表現が話題となり[56]、音楽専門チャンネルスペースシャワーTV主催の音楽賞『SPACE SHOWER Music Video Awards 00』において『BEST VIDEO OF THE YEAR』を前年の「Pieces」に続き2年連続で受賞した。同年8月には8thアルバム『REAL』を発売。前作の反動からハードロックの要素の強い作品となり、これまでとセールス面では多少見劣りするものがあったが、アルバムとしては5作連続ミリオンセラーを記録した。1998年の活動再開から2000年までの3年間で、シングル13作、アルバム4作ものリリースし、その内の9作がミリオンセラーを記録した。さらに、前年の自己最大規模の野外ライブツアーとは正反対のコンセプトとなるライブハウスツアー「CLUB CIRCUIT 2000 REALIVE」を同年10月から開催。同ツアー後に立て続けに自身初の4大ドームツアー「TOUR 2000 REAL」を開催した。
翌2001年には自身初となるベストアルバム『Clicked Singles Best 13』を発売。本作でシングル・アルバムを通じて11作目となるミリオンセラーを記録した。また、本作制作にあたり、Yahoo! JAPANとのジョイント企画として期間限定特設ウェブサイトを開設。アジアの8つの国と地域から人気投票を募り、各国で収録内容が異なるベストアルバムを発売した。本作は同年4月下旬にアメリカ[57]、2004年に韓国でも発売された。
2001年9月発売のシングル「Spirit dreams inside -another dream-」のリリース前後から、tetsuya・yukihiro・hydeが相次いで個人活動[注釈 52] を開始。公式発表はないものの、実質的な活動休止状態に入る。前述のように1998年以降のL'Arc〜en〜Cielは活動が集中的に行われていたため、急な活動の沈静化に一部では解散説も流れ、「もうL'Arc〜en〜Cielとしての活動は無いのではないか」と思われていた。活動が止まった経緯に関して、tetsuyaは「どれが本当の理由か分からなくなるほどたくさんの理由があった」と語っている。また、当時hydeがバンドに流れる空気の重さが肌に合わず脱退を考えていたことや[58]、tetsuyaがバンドを取り巻く環境の改善に取り組もうとしていたことが[59] 、各個人名義で出版した本で綴られている。
個人活動の開始から約2年半が経った2003年6月、国立代々木競技場でバンド名に沿った7日間のライブ「Shibuya Seven days 2003」を開催。この公演が解散ライブになると当時噂されていたが、ライブ最終日の公演後において場内スクリーンに翌年の活動予定(シングル・アルバムのリリース、ライブツアーの開催)を掲載し、それまで流れていた解散説を一蹴する。
上記ライブでの発表通り、2004年2月には2年5ヶ月ぶりとなるシングル「READY STEADY GO」を発売。本作の表題曲はテレビアニメ『鋼の錬金術師』のオープニングテーマに起用され、2000年以来4年ぶりにオリコン年間シングルランキングTOP30にランクインした。そして、同年3月には3年7ヶ月ぶりとなる9thアルバム『SMILE』を発売。さらに、5月よりアリーナツアー「SMILE TOUR 2004」を開催し、L'Arc〜en〜Cielの活動を本格的に再開した。また、2004年7月31日にはアメリカ東海岸で開かれる地域最大のアニメコンベンション「OTAKON 2004」の一環として「L'Arc〜en〜Ciel Live in USA」を開催。このライブはボルチモアにあるファースト・マリナー・アリーナで行われ、自身初となる海外公演は1万1100人を動員するライブとなった。
翌2005年には1999年以来6年ぶりにシングル4作品をリリース。中でも同年5月18日に発売したシングル「叙情詩」は、7作連続でオリコン週間シングルチャート首位獲得を記録し、ミュージック・クリップは第9回文化庁メディア芸術祭のエンターテインメント部門の審査委員会推薦作品に認定された。同年6月には10thアルバム『AWAKE』を発売。同年8月からはアルバムを引っ提げたアリーナツアー『AWAKE TOUR 2005』を開催。アルバムがhydeの思想を先行した反戦や平和をテーマとして制作されており、コンサートもアルバムに合わせコンセプチュアルなものとなった[60]。前述のツアーを経て、同年9月から自身初のアジアツアー「ASIALIVE 2005」を行い、ソウル、上海において自身初のライブを開催した。
2006年には結成15周年を迎え、特別企画「L'Anniversary(読み:ラニバーサリー)」を開始。同年8月には「Blurry Eyes」から「forbidden lover」までのシングル14作の12cmCDシングル盤と、sakura逮捕に伴い当時発売中止したシングル「the Fourth Avenue Café」を発売。この再発によって、全15作がオリコン週間シングルチャートTOP30にランクインし、「同一アーティストによるオリコン週間シングルチャートTOP30入り」の記録を更新した[61]。さらにシングル再発に立て続いて、1999年に2作同時発売されたアルバム『ark』、『ray』に特典DVDを付属した15周年記念盤が発売された。
2006年11月25日・26日には、結成15周年を記念したライブ「15th L'Anniversary Live」を東京ドームにて開催。ライブ最終日には翌年のシングルリリースと9年ぶりとなるホールツアーの開催を発表した[62]。翌2007年5月にはシングル「SEVENTH HEAVEN」を発売。また、SUBARU「レガシィ」のCMソングに起用された「MY HEART DRAWS A DREAM」を同年8月にシングルとして発売することを皮切りに、シングル・アルバム・映像作品を5ヶ月連続でリリースすることを発表した。さらに、前述のホールツアー「Are you ready? 2007 またハートに火をつけろ!」では、同年12月に発売される11thアルバム『KISS』の収録曲を含んだセットリストが組まれ、未音源化楽曲の先行披露をして全国32都市を廻った。
2007年12月より前述のアルバムを引っ提げ、童話『不思議の国のアリス』を題材にした演出やセットが組まれたライブツアー「TOUR 2007-2008 THEATER OF KISS」を開催。ライブで新曲として披露された「DRINK IT DOWN」がゲームソフト『デビルメイクライ4』の主題歌に起用され、翌2008年4月に発売された。
また、同月からは上海、台北、パリ、ソウル、香港、大阪、東京という世界7都市を廻るコンサートツアー「TOUR 2008 L'7 〜Trans ASIA via PARIS〜」が開催され、日本公演含め30万人を動員した。同年5月9日に行われたフランス・パリのルゥ・ゼニット公演は、自身初のヨーロッパでのライブとなった。また、このパリ公演は日本全国5ヶ所の映画館において、世界初となる海外コンサートの同時中継が実施された。
さらに、同年5月13日の読売新聞朝刊記事で、シングル「NEXUS 4/SHINE」の発売および上記ツアー終了を持って結成20周年となる2011年までライブ活動を休止することを発表[63]。以後2011年まで各メンバーの個人活動の期間に充てられたが、あくまでライブ活動のみの休止のため、新譜は定期的にリリースされていた。2010年には「PEPSI NEX」CMソングに起用された自身初のカバー楽曲「I Love Rock'n Roll」を配信リリースした他、バンクーバーオリンピック・パラリンピックのNHK放送テーマソングに起用された「BLESS」がシングルとしてリリースされた。さらに、同年放送されたNHK紅白歌合戦に10年ぶり4度目の出場を果たすなど、テレビ出演含め音楽活動は途切れず継続された。
前年の紅白歌合戦への出場直後となる2011年1月1日にニューイヤーライブ『20th L'Anniversary Starting Live "L'A HAPPY NEW YEAR!"』を開催。L'Arc〜en〜Cielとしては約2年半ぶりのライブ開催となった。また、同ライブでは公式Twitterと動画共有サービスUstreamの連動企画が行われ、最後のhydeのMCからライブ生配信が実施された[64]。そのMCにおいて、hydeが公演翌日から作曲期間に入ることを宣言し[65]、本格的な始動を予告。さらに、公演終了後に場内スクリーンでオールタイムベストアルバムとなる『TWENITY』シリーズ3作と記念ライブの開催を発表した。
新年の発表通り、2011年5月28日・29日に結成20周年を記念したライブ「20th L'Anniversary LIVE」を味の素スタジアムで開催。本公演のセットリストは初日公演で結成から1998年までにリリースされたアルバムの楽曲を、最終日公演では1999年発売のアルバムから当時の最新楽曲を中心に披露し、2日間で1曲も被りがないものとなった。また、本公演の収益全額を、公演2ヶ月前に発生した東日本大震災の被災地への義援金として寄付することをメンバーとスタッフの連名で発表した[66]。さらに、同年9月10日からはアリーナ、ドーム公演を含む約3年3ヶ月ぶりとなるコンサートツアー「20th L'Anniversary TOUR」を全国5都市で開催。メンバー4人以外がステージに立つことが滅多にないL'Arc〜en〜Cielとしては珍しくステージ後方にストリングス隊を携えた構成で展開され、多数の楽曲にストリングスアレンジを施し披露されるライブとなった[67]。
同年には前述の記念ライブで初披露された「GOOD LUCK MY WAY」を含めシングル3作、翌2012年2月には4年3ヶ月ぶりとなる12thアルバム『BUTTERFLY』が発売された。中でも2011年10月に発売されたシングル「X X X」は、ロックバンドとして史上3組目となる1990年代・2000年代・2010年代の3つの十年代連続でのオリコン週間シングルチャート首位獲得を記録した。さらに、同年12月には前述の結成20周年ライブの模様を収録したライブビデオの発売により、DVD総売上のミリオン突破を記録した。また、VHS総売上と合わせ映像作品全体(VHS+DVD)においてダブルミリオンの達成となった[68]。
2012年3月からは、香港、バンコク、上海、台北、ニューヨーク、ロンドン、パリ、シンガポール、ジャカルタ、ソウル、ホノルル等、世界10カ国14都市を廻るワールドツアー「WORLD TOUR 2012」が開催され、日本公演含め45万人を動員した[55]。同年3月25日には、アメリカ・ニューヨークにあるマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、日本人ミュージシャンとして初となる単独公演が行われた[69]。本公演について、hydeは「今までのライブの中で一番覚悟が違った。戦いの日で、日本の旗を持ってきてライブをした気分だった[70]」、「アニメ (日本のアニメーション作品)の力とか昔から聴いてくれてた人が集まったりしたことで実現した、ラルクだからできたこと[71]」と述べている。
さらに、上記ツアーの追加公演として、横浜、大阪、東京の国内3都市の野外会場でコンサートツアー「20th L'Anniversary WORLD TOUR 2012 THE FINAL」が行われ、5月26日・27日には、ミュージシャンとしては史上4組目、ロックバンドでは初となる国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(通称・旧国立競技場)公演が開催された[72]。
2014年3月には、1年10ヶ月ぶりとなる2度目の国立競技場におけるライブ「L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2014 at 国立競技場」を開催。前回の同所での公演と異なり、フィールドに設置される花道を排除し限界まで座席を敷き詰めることにより、スタンド、フィールド含め8万人(両日16万人)を動員。国立競技場でのライブにおいて史上最多となる動員数を記録した[73]。また、同年5月には同所で行われたライブイベント「SAYONARA 国立競技場FINAL WEEK JAPAN NIGHT」に出演。この公演は全面建替工事前の国立競技場で行われる最後の音楽イベントとなり、L'Arc〜en〜Cielは最終日のトリを務め、全9曲を披露し国立競技場の長い歴史に花を添えた[74]。
同年2月26日には、過去のライブビデオ18作のBlu-ray Disc化を発表。さらに、同年10月22日には過去にリリースされたアルバム12作品のハイレゾリューションオーディオが配信された。hydeは「(レコード会社が)ソニーっていうのと、(事務所の)社長がエンジニアだったからだから結構音にはうるさいんですよね。何もないころから常にいい音で録音したりとか、いい映像で撮ったりとかもう趣味なんですよね。だからその時はお金はかかるけど、いざ発表するときにその時の効果が出るんですよね[75]」と述べている。また、同年12月には前述のワールドツアーに密着したドキュメンタリー映画『Over The L'Arc-en-Ciel』を全国72ヶ所の映画館で期間限定公開した。本作が自身初のドキュメンタリー映画となり、同年公開された音楽ドキュメンタリー映画の中で、最速となる興業収入1億円突破を記録した。
2015年9月には大阪・夢洲において史上初となるライブ「L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2015 L'ArCASINO」を開催し、同ライブにて新曲「Wings Flap」を発表。限定シングルを除いて約4年ぶりとなるシングルとしてリリースされた。翌2016年12月にはシングル「Don't be Afraid」を発売。表題曲は映画『バイオハザード: ザ・ファイナル』の日本語吹替版主題歌に起用された他、同年に発売20周年を迎えたゲームシリーズともコラボし、世界初のVRミュージックビデオ「Don't be Afraid -Biohazard×L'Arc-en-Ciel on PlayStation VR-」をPlayStation VR向けで制作・配信した[76]。そして、2017年4月8日・9日には、結成25周年を記念したライブ「25th L'Anniversary LIVE」が東京ドームで行われた[77]。
2012年に開催されたワールドツアー終了から2017年までの約5年間は、L'Arc〜en〜CielとしてのCDリリースはシングル3作とライブアルバム1作のみ、ライブ開催は単発ライブの6公演のみと活動ペースが急激に落ち込み、各メンバーの個人活動が活発化した。バンドの活動ペースが落ち込んだことにより、一部報道で内紛・解散説が囁かれる事態となった[78]。
tetsuyaはワールドツアー終了以降の活動について、度々「知らない所でライブ開催が決まっていた」と述べており、結成25周年記念ライブの終了後に、所属事務所の社長である大石征裕とtetsuyaの間でL'Arc〜en〜Cielのライブ制作体制の見直しが話し合われることとなった。大石曰く、tetsuyaが「アーティストとの信頼関係が保てるライブ制作体制を目指したい」「全てをガラス張りにするためにも一緒に組む制作会社はコンペによって決定したい」と意思を表明したといい[79]、結果的に2018年以降のライブでは興行主体を、所属事務所のマーベリックからライブ・ネイションに変更する運びとなった[注釈 53]。
前述の経緯で連携が決まったライブ・ネイション・ジャパンを興行主体とし、2018年に自身初のクリスマスライブ「L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2018 L'ArChristmas」を開催。興行主体が変わったことで、数%の既存スタッフを除き、PA、照明、制作、舞台、各種システム担当に渡りほとんどのスタッフを一新した上でライブ制作が行われた[80]。動画配信サービスサイト『Paravi』で配信された同ライブのドキュメンタリー番組では、このライブから新たに制作に携わったスタッフ達の証言が収録されている[81]。
翌2019年9月1日には、公式Twitterに"20190902 4:00"というメッセージを掲載[82]。Twitter上に新情報のヒントとなる文字を時間差でアップし、翌日4時に翌2020年に8年ぶりとなるライブツアーを開催することを発表した[82]。また、同年12月2日にはツアー開催に先駆け、公式YouTubeチャンネルを開設。12月11日にはYouTubeチャンネルにおいて一部楽曲のミュージック・クリップの無料公開、ライブ映像のプレミア配信を開始するとともに、サブスクリプションサービス(定額制音楽配信)の解禁を発表した。同日より、これまでに発表した計428曲の全音源[注釈 54] 一斉配信し、計51作の全ミュージック・クリップ[注釈 55] も順次配信を開始した。解禁直後のSpotifyの日本の週間バイラルチャートでは、上位18位までを独占しTOP50に34曲がチャートインし、翌週も1位・2位を独占するなどファンダムが強さが浮き彫りとなった[83]。
翌2020年1月からは前年9月の発表通り、8年ぶりとなるアリーナツアー「ARENA TOUR MMXX」[注釈 56] を開催。このツアーでは前年に開設した公式YouTubeチャンネルや公式Instagramを新たなプラットフォームとして活用し、公演前の会場の様子やライブの一部模様、舞台裏でのメンバーの様子などを撮影した映像を公開する企画が行われた。また、前年に解禁した各種サブスクリプションサービスにおいて、開場時に流すメンバーセレクトのBGMのプレイリストや、過去のライブのセットリストのプレイリストを公開する企画が行われた。このツアーの当初の公演規模は全国5都市12公演を予定していたが、同年1月末に日本国内で初感染が確認された新型コロナウイルスの感染症拡大防止のため、同年2月26日に最終4公演の中止を決定した。
2021年5月29日・30日に、結成30周年の幕開けとなるライブ「30th L'Anniversary Starting Live "L'APPY BIRTHDAY!"」を開催。公演初日となる5月29日の0:00より公式YouTubeアーティストチャンネルにて、新曲「ミライ」を1コーラスがサプライズでプレミア公開された。この曲は前述のライブでフルコーラスが初披露され、同年5月31日にフィジカルでのリリースに先駆け、各種音楽配信サイトにおいてダウンロード・ストリーミング配信された。
同年9月からは約1年7ヶ月ぶりとなるライブツアー「30th L'Anniversary TOUR」を開催。そして翌2022年5月21日・22日には、結成30周年を記念したライブ「30th L'Anniversary LIVE」を東京ドームで開催している。
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各メンバーが共通で好きなアーティストは多くないが、ザ・キュアー、デペッシュ・モード、ジョニー・マー(ザ・スミス、ザ・ザ)、U2といった1980年代のニュー・ウェイヴやポストパンクのアーティスト、DEAD ENDが手掛ける楽曲のような耽美なゴシック・ロック要素を内包した音源に関しては全員が好んで聴いていたという。そのため、特にL'Arc〜en〜Cielが活動初期に発表した楽曲は、これらの影響を受けたものが多い。なお、kenは2004年に受けたインタビューの中で、活動初期の楽曲制作を振り返り「ザ・キュアーみたいな雰囲気でバッキングトラックを作ったらどうかとかがあった[153]」と述べている。そしてtetsuyaは「バイブルですよ、キュアーは[154]」と語っている。また、所属事務所の代表を務める大石征裕は、L'Arc〜en〜Cielと出会った頃を振り返り「(メンバー)4人ともザ・キュアーのようなUKロックをよく聞いていたと記憶しています[155]」と述懐している。余談だがhyde曰く、かつてkenから「ザ・キュアーのロバート・スミスみたいに歌ってほしい[156]」とリクエストされたこともあったという[156]。
前記のジャンル以外にも各メンバーは幼少期から学生時代にかけて様々な音楽を聴いていた。hydeは自身の音楽の原体験のひとつとして、小学生のころに実家のジュークボックスに入っていたオフコース[157][158][159]やビリー・ジョエル[158][159]といったアーティストをあげているが、学年が上がるにつれ、ニュー・ウェイヴの他、ニューロマンティック、ハードコアに傾倒していった。また、kenは幼少の頃、父からの影響で映画音楽やニニ・ロッソを[160]、姉からの影響で松山千春やニューミュージックを聴いていたといい、中学からはエイジアなどのプログレッシブ・ロックや[161]、ハードロック、ヘヴィメタルを好んで聴いていた。そしてtetsuyaは、小学6年生頃からイエロー・マジック・オーケストラ[162]や一風堂[162]、ニューロマンティックのアーティストの楽曲をよく聴くようになり、中学時代からkenを含む幼馴染の先輩からの影響でヘヴィメタルも愛聴するようになった。一方で、メンバーは学生時代に、日本のメジャーシーンでヒットを飛ばしていたロックバンドをあまり聴いておらず、hydeは2002年に受けたインタビューの中で、1980年代に日本で流行したビートロックに関して「好みではなかった」と述べていたことがある[163]。また、kenは「自分が聴いてきた音楽は全然100万枚ヒットのものじゃないし、チャートを聴いてたわけでもなかった[164]」と語っている。
1993年から1997年までドラマーとして在籍していたsakuraは、他のメンバーと同様にDEAD ENDや80年代のニュー・ウェイヴを聴いている他、兄の影響でビートルズ[165]、箱バンドでセッションドラマーとして活動していた経緯もあり[166]ジャズも好んで聴いていた。sakuraは1994年に受けた音楽誌のインタビューの中で、好きな音楽について「挙げたらキリがないですよ。70年代のハード・ロックも聴くし、ひと昔前のジャズ、今ならブルー・ノート・レーベルから出てるヤツとか…。昔のアルバムは、ミュージシャンがどこにいて、どんな表情で演奏しているのかも、聴いているだけで伝わってくるじゃないですか。そういうところがいいんですよ[167]」と述べている。一方で、1998年からバンドに加入したyukihiroは、ニュー・ウェイヴやhyde、tetsuyaと同様にニューロマンティックから影響を受けている他、ミニストリーをはじめとするインダストリアル[168]、さらにエレクトロニック・ボディ・ミュージック、エレクトロ・ポップ、テクノ、ハウスなどのクラブ・ミュージックに寄った音楽も好んで聴いていた。
各メンバーは他にも、ボサノヴァやソフト・ロック、オルタナティヴ・ロック、グランジ、シューゲイザー、フレンチ・ポップス、ポップ・パンク、オルタナティヴ・メタルなど様々なジャンルの音楽を好んで聴いている。メンバーそれぞれで好む音楽性に違いがあること、そしてメンバー全員がコンポーザーというバンドスタイルを採っていることもあってか、L'Arc〜en〜Cielが手掛ける作品は幅広くジャンルを横断したものになっている。tetsuyaはL'Arc〜en〜Cielの特徴について「バンド名がラルク アン シエルで、虹って意味だから、最初は白と黒で始まって、いろんな色が入ってくる。白と黒だけじゃなく、七色入ってくる広がりがあるバンドという。そういうことを無意識にやってるんでしょうね[169]」と述べている。
L'Arc〜en〜Cielは、1999年から2002年にかけてパーソナリティーを務めたラジオ番組『FLYING〜L'Arc〜ATTACK』の中で、自身が好んで聴いている楽曲をレコメンドする企画をたびたび行っていた他、音楽雑誌『GiGS』や各メンバーが個人名義で発表した本などに、自身が愛聴していたアルバムを掲載していたことがある。また、2019年にSpotifyなどのストリーミングサービスで音源配信を始めて以降は、メンバーそれぞれが洋楽をメインに選曲した、ライブ開演前の会場で流すためのBGMプレイリストを同サービス上で公開するようになっている。このようにL'Arc〜en〜Cielは、メンバーそれぞれが好む音楽をリスナーとシェアすることが多い。なお、tetsuyaは2000年に受けたインタビューの中で「ラルクだけしか聴かない人なんていないでしょ。そんなことべつに求めないし、そんなのキモチ悪いじゃん(笑)。いろんな音楽聴いて、いろんなライヴ観たほうが楽しいし[170]」と語っている。
ちなみに、L'Arc〜en〜Cielのライブでは終演の際にアイルランドの歌手、エンヤの楽曲「ブック・オブ・デイズ」を会場内に流すことが定番になっている。また、活動最初期の頃はオープニングBGMとして、ミニストリーの楽曲「アイ・プリファー」をよく流していた[171]。
現メンバーが影響を受けたアーティストまたは、愛聴している楽曲を手掛けたミュージシャンは下記の通り。
1999年4月19日、NHKで放送された音楽番組『ポップジャム』の同年5月1日放送分の収録にL'Arc〜en〜Cielが参加した。その日の収録では2曲が演奏される予定であったが、1曲が演奏終了した時点でメンバーが演奏を中止、そのままステージを去るという事態が起こったと同年4月25日発行の日刊スポーツ紙などで報じられた。
事の発端は、当時番組のMCを務めていたお笑いコンビ・爆笑問題がトークの中で、メンバーに対して"ヴィジュアル系"と発言したことによるものとされた[注釈 64]。そしてL'Arc〜en〜Cielは、トークの後に「HEAVEN'S DRIVE」の演奏を行ったが、tetsuyaが本来担当するはずのコーラスパートを無視し、演奏を終了。ステージから捌けていく際には「ベースをぞんざいに扱う」など不機嫌な様子だったと報じられた。他には、「本来は2曲撮影する予定だったところを1曲で切り上げた」とも伝えられ、一連の行動に対し議論を呼ぶことになった。
上記の報道内容について、tetsuyaは「元々2曲を別々に収録する予定であり、楽器をぞんざいに扱い、キレてそのまま帰ったというのは間違い」と否定している。実際は、番組に出る時点で要望などを事務所やレコード会社に伝えていたが、それが司会の爆笑問題まで伝わっていなかったことに起因しているとも述べている。
tetsuyaは2004年に発売したインタビュー本『哲学。』の中で「2曲続けてではなくて、1曲ずつ別々に演奏することになっていたんですよ。で、1曲演奏して、楽屋に戻ったときにそういう話をして、"気持ちよく仕事がしたいんだけど、そういう環境が整ってないんで、今日は失礼させていただきます"って、ちゃんと挨拶をして、爆笑問題さんにもちゃんとそういう話をしたうえで、帰ったんですよ[248]」「ちゃんとスタッフが打ち合わせをしているべきところなんですが、それが出来てなかった。(中略)それはこっちサイドのスタッフのミスだったと思うんですよ。NHKさんにも爆笑問題さんにも何も悪いところはないというか。俺たちは爆笑問題さんに対して、まったく怒ってないんですよ。というか、お笑いの人だから面白おかしく言うに決まってるじゃないですか。あくまでもうちのスタッフに対して、もっとちゃんとやってくれよっていう意味での行動だったんですよ[249]」と語っている。また、当時の報道に関し「怒りを感じることもありますけどね。事実じゃないことを書かれたすることが多いんで。でも面白おかしくしたほうが、視聴率を稼げたり、部数が売れたりするから、仕方ないんじゃないですかね[248][250]」と述べている。
実際、一部週刊誌やスポーツ紙で「NHKと揉めた」と報道されたが、事が起きた1999年末にはL'Arc〜en〜Cielとして『第50回NHK紅白歌合戦』に出演している。L'Arc〜en〜Cielはこの年以降も、同番組を含むNHKが放送する音楽番組にたびたび出演している他、2010年にはバンクーバーオリンピック・パラリンピックのNHK放送テーマソングに「BLESS」という楽曲を提供しており、特段不和は見られない。
これに対し、長年語ってこなかった爆笑問題・太田光は、事件から約20年の時が過ぎた2019年2月に、自身がレギュラーを務めるラジオ番組『爆笑問題カーボーイ』において「俺には何もキレてないし、俺たちにはむしろ"すみません"って[251][252]」「彼らの名誉のために言っておくけど、本当に真摯な態度で"申し訳ありません"って帰って行った[251][252]」「番組プロデューサーからNHK側のミスで、と伝えられた[251][252]」と当時を振り返り発言している。なお、tetsuyaは太田の発言を受け、自身のニコニコチャンネルにおいて、「太田さんの口から言っていただけると説得力があります[253]」「自分達のレコード会社とトラブルにはなったがNHKとはトラブルにはなっていない[253]」「NHKにはその後オリンピックのテーマもやらせてもらった[253]」といった発言をしている。これにより、当時週刊誌等で報道された"ラルクと爆笑問題がケンカを起こした"という出来事は無かったと双方の発言により明らかとなった。
ちなみに上記の騒動を踏まえてか、現在に至るまでヴィジュアル系バンドの特集がテレビ番組などで放送される際、L'Arc〜en〜Cielが取り上げられることは少ない[254]。なお、L'Arc〜en〜Cielはレコード会社を通じ、CD取り扱い店舗に<L'Arc〜en〜Cielの商品はヴィジュアル系のコーナーに展開せず、J-POP・ROCKのコーナーに展開して下さい>という内容の書類を送っていたこともあったという。
tetsuyaは現在まで一貫して、音楽ジャンルでない"ヴィジュアル系"というひとつのムーブメントの枠に包括されることを拒否しており、"ヴィジュアル系"という呼ばれ方を否定している。ただし、ヴィジュアル系と呼ばれるバンドやそれを自称するバンドを名指しで批判してはおらず、ヴィジュアル系が好んで着るファッションに関しても否定的な見解を述べていない。なお、tetsuyaは2004年に受けたインタビューで以下の発言を残している。
好きなことやってるだけで、自分たちが周りにどう呼ばれてるのかなんて気にしてなかったし、あんまり知らなかった。それがデビューして2~3年経ったころから、雑誌とか見てるとヴィジュアル系って言葉を目にするようになって、そのなかに俺らも入ってて、それで”あ、ヴィジュアル系って俺らみたいなのを言うんだ!”って初めて知って。で、ヤだなって(笑)。偏見持つわけじゃないですか、好きな人以外は。[256]
ヴィジュアル系が好きな人からはともかく、一般的には、その肩書きだけでちょっと馬鹿にした目で見られるわけですよ。音楽的にはたいしたことやってないとか、音楽が駄目だから見た目で勝負してるとか。で、音を聴いてもらえなくなる。そういうことに対して、すごく怖いなって思って……。ただ、ステージに立つのにそれなりの服装をして、それなりにメイクを施したり髪型を整えたりするっていうのは、俺はアタリマエのマナーっていうか、人前に出るうえで当然のことだと思っているんで。それは今でもそんなに変わってないですね。自分が好きだったアーティストもみんなそういう格好をしてたし、メイクもしてたから、なんの抵抗もなかったわけですよ。[256] — 『uv Vol.102』(2004年) tetsuyaの発言より
L'Arc〜en〜Cielにおける楽曲制作では、作詞のほとんどをボーカリストのhydeが担当している。時折hyde以外のメンバーが作詞することもあるが、フィジカルシングルの表題曲に関しては「New World」と「FOREVER」を除き、hydeが全ての作詞を行っている。
L'Arc〜en〜Cielとして作詞作業をするようになってしばらくは、今いる世界からの逃避を望んだような歌詞や[269]、遠くを見つめた願望のような歌詞を多く綴っていた[269]。そのため、音楽評論家の市川哲史は、1998年に発表されたアルバム『HEART』に関するレビューの中で、hydeが綴る歌詞について「hyde独特の逃避願望である<空に浮かんでたい>癖[270]」と表現していたことがある。なお、hyde自身は1993年に受けた音楽雑誌のインタビューの中で「俺は身の回りのことしか歌わないから、ありえないような話は全部"例え話"だと思ってもらえればいいですね[271]」と述べており、現実離れした世界について書いているつもりはなかったことを示唆している。ただ、hydeは2021年に受けたインタビューにおいて、過去に綴ったリリックについて「(架空の物語の中に)自分にとってのリアリティがあったんです[272]」「書いていたのは想像の世界だけど、自分としてはリアルを求めてそうなった[273]」「(昔の歌詞は)今にして思うと”もうちょっと現実に気が付けばいいんじゃない?”とも思うけど。当時はものすごい出来事を求めてたんでしょうね[273]」と述懐している。また、L'Arc〜en〜Cielがヒットを重ね続けた1998年から1999年頃の作詞作業について、hydeはその当時「何か解放されたい意思っていうのが強い感じ。もう歌詞書いてて"どっか行こうどっか行こう"ばっかり[274]」と述べていたことがある。
hydeは、多感な学生時代に洋楽あるいはハードコアな音楽をよく聴いていたため、バンドを始めた最初の頃は日本語の歌詞を書くことに不慣れだったと述べている。そしてL'Arc〜en〜Cielで作詞を行うにあたり、hydeが参考にしたものは、幼いころから好きだった小田和正(オフコース)が綴る歌詞だったという。hydeは、2016年に受けた音楽雑誌『Rolling Stone Japan』の取材において「音楽を作り始めた頃は僕はハードコアや、ゴシックロックにハマってたから、ラルクを始めて、すごくキャッチーな曲がメンバーから出てきた時に、どういう詩を書いていいかさっぱりわからなかったんです。"何を言ってええんやろうな?"ってすごい迷って試行錯誤して詩を書いた時に、開いた引き出しがオフコースで。オフコースの曲って、実は都会的なクールな感じで、歌詞もすごく抽象的だと思います。言葉もかなり選んでいるし。そういうところで、"あ、こういう表現の仕方があるな"って。歌詞もその時の影響が出てる。例えば「Blurry Eyes」は、小田和正さんが使うような言葉がいくつかあると思います[157]」と述べている。このように、自身が尊敬する小田和正が書く歌詞の言葉選びや、抽象的な比喩表現を取り入れていき[157]、"比喩に比喩を重ねた表現"と言われるようなリリックを綴るようになった。hydeは2012年に受けた音楽雑誌のインタビューにおいて、誰にでも分かるような直接的表現を避けてきた理由について「悲しいことを"悲しい、悲しい"って言ってるのはあまり悲しくないんですよ。むしろちょっと引くんですよね。抽象的だったり間接的な表現のほうが伝わるというか[275]」と述べている。
さらにhydeはL'Arc〜en〜Cielの活動当初、視覚的に楽曲をイメージするため、歌詞を書く前に絵を描くようにしていたという。このことについて、hydeは1994年発表のアルバム『Tierra』のインタビューで「これはずっと続けてきていることなんですが、詞を書くうえでのガイドとして、カンタンな絵を1曲ごとに描いて、自分がその世界にいるという気持ちで詞を書いていくんです。そうすると、具体的なものが見えてくる[276]」と語っている。文芸評論家の町口哲生は2007年に発行された『別冊宝島』にて、この頃にhydeが綴った詞世界に関し「触覚的な世界(手触り感や肌理をもっているという意味)[277]」と表現している。
2000年頃からhydeの綴る歌詞に、現実を見据えたようなフレーズが増えている。2000年に発表されたアルバム『REAL』に関するインタビューの中で、hydeは「"なんだ、2000年になっても街は何も変わらないじゃん"って。ささやかな望みはあるけど。そういうことを書いてる。『REAL』というアルバムは。諦めてるけど、"ひょっとしたらいいことあるかもね"っていう[278]」「現実的に、深い夢のような未来はあり得ないっていうのが、見えてきてるんだろうね。だから、冷めた詞が多い[279]」と心境の変化を述べている。
アルバム『REAL』をリリースした後、2001年半ばあたりから、hydeを含めたL'Arc〜en〜Cielのメンバー4人は、ソロ活動や別バンドでの活動を始動し、L'Arc〜en〜Cielとしての活動が事実上の休止状態となった。その後L'Arc〜en〜Cielは、バンドを解散させることも考えたが、2003年6月に久々のライブを行い、本格的に活動を再開することになった。そして2004年に、約3年7ヶ月ぶりのアルバム『SMILE』を発表している。このアルバムでは、hydeがこれまでに書いたリリックのテーマとは異なり、ストレートな前向きさを綴った歌詞が多くなっている。この当時に受けたインタビューの中で、hydeは「もう、普通に悲しいだけのCDじゃ、僕、心が動かされないんですよ。今の僕のテンションがそうなのかもしれないけど、悲しい詞を今僕がやると、逆にすごく嘘っぽく書いちゃうような気がするんですよね。あんまり興味がない。そういう悲しい部分を表現した曲もあると思うけど、でもどっかに、ちょっと今の気持ち的には悲しいとか、暗い部分を音源にしたくないなって気持ちがあるのは確かですね[269]」と心境の変化を述べている。また、2005年発表のアルバム『AWAKE』では反戦・平和をテーマとした歌詞、2007年発表のアルバム『KISS』では人と人のミニマムな関係性を身近な表現でつづったもの[280]が多く手掛けられている。
hyde曰く、2006年・2007年頃から、"ありふれた日常"をテーマに歌詞を書くようになったという。以前にもhydeは「C'est La Vie」や「TIME SLIP」「ALL YEAR AROUND FALLING IN LOVE」など、いくつかの楽曲の制作で、身近に起きた出来事をもとに歌詞を書いたことがあったが、2007年に発表したアルバム『KISS』には、人に近い表現を用いた歌詞をのせた楽曲が数多く収められている。hydeは2012年に発表した自叙伝において、この当時の心境の変化について「普段の生活の中で、ふと愛に満たされた時、"このまま、死んでもいいや"って思った瞬間に宇宙と繋がった気がした事があったんだよ。なんか、死を迎え入れられた瞬間に"あ、なんだ、宇宙ってこんな物だったのか"って。ちなみに、俺、薬はやってないよ(笑)。そして、宇宙の摂理というか、なんか全てがスッと理解出来た気がして。それが大きかったのかもしれない。その時に、多分、生への執着がなくなったんだろうな。それからというもの、周りのいつもの風景がとても愛おしく感じられるようになってきた。その感覚は、L'Arc〜en〜Cielの「ALONE EN LA VIDA」の歌詞に書いたり、HYDEソロの「I CAN FEEL」とか、その頃の作詞の核になってるんだけど。(中略)"いつ死んでもかまわない"と共に、"いつ死んでもいいように生きよう"って思う自分が加わった感じかな[281]」と綴っている。また、この頃から、リスナーが歌詞の意味を大きく誤解しないよう、比喩だけではなく、直接的な表現を使ったフレーズも意識的に増やし始めている[282]。
なお、hyde曰く、歌詞を書く際は作曲者から楽曲のイメージを聞き、それを基に作業を行うことも多いという。そして、映画やアニメーション作品に楽曲を提供する場合は、監督などの製作陣と話し合いを行ったうえで、そのタイアップ作品を意識した歌詞を書くこともある。L'Arc〜en〜Cieは2000年に映画主題歌として「finale」という楽曲を提供しているが、この時の作詞作業についてhydeは「映画と、まったく違うアプローチをしても夢からさめた感じがするし、かと言ってまったく同じだと逆に映画との相乗効果がない気がしたんです。で、自分の感性で、映画の中で流れるなら、こういう感じがいいかなと思ったんです[283]」と当時述べている。
hydeは歌詞を書く行為について、「詞を書くのってホントに面倒くさいけど、人として書いてて良かったなとは思うよ。詞とか文章を書くって、すごくいい事だと思う[284]」「頭で考えてるだけだと、なかなか一つの形にまとまらないんだよね。でも、文章にしていくと"あ、そっか、そう思ってたんだ"って文章って形で見えるからわかりやすいんだ。そうすると突き詰めやすくて、物事の本質が見える[284]」「ヴォーカリストがちゃんと詞を書いて歌を歌うっていう行為は、一番リアルだと思うんですよ。人が書いた詞を歌うっていうのは、やっぱりその人の感性を代弁してるっていう感じだから。それが悪いって意味じゃないけど[285]」と語っている。また、hydeは、音楽における歌詞について「結構ね、中途半端に理解されるべきもんだとは思うんですよ。歌詞なんて、いちいち説明してたらカッコイイわけない[286]」「ちゃんと理解してほしいからといって、いいことばかり書いてもカッコイイものができるとは思わない[286]」と語っており、インタビューなどにおいて歌詞の意図を明言することを避け、解釈をリスナーに委ねることが多い。
総合音楽家の和久井光司は、hydeが綴る歌詞について「あるストーリーの断片を散りばめたような雰囲気重視のもの[287]」と表現しており、「パンク以後の精神性としての”ロックンロール”からは遠く、文学・映画・演劇の要素まで取り込んで”ロック”とする表現の発展性とみれば大いにありだと思う[287]」と批評している。また、音楽ライターの小杉俊介は、2004年に発行された音楽雑誌『ROCKIN'ON JAPAN』の中で「浪花節的メンタリティーに依然支配されたままのこの国のヒットチャートの中で、<泣き>にも<共感>にも一切頼らないラルクが勝ち続けている事実は、賞賛してすぎることはないと思う[288]」と批評している。
音楽雑誌『MUSICA』の創刊者で音楽ジャーナリストの鹿野淳は、hydeが綴る歌詞の特徴について「バラッドではかなり文学的な言葉世界を展開するものの、ドライヴ・ナンバーになると途端にわかりやすい言葉しか歌わなくなる。だからこそラルクの楽曲はどんな曲でも必ず"聴きとれる"。これは実は凄いことだ[289]」と評している。さらにシンガーソングライターの松任谷由実は、1999年に行われた近田春夫との対談において、"同じつぶつぶを持っている人"として、hydeの他、2人の作詞家の名前をあげている[注釈 65][290]。松任谷は、hydeを含む3人の作詞家が書く歌詞について「詞とメロディは連動してるけど、詞に心地よい空白を感じました[290]」と評している。
ちなみにhydeは、好きな日本の作詞家として、前記の小田和正の他、aiko[291]やCHARA[292]の名前をあげている。余談だが、hydeは2015年に受けた音楽雑誌のインタビューの中で、aikoが綴る歌詞について「aikoさんの書く詞は素敵だなって曲が流れるたびによく思います[291]」と述べたことがある。
上記のように、L'Arc〜en〜Cielの楽曲の歌詞はhydeがほぼすべて手掛けているが、1996年発表のアルバム『True』以降のアルバムにおいて、hyde以外のメンバーも1〜2曲作詞を担当するようになった。なお、2007年発表のアルバム『KISS』には、hyde以外のメンバー3人それぞれが作詞・作曲を担当した楽曲を、1曲ずつ収録している。hyde以外のメンバーが作詞を担当したL'Arc〜en〜Cielの楽曲は、以下に記す(原曲のみ記載。パートチェンジバンド名義の音源やリアレンジバージョンなどは除く)。
L'Arc〜en〜Cielは活動初期から、"メンバー全員がソングライター"というバンドスタイルを採っている。コンポーザーが4人いるが故に、メンバー4人それぞれの個性が、各々の作る楽曲に内包されており、これがL'Arc〜en〜Cielというバンドの最大の特徴になっている[293]。L'Arc〜en〜Cielが作る楽曲には、メンバー4人それぞれのルーツミュージックの要素や、曲を作るタイミングで各々が興味を持っていた音楽性が反映されており、ハードロック[294]やニュー・ウェイヴ[3][294]、ポストパンク[3]、グランジ[3]、オルタナティヴ・ロック[3]、インダストリアル[295]、ダンス・ミュージック[294]といった多彩なジャンルが混合されている。このように多種多様のジャンルを採り入れ、そのうえで大衆性を注入することで、独自のポップ・ミュージックとして音源を仕上げている[296]。
メンバー自身も、"4人全員がコンポーザー"ということをバンドの特徴の一つとして捉えており、hydeは1994年に受けたインタビューで「ラルク アン シエルはテーマを作らないで、みんなが思い思いの曲を書いていくんです。規制を作ってしまうと世界が広がらないと思いますし[276]」と述べている。また、kenは「4人の作曲者がいて、それぞれにいろんな匂いがあるっていう面白さがあると思いますね[297]」と語っている。ちなみにhydeは、L'Arc〜en〜Cielにおけるアルバム制作を「たとえて言えば、みんながキャンバスに好きな色を塗っていって、最終的に出来たものから、こういう絵が描きたかったんだって確認するような感じ[276]」と表現していたことがある。
ちなみに1995年発表の3rdアルバム『heavenly』までの楽曲制作では、作曲者はオケのみを作り、歌メロに関しては基本的にすべてボーカリストのhydeが作っていた[298]。そして1996年に4thアルバム『True』を制作するにあたり、作曲者が歌メロまで作る慣例ができ[298]、L'Arc〜en〜Cielとしてのひとつの制作スタイルが確立している。なお、デモを制作した原曲制作者以外のメンバーがメロディの一部を作りかえた場合は、作曲者クレジットに複数人を併記するかたちをとることが多い。
1998年に"即興的かつ肉体的なリズム&グルーヴを生むドラムプレイ"が特徴的なsakuraから、"緻密かつタイトで、マシーン・ビートとの同期も好んだドラムプレイ"が特徴的なyukihiroへとドラマーが代わったことにより、リズムセクションを担う立場にあるtetsuyaのベースのプレイ・音量が変わっている。さらに、kenのギターアプローチの嗜好も変化したことで、この頃からグランジあるいはオルタナティヴ・ロック色の強い楽曲[43] が増えている。また、yukihiroはかつてOPTIC NERVEというユニットでインダストリアルやテクノ、エレクトロニック・ボディ・ミュージックを志向した作品づくりをしていたことがあり、その後加入したDIE IN CRIESというバンドにおいても、それらから影響を受けたインストゥルメンタルを制作していた経歴があった。そしてL'Arc〜en〜Cielに加入した後も、その音楽的嗜好を反映させた"打ち込みとの同期を採り入れたバンド音楽"を制作している。こういった背景もあり、L'Arc〜en〜Cielの楽曲にクラブ・ミュージックとの親和性が高い音源が増えていくことになった[295]。
なお、前述のジャンル以外にも、sakuraを含めたメンバー全員が影響を受けた音楽性として、ヘヴィメタルやハードコアがあげられるが、L'Arc〜en〜Cielの楽曲制作においてこれらの要素を分かりやすく採り入れることは少ない[299]。その背景について、kenは「ヘヴィメタル禁止令っぽいものがあった[299]」「あまりにもメタルみたいなのは周りが嬉しそうじゃないような感じだった[299]」と述べている。ただ、L'Arc〜en〜Cielの楽曲のリアレンジ楽曲をリリースするパートチェンジバンド、P'UNK〜EN〜CIELではスレイヤーやアイアン・メイデンといった、メンバーが好きなメタルバンドをオマージュしたアレンジメントをお遊びで行っていたことがある。
また、L'Arc〜en〜Cielにおける楽曲制作は当初、各メンバーが提出した原型をもとに、幾度かのバンドセッションを経て、徐々に完成させていくスタイルを基本的に採っていた。ただ、2004年発表の9thアルバム『SMILE』あたりから、各メンバーがセルフスタジオなどでデモ音源を綿密に作るようになり、作曲者がイニシアチブを取りレコーディングを進めていくことも増えていった。バンドの共同プロデューサーを務める岡野ハジメ(ex.PINK)は、2003年以降におけるL'Arc〜en〜Cielの音源制作について「『SMILE』以降はメンバーも自分たちで打ち込んだりとか、プリプロも本ちゃんに近い形で持ってくる人が現れたりしましたね[300]」「『SMILE』(2004)からは別のラルク・ブランドみたいな感じです[301]」と述べている。
L'Arc〜en〜Cielというバンドについて、岡野ハジメは「アレンジにしても、どのジャンルも拡げていける非常に珍しいバンドだと思いますね。"じゃあなんでもいい"ってわけではないんですよ。その使い方も、それぞれこだわりはある[50]」と述べている。また、岡野は1990年代の頃の制作を振り返り「(レコーディング現場にいる)みんながそれぞれプロデューサー的だったと思うんですよ。メンバーも4人、個性的なプロデューサーだと思いますし。全員がアイディアを、"こんなのあったら面白いよね"って口々に言ってて現場に飛び交ってるという感じで。普通だったら収拾がつかないはずなのに、それが何かしらのバランスで、こう、ひとつの作品になっていくという。面白かったですね、そういうのは。プロのやり方だけでは出来ないと思うんですよ。ある種アマチュアリズム的な、それをプロのノウハウでやっていくっていう。レンジが広くないと出来ないワザだと思う[50]」と評している。また、草野マサムネ(スピッツ)は、2024年に放送されたTOKYO FM系ラジオ番組『SPITZ 草野マサムネのロック大陸漫遊記』の中で、L'Arc〜en〜Cielの楽曲「winter fall」に触れたうえで「ラルクは曲も歌唱もとても魅力的なんですけども、サウンドがねぇ、すごいタイトでカッコいいので、当時あの、レコーディングのときに参考にしていました。なんかこう、サウンドを参考にするアーティストっていうのは、ほぼ洋楽のアーティストっていうか、洋楽のバンドがほとんどだった中で、ラルクはそんな中で数少ない"音がカッコいいなぁ"って思ったバンドでしたね、邦楽のね[302]」と述べている。
さらに、音楽ライターの安藤優は音楽雑誌『ミュージック・マガジン』の中で、L'Arc〜en〜Cielについて「ネクラの代表格ともいえるゴシックやダーク・サイケ風味を大胆に盛り込みつつも、平然とお茶の間に浸透して一般大衆の耳にアピールしてしまえる点に、ラルクの醍醐味や痛快さを感じる[303]」「とかく日本のポップスやロックにありがちな借物だらけの段階での自己満足に終始することなく、イイトコ取りしつつも咀嚼してラルク的に仕立てるセンスには、バンドとプロデューサーの岡野ハジメの並々ならぬ曲者ぶりが発揮されており実に楽しい[303]」と批評している。また、ポピュラー音楽評論家のジョン・ペアレスは、ニューヨークタイムズ紙において「多くの楽曲がメタリカ、U2、デペッシュ・モードやデヴィッド・ボウイのようなギター・ロックでありながら、"X X X"のダンス・ポップのようなタッチの、アメリカのロックバンドがやらないスタイルの曲もこなしている[304]」とL'Arc〜en〜Cielの楽曲の多彩さについてコメントしている。
上記の現メンバー4人以外に、作曲者クレジットがついたL'Arc〜en〜Cielの楽曲は、以下に記す(原曲のみ、スタジオ音源があるもののみを記載)。
L'Arc〜en〜Cielにおける音源の編曲作業は、メジャーデビュー後しばらく、バンドメンバー4人だけで行うことを基本としており、アルバム収録曲のうち1曲だけ外部のアレンジャーを招いてレコーディングすることはあっても、アルバム全体のプロデュースはすべてバンドだけで実施していた。ただ、1996年発表の4thアルバム『True』を制作するにあたり、外部から音楽プロデューサー/アレンジャーを6人招聘し、本格的に楽曲の共同アレンジを開始している。tetsuyaは、アルバム『True』を発表した頃に受けた音楽誌のインタビューにおいて、外部の編曲者と共同制作を行うことについて「もともとオレは、プロデューサーはぜったい必要だという考えなんですよ。海外のアーティストは、それが当たり前じゃないですか。プロデューサーといっしょに、バンドなりアーティストが共同作業をしていくっていうね。たとえば、ラットだったらボー・ヒルとか。そういうことをインタビューで読んだり、そうやって完成した音楽を聴いて育ってきたから、それがとうぜんだと思ってる[298]」と述べている。
翌1998年に発表した5thアルバム『HEART』では、全10曲中9曲で岡野ハジメ(ex.PINK)が共同プロデューサー兼アレンジャーとして起用されている。そして岡野は、このアルバムリリース以降、L'Arc〜en〜Cielの楽曲制作に長らく携わるようになり、hydeが「ラルクのもう1人のメンバー[355]」と表現するほど、"L'Arc〜en〜Cielの音源作り"におけるキー・パーソンとなっていった。ちなみに、岡野とL'Arc〜en〜Cielの初めての共同制作は、4thアルバム『True』収録の「Caress of Venus」「"good-morning Hide"」の編曲作業であった。
後年岡野は、L'Arc〜en〜Cielとの出会い、そして初仕事となった「"good-morning Hide"」の制作を振り返り、「80年代後半のブリティッシュロック的雰囲気…俺はザ・キュアーが大好きで、たまたまtetsuyaくんもhydeくんもザ・キュアーが好きだったんですよ。それで、ギターはただパワー・コードを弾くだけとか普通のコードをジャカジャカ弾くのではなく、ギターはイギリスのゴスやニュー・ウェイヴの感じにしようと、話し合いましたね。そういうことができる日本のバンドは少なかったので、"ラルクのメンバーはマニアックなものも受け入れてくれるんだ、これは嬉しい!"と思いました[356]」と自身の著書で述懐している。なお、岡野は、プログレッシブ・ロックバンド、スペース・サーカスやニュー・ウェイヴバンド、PINKでベーシストを務めていたミュージシャンであり、L'Arc〜en〜Cielのメンバーが敬愛するバンド、DEAD ENDが1988年に発表したアルバム『shámbara』などでプロデュースワークを担当していた経歴がある。
なお、前述の通り、本格的に外部のアレンジャーと共同で編曲作業を行うようになったのは、1996年発表のアルバム『True』以降だが、CDシングル作品では1995年に発表した「Vivid Colors」と「夏の憂鬱 [time to say good-bye]」を、西平彰と共同で編曲している。また、1994年発売の2ndアルバム『Tierra』では、全収録曲をバンドだけで編曲をしているが、元GRASS VALLEYのキーボーディストである本田恭之がベーシック・サウンド・ディレクター、"YMO第4の男"と言われた松武秀樹などがキーボードオペレーターとしてクレジットされている。また、同アルバム収録曲の「瞳に映るもの」では、富樫春生がプロデュースを担当している。
また、2000年以降の制作では、11thアルバム『KISS』を除き、岡野ハジメがアルバム全体のプロデュースを務めながら、時折、編曲作業に様々な音楽プロデューサー/アレンジャー/ミュージシャンを招聘するようになっている。これまで岡野以外に、CHOKKAKUや亀田誠治(東京事変)、久米大作、牛尾憲輔(agraph)などがプロデューサーあるいはアレンジャーとして、L'Arc〜en〜Cielの楽曲制作に参加している(下表参照)。ちなみに、2007年に発表したアルバム『KISS』以降は、kenとyukihiroが作曲した楽曲の編曲作業に関しては、バンド単位のセルフアレンジで行われることが多くなっている。
なお、kenは管弦編曲や鍵盤編曲に関しても外部に一任せず、自らが作業に関与することが多い。そのため、自作曲である「winter fall」や「Butterfly's Sleep」「LOST HEAVEN」「ALONE EN LA VIDA」では、外部の編曲者とkenが共同で作業を行っている。岡野は2019年に発表した著書で、L'Arc〜en〜Cielにおけるkenのアレンジワークについて「kenちゃんはアレンジができて、譜面の読み書きもできる人です。彼と仕事をしていて凄く勉強になったのは…(中略)kenちゃんは内声に凄くこだわるんですよね。ギタリストだからでしょうけど、ミッドのところをどうするか、歌と他の楽器の音が当たっていないか、ストリングスの中でビオラの帯域をどうするか?といった、内声の動きにこだわるんです[357]」「kenちゃんはたまに、リズム・テイクだけだと、最終的にどういう音楽になるかわからないようなギターを弾くことがあるんです。1音だけピーン!という音を弾いて、この音は何で鳴ってるのかなと思ったら、あとでストリングスやいろいろな音が出揃った時に、"このピーンはトップノートだったんだ。やっと分かった"なんていうこともありました。最初から、重ねた末にそういうハーモニーになることをちゃんと検証できて弾いているんです[357]」と評している。また、小林祐介(THE NOVEMBERS、THE SPELLBOUND)は、kenについて「kenさんは作曲の理論だったり、ギターでいうボイシングやグルーヴの作り方、アンサンブルの組み方にいつもハッとさせられます[358][359]」と述べている。
共同編曲者/プロデューサー名 (※) 岡野ハジメを除く |
楽曲 (※) 括弧内はアルバムのクレジット内容の和訳 |
---|---|
大石征裕 | 『DUNE』収録曲 (プロデュース) |
本田恭之 | 『Tierra』収録曲 (ベーシック・サウンド・ディレクター) |
松武秀樹 | 『Tierra』収録曲 (キーボードオペレーター) |
石川鉄男 | 『Tierra』収録曲 (キーボードオペレーター) |
迫田到 | 『Tierra』収録曲 (キーボードオペレーター) |
高橋"RANDY"和仁 | 『heavenly』収録曲 (コ・プロデュース) |
富樫春生 | 「瞳に映るもの」 (プロデュース)、「Fare Well」 (編曲/弦編曲/プロデュース)、 「Dearest Love」 (編曲/弦編曲/プロデュース)、「STAY AWAY -Truly Barbie Forest Ver.-」 (編曲)、 「雪の足跡」 (鍵盤編曲)、「My Dear -L'Acoustic version-」 (編曲) |
西平彰 | 「Vivid Colors」 (編曲)、「夏の憂鬱 [time to say good-bye]」 (編曲)、 「あなたのために」 (編曲)、「Lies and Truth」 (編曲/弦編曲/プロデュース)、 「Link」 (編曲/弦編曲)、「砂時計」 (編曲/プロデュース)、 「NEXUS 4」 (編曲)、「SHINE」 (編曲)、 「GOOD LUCK MY WAY」 (編曲/管弦編曲)、「X X X」 (弦編曲) |
佐久間正英 | 「風にきえないで」 (編曲/プロデュース)、「I'm so happy」 (編曲/プロデュース) |
小西貴雄 | 「flower」 (編曲/プロデュース)、「さようなら」 (編曲/プロデュース)、 「I Wish」 (編曲/管編曲/プロデュース) |
秦野猛行 | 「賽は投げられた」 (編曲/プロデュース)、「the Fourth Avenue Café」 (編曲/プロデュース)、 「Round and Round」 (編曲/プロデュース)、「THE GHOST IN MY ROOM」 (編曲) |
北原雅彦 | 「the Fourth Avenue Café」 (管編曲) |
CHOKKAKU | 「虹」 (編曲/弦編曲/プロデュース)、「TIME SLIP」 (編曲/プロデュース) |
村山達哉 | 「winter fall」 (管弦編曲)、「Butterfly's Sleep」 (弦編曲)、 「THE BLACK ROSE」 (管編曲) |
菅原サトル | 「あなた」 (弦編曲) |
吉澤瑛師 | 「Driver's High」 (編曲) |
外山和彦 | 「Pieces」 (弦編曲) |
吉俣良 | 「finale」 (弦編曲) |
TTman | 「STAY AWAY -STAY AWAY -Jaze Poo Mix-」 (リミックス) |
亀田誠治 | 「bravery」 (編曲/プロデュース) |
ジェレミー・ラボック | 「Anemone」 (弦編曲)、「叙情詩」 (弦編曲)、 「ALONE EN LA VIDA」 (弦編曲) |
デヴィッド・キャンベル | 「瞳の住人」 (弦編曲) |
菅原弘明 | 「Coming Closer」 (編曲/弦編曲)、「LOST HEAVEN」 (鍵盤編曲) |
杉山勇司 | 「SEVENTH HEAVEN」 (編曲)、「spiral」 (編曲) |
久米大作 | 「Hurry Xmas」 (編曲/管弦編曲)、「BLESS」 (編曲/管弦編曲) |
前嶋康明 | 「HONEY -L'Acoustic version-」 (編曲/プロデュース) |
陶山隼 | 「Don't be Afraid」 (編曲)、「FOREVER」 (編曲)、「YOU GOTTA RUN」 (編曲) |
牛尾憲輔 (agraph) | 「Cradle -L'Acoustic version-」 (プロデュース) |
堀向彦輝 | 「ミライ」 (編曲) |
L'Arc〜en〜Cielはメジャーデビュー以降、1998年に発表した10thCDシングル「DIVE TO BLUE」までは基本的に、過去作のアレンジ音源ではない新曲をカップリング曲としてリリースしていた。そしてこの時期のL'Arc〜en〜Cielは、「表題曲+"L'Arc〜en〜Cielが発表した過去作のアレンジ音源でない新曲" (+表題曲のインストゥルメンタル)」という形態でCDシングルを発表していた。
L'Arc〜en〜Cielがこの当時、CDシングルに収録するカップリング曲をスタジオ・アルバムに収録しない方針を取っていたこともあり、この時期に発表したカップリング曲は、リリースから長らくアルバムに収録されることはなかった。ただ、2003年にベストアルバム『The Best of L'Arc〜en〜Ciel c/w』が発表され、この時期に制作されたカップリング曲がアルバムへ初収録されることになった。また、2010年発表のメンバー4人それぞれの自作曲から収録曲を選定したベストアルバム『QUADRINITY 〜MEMBER'S BEST SELECTIONS〜』において、hydeの「影的な存在の曲に光を当てたい[360]」という思いから、「I'm so happy」「さようなら」が再びアルバム収録されている。
1998年にyukihiroがL'Arc〜en〜Cielへ正式加入し、同年に12thCDシングル「浸食 〜lose control〜」を発表するにあたり、カップリング曲として表題曲のリミックス音源が制作されることとなった。当初、海外のアーティストに「浸食 〜lose control〜」のリミックスを依頼するプランもあったというが、yukihiroの希望により、yukihiroの手でリミックス音源が制作されることになった[361]。そして、出来上がった音源をメンバーが気に入ったことにより、この作品以降もyukihiroによるL'Arc〜en〜Cielの楽曲のリミックス音源が、カップリングとして収録されることとなった。
こうしてL'Arc〜en〜Cielは、「表題曲+"yukihiroによるリミックス音源"(※インストゥルメンタルなし)」という形態でCDシングルを発表するようになった。この形態でのリリースは、13thCDシングル「snow drop」を除き、2000年に発表した19thCDシングル「NEO UNIVERSE/finale」までのCDシングル7作品で行われている。
ちなみにこのリミックス企画では、yukihiroが1980年代後半からイギリス・マンチェスターを中心に巻き起こったマンチェスター・ムーブメントの影響を受けていることもあってか[170]、ハウスやインダストリアルを中心としたダンス・ミュージックを意識したリミックスが多く手掛けられている。余談だが、yukihiroは、ソロ名義で開催したDJ&ライブイベント「acid android in an alcove」において、ディスクジョッキーとしてこの時期に自身が制作したL'Arc〜en〜Cielのリミックス音源をフロアでかけたことがある[362]。
カップリングに収められたリミックス音源は、2000年に再度リミックスしたうえで、リミックス・アルバム『ectomorphed works』に収録されることになった。なお、このリミックスアルバムはL'Arc〜en〜Ciel名義の作品ではあるが、yukihiroの単独プロデュースで制作されている。また、2003年に発表されたベストアルバム『The Best of L'Arc〜en〜Ciel c/w』には、yukihiroが制作したリミックス音源から、14thCDシングル「forbidden lover」のカップリング曲として発表された「花葬 -1014 mix-」が収録されている。
L'Arc〜en〜Cielの活動を本格的に再開した、2004年に発表した24thCDシングル「自由への招待」以降のCDシングルには、メンバー4人がパートチェンジしたバンド、P'UNK〜EN〜CIELの音源が収録されることになった。P'UNK〜EN〜CIELは、L'Arc〜en〜Cielの楽曲をパンク・ロック風にアレンジし直してセルフカバーする企画バンドであり、メンバー4人が持ち回りでアレンジの主導権を握り、音源制作がすすめられた。ちなみにken曰く、この企画はhydeの発案がきっかけになっているという[363]。
こうしてL'Arc〜en〜Cielは、「表題曲+"P'UNK〜EN〜CIELによるセルフカバー音源" (+表題曲とカップリング曲のインストゥルメンタル)」という形態でCDシングルを発表するようになった。この形態でのリリースは、29thCDシングル「the Fourth Avenue Café」と35thCDシングル「NEXUS 4/SHINE」を除き、2011年発表の37thCDシングル「GOOD LUCK MY WAY」までのCDシングル12作品で行われている。また、2004年以降に開催したL'Arc〜en〜Ciel名義のライブでは、P'UNK〜EN〜CIELがセルフカバーを2〜3曲ほどパフォーマンスするコーナーが設けられた。
カップリングに収められたセルフカバー音源は、2012年に再度ミックス・マスタリングしたうえで、L'Arc〜en〜Cielの12thアルバム『BUTTERFLY』の完全生産限定盤に付属された特典CD『P'UNK IS NOT DEAD』に収録されることになった。そしてこのアルバムリリースをもって、P'UNK〜EN〜CIELとしての活動は一旦の区切りになった。
2011年に発表した38thCDシングル「X X X」からは、L'Arc〜en〜Cielの楽曲をアコースティックアレンジし直した「L'Acoustic version」と題された音源が収録されることになった。なお、リアレンジ音源のプロデュースは、P'UNK〜EN〜CIELの音源制作のときと同様に、メンバー4人が持ち回りで担当することになっている[364]。
こうしてL'Arc〜en〜Cielは、「表題曲+"L'Arc〜en〜Cielの楽曲のアコースティックアレンジ音源(L'Acoustic version)" (+表題曲とカップリング曲のインストゥルメンタル)」という形態でCDシングルを発表するようになった。
L'Arc〜en〜Cielではバンド内の遊びも兼ね、不定期でメンバー間のパートチェンジを行い、音源制作・ライブ演奏を行うことが間々ある。そしてこのお遊びの発展型として、過去にKIOTO(読み:キオト)、D'ARK〜EN〜CIEL(読み:ダーク アン シエル)、P'UNK〜EN〜CIEL(読み:パンク アン シエル)の3つのパートチェンジバンドが企画され、これらがL'Arc〜en〜Ciel名義のライブでパフォーマンスを行っていた。なお、この3バンドの共通項として、メンバーが違うケースはあれど、"担当パートの振り分け方が同一"という点がある(L'Arc〜en〜Cielのベーシストであるtetsuyaがボーカルに、ドラマーのsakuraもしくはyukihiroがベーシストに、ボーカリストのhydeがギタリストに、ギタリストのkenがドラマーにチェンジする)。
監督 | 曲名 |
---|---|
穴見文秀 | 「NEO UNIVERSE」 |
池田一真 | 「Wings Flap」 |
ヴィンセント・ギャロ | 「Anemone」 |
上田拓 | 「STAY AWAY」 |
A.T. | 「DAYBREAK'S BELL」 |
大坪草次郎 | 「Driver's High -LIVE IN PARIS Ver.-」「CHASE -WORLD TOUR 2012 EDITION-」 |
柿本ケンサク | 「ミライ」 |
栗田裕介 | 「風にきえないで」 |
小島淳二 | 「叙情詩」 |
後藤新吾 | 「Dune」「Floods of tears」「As if in a dream」「Blurry Eyes」「Vivid Colors」 |
高木照之 | 「White Feathers」「眠りによせて」 |
高田弘隆 | 「NEXUS 4」 |
高田雅博 | 「Pieces」 |
竹石渉 | 「winter fall」「DIVE TO BLUE」「HONEY」「snow drop」「Driver's High」「finale」「READY STEADY GO」 |
竹内スグル | 「flower」「Lies and Truth」「虹」「forbidden lover」「瞳の住人」 |
多田琢 | 「Pieces」「STAY AWAY」 |
多田卓也 | 「GOOD LUCK MY WAY」 |
タナカノリユキ | 「trick (new2 wave of japanese heavy metal mix)」「fate (everybody knows but god mix)」 |
丹修一 | 「and She Said」 |
デビッド・ステットソン | 「夏の憂鬱 [time to say good-bye]」 |
中島シンヤ | 「Spirit dreams inside -another dream-」 |
中村剛 | 「SEVENTH HEAVEN」 |
二階健 | 「風の行方」「瞳に映るもの」 |
野田智雄 | 「自由への招待」「Killing Me」「New World」「Link」 |
芳賀薫 | 「Hurry Xmas」 |
東弘明 | 「CHASE」 |
ヒグチミツヒロ | 「FOREVER」 |
Higuchinsky | 「花葬」「浸食 〜lose control〜」「Anemone (sub angle)」 |
松岡公一 | 「MY HEART DRAWS A DREAM」 |
マンジョット・ベディ | 「SHINE」「BLESS」 |
武藤眞志 | 「HEAVEN'S DRIVE」「LOVE FLIES」 |
ムラカミタツヤ | 「DRINK IT DOWN」 |
森田淳也 | 「Don't be Afraid -Biohazard×L'Arc-en-Ciel on PlayStation VR-」 |
安田大地 | 「Don't be Afraid」「Don't be Afraid -BIOHAZARD THE FINAL collaboration version-」 |
L'Arc〜en〜Ciel | 「X X X」 |
年 | タイトル | 会場/映像化 |
---|---|---|
1991年-1992年 | L'Arc〜en〜Ciel[注釈 66] | 全30公演[84]
(※) すべてのライブが単発公演 |
1993年 | SONIC GIG | 全1公演[84]
3月11日 恵比寿GUILTY ※sakuraが加入して初の公演 |
SONIC GIG Ⅱ | 全1公演[84]
4月27日 恵比寿GUILTY | |
Close by DUNE | 全10公演[84]
6月14日 広島WOODY STREET | |
Close by DUNE FINAL | 全1公演[84]
8月1日 日清パワーステーション | |
FEEL OF DUNE | 全14公演[84]
11月9日 京都ミューズホール | |
1994年 | ノスタルジーの予感 | 全3公演[23]
4月3日 渋谷公会堂 |
映像化
| ||
L'Arc〜en〜Ciel Tour Sense of time '94 |
全8公演[23]
7月14日 大阪郵便貯金会館 | |
映像化
| ||
1995年 | Official Funclub発足記念 Ciel/winter '95 |
全4公演[23]
1月24日 大阪国際交流センター |
L'Arc〜en〜Ciel in CLUB '95 |
全20公演[23]
5月21日 熊谷VOGUE | |
L'Arc〜en〜Ciel DAY 「Rendez-Vous」前夜祭 |
7月30日 渋谷公会堂 ※シークレット | |
L'Arc〜en〜Ciel TOUR heavenly '95 |
全9公演[87]
9月8日 仙台市民会館 | |
L'Arc〜en〜Ciel The other side of heavenly '95 |
||
映像化
| ||
L'Arc〜en〜Ciel TOUR heavenly '95 final |
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映像化
| ||
1996年 | L'Arc〜en〜Ciel Kiss me |
全24公演[87]
4月3日 結城市民文化センター |
L'Arc〜en〜Ciel Kiss me deadly REVENGE |
全1公演[87]
5月26日 東京ベイNKホール | |
映像化
| ||
L'Arc〜en〜Ciel BIG CITY NIGHTS ROUND AROUND '96 |
全5公演[88]
8月26日 日本武道館 | |
L'Arc〜en〜Ciel Carnival of True Eve |
全1公演
12月19日 日清パワーステーション | |
1996年-1997年 | FRESH LIGHT PRESENTS L'Arc〜en〜Ciel CONCERT TOUR '96〜'97 Carnival of True |
全10公演[88]
1996年 |
1997年 | the Zombies[注釈 67] Live Tour NIGHTMARE BEFORE CHRISTMAS EVE |
全3公演
12月16日 赤坂BLITZ ※yukihiroがサポートとして参加した公演 |
映像化
| ||
L'Arc〜en〜Ciel 1997 REINCARNATION |
||
映像化
| ||
1998年 | L'Arc〜en〜Ciel Tour '98 ハートに火をつけろ! |
全56公演[89]
第1部 |
映像化
| ||
1999年 | L'Arc〜en〜Ciel 1999 GRAND CROSS TOUR |
全12公演[91]
7月17日 大阪コスモスクエア 特設ステージ |
映像化
| ||
1999年-2000年 | Tu-Ka PRESENTS L'Arc〜en〜Ciel RESET>>LIVE *000 |
全1公演[91]
1999年12月31日-2000年1月1日 東京ビッグサイト 東館展示ホール1-3 |
映像化
| ||
2000年 | L'Arc〜en〜Ciel CLUB CIRCUIT 2000 REALIVE |
全10公演[95]
10月8日 赤坂BLITZ |
映像化
| ||
Yahoo! JAPAN PRESENTS L'Arc〜en〜Ciel TOUR 2000 REAL |
||
映像化
| ||
2003年 | LE-CIEL限定 Akasaka Zero day |
全1公演[95]
6月25日 赤坂BLITZ ※FC限定 |
映像化
| ||
L'Arc〜en〜Ciel Shibuya Seven days 2003 |
全7公演[95]
6月28日 国立代々木競技場 第一体育館 | |
映像化
| ||
2004年 | Sony Music Fes. 2004 スペシャルライブ L'Arc〜en〜Ciel SMILE TOUR 2004前夜祭 |
全1公演[96]
5月8日 国立代々木競技場 第一体育館 |
L'Arc〜en〜Ciel SMILE TOUR 2004 |
||
映像化
| ||
L'Arc〜en〜Ciel Live in USA |
全1公演[96]
7月31日 ファースト・マリナー・アリーナ (ボルチモア) | |
映像化
| ||
2005年 | L'Arc〜en〜Ciel AWAKE TOUR 2005前夜祭 「今夜奇跡が起きる!?」 |
全1公演[97]
7月28日 LIQUIDROOM Ebisu ※FC限定 |
映像化
| ||
L'Arc〜en〜Ciel AWAKE TOUR 2005 |
全11公演[97]
8月6日 名古屋市総合体育館 レインボーホール | |
映像化
| ||
L'Arc〜en〜Ciel ASIALIVE 2005 |
全4公演[97]
9月3日 オリンピックパーク 体操競技場 (ソウル) | |
映像化
| ||
2006年 | L'Arc〜en〜Ciel 15th L'Anniversary Live |
全2公演[97]
11月25日 東京ドーム |
映像化
| ||
2007年 | L'Arc〜en〜Ciel Are you ready? 2007 またハートに火をつけろ! |
全36公演[97]
6月8日 戸田市文化会館 ※FC限定 |
映像化
| ||
2007年-2008年 | L'Arc〜en〜Ciel TOUR 2007-2008 THEATER OF KISS |
全14公演[103]
2007年 |
映像化
| ||
2008年 | L'Arc〜en〜Ciel TOUR 2008 L'7 〜Trans ASIA via PARIS〜 |
|
映像化
| ||
2011年 | L'Arc〜en〜Ciel 20th L'Anniversary Starting Live "L'A HAPPY NEW YEAR!" |
全1公演[105]
1月1日 幕張メッセ 国際展示場9-11ホール |
L'Arc〜en〜Ciel 20th L'Anniversary LIVE |
||
映像化
| ||
L'Arc〜en〜Ciel 20th L'Anniversary TOUR |
||
映像化
| ||
2012年 | LE-CIEL会員限定ライブ | 全2公演[105]
2月22日 横浜アリーナ ※FC限定 |
L'Arc〜en〜Ciel WORLD TOUR 2012 |
全10公演[105]
3月3日 アジア・ワールド・エキスポ (香港) | |
映像化
| ||
一夜限りのL'Arc〜en〜Ciel Premium Night | 全1公演[105]
4月20日 LIQUIDROOM | |
L'Arc〜en〜Ciel 20th L'Anniversary WORLD TOUR 2012 THE FINAL |
全6公演[105]
5月12日 日産スタジアム | |
映像化
| ||
L'Arc〜en〜Ciel 20th L'Anniversary Year Live in Hawaii |
||
映像化
| ||
LE-CIEL Presents ハワイ アン シエル Special Live |
全1公演[105]
6月1日 ワイキキシェル (ホノルル) ※FC限定 | |
2014年 | L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2014 at 国立競技場 |
全2公演[124]
3月21日 国立競技場 (現:旧国立競技場) |
映像化
| ||
2015年 | L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2015 L'ArCASINO |
|
映像化
| ||
2017年 | L'Arc〜en〜Ciel 25th L'Anniversary LIVE |
全2公演[137]
4月8日 東京ドーム |
映像化
| ||
2018年 | L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2018 L'ArChristmas |
全2公演[137]
12月19日 東京ドーム |
映像化
| ||
2020年 | L'Arc〜en〜Ciel ARENA TOUR MMXX |
1月9日 大阪城ホール |
映像化
| ||
2021年 | L'Arc〜en〜Ciel 30th L'Anniversary Starting Live "L'APPY BIRTHDAY!" |
全2公演[144]
5月29日 幕張メッセ 国際展示場1-3ホール |
映像化
| ||
L'Arc〜en〜Ciel 30th L'Anniversary TOUR |
全19公演[144]
9月5日 大阪城ホール | |
映像化
| ||
2022年 | L'Arc〜en〜Ciel 30th L'Anniversary LIVE |
全2公演
5月21日 東京ドーム |
映像化
| ||
2024年 | L'Arc〜en〜Ciel ARENA TOUR 2024 UNDERGROUND |
全15公演
2月8日 国立代々木競技場 第一体育館 ※FC限定 |
映像化
| ||
2025年 | L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2025 hyde BIRTHDAY CELEBRATION -hyde誕生祭- |
全2公演
1月18日 東京ドーム |
年 | タイトル | 会場/映像化 | 備考 |
---|---|---|---|
1991年 | 大阪城野外音楽堂イベント | 9月14日 大阪城野外音楽堂[84] | |
1992年 | 1992 BEATNIK | 8月27日 大阪アム・ホール[84] | |
"Will" イベント | 10月3日 クラブチッタ川崎[84] | ||
『Gimmick』発売記念イベント | 10月10日 クラブチッタ川崎[84] | ||
目黒鹿鳴館イベント | 10月11日 目黒鹿鳴館[84] | ||
横浜モンスターイベント | 11月7日 横浜モンスター[84] | ||
1993年 | 華麗なる魔性 | 3月14日 渋谷公会堂[84] | |
Rock'n f PRESENTS Subliminal Vision |
5月3日 渋谷公会堂[23] | ||
SHOCK AGE '93 | 8月23日 渋谷公会堂[23] | ||
Because the Night Vol.1 | 10月19日 渋谷公会堂[23] | ||
1994年 | L.S.B. | 8月20日 札幌芸術の森 野外ステージ[85] | LUNA SEA、SOFT BALLET、BUCK-TICKによる合同ツアー |
1995年 | SHOCK AGE SPECIAL '95 | 7月22日 渋谷公会堂[23] | |
彩の国秩父ミューズコンサート'95 NACK5 GO-ROCK | 8月20日 秩父ミューズパーク[23] | ||
Kiss Miss Live | 10月21日 名古屋ダイヤモンドホール[87] | ||
2001年 | 映画『FINAL FANTASY』試写会 | 8月29日 東京国際フォーラム[95] | シークレットゲスト |
2003年 | 天嘉 弐 -DANGER II- | 12月26日 日本武道館[95] | 所属事務所イベント シークレットゲスト |
2004年 | THE ROCK ODYSSEY 2004 | 7月24日 大阪ドーム[96] 7月25日 横浜国際総合競技場[96] |
両日出演 |
鋼の錬金術師FESTIVAL | 12月19日 大阪城ホール[96] 12月26日 国立代々木競技場 第一体育館[96] |
両日出演 いずれもシークレットゲスト | |
天嘉 参 -DANGER III- | 12月25日 日本武道館[96] | 所属事務所イベント シークレットゲスト | |
2005年 | 劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者 前夜祭 | 7月22日 東京国際フォーラム[96] | シークレットゲスト |
MBS ANIME FES.'05 | 7月30日 大阪城西の丸庭園 | シークレットゲスト | |
2007年 | INCHEON PENTAPORT ROCK FESTIVAL 2007 | 7月28日 韓国・仁川広域市[97] | ヘッドライナー出演 (日本人アーティスト初) |
2011年 | テレビ朝日ドリームフェスティバル 2011 | 9月23日 日本武道館[105] | ヘッドライナー出演 |
2014年 | SAYONARA 国立競技場FINAL WEEK JAPAN NIGHT "Japan to the World" |
5月29日 国立競技場 (現:旧国立競技場)[124] | ヘッドライナー出演 建て替え前の国立競技場(現:旧国立競技場)における最後の音楽イベント |
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順位 | アルバム | シングル | シングルトラック | |||
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1 | ||||||
2 | ||||||
3 | ||||||
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5 | ||||||
受賞日 | 賞 | 受賞作品等 |
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1997年12月27日 | SPACE SHOWER Music Video Awards '97 “BEST GROUP CLIP” |
Music Clip「虹」 |
1998年11月21日 | 第31回全日本有線放送大賞 “大賞” |
シングル「HONEY」 |
第31回全日本有線放送大賞 “最多リクエスト歌手賞” |
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1998年12月31日 | 第40回日本レコード大賞 “優秀作品賞”[369] |
シングル「HONEY」 |
1999年3月1日 | 第36回ゴールデン・アロー賞 “音楽賞” |
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第36回ゴールデン・アロー賞 “グランプリ” |
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1999年3月3日 | 第13回日本ゴールドディスク大賞 “SONG OF THE YEAR”[370] |
シングル「HONEY」「花葬」「snow drop」 |
第13回日本ゴールドディスク大賞 “ROCK ALBUM OF THE YEAR”[370] |
アルバム『HEART』 | |
1999年12月7日 | 1999年度ベストドレッサー賞 | |
1999年12月27日 | SPACE SHOWER Music Video Awards '99 “BEST VIDEO OF THE YEAR” |
Music Clip「Pieces」 |
2000年3月15日 | 第14回日本ゴールドディスク大賞 “SONG OF THE YEAR”[371] |
シングル「HEAVEN'S DRIVE」 |
第14回日本ゴールドディスク大賞 “ROCK ALBUM OF THE YEAR”[371] |
アルバム『ark』『ray』、シングル「NEO UNIVERSE」 | |
2000年12月23日 | SPACE SHOWER Music Video Awards '00 “BEST GROUP VIDEO” |
Music Clip「STAY AWAY」 |
SPACE SHOWER Music Video Awards '00 “BEST VIDEO OF THE YEAR” |
Music Clip「STAY AWAY」 | |
2001年3月13日 | 第15回日本ゴールドディスク大賞 “ROCK ALBUM OF THE YEAR”[372] |
アルバム『REAL』 |
2002年3月13日 | 第16回日本ゴールドディスク大賞 “ROCK ALBUM OF THE YEAR”[373] |
アルバム『Clicked Singles Best 13』 |
2006年3月17日 | SPACE SHOWER Music Video Awards '06 “ART DIRECTION VIDEO WINNERS” |
Music Clip「叙情詩」 |
2006年 | 平成17年度文化庁メディア芸術祭 エンターテインメント部門 審査委員会推薦作品[374] |
Music Clip「叙情詩」 |
2008年2月21日 | Yahoo!ミュージックアワード2007 “ベストグループ最優秀賞” |
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2008年3月 | J-MELO Awards 第1回「アーティスト別 (2007年)」第1位[375] “Most Requested Artist” |
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2009年3月 | J-MELO Awards 第2回「アーティスト別 (2008年)」第1位[375] “Most Requested Artist” |
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2010年3月 | J-MELO Awards 第3回「アーティスト別 (2009年)」第1位[375] “Most Requested Artist” |
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2012年3月 | J-MELO Awards 第5回「アーティスト別 (2011年)」第1位[375] “Most Requested Artist” |
曲名 | タイアップ内容 | オンエア期間など | 収録作品 |
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Blurry Eyes | 日本テレビ系テレビアニメ『D・N・A² 〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜』オープニングテーマ | 1994年10月7日 - 1994年12月23日 |
1stシングル「Blurry Eyes」 |
Vivid Colors | 日本テレビ系番組『ぐるぐるナインティナイン』エンディングテーマ | 1995年7月2日 - 1995年9月24日 |
2ndシングル「Vivid Colors」 |
Brilliant Years | 日本テレビ系番組『しんドラ』エンディングテーマ | 1995年4月11日 - 1995年6月27日 | |
夏の憂鬱 [time to say good-bye] |
TBS系番組『M-Navi』エンディングテーマ | 1995年10月6日 - 1995年11月24日 |
3rdシングル「夏の憂鬱 [time to say good-bye]」 |
風にきえないで | フジテレビ系番組『猛烈アジア太郎』エンディングテーマ | 1996年7月1日 - 1996年7月31日 |
4thシングル「風にきえないで」 |
日本テレビ系番組『ミュージックパーク』エンディングテーマ | 1996年8月1日 - 1996年8月31日 | ||
flower | フジテレビ系番組『プロ野球ニュース』テーマソング | 1996年10月1日 - 1997年3月10日 |
5thシングル「flower」 |
Lies and Truth | テレビ東京系番組『TOWER COUNTDOWN』エンディングテーマ | 1996年12月2日 - 1996年12月30日 |
6thシングル「Lies and Truth」 |
the Fourth Avenue Café | フジテレビ系テレビアニメ『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』第4期エンディングテーマ | 1997年2月12日 - 1997年3月5日 |
29thシングル「the Fourth Avenue Café」 |
虹 | ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント配給映画『劇場版 るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 維新志士への鎮魂歌』オープニングテーマ | 1997年12月20日 (公開) |
7thシングル「虹」 |
winter fall | テレビ朝日系列放送・アメリカCBS製作ドラマ『シカゴ・ホープ』第2シーズンイメージソング | 1998年1月14日 - 1998年3月11日 |
8thシングル「winter fall」 |
milky way | TBS系番組『ワンダフル』テーマソング | 1998年3月2日 - 1998年3月30日 |
5thアルバム『HEART』 |
Shout at the Devil | ダイハツ工業「ムーヴエアロダウンカスタムXX」CMソング | 1998年5月6日 - 1998年9月30日 | |
DIVE TO BLUE | TBS系番組『特捜!芸能ポリスくん』エンディングテーマ | 1998年4月8日 - 1998年9月16日 |
9thシングル「DIVE TO BLUE」 |
「NTTパーソナル関西」CMソング ※ | 1998年6月6日 - 1998年9月30日 | ||
HONEY | TBS系番組『スーパーサッカー』テーマソング | 1998年5月2日 - 1998年9月30日 |
10thシングル「HONEY」 |
「NTTパーソナル関西」CMソング | 1998年6月6日 - 1998年9月30日 | ||
TOKYO MX・BS11系テレビアニメ『ReLIFE』第4話エンディングテーマ | 2016年7月23日 | ||
花葬 | テレビ朝日系番組『真相究明!噂のファイル』エンディングテーマ | 1998年7月4日 - 1998年9月12日 |
11thシングル「花葬」 |
浸食 〜lose control〜 | トライスターピクチャーズ/東宝配給映画『GODZILLA』挿入曲 | 1998年7月11日 (公開) |
12thシングル「浸食 〜lose control〜」 |
forbidden lover | 日本テレビ系番組『知ってるつもり?!』テーマソング | 1998年10月11日 - 1999年3月21日 |
14thシングル「forbidden lover」 |
snow drop | フジテレビ系ドラマ『走れ公務員! POLICE WOMAN』主題歌 | 1998年10月13日 - 1998年12月22日 |
13thシングル「snow drop」 |
What is love | TBS系番組『エクスプレス』テーマソング | 1999年3月29日 - 2000年9月29日 |
6thアルバム『ark』 |
It's the end | PlayStation用ゲームソフト『グランディア』CMイメージソング | 1999年6月19日 - 1999年7月4日 |
7thアルバム『ray』 |
Driver's High | フジテレビ系テレビアニメ『GTO』第1期オープニングテーマ | 1999年6月30日 - 1999年12月19日 |
17thシングル「Driver's High」 |
フジテレビ系テレビアニメ『GTO』44話・45話エンディングテーマ | |||
ORIHICA 特別WEB動画『フレッシャーズ応援特別ムービー ~Driver's High~』[376] | 2024年12月24日 (公開) | ||
Pieces | ソーテック「e-one 500」CMソング | 1999年7月24日 - 1999年9月30日 |
16thシングル「Pieces」 |
LOVE FLIES | テレビ朝日系ドラマ『青い鳥症候群』主題歌 | 1999年10月16日 - 1999年12月11日 |
18thシングル「LOVE FLIES」 |
キヤノン「WonderBJ」CMソング ※ | 1999年10月25日 - 1999年12月5日 | ||
いばらの涙 | テレビ朝日系ドラマ『青い鳥症候群』テーマソング | 1999年10月16日 - 1999年12月11日 |
7thアルバム『ray』 |
trick -new wave of japanese heavy metal mix- |
ツーカーセルラー東京・東海「EZweb 誕生キャンペーン」CMイメージソング | 1999年11月20日 - 1999年12月12日 |
19thシングル「NEO UNIVERSE/finale」 |
NEO UNIVERSE | 資生堂「ピエヌ」CMソング | 2000年1月1日 -2000年 3月20日 | |
finale | 東宝配給映画『リング0 バースデイ』主題歌 | 2000年1月22日 (公開) | |
キヤノン「WonderBJ」CMソング ※ | 2000年3月16日 - 2000年9月30日 | ||
hole | 東宝配給映画『リング0 バースデイ』挿入曲 | 2000年1月22日 (公開) | |
STAY AWAY | 資生堂「ピエヌ」CMソング | 2000年6月1日 - 未詳 |
20thシングル「STAY AWAY」 |
fate [everybody knows but god mix] |
PlayStation用ゲームソフト『ディノクライシス2』イメージソング | 2000年9月13日 (発売) |
リミックスアルバム『ectomorphed works』 |
get out from the shell -asian version- |
トヨタ自動車アジア地区CMソング(日本以外のアジア地域限定) | 未詳 | 8thアルバム『REAL』 |
Spirit dreams inside | ギャガ=ヒューマックス配給映画『FINAL FANTASY』主題歌 | 2001年7月11日 (公開) |
21stシングル「Spirit dreams inside -another dream-」 |
READY STEADY GO | MBS・TBS系テレビアニメ『鋼の錬金術師』第2期オープニングテーマ | 2004年1月10日 -2004年 3月27日 |
22ndシングル「READY STEADY GO」 |
養楽多 投資有限公司「養楽多」CMソング(中国) | 未詳 | ||
ORIHICA 特別WEB動画『READY SUITS GO』[377] | 2024年1月19日 (公開) | ||
瞳の住人 | エクシング「ポケメロJOYSOUND」CMソング | 2004年2月25日 - 未詳 |
23rdシングル「瞳の住人」 |
上海江崎格力高食品「慕纱」CMソング(中国) | 未詳 | ||
自由への招待 | ダイハツ工業「ムーヴカスタム Vセレクション」CMソング | 2004年5月12日 - 2004年12月31日 |
24thシングル「自由への招待」 |
Killing Me | テレビ朝日系番組『Matthew's Best Hit TV』エンディングテーマ | 2005年1月5日 - 2005年3月31日 |
25thシングル「Killing Me」 |
New World | 日本テレビ系プロ野球中継番組『1球の緊張感 THE LIVE 2005』上半期テーマソング | 2005年4月1日 - 2005年7月23日 |
26thシングル「New World」 |
叙情詩 | 日本テレビ系番組『スーパーテレビ情報最前線』エンディングテーマ | 2005年4月11日 - 2005年6月27日 |
27thシングル「叙情詩」 |
AS ONE | GyaO『サッカープレミアム』イメージソング | 2005年6月1日 - 2005年6月7日 |
10thアルバム『AWAKE』 |
Link | エクシング「ポケメロJOYSOUND」CMソング | 2005年7月1日 - 2005年9月30日 |
28thシングル「Link」 |
松竹配給映画『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』オープニングテーマ | 2005年7月23日 (公開) | ||
LOST HEAVEN | 松竹配給映画『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』エンディングテーマ | 2005年7月23日 (公開) |
10thアルバム『AWAKE』 |
twinkle, twinkle | 王子ネピア「nepia」CMソング(中国) | 未詳 | |
SEVENTH HEAVEN | 日本テレビ系番組『スポーツうるぐす』テーマソング | 2007年4月1日 - 2007年6月3日 |
30thシングル「SEVENTH HEAVEN」 |
SHINE | NHK-BS2衛星アニメ劇場枠テレビアニメ『精霊の守り人』オープニングテーマ | 2007年4月7日 - 2007年9月29日 |
35thシングル「NEXUS 4/SHINE」 |
上海江崎格力高食品「慕纱」CMソング(中国) | 未詳 | ||
Feeling Fine | 台湾麒麟啤酒「麒麟〈生〉激暢ビール」CMソング(台湾) | 未詳 | 9thアルバム『SMILE』 |
MY HEART DRAWS A DREAM | 富士重工業「スバル・レガシィ」CMソング | 2007年5月16日 - 2008年5月8日 | 31stシングル「MY HEART DRAWS A DREAM」 |
上海江崎格力高食品「慕纱」CMソング(中国) | 未詳 | ||
DAYBREAK'S BELL | エムティーアイ「music.jp」CMソング | 未詳 | 32ndシングル「DAYBREAK'S BELL」 |
MBS・TBS系テレビアニメ『機動戦士ガンダム00』(ファーストシーズン) 第1期オープニングテーマ | 2007年10月6日 - 2008年1月5日 | ||
MBS・TBS系テレビアニメ『機動戦士ガンダム00』(ファーストシーズン) 第25話エンディングテーマ | 2008年3月29日 | ||
MBS・TBS系テレビアニメ『機動戦士ガンダム00』(セカンドシーズン) 第25話エンディングテーマ | 2009年3月29日 | ||
Hurry Xmas | 福岡県・天神主催イベント「天神のクリスマスへ行こう2007」テーマソング | 2007年11月16日 - 2007年12月25日 |
33rdシングル「Hurry Xmas」 |
富士重工業「スバル・レガシィ」CMソング | 2008年11月26日 - 2008年12月25日 | ||
DRINK IT DOWN | PlayStation 3・Xbox 360・PC用ゲーム『デビルメイクライ4』テーマソング | 2008年1月31日 (発売) |
34thシングル「DRINK IT DOWN」 |
PlayStation 4・Xbox One・PC用ゲーム『デビルメイクライ4 スペシャルエディション』テーマソング | 2015年6月18日 (発売) | ||
NEXUS 4 | 富士重工業「スバル・レガシィ」CMソング | 2008年5月9日 - 2008年11月25日 |
35thシングル「NEXUS 4/SHINE」 |
上海江崎格力高食品「慕纱」CMソング(中国) | 未詳 | ||
BLESS | NHKバンクーバーオリンピック・パラリンピック放送テーマソング | 2010年2月12日 - 未詳 |
36thシングル「BLESS」 |
I Love Rock'n Roll | ペプシコーラ「PEPSI NEX」CMソング ※ | 2010年3月2日 - 未詳 |
配信限定シングル「I Love Rock'n Roll」 |
GOOD LUCK MY WAY | 松竹/アニプレックス配給映画『鋼の錬金術師 嘆きの丘の聖なる星』主題歌 | 2011年7月2日 (公開) |
37thシングル「GOOD LUCK MY WAY」 |
CHASE | ワーナー・ブラザース映画配給映画『ワイルド7』主題歌 | 2011年12月21日 (公開) |
39thシングル「CHASE」 |
Don't be Afraid | PlayStation VR向けミュージックビデオ『Don't be Afraid -Biohazard×L'Arc-en-Ciel on PlayStationVR』 | 2016年11月17日 (配信開始) |
41stシングル「Don't be Afraid」 |
ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント配給映画『バイオハザード: ザ・ファイナル』日本語吹替版主題歌[378] | 2016年12月23日 (日本公開) | ||
Don't be Afraid -English version- |
ソニー「ハイレゾ級ワイヤレス MDR-1000X」CMソング ※ | 2016年10月17日 - 未詳 |
配信限定シングル「Don't be Afraid -English version-」 |
FOREVER | 日本テレビ系テレビアニメ『EDENS ZERO』第2期オープニングテーマ | 2021年7月4日 - 2021年10月3日 |
配信限定シングル「FOREVER (Anime Edit)」、43rdシングル「FOREVER」 |
ミライ | PC用オンラインゲーム『BLUE PROTOCOL』オープニングテーマソング | 2023年6月14日 (サービス開始) |
42ndシングル「ミライ」 |
PlayStation 5・Xbox Series X/S用オンラインゲーム『BLUE PROTOCOL』オープニングテーマ | 2023年12月13日 (サービス開始) | ||
YOU GOTTA RUN | テレビ東京系テレビアニメ『BEYBLADE X』オープニングテーマ | 2024年10月18日 - | 44thシングル「YOU GOTTA RUN」 |
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