ブラック・サバス

イングランドのヘヴィメタルバンド ウィキペディアから

ブラック・サバス

ブラック・サバス英語: Black Sabbath)は、イングランドロックバンド1960年代から活動していた有名グループの一つで、ヘヴィメタルドゥーム開祖とも言われた[5][7]。2017年に活動停止し、約50年の歴史に幕を閉じている。

概要 ブラック・サバス, 基本情報 ...
ブラック・サバス
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USニューヨーク公演(2014年3月)
基本情報
別名
  • ザ・ポルカ・タルク・ブルース・バンド[1]
  • アース[2]
出身地 イングランド ウェスト・ミッドランズ州 バーミンガム
ジャンル
活動期間 1968年 - 2017年、2025年
レーベル
公式サイト The Official Black Sabbath Website
メンバー
旧メンバー 別記参照
ロゴ
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2000年・2014年『グラミー賞』受賞。2006年『ロックの殿堂』入り。ローリング・ストーン誌選出「歴史上最も偉大な100組のアーティスト」第85位。世界の売り上げ枚数は7000万枚を超える[8]

来歴

要約
視点

オジー・オズボーン在籍期(1968年 - 1979年)

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アルバムデビュー当時のグループショット(左からアイオミ、ワード、オズボーン、バトラー)(1970年)

1968年にバーミンガムで結成。ボーカリストオジー・オズボーンが、新聞に新バンド結成のためのメンバー募集の広告を出したことが契機だった。

バンド名は当初「Earth」と名乗っていたが、ベーシストギーザー・バトラーが、1964年に公開されたマリオ・バーヴァホラー映画『BLACK SABBATH』(邦題『ブラック・サバス/恐怖!三つの顔』)から取って改名した。その映画の公開時、映画館には長蛇の列が出来ていたことから、「人間は恐怖を求める」という着想を得た、と本人は語っている。

デビュー・アルバム『黒い安息日』は、1970年2月の「13日の金曜日」という曰くつきの日付に発売された。

同年発売の2ndアルバム『パラノイド』からシングルカットしたタイトルナンバー「パラノイド」がヒット。同アルバムも全英アルバムチャート1位を獲得する。その後、1975年発表の6thアルバム『サボタージュ』まで、全英・全米ともにアルバムチャート上位に到達。特に5thアルバム『血まみれの安息日』までの作品が、いずれも全米で100万枚以上の売り上げを記録した。

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オジー在籍時代末期(1977年)

1976年、この時期から新たな音楽の波「パンク/ニュー・ウェイヴ」のムーブメントが到来し、既存のロック・ミュージックは徐々に衰退していく。それは当バンドも例外ではなく方向性の相違もあり、メンバー間にも不協和音が漂い始める。特にオズボーンが重度のアルコール問題を抱えていた。

1977年、遂にオズボーンを解雇。後任にデイヴ・ウォーカーを起用したが上手くいかず、翌年にオズボーンが復帰するが、制作した8thアルバム『ネヴァー・セイ・ダイ』が批評家に酷評されるなど、その完成度は高くならなかった。そして結局アルコール問題を克服できなかったオズボーンは再度解雇される。

トニー・アイオミ主導期(1979年 - 1996年)

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ロニー・ディオ在籍時代(1981年)

1979年、オズボーンの後任として「レインボー」を脱退したばかりのロニー・ジェイムス・ディオが加入。そのレインボーのサウンドと融合し、新たな様式美スタイルを展開した9thアルバム『ヘヴン&ヘル』を翌年に発表。業界からも高い評価を受ける。

1980年、ドラマーのワードが脱退。その後、ワードは、短期の復帰を繰り返している。後任にヴィニー・アピスを迎えたアルバム『悪魔の掟』を発表するも、中途半端にオズボーン時代の音楽性に回帰した作品で、前作で顕著だったディオのボーカルの持ち味が活かされておらず、不評だった。

1982年、ディオがリーダーを務めるバンド「ディオ」結成に向けてヴィニーを引き抜く形で脱退。後任に元ディープ・パープルイアン・ギランが加入しビルも一時的に復帰したアルバム『悪魔の落とし子』を発売するが、こちらもディープ・パープル再結成のため、1984年に脱退。ビルもツアーには参加せず代わりにエレクトリック・ライト・オーケストラベヴ・ベヴァンがサポートメンバーとして参加。ギラン脱退後はロン・キールが一時加入するがすぐ解雇。その後審査を経てでデヴィッド・ドナートが加入するがすぐに解雇されるなど、ボーカリスト不在のまま活動は停滞した。

1985年、世界規模の大型チャリティー・コンサート『ライヴエイド』が開催されるにあたり、バンドはオリジナル・メンバーによる一度きりの再編復活として参加[9]

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グレン・ヒューズ在籍時代(1986年)左からデイヴ・スピッツ、グレン・ヒューズ、トニー・アイオミ、エリック・シンガー、ジェフ・ニコルズ

オリジナル・メンバーのバトラーが脱退。アイオミは、これを機にバンドを活動停止し、ソロ・アルバムの制作に着手する。翌年にレーベルからの強い要請により、完成したアルバム『セヴンス・スター』をブラック・サバス名義で発売。ゲストに招いていたグレン・ヒューズ等が、そのままツアーのバンド・メンバーとなった。グレンはそのままバンドとしてのブラック・サバスの正式メンバーになり活動する予定だったが、酒や薬物による体調不良や負傷のためツアー直前に解雇される。その後、サポートにレイ・ギラン(後にバッドランズ)を加入させる。しかしアルバム『エターナル・アイドル』の録音途中で解雇されてしまう。

1987年以降は以前ディオがもたらした様式美スタイル回帰を狙い、トニー・マーティンやレインボー人脈のコージー・パウエル(ドラム)を起用し、『エターナル・アイドル』『ヘッドレス・クロス』『TYR』と、三作連続で様式美路線のアルバムを発表し、好評を得る。そして1992年、コージー等と入れ替わりに、その本家たるディオが復帰する(ギーザーとヴィニー・アピスも復帰)も、モダン・ヘヴィネス的な要素を取り入れ、ファンの期待する様式美スタイルを捨てた『ディヒューマナイザー』は著しく不評であり、ディオは再び脱退。その後、1回きりではあるが当時ジューダス・プリーストを脱退したばかりのロブ・ハルフォードが公演に起用された。

1993年、マーティンが復帰。ドラマーは元レインボーのボビー・ロンディネリが加入。前作でのディオの復帰が大きな失敗を招いたことが悪影響を及ぼしたことから、様式美路線に戻した『クロス・パーパシス』は商業的に失敗に終わり、ギーザーが再脱退。一方でニール・マーレイ、コージーが復帰。しかし復帰作も楽曲にラップを取り入れるなど、ファンの望まない方向に音楽性を変えてしまった『フォービドゥン』で、著しく人気は低迷してしまう。また、コージーがツアー中に脱退。ロンディネリをサポートメンバーとして復帰させツアーを完走した。そしてオズボーンを含んだオリジナル・ラインナップの復活が企図され、オズボーン、バトラー、ワードの3人が復帰して、オリジナル・メンバーが再び出揃った。

リユニオン期(1997年 - 2017年)

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リユニオン・ツアーの集合写真(1999年)

1997年、正式にオリジナル・メンバーでの再結成を果たす。以降、当ラインナップ以外でブラック・サバスとは名乗らないと宣言。1998年にはライブ・アルバム『リユニオン』(スタジオ録音の新曲も2曲収録された)をリリースし[10]、数年間にわたってツアー活動を行うが、新しいスタジオ・アルバムは制作しなかった。

2000年、楽曲「Iron Man」で『グラミー賞』受賞[11]。2006年『ロックの殿堂』入り[12]。この年でリユニオン体制の活動が停止。

2007年、アイオミが、10thアルバム『悪魔の掟』時代のメンバー編成(ロニー・ディオ、ヴィニー・アピス、ギーザー・バトラー、トニー・アイオミ)でツアーを行うと発表。ブラック・サバスとして事実上の変名「ヘヴン・アンド・ヘル」名義で活動する[13]

2010年、ディオが他界し、ヘヴン・アンド・ヘルの活動が停止[14]

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最終公演のグループショット(2017年2月 バーミンガム)

2011年11月11日11時11分、オズボーン、アイオミ、バトラー、ワードは、オリジナル・ラインナップの再始動を会見で発表した[15]。しかし後に、ビル・ワードが契約の内容に不満を持ち、再結成に参加しないと表明する。今後のライブや創作は、代役を迎えての活動に移行[16]

2013年、18年ぶりのスタジオ・アルバム『13』を発売。デビューから43年目にして、初めて全米ビルボードチャート1位を獲得[17]。各国でも軒並み1位ないし上位にランクインした。

2014年、楽曲「God Is Dead?」で『グラミー賞』受賞[18]

2016年、バンドの最後となるワールドツアー「THE END」を開始[19]

2017年2月、バンド発祥の地・バーミンガムで最終公演を開催[20]。約50年に渡る活動の幕を閉じる。後日、トニー・アイオミは、将来復活する可能性に含みを残した[21]

ラストコンサート(2025年)

2025年2月、オリジナル・メンバーによる最後のコンサート『Back To The Beginning』を同年7月5日に英バーミンガムのヴィラ・パークで開催すると正式発表[22]。この公演はチャリティー・コンサートで、メタリカスレイヤーパンテラアンスラックスヘイルストームアリス・イン・チェインズラム・オブ・ゴッドマストドンなど多数のバンド/アーティストがサポートを務めることがアナウンスされている[22]

影響

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1972年のグループショット
ヘヴィメタルのルーツ
ジャズブルースを基調とし、「人を怖がらせる音楽を作る」という目的のために作られた音楽性は、ヘヴィメタルを形成していく要素の一つとして後続に大きな影響を与えた。その怪奇的なイメージで度々黒魔術悪魔と結び付けられ、ギタリストのトニー・アイオミがアメリカ・ツアーの最中、狂信者に楽屋で刃物を突きつけられたという危険なエピソードもある。
結成当初からメンバー内の交流も公私共に良好で、ワードのエッセイ『若き安息日』には「女風呂を必死にのぞこうとするトニー。その尻を持ち上げるオジー。それを心配そうに見守るギーザー。あの瞬間、俺達は初めてのセッションをした」との記述も残されている。
影響力
ブラック・サバスはその革新的な音楽により後続に大きな影響を与えた。アメリカではオジー・オズボーンのソロでの成功や、レインボーで知名度のあったロニー・ジェイムス・ディオの加入で多大な人気が今でもあり、HR/HMの歴史上最も重要なアーティストを決める投票でレッド・ツェッペリンに次いで2位に入ったこともあるほどである。
その影響力は、直系のハードロックやヘヴィメタルに留まらず、ブラック・フラッグなどのハードコア・パンクニルヴァーナなどのグランジブラックメタルドゥームメタル(ストーナーロックやスラッジメタルも含む)といったジャンルにおいても、その源流として扱われることが多い。
当のオジー・オズボーンは、ヘヴィメタルを生み出したのは自分達ではなく、「キンクス」「レッド・ツェッペリン」「ザ・フー」等から影響を受けて派生した経緯があると否定している。ただし、「悪魔的(ヘヴィ)なギターのリフを作り出した、トニー・アイオミだけは別格」ともしている[23]

メンバー

オリジナル・ラインナップ

ライブ・サポート

  • トミー・クルフェトス Tommy Clufetos - ドラムス(2012年 - 2017年)
  • アダム・ウェイクマン Adam Wakeman - キーボード(2004年 - 2006年、2012年 - 2017年)

旧メンバー

ボーカル
ベース
  • デイヴ・スピッツ Dave Spitz(1985年 - 1986年、1987年)
  • ボブ・デイズリー Bob Daisley(1986年)
  • ジョー・バート Jo Burt(1987年)
  • ローレンス・コットル Laurence Cottle(1988年 - 1989年)
  • ニール・マーレイ Neil Murray(1989年 - 1991年、1994年 - 1995年)
ドラムス
キーボード
  • ジェフ・ニコルズ Geoff Nicholls(1980年 - 2004年)※2017年死去[24]

時系列

ディスコグラフィ

要約
視点

スタジオ・アルバム

ライブ・アルバム

コンピレーション・アルバム

ボックス・セット

シングル

※日本盤 7インチのみ

  • 「イーブル・ウーマン」 - "Evil Woman"(1970年)
  • 「パラノイド」 - "Paranoid"(1971年)
  • 「悪魔の世界」 - "Wicked World"(1971年)
  • 「トゥモロウズ・ドリーム」 - "Tomorrow's Dream"(1972年)
  • 「血まみれの安息日」 - "Sabbath Bloody Sabbath"(1974年)
  • 「発狂」 - "Am I Going Inside (Radio)"(1975年)
  • 「イッツ・オーライ」 - "It's Alright"(1976年)
  • 「ネバー・セイ・ダイ」 - "Never Say Die!"(1978年)
  • 「ハード・ロード」 - "Hard Road"(1978年)
  • 「ネオンの騎士」 - "Neon Knights"(1980年)

来日公演

単独公演

フェス

脚注

外部リンク

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