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東京都八王子市にある私立大学 ウィキペディアから
中央大学(ちゅうおうだいがく、英語: Chuo University)は、東京都八王子市東中野742-1に本部を置く日本の私立大学。1885年創立、1920年大学設置。大学の略称は中央大(ちゅうおうだい)[1]、中大(ちゅうだい)。8学部26学科と大学院各研究科を擁する総合大学である[2]。
中央大学 | |
---|---|
大学設置 | 1920年 |
創立 | 1885年 |
創立者 | 増島六一郎、菊池武夫、穂積陳重、藤田隆三郎など |
学校種別 | 私立 |
設置者 | 学校法人中央大学 |
本部所在地 |
東京都八王子市東中野742-1 北緯35度38分28.99秒 東経139度24分20.66秒 |
学生数 | 31,739 |
キャンパス |
多摩(東京都八王子市!) 後楽園(東京都文京区) 茗荷谷(東京都文京区) 小石川(東京都文京区) 駿河台(東京都千代田区) 市ヶ谷田町(東京都新宿区) 市ヶ谷(東京都新宿区) |
学部 |
法学部 経済学部 商学部 理工学部 文学部 総合政策学部 国際経営学部 国際情報学部 |
研究科 |
法学研究科 法務研究科(ロースクール) 経済学研究科 商学研究科 理工学研究科 文学研究科 総合政策研究科 国際情報研究科 戦略経営研究科(ビジネススクール) |
ウェブサイト |
www |
1885年(明治18年)7月8日に増島六一郎、菊池武夫、穂積陳重、藤田隆三郎ら18人の法律家により英吉利法律学校として設立され、この日が創立記念日となっている。校地に関しては三菱商業学校の跡地を三菱[要曖昧さ回避]から購入し、英吉利法律学校と東京英語学校[4]が共同使用した。なお、6月27日に東京府知事に最初の出願を行ったが書類不備で下げ戻しとなっている。当初は英国法に関する教育機関であったが、日本でも近代法が整備されると順次、国内法も教授するようになり、校名も東京法学院、東京法学院大学と変更した。1905年(明治38年)8月に経済学科の設置によって中央大学と改称。1920年(大正9年)に日本の私立大学では同年大学に昇進した慶應義塾大学や早稲田大学に続いて、最も古い段階で大学令に基づく大学となった(詳しくは「旧制大学」参照)。
2015年11月に中長期事業計画「Chuo Vision 2025」を策定、法学部を第一候補とする都心移転計画や多摩キャンパスでの新学部開設計画、グローバル化推進などを発表した。この計画をもとに2019年4月には国際経営学部(多摩キャンパス)と国際情報学部(市ヶ谷田町キャンパス)を設置。2021年度までに、多摩キャンパスにおいて新棟(グローバル館・国際教育寮、Forest Gateway Chuo)を整備した。また、2023年に法学部と法学研究科を新設の茗荷谷キャンパスへ、同年に法科大学院とビジネススクールを駿河台キャンパスへ、それぞれ移転した。
法学部は「法科の中央(中央の法科)」とも呼ばれ、日本の私立大学を代表する法学部として名高く、これまで法曹界、官界、政界、財界、言論界をはじめ幅広い分野に多くの人材を輩出してきた[5]。
英吉利法律学校設立時の建学の精神は「實地應用ノ素ヲ養フ」であり、これをもとに建学の精神と学風をまとめて現在では「個人の自由の尊重と実証的・合理主義の学風」と表現している。また質実剛健を校是としている。さらに、2010年の創立125周年に際して「行動する知性。-Knowledge into Action-」というユニバーシティ・メッセージを定めている。
創立当初から実学教育重視の姿勢を取り、現在でもインターンシップなどの実践的教育に力を入れている。2003年度からは各学部の教育に加えて、学籍は各学部に置きながらも学部横断的に設置された課程に所属するファカルティリンケージプログラム (FLP) を導入し、学際分野でも実践的教育を行うようになった。現在、欧米・東アジアの大学を中心に209校の派遣留学協定大学がある。
通信教育部は、法学部の通信教育課程の実施に当たる組織であり、通信教育課程そのものは法学部に属する。第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)により、イギリスの University of London International Programmes(ロンドン大学通信教育課程)にならって、日本においても通信教育の制度を行うことが推奨され設置された。公益財団法人私立大学通信教育協会に加盟し、大学本部のある多摩キャンパスに事務局がある。
大学通信教育の嚆矢と見なされているのは、英吉利法律学校が1885年(明治18年)の創設時に、通学できない人々のために講義録を郵送する校外生制度であるとされる。現在では、通年スクーリングや地方スクーリングなども行われている。
なお、卒業までの平均学習年数は、1年生から入学した場合6年 - 8年、3年生からの編入学は4年 - 6年で、卒業率は7%程度(4年次以上の在籍者数のうち、卒業者数の占める割合)となっている。
愛知県名古屋市にある中京法律専門学校が提携校となっており、専門学校に在籍しながら、ダブルスクールで中央大学法学部通信教育課程の卒業も目指すことができる。
1885年(明治18年)に増島六一郎、菊池武夫、穂積陳重、藤田隆三郎ら当時の青年法律家有志18名によって英吉利法律学校として創立された。
代 | 氏名 | 就任時期 |
---|---|---|
初代 | 増島六一郎 | 1885年9月 - 1889年10月 |
代 | 氏名 | 就任時期 |
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初代 | 増島六一郎 | 1889年10月 - 1891年4月 |
第二代 | 菊池武夫 | 1891年4月 - 1903年8月 |
代 | 氏名 | 就任時期 |
---|---|---|
初代 | 菊池武夫 | 1903年8月 - 1905年8月 |
代 | 氏名 | 就任時期 |
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初代 | 菊池武夫 | 1905年8月 - 1912年7月 |
第二代 | 奥田義人 | 1912年7月 - 1913年3月 |
第三代 | 岡村輝彦 | 1913年3月 - 1914年6月 |
第四代 | 奥田義人 | 1914年6月 - 1917年8月 |
第五代 | 岡野敬次郎 | 1917年8月 - 1923年9月 |
第六代 | 馬場愿治 | 1923年9月 - 1924年2月 |
第七代 | 岡野敬次郎 | 1924年3月 - 1925年12月 |
第八代 | 馬場愿治 | 1925年12月 - 1930年5月 |
第九代 | 原嘉道 | 1930年5月 - 1939年3月 |
第十代 | 林頼三郎 | 1939年3月 - 1947年3月 |
第十一代 | 加藤正治 | 1948年7月 - 1949年3月 |
第十二代 | 片山金章 | 1958年9月 - 1961年10月 |
第十三代 | 升本喜兵衛 | 1961年10月 - 1967年3月 |
第十四代 | 井上達雄 | 1967年4月 - 1968年4月 |
第十五代 | 戸田修三 | 1968年12月 - 1969年3月 |
第十六代 | 原田鋼 | 1969年5月 - 1969年8月 |
第十七代 | 嶋崎昌 | 1969年11月 - 1972年11月 |
第十八代 | 戸田修三 | 1972年11月 - 1981年11月 |
第十九代 | 川口弘 | 1981年11月 - 1984年11月 |
第二十代 | 川添利幸 | 1984年11月 - 1990年11月 |
第二十一代 | 髙木友之助 | 1990年11月 - 1993年11月 |
第二十二代 | 外間寛 | 1993年11月 - 1999年11月 |
第二十三代 | 鈴木康司 | 1999年11月 - 2002年11月 |
第二十四代 | 角田邦重 | 2002年11月 - 2005年11月 |
第二十五代 | 永井和之 | 2005年11月 - 2011年11月 |
第二十六代 | 福原紀彦 | 2011年11月 - 2014年11月 |
第二十七代 | 酒井正三郎 | 2014年11月 - 2018年5月 |
第二十八代 | 福原紀彦 | 2018年5月 - 2021年5月 |
第二十九代 | 河合久 | 2021年5月 - |
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特記のない専攻は博士前期課程・博士後期課程を開設している。
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専門職大学院は以下のものが存在する。
多摩キャンパスに中央図書館、後楽園キャンパスに中央図書館理工学部分館を設置している。特に多摩キャンパスの中央図書館には17万冊の開架書庫と1685席の閲覧席を設けた大規模なものである。なおこのほかに各学部(文学部は各専攻・理工学部は各学科)にも図書館が設置されている。また1979年(昭和54年)にはEC資料センター(現在はEU情報センター)、1994年(平成6年)には国連寄託図書館にそれぞれ指定されており、国際機関資料を一般に公開している。
21世紀COEプログラムとして、1件のプロジェクトが採択された。
中央大学の国際情報学部では、国家資格の情報処理技術者試験の合格に力を入れている。特定の科目を単位を取得し、かつ、修了試験に合格することで、基本情報技術者試験(FE)の午前の部の受験が1年間免除される制度が導入されている[14][15][16]。また、国際情報学部の特定の科目の単位を取得して卒業すると、情報処理安全確保支援士(登録情報セキュリティスペシャリスト)試験の午前II試験の受験が2年間免除される。
中央大学では、公認部会(サークル)及び公認を目指す未公認部会(サークル)は、すべて中央大学学友会に所属している。学友会は、大学側と学生側の双方から選出された委員により構成される中央委員会によって運営されている。会長は学長が就任している。学友会には以下の組織・機関が存在する。また、公認を目指さず、学友会に所属しないサークルも多数存在する。たとえば、学生赤十字奉仕団 は日本赤十字社から公認されているものの学友会には所属していない。
なお、大学スポーツに関しては、原則として学友会の中でも更に体育連盟に所属する部会が、正式な代表権を有している。
体育同好会連盟の部会や学友会に所属していないサークルは大学の公的な代表としてはみなされていないため、何らかの事情で体育連盟に加盟していないスポーツ競技の部会・サークルでは、対外試合を実施していないケースもある。ただし過去には、体育連盟に当該種目の部会が存在しなかったアメリカンフットボール同好会が、体育連盟の同意を得て、未公認団体(正確には設立申請団体 - その後体育連盟に昇格)のまま、関東のリーグ戦に参加していた例もある。また、空手道のように流派が分かれている競技では、例外も存在する。
なお、体育連盟所属部会には公欠制度があり、学長名による「課外活動にともなう授業配慮願(公欠届)」も存在するが、これは、公式試合等で授業を欠席し、通常単位取得に必要とされる出席日数に満たなかった場合に、一定の補完措置(補講受講やレポート提出等)をとった上で単位取得を認める配慮を求めるという趣旨のものであり、単に出席面で優遇するという性格のものではない。
(参考)1988年(昭和63年)1月30日に開催された「対学友会会長(=学長)大衆会見」の共同宣言によって解消されることとなった「仮執行体制」下では、未公認部会の連盟である「白門連盟(白連)」と、「設立申請団体(設申)」が存在した。「仮執行体制」下では、部会公認に関するすべての手続きが凍結されていたため、「仮執行体制」開始時点での未公認部会が公認されないままで固定化していた。また、これ以降に新たに発足した部会も「設立申請書」が学友会事務室の窓口預かりのままとなっていた。前者が「白門連盟」を構成し、後者が「設立申請団体」と呼ばれた。
「仮執行体制」終焉に伴い、「白門連盟」所属部会及び「設立申請団体」の中で、既存公認連盟の公認基準を満たし、且つ当該部会が公認化を希望する部会については、既存公認連盟に移行し、それ以外の部会で、公認基準を満たし(「部会活動報告書」を基準年数以上提出し続けている部会又は、「部会活動報告書」は提出されていないものの、「白門連盟」執行部が基準年数以上の活動継続を認める証明書を発行した部会。)、且つ当該部会が公認化を希望する部会については、新設の学芸連盟又は体育同好会連盟に移行した。
学園祭は「白門祭」と呼ばれ、以下の3種類が存在し、多摩キャンパスにおいては白門祭実行委員会が、後楽園キャンパスにおいては理工白門祭実行委員会が、それぞれ運営する。
中央大学のOB会・親睦会に「○○白門会」または「白門○○会」という名前が付いた組織がある。OB組織は一般的に「白門会」と呼ばれるが、白門会はあくまでも任意の団体である。中央大学の正式な同窓会は中央大学学員会である[PR 21]。学員会費を支払っている学員(会員)が100名以上在籍する白門会が、学員会の正式な支部として認定される資格を持つ。支部には、地域支部、年次支部、職域等支部の3種類がある。白門会という名称は付いていないが、法曹の親睦団体である中央大学法曹会や中央大学出身の財界人による南甲倶楽部も白門会である。
中央大学の本部があるメインキャンパスである。
理工学部が設置されているキャンパスで、中央大学発祥の地である神田に近い。所在地は、東京都文京区春日である。キャンパス内には中央大学高等学校、日本比較法研究所なども併設されており、3号館などの一部の施設は共用となっている。2010年(平成22年)3月までは文系大学院教室も設置されていたが、市ヶ谷田町キャンパスの開校に伴い移転した(跡地は法学部教員研究室や日本比較法研究所が入った)。敷地面積は27,141m2である。東京ドームや文京区役所に非常に近いほか、都心にありながら、礫川公園に隣接し、後楽園に近いこともあり、キャンパス周囲は緑が多い。
中央大学は中長期事業計画「Chuo Vision 2025」における二大キャンパス体制の形成の一環として、法学部の都心展開およびそれに係るキャンパス整備を目指した。法学部は当初、後楽園キャンパスに移転される予定であったが、中央大学が東京都庁より都営バス大塚車庫跡地を2018年(平成30年)12月に取得(借地)したことで、当該地での「茗荷谷キャンパス」の新設が決定した。コロナ禍の影響もあり、着工が多少遅れたが、2020年(令和2年)7月に着工し、2023年(令和5年)2月に竣工、同年4月に開校した。
茗荷谷キャンパスの外観は中央大学の前身である英吉利法律学校の赤レンガ造り校舎をモチーフとし、低層階には旧駿河台校舎と同じ尖頭型アーチを取り入れている。玄関には、テミス像や増島六一郎並びに花井卓蔵の銅像が飾られている。また、地上8階・地下2階のキャンパス内には、通常教室に加えて遠隔授業やハイブリッド型授業にも対応した教室を配置するほか、図書館や学生食堂はイギリスのミドル・テンプルをモチーフとしたインテリアを採用している。また、茗荷谷キャンパスは、地域貢献の観点からも大学施設のほか、文京区の地域活動センターや保育所などが併設されている。郵便局やカフェも併設され、周辺住民や茗荷谷駅利用者にとっても利便性の高いキャンパスを目指している。
2023年(令和5年)4月に設置され、法務研究科及び戦略経営研究科が使用するキャンパス。地上19階・地下1階の高層ビルであり、駿河台記念館を建て替える形で同年2月に竣工した。 なお、同地に2019年(令和元年)まで存在した旧駿河台記念館は、かつてのメインキャンパスだった旧・駿河台キャンパス内の旧大学会館跡地に、1988年(昭和63年)に建設された施設だった。
2019年9月、「Chuo Vision 2025」の中間報告のなかで、駿河台記念館を2023年度までに建て替えたうえで、専門職大学院法務研究科(法科大学院)および戦略経営研究科(ビジネススクール)を収容する計画を公表した。
大学院教育の充実と都心拠点整備のために旧学生援護会本社ビルを2009年(平成21年)8月に取得し、2010年(平成22年)4月に開校した。所在地は市ケ谷駅6番出口前であり、市ヶ谷キャンパスよりも利便性が高い。ミドルブリッジとは中大創設者達が学んだイギリスの法曹院の一つミドル・テンプルへの橋渡しと学生・教職員・学員(中大卒業生)相互の架け橋の2つの意味が込められた命名である。
開設時に市ヶ谷キャンパスから国際会計研究科、後楽園キャンパスから公共政策研究科、文系大学院教室が移転した。また2011年(平成23年)4月には公共政策研究科の多摩キャンパス開講科目も市ヶ谷田町キャンパスで行われることとなり、完全移転が実現した。その後、2017年に公共政策研究科が、2018年に国際会計研究科が廃止され、行われる授業は文系大学院の授業の一部のみとなっていたが、2019年4月に国際情報学部が、2023年4月に国際情報研究科修士課程が設置された。
茗荷谷キャンパスの開校に合わせて、2023年4月に開校した。体育館と付属棟(多目的室)で構成されており、所属キャンパスに十分な体育施設を持たない法学部・国際情報学部における体育授業、法学部・国際情報学部の学生のサークル活動に利用される。
特に明記がないものについては、中央大学ウェブサイトを参照[19]。
一般学生および留学生を対象とする寮として2011年に多摩平国際寮を、2012年に聖蹟国際交流寮を設置している。2020年には多摩キャンパス内に国際教育寮を設置した。 国際教育寮の設置に伴い、2020年度をもって多摩平国際寮を閉寮した。
また、学友会体育連盟に所属部員のために下記の寮が設置されている。
一部専用の寮・合宿所を設置している部もあるが、スポーツ推薦入試制度を導入している部のほとんどの部員が南平寮で生活をしている。体育連盟として共同寮を設置されることも、これほどの規模で運営されることも極めて稀である。
1885年(明治18年)7月の英吉利法律学校創設時より使用されたキャンパス。東京府神田区神田錦町2丁目2番地に所在していた。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で大打撃を受け、応急復旧は施したものの、震災後の大学再建計画のためには校地移転が不可欠と判断されたため、1926年(大正15年)8月に駿河台キャンパスを完成させ、移転した。同地は電機学校(現:東京電機大学)に売却され、同大学が北千住に移転する2012年3月まで神田キャンパスとなっていた。2012年4月以降は住友商事による再開発が行われる。
1926年8月から1980年(昭和55年)3月まで使用されたキャンパス。東京都心の神田駿河台地区(現三井住友海上駿河台ビル及びその周辺)に所在していた。
高度経済成長期に入学者が増加して校舎が手狭となり、当時都心部にあった大学の郊外への移転が推進されていたこともあり、1978年(昭和53年)4月に多摩キャンパスに移転した。ただし新入生と在学生のうち2年生、3年生が多摩に移り、4年生は引き続き駿河台キャンパスでの就学が継続されたため、1980年(昭和55年)まで授業が行われた。その後、1988年(昭和63年)には、旧・駿河台キャンパスの一部敷地(旧:大学会館跡)に駿河台記念館が建設された。2023年(令和5年)には、法務研究科(ロースクール)等への使用を目的として、地上18階・地下1階の高層ビルに建て替えられ、43年ぶりに駿河台キャンパスが復活した。
1935年(昭和10年)8月完成。中央大学創立50周年記念事業の一環として秋元春朝邸跡地に建てられた。施工:大倉土木、鉄骨鉄筋コンクリート造地上4階、地下1階、建築面積:487坪(1,609m2)、延床面積:1,527坪(5,048m2)。建設費39万5,000円。近世ゴシック式の重厚な外観を有した。
地上1階から3階は講堂に充てられ、座席数2,326席、最大収容人員5,324人。1階座席に机を設けて講義に使用できるようになっていた。
この講堂は音響効果にすぐれ、マイクなしでも隅々まで声が届いたため演説会などによく利用された[PR 26]。自由民主党の結成大会は1955年(昭和30年)11月15日に中央大学講堂で実施された。日本社会党も党大会を同講堂で実施することが多かった。
講堂の隣には教室や事務室など十数室が設けられ、大学予科全部の教室に充用された。道路を挟んで反対側の校舎(2号館)との間には幅員2.7mの地下道が設けられていた[PR 27][PR 28]。
同講堂は多摩への移転時に取り壊されており、現存しない。
設計者の阿部美樹志は中央大学とかかわりの深い建築家で、駿河台校舎[PR 29](のちの2号館)、図書館[23](のちの大学院分室図書館)、駿河台校舎新館[PR 30](のちの1号館)、中央大学会館[PR 31]の設計も担当した。
中央大学創立100周年を記念して1985年(昭和60年)7月8日に駿河台校舎南門跡地に設置された。ブロンズ仕上げの碑面には村上茂利による碑文が刻まれており、現存している。
1985年(昭和60年)の創立100周年記念事業の一環として、1988年(昭和63年)、旧・駿河台キャンパス内の旧大学会館跡地に建設された施設である。設計は石本建築事務所。地下2階、地上7階建で、建築面積1,652.562m2、延床面積9,989.245m2[PR 37]。
館内には施設として、レストラン・喫茶店・キャリアセンター支部などが入り、卒業生組織である学員会本部事務局が置かれたほか、大学入試や経理研究所の社会人講座などで利用されていた。また、学員以外の一般団体へも貸し出されており、研修会・講演会などに利用されていた。
作家の司馬遼太郎は『街道をゆく36 本所深川散歩・神田界隈』の中で駿河台記念館を「いい感じの建造物」と賞賛した。1階の喫茶店も気に入っていたが、実際の利用者は中大生よりも近隣の日大生の方が多かったという[25]。
新たな駿河台キャンパスを建設するため、2019年(令和元年)11月に閉場し、翌年解体された。
大学院教育の充実と都心拠点整備のため2000年(平成12年)4月に設置され、2023年(令和5年)3月まで法務研究科が使用していたキャンパス。所在地は東京都新宿区市谷本村町42-8、防衛省の隣に位置する。近傍の市谷田町1-18に市ヶ谷田町キャンパス(中央大学ミドルブリッジ)がある。2010年(平成22年)3月までは国際会計研究科も設置されていたが、市ヶ谷田町キャンパスの開校に伴い移転した。また、駿河台キャンパス開校に伴い、2023年4月に法務研究科も移転した。法務研究科が移転した後、現在は中央大学の市ヶ谷資料保管施設として使われている。
1999年(平成11年)7月にアジア経済研究所から購入し、法職講座市ヶ谷研究室が設置され、司法試験受験者の講座や自習室が置かれていた。これらは2004年の法務研究科設置の際に駿河台記念館へ移転した。なお、法務研究科1期生の修了に合わせて2006年(平成18年)4月から2010年(平成22年)3月まで市ケ谷駅前に法職講座市ヶ谷別館(千代田区五番町4-7)を設置し、修了から司法試験合格までの学習拠点となる法務研修施設が使用してきたが、2010年の市ヶ谷田町キャンパスの開校に伴い移転した。
当初は施設の狭隘さを指摘されたが、2006年(平成18年)4月に市ヶ谷別館を、2009年(平成21年)2月に法科大学院研究室別棟(新宿区四谷本塩町19)を設置することで順次対応がなされてきた。これらについては2010年(平成22年)4月の市ヶ谷田町キャンパス開校によって抜本的な改善が図られた。
「法科の中央」と呼ばれ[5]、行政科・司法科・外交科に分かれていた高等文官試験において、全私立大学中で最多の合格者を輩出した。
旧司法試験において1951年から1970年までの20年間、東京大学を抑え一位を保持していた[5]。その後、いわゆる神田カルチェ・ラタン闘争にみる学生運動の激化や多摩キャンパス移転の影響もあって低迷期を迎え、1970年代から1980年代にかけて東京大学と1位を争うようになった。この間、法曹界における中央大学法学部と東京大学法学部との主導権争いは「中東戦争」とまで形容された[注釈 12]。1990年代半ば以降は東大京大早慶等とランキングを争い、合格者ランキングの常連としての地位を確立していた。
第1回目(2006年度)の司法試験では、中央大学法科大学院出身者(受験者数239名、最終合格者数131名)が合格者数1位であった[PR 38]。その後は、2012年度及び2015年度に1位の座を獲得している[26]。
合格率では68.07%と、全法科大学院中第6位(平成17年-平成29年)[27]。
令和4年度司法試験では、合格率26.18%、全法科大学院中第22位、また合格者数は50名、全法科大学院中第8位となった[28][29]。
公認会計士試験合格者数は、試験開始年から1970年頃まで1位であった。しかし1970年代に慶應義塾大学、80年代前半に早稲田大学に抜かれ、80年代後半から90年代には東京大学や一橋大学に抜かれ、5位 - 7位にまで順位を下げていた。その後、経理研究所の強化(専任講師の増員、WEB授業の導入)や試験制度変更により、2000年代以降は3位前後をキープしている。また、税理士試験に関しては例年合格者数1位となっている[要出典]。
『タイムトラベル中大125:1885→2010』コラム(21)「白門の由来」も参照
「白門(はくもん)」という異称が大学の文献に初めて登場するのは、1928年(昭和3年)に学生サークルである政治学会と辞達学会(弁論部)が共同主催で募集した、学生歌の一節であるという。後に中大職員となる同歌の作者は、『朝日新聞』の取材に対して、「(正確には記憶していないが)大学の徽章が白かった(から白門では)」と回顧している[30]。
「白門」の考案者は実はその職員で、東大の赤門、早大の稲門、日大の桜門などからヒントを得たとも語っている[PR 39]。
ただし、実際に「白門」が多用されるようになったのは戦後からで、戦前世代にはそれほど浸透していなかったとの証言もある。
老教授は(OB会を)錦会、中堅クラスは南甲クラブといって“白門”はピッタリこないといいますね。いずれも古い時代の校舎のあった町の名です。 — 中央大学職員、『朝日新聞』夕刊1961年(昭和36年)3月1日付4面
実際の建造物としての白門は、1959年(昭和34年)7月に当時の駿河台校舎に幅1.2m、高さ3.6mの白御影つくりの正門が建設されている(現存せず)。また、白門をイメージしたもの(かつての駿河台校舎の南門門柱・2号館玄関)は、多摩キャンパス内に移設され「100周年記念ステージ」として保存されている。現存する後楽園キャンパス正門の色も白であり、「白門」と呼ばれている。
2003年(平成15年)12月12日、中央大学の学内施設の貸出許可が取消されたことにより、中央大学の学生団体が急遽「よみうりランド会館」に会場を変更、台湾とを繋いだ李登輝元中華民国総統によるインターネット講演会が行われた。
学校法人中央大学では、中央大学の附属学校として4校の高等学校と2校の中学校を設置していることが特徴である。
初めて中等教育に進出したのは1928年(昭和3年)の中央大学商業学校設置からである。この中央大学商業学校を前身として1948年(昭和23年)に中央大学高等学校が設置された。また1952年(昭和27年)には学校法人杉並学園と合併して杉並高等学校を中央大学杉並高等学校に改称するとともに杉並中学校は廃止した。この中央大学杉並高等学校は1963年(昭和38年)に小金井市に移転したのを期に中央大学附属高等学校に改称した。なおこの移転と同時に、校名と校地・校舎を引き継いで改めて中央大学杉並高等学校が設置された。
2010年(平成22年)、はじめての附属中学校として中央大学附属高等学校に中学校を併設している。さらに同2010年には、学校法人横浜山手女子学園と合併して横浜山手女子中学・高等学校を中央大学横浜山手中学・高等学校に改称した。
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