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日本のプロレスラー (1951 - 2000) ウィキペディアから
ジャンボ鶴田(ジャンボつるた、1951年〈昭和26年〉3月25日 - 2000年〈平成12年〉5月13日)は、日本のプロレスラー、スポーツ科学研究者。本名及び旧リングネーム:鶴田 友美(つるた ともみ)。
獲得メダル | ||
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男子 レスリング | ||
全日本レスリング選手権大会 | ||
銅 | 1970 | フリー100kg級 |
金 | 1971 | フリー100kg超級 |
金 | 1971 | グレコローマン100kg超級 |
金 | 1972 | フリー100kg超級 |
金 | 1972 | グレコローマン100kg超級 |
全日本プロレスで活動した三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初の第30代AWA世界ヘビー級王者である。
1972年ミュンヘンオリンピックのレスリングである、グレコローマンスタイル最重量級日本代表を経て、その後全日本プロレスへ入門する。ジャイアント馬場の後を継ぐ次世代・全日本プロレスの若き大型エースとしても期待され、順調に頭角を現しトップレスラーの1人として活動した。しかし後にB型肝炎を発症したことにより第一線を退く形となる。その後はレスラーとして現役生活を続けながら桐蔭横浜大学・慶應義塾大学、そして母校の中央大学で講師を務めるなど、教育者としても活動した。
山梨県東山梨郡牧丘町(現:山梨市)の出身。山梨県立日川高等学校を経て、中央大学法学部政治学科卒業[1]。血液型O型。ニックネームは「完全無欠のエース」「怪物」と付けられた。座右の銘である『人生はチャレンジだ チャンスは掴め』は、鶴田のプロレスの師匠であったジャイアント馬場から継承している。
オリンピック出場時の選手名簿には身長193cm、体重110kgと明記されている。
広大なぶどう農園を営む家に生まれ、出生した時は3,000gで普通の大きさであった[注 1][2]。 生まれた頃は体が小さく、女の子のようだからという理由で「友美」と名付けられた[3]。兄の恒良の証言によると、幼少期の鶴田は先輩たちの後に付いてチャンバラごっこなどをして遊んだという。この頃はスポーツなどはせず、家の家事手伝いをして体を鍛えていた[4]。荷物を持って坂道を上り下りする作業が、アマレスやプロレスで発揮した脚力の元となったとされる。小学生の頃に虫垂炎の手術はしたが、後の肝炎以外を除き大病はしなかった。
中学時代は野球をやっていたが、この頃になると体が大き過ぎて自分に合う靴が無く、運動会では運動靴の代わりにゴム草履で走っていた。2年生の夏休みには朝日山部屋に入門。本当は体験入門のつもりであったが、新弟子検査に合格してしまい力士となった。そのため叔父の甲斐錦が慌てて話を付けて新弟子検査を取り消させ、すぐに地元に戻った。そんな裏事情もあり日本相撲協会には鶴田の記録が残っていない。この事情を知らない地元の人からは「相撲が通用しなくて帰って来たんでしょ?」という様に見られ、この体験が鶴田の心に影を落としたと推測する文献も幾つかある。これについて兄の恒良は「友美もまだ子供でしたからね。本人は何も気にしていなかったですよ」と鶴田の没後に証言している[4]。
高校時代はバスの便が良くない上に車内も天井が低く、乗り心地が悪かった事もあり自転車通学をしていた。行きは下りだが帰りはずっと登りで、更に道は舗装されていない砂利道だったため、自転車を何台も乗り潰していた。こういった経緯も鶴田が自然と体が鍛えられた要因でもある。中学生時代にやっていた野球は、受験勉強の影響もあって視力が落ちた事でボールが目で追えなくなり「それなら、大きいボールを扱う方がいいよね」との理由で、鶴田はバスケットボールに転向した[4]。
プロレスは当時、ファンとしてテレビで観戦しており自身の高校生時代は丁度BI砲の全盛期で、この時はジャイアント馬場の姿が印象に残った。高校のバスケットボール部は山梨県下では無敗を誇り、在学時は3年連続でチームはインターハイに出場。自身は1年生の時、半年間野球部に在籍したためインターハイに出場出来なかったが、2年生時に石川県・3年生時には広島県で開催されたインターハイに2年連続で出場する。また3年生時には山梨県の相撲大会に出場して、3位の成績を収めた[5]。その後、中央大学法学部にスポーツ推薦で入学する[6]。
大学1年生までバスケットボールの選手だったが、バスケットではプロの選手になれない事や、日本の実力では予選に勝ってもオリンピックの出場が叶わないと判断し、この時に退部を決意している。しかしバスケットボール日本代表はその後、ミュンヘンオリンピックとモントリオールオリンピックに出場を果たしており、鶴田の予想は外れた形となった[5]。
選手層の薄いレスリングならオリンピックに出場出来るのではと思い、鶴田はレスリング部を申し込むが「一つの事をやり通せない者には無理だ」と、入部を断られる。この際に断った側の1人に関川哲夫ことミスター・ポーゴがいた。彼の語りでは、鶴田の格闘技への思いは本気だったので反省しているようである[7]。そこで鶴田は自衛隊レスリング道場で練習を始める事を決め、わずか1年半足らずで1971年・1972年の全日本選手権フリー・グレコローマンの両種目共に連覇するほどの優良な選手となった。大学3年次にレスリング部から逆に入部を勧められ、4年次に石井庄八・笹原正三・池田三男・渡辺長武・中田茂男などの金メダリストを輩出した名門・中央大学レスリング部へ入部した。更にレスリング日本代表にも選ばれ、当初の目的通り1972年のミュンヘンオリンピックにも出場する。なお、出場したのはグレコローマンスタイル100kg以上級である。
レスリングでの実績により、ジャイアント馬場からプロレスにスカウトされる。プロレスに対する偏見や評価などを考慮して当初は様々な葛藤もしたが、1972年9月16日に父親の死をきっかけに自分自身で人生に挑戦しようと思っていた事と、大学の監督や先輩・マスコミ等からのアドバイス、そして日本レスリング界の重鎮と言われた八田一朗の『プロが栄えればアマも栄える』という言葉にも励まされ、プロレスラーになる事を決意した。
大学在籍時の1972年10月31日、全日本プロレス入団記者会見で「僕のような大きな体の人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かと思いまして。尊敬する馬場さんの会社を選びました」と発言したことが「全日本プロレスに就職します」と報道される。デビュー当初は本名の鶴田友美をリングネームに用いていた。ニックネームは「若大将」である。
新入団したばかりの頃は、馬場から月に10万円の小遣いを支給されたり、自分の体のサイズに合うスーツを新調してもらうなど、入団以前まで貧乏学生だった鶴田の生活は一変した[8]。当時日本テレビ「全日本プロレス中継」のプロデューサーだった原章[9]は「後で思うと、その頃はあまり肉が付いていなくてヒョロヒョロっとして、ひ弱な青年という感じでした。ただ背が高かったので、これからトレーニングをして大きくなるだろうという予感はありました。今考えると、アマチュアレスラーの身体だったんでしょう。体重を絞って、肉を付けてなかったのかもしれません」と、入団当初の鶴田の印象を語っている[10]。
入団後まもなく、テキサス州アマリロのザ・ファンクスの元で修行を始め、スタン・ハンセンやボブ・バックランドとも合流した。特にハンセンとは気が合った様で、ハンセンは鶴田を「トミー」の愛称で呼び、鶴田が日本から持ち込んだインスタントラーメンを分け合って食べるほどの仲だった。またハンセンはその味に感動し、鶴田に黙って勝手に食べていたという話も残っている[11][12]。ザ・ファンクスの父、ドリー・ファンク・シニアは鶴田を見て「この男はレスラーへの下地はとっくに出来ている。後は経験を積むだけだね」と評した。 ハンセンは「彼は身体が細いのに、自分より何キロも重いベンチプレスを持ち上げていたからね。あれは凄かったよ」と、鶴田の怪力ぶりを語っている。
1973年3月24日に、アマリロでエル・タピアを相手にプロデビューした。2ヶ月後の5月20日にはニューメキシコ州アルバカーキで、ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦するという大抜擢を受ける[13]。その後、サイクロン・ネグロやゴードン・ネルソンら実力者との対戦を経て、8月9日にはスタン・ハンセンと組み、当時ザ・ファンクスが保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦した[14]。
凱旋帰国後の同年10月6日、後楽園ホールにおけるムース・モロウスキー戦で国内デビューしフォール勝ち。3日後の10月9日、蔵前国技館でのザ・ファンクスとのインターナショナル・タッグ王座戦の馬場のパートナーに選ばれる。しかしこの抜擢については試合前に「彼はまだデビューしてから半年だし、150試合のアメリカ修行で一体、どれだけ成長が出来るというのか?プロはそんなに甘い世界ではないだろう」と、内外含めてメディアからも猛批判が上がったが、アメリカで鶴田の成長ぶりを実際に確認していた馬場は「まぁまぁ、とにかく彼の試合を観てから判断しましょう」と、自信たっぷりに答えている[11]。 60分3本勝負の1本目ではテリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドでピンフォールを奪い大器の片鱗を見せ[注 2]、早くも馬場に次ぐ全日本プロレスナンバー2の地位に就いた。
20代の中頃までは、若い女性の親衛隊もいたほどの人気があった。またファンからの公募により、1973年10月27日にリングネームをジャンボ鶴田へと改名する。当時は日本でも日本航空でジャンボジェット機が就航し、一般にもその名称が浸透し始めて来た時期であり、師匠である馬場と同様にスケールの大きなプロレスを期待されての命名であった[11]。なお鶴田本人も「投票の途中経過ではジャンボ鶴田がダントツの1位でしたから、その時点で『ジャンボ鶴田』に決まりだなと思った」そうである[12]。
1974年3月から4月にかけて、再びアメリカ遠征に出発。太平洋岸北西部から南部、北東部、中西部まで各テリトリーを回り、3月23日にはオレゴン州ポートランドでダッチ・サベージ[15]、3月29日にはジョージア州アトランタでボビー・ダンカンなど[16]、各地のトップ選手と対戦。4月1日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに登場し、ジョニー・ロッズから勝利を収めている[17]。翌日の4月2日にはフロリダ州タンパでダニー・ホッジ[18]、4月4日にはノースカロライナ州グリーンズボロでネルソン・ロイヤル[19]、4月7日にはニューメキシコ州アルバカーキにてキラー・カール・コックスと対戦するなど、世界王者級のタイトなスケジュールをこなした[20]。
当時はまだ軽量だったため、1974年12月5日には体重を落としてケン・マンテルのNWA世界ジュニアヘビー級王座に挑戦している[21]。
1970年代中盤は、復活したUNヘビー級王座決定戦でジャック・ブリスコを破って初めてのシングルタイトルを獲得し、キム・ドクとの抗争や国際プロレスのラッシャー木村との対抗戦、ディック・スレーターをジャーマン・スープレックスで破ってのチャンピオン・カーニバル初優勝などの実績を上げ、1977年8月25日に行われたミル・マスカラスとの田園コロシアム決戦が評価され、東京スポーツ主催のプロレス大賞において3年連続年間最高試合賞・ベストバウトを受賞した。他の2試合は、1976年3月28日に蔵前国技館で行われたUNヘビー級選手権試合の鶴田vs木村戦と、1978年1月20日に北海道帯広市総合体育館で行われたNWA世界ヘビー級選手権試合のハーリー・レイスvs鶴田戦である。
この時期の鶴田の代名詞は、UNヘビー級王座と背後に星を刻んだレスリングタイツ。必殺技は4種類のスープレックス[注 3][10]、特にフロント・スープレックスとトップロープからのウルトラCドロップキック[注 4]を大一番で用いている。
1980年代前半は、NWA世界ヘビー級王座やAWA世界ヘビー級王座[注 5]に対してあと一歩でタイトルを取り逃がす歯がゆい試合を続けたため「善戦マン」と呼ばれていたが、1982年のNWA戦からタイツも黒を基調としたエースらしいものに変更し「善戦マン」からの脱却を目指した。この当時の鶴田について上田馬之助は「ジャンボはなぁ…。あれだけ恵まれた体格をして、才能・瞬発力・柔軟性・運動神経を全て高い次元で持っているのにねぇ。ジャンボには何かこう、ガツーンと来るものがないんだよ。全日本どころか日本マット界のエースになれる素材なのに。藤波(辰爾)君もそうだけど、デビュー当時からの『爽やかお兄ちゃん』のイメージを、いまだに捨て切れてないというかね。まぁ最近はトランクスを黒に変えて、自分の中の何かを変えて行こうと必死になっているのは分かるけど」と語っていた[22]。また、この年の秋に訪日していたルー・テーズに、必殺のバックドロップのコツを教えてもらっている。
1983年4月、若手レスラーの登竜門と言われたトーナメント大会ルー・テーズ杯の特別レフェリーとして再度全日に登場したテーズから、バックドロップとフライング・ボディシザース・ドロップを今度は本格的なマンツーマン特訓で伝授される。このとき「今のコーチ料は100万ドルだな」というテーズの言葉に「世界チャンピオンになったら払います」と答えた逸話が残されている[注 6]。
6月8日にはNWA世界王者リック・フレアーに挑戦し、三本勝負を1-0で時間切れ勝ちはするものの、「三本勝負の場合、二本勝たなければ王座の移動はしない」というNWAルール規定により、世界奪取はならなかった。しかし、過去のフレアーとのNWA世界戦[注 7]に比べるともっとも善戦した[注 8]。フレアーからは30年の時を経て「日本人でベストな選手を3人挙げるとしたら、ツルタ・テンルー・ムタだな」[23] とコメントしている。 米国遠征中の6月17日に、長年就いていたUNヘビー級王座を返上[24]。
7月31日にはAWA世界王者ニック・ボックウィンクルに挑戦をし、反則勝ちをするが「ピンフォール勝ち、ノックアウト勝ちもしくはギブアップ勝ちでないと王座は移動しない」[注 9]というAWAルール規定により王座移動せず、世界奪取は失敗に終わる。過去のニックとのAWA世界戦[注 10]同様に、のらりくらりと交わされつつも、最終的にダーティなファイトで防衛されてしまう内容だった。
8月31日、蔵前国技館において、力道山以来の日本プロレス界の至宝インターナショナル・ヘビー級王座をブルーザー・ブロディから奪取、第14代王者となる。試合後、ロッカールームで馬場から「よくやったよな、今日からお前がエースだぞ」と祝福され、公式に全日本プロレスのエースを襲名する。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では馬場との師弟コンビを解散、天龍源一郎との鶴龍コンビで参加するが、ミラクルパワーコンビに次ぐ準優勝に終わる。この年、インター・ヘビー級王座獲得の功績が認められ、プロレス大賞の最優秀選手賞(MVP)を、同世代を表す「鶴藤長天」の中で初受賞。そして鶴龍コンビも最優秀タッグチーム賞を受賞した。
1984年に、自身の入場曲を「J」に変更。2月23日に蔵前国技館で、自らが保持するインターナショナル・ヘビー級王座を懸けてのダブルタイトルマッチとして、AWA世界王者のニック・ボックウィンクルに再び挑戦。インター王座とのダブルタイトルマッチということで、インター選手権のルールも適用され、反則やリングアウトなどあらゆる勝敗で王座移動、さらにレフリーの失神等でのアクシデントを防ぐため、主審にテリー・ファンク、副主審にジョー樋口を起用するという万全の態勢で、ニックのダーティーなファイトを防ぎ[注 11]、「バックドロップ・ホールド」によって勝利[25]し、当時日本人として初めてAWA世界ヘビー級王座を獲得、念願の世界奪取を達成した。この一戦は当時の『土曜トップスペシャル』で放送されるほどのビッグマッチであった[26]。この時の3カウントを叩いたのは、テリー・ファンクであった。
AWA世界ヘビー級王座獲得後、同王座をリック・マーテルに奪取されるまで、前王者ニック・ボックウィンクルをはじめ、ブラックジャック・ランザ、ビル・ロビンソン、ジム・ブランゼル、グレッグ・ガニア、ブラックジャック・マリガン、バロン・フォン・ラシクらを挑戦者に16回の防衛[27]、日米2国間を往復しての世界ヘビー級王座防衛は、日本人初の快挙であった。この年、プロレス大賞のMVPを2連覇した。
これらの活動により「鶴藤長天」の中では一段上の扱いとなり、実力的には馬場・猪木の後継者とされるものの、人気では維新革命の長州力や天龍の後塵を拝す。このレスラーとしての格と人気面のギャップは「バックドロップは、相手の受身の技量によって落とす角度を変えている」などという鶴田の発言に対し、ファンからは「もっと本気出して試合をしろ」「手加減なんかするな、相手を殺すつもりでやるんだよ」という反応を見せ、それに対して鶴田が「相手のレスラー生命を終わらせる、もしくは死に至らしめるのが良いレスラーだというのなら、僕は明日にでも会社(全日本プロレス)に辞表を出しても良いんですよ」と反論するなど、良くも悪くも「気は優しくて力持ち」的な鶴田のキャラクターや、試合ぶりにファンが感情移入しにくい点に一因があった[28][要ページ番号]ともいえる。
「プロレス界のキングコング」と称されたブルーザー・ブロディやハンセン、ロード・ウォリアーズといった大型外人レスラーとの戦いがメインとなっていた1980年代中盤、大型の外人と戦っても見劣りしないレスリング技術は、相手レスラーからの評価も高く鶴田の運動能力、身体的能力を絶賛する者も多い。尚、後年引退の原因となった肝炎のキャリアである事が発覚したのは1985年8月で、この事実は馬場と鶴田の2人が知るのみであり、他のレスラー・関係者には伏せられたままだった。
新日本のエースで、1984年末から新日本を退団しジャパンプロレスの一員として全日本に参戦した長州力と、1985年11月4日に大阪城ホールでシングルマッチを行う。結果は60分フルタイム戦って両者引き分けに終わった。鶴田はこの一戦でリング中央でどっしりと構え、自身の周りを長州が動き回るようにファイトすることを意識し、引退後日本テレビのインタビューで「あれは僕の作戦勝ちでしょう」と語っている。これは馬場がエース候補生たちに必ず教えていた心構えであり、自分が格上のレスラーであると印象付けられる上にスタミナの消費も少ないという効果を狙ったもので、鶴田が王道プロレスを体現した試合として名高い。一方の長州は、対戦前に鶴田のことを「あれはぬるま湯に浸かっちゃってるんだよね」「あいつは本物のプロレスラーじゃないよ。ただのサラリーマンレスラーだろ」と散々酷評していたが、対戦後は鶴田に一目置くようになり、マスコミに対して「ボクシングのような判定制だったら、(自分の)負けだったね」と語り、以降は鶴田を評価する発言を時折行うようになった。この評価は鶴田との対戦後も長年に渡り一貫しており、2012年10月5日の長州と高田延彦とのトークショーにおいても「鶴田先輩は本当に凄かったですね」と、アマレスの先輩である鶴田に対する敬意を素直に表現している[29]。長州とのこのシングル対決は1985年のプロレス大賞の年間最高試合(ベストバウト)に選出されている。
しかし、この時期の鶴田はシングル戦線では苦戦していた。1985年4月[30]と1987年3月[31]にフレアーのNWA王座に挑むが奪取に失敗し、1986年にはAWA王座再戴冠を目指し当時の王者スタン・ハンセンに3度挑むがこれもすべて奪取に失敗[32]、同年7月の敗戦では自らのインター王座も奪われた。しかし3ヶ月後の10月には奪回に成功している[33]。世界最高峰クラスの王座を奪取した選手としては、不調気味の戦績といえる。
鶴田が怪物レスラー、完全無欠のエースとしての評価を高めたのは、1987年に「天龍同盟」を結成した天龍源一郎との一連の抗争、そして天龍離脱後の超世代軍・プロレス四天王との戦いであった。またそのきっかけとなったインパクトのある試合として、仲野信市に対するバックドロップを決めた試合があげられる[34]。
天龍が繰り出す激しい攻撃に触発され、鶴田も恵まれた身体能力を背景に覚醒、一般的なプロレス技で仲野や天龍を失神させる、寺西勇やアニマル浜口が全治数ヶ月の入院を余儀なくされる、といった怪物ぶりを発揮した。特に天龍は世界タッグ戦でバックドロップの3連発(後述)、1989年4月の三冠戦では後に「ジャンボ・リフト」と呼ばれる掟破りの超急角度の垂直落下型パワーボムと、2度失神させられている。
1988年6月には、谷津嘉章との五輪コンビでインターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座を統一、初代世界タッグ王者に就いた。同年8月30日、前日に龍原砲[注 12]に王座を奪われ五輪コンビで挑戦者チームとして戦った一戦では、バックドロップを連続で食らいすでに意識がなく自力で立ち上がれない天龍の髪の毛を掴んでしまい、無理矢理引きずり起こし3発目のバックドロップで完全失神に追い込み、その天龍をかばう原ごとピンフォールをして王座を奪回した。
1989年4月には、シングルタイトルであるインター・PWF・UNの三冠を統一し、初代三冠ヘビー級王者となる。これらの実力が認められた結果、ジャンボ鶴田の人気は不動のものとなり、1990年2月10日に行われた、新日本の東京ドーム大会に参戦した際には敵地であるにもかかわらず、入場時に「ツ・ル・タ、オー!」コールが爆発するなど、全日のエースから日本プロレス界のエースと呼ばれるにふさわしい存在になっていた。この時期、全日本のリングから、かつて鶴田が世界王座戦線で何度も苦杯を飲まされたリングアウトでの決着・反則での決着が徐々に消え去り、リング内での完全決着が目指されるようになった事も、鶴田には追い風となった。
天龍が新天地を求めて全日本を離脱しSWSに移籍した後、鶴田のライバルとして名乗りをあげたのは弟子の三沢光晴であった。1990年6月、三沢はシングルマッチで鶴田越えを果たすが、この試合は「丸め込み」合戦を制してのもので、真に鶴田越えを果たしたとは言い難いものであった[注 13]。だが、三沢は最初で最後の涙をリング上で流し、日本武道館の観客が総立ちになるなど、盛り上がる結果となった。その3ヶ月後の1990年9月、三冠ヘビー級王座への挑戦権をかけて再度三沢と戦うが、今度は鶴田がジャンボラリアットからのバックドロップ・ホールドで三沢から完璧な3カウントを奪っている。
1991年1月19日、ハンセンを破り、三冠ヘビー級王者の第8代目に返り咲く。この年は三沢、川田利明、スティーブ・ウィリアムスが鶴田の三冠王座に挑戦するが全て退けている。1月下旬の後楽園ホール大会では、川田から顔面へのステップキックを執拗に繰り出された直後に、鶴田は怒りで目の色が完全に変わってしまい、まずはエルボー[注 14]から始まり、顎へまともに入るジャンボ・キック、場外でマットをひっペ返した床上へ叩き付けるボディースラム、イス攻撃などを川田に繰り出した。タッグパートナーの渕正信が止めに入るがその渕も突き飛ばしてしまい、解説席に座っていた竹内宏介がその迫力に言葉が出なくなってしまうほどの壮絶な攻撃であった。和田京平によると、試合後の控え室では「なんで僕はあんなにキレてしまったんだろうねぇ…」と、普段のジャンボ鶴田に戻っていたという。この時の鶴田について和田京平は「ああいうのはお客さんに見せるものではない。普段の余裕あるジャンボの姿を見せてほしかった」と自書で語っている[要出典]。
また10月の大阪府立体育会館での6人タッグ戦では、鶴田のエルボーが三沢光晴の鼻を直撃し、三沢が鼻骨を骨折してしまう。鼻を負傷しながらなおも試合を続ける三沢に、鶴田はその鼻に狙いを絞った攻撃を徹底する。鶴田は反旗後の三沢に対して「あいつはもっと良い奴だと思っていたんだけどね」という意味不明なコメントを残しているが、この試合後に「三沢はまだまだ良い奴じゃないんだからさ」と語っており、自分が超世代軍の壁であることを自認していたとも言える。
この年の鶴田は全日本プロレス中継内の三沢との三冠戦後のインタビューで「一回でいいから、世界最強といわれるハルク・ホーガンと、負けてもいいから思いっきり闘いたい」とコメントしたことがある。当時ホーガンが所属するWWF(現WWE)と全日本とは全く団体間の交流はなく、しかも、全日は選手のスタンド・プレーには厳しい団体だった。対戦したい相手として他には前田日明・藤波の名も挙げており、一時は新日本への移籍を本気で考えた時期もあったという。鶴田の元ライバルでもあるタイガー戸口によると、1981年に戸口が全日本から新日本に移籍する際、鶴田も一緒に全日本を離れようとした事が後年明らかにされ、もし実現していればプロレスとの関わりを断ったのではないかと推測している。1980年代後半にも鶴田から「僕はプロレスを辞めた後にね、焼肉屋でも始めようかなと思ってるんだよ」と話していた事があり、実際に経営に関する本も読んでいたという[35]。
ファンやマスコミを中心に実現が期待されていたジャイアント馬場とアントニオ猪木の対戦について、鶴田は「全日本に閉鎖的な面もあるとは思いますが」と前置きをして語り、馬場に挑戦状を叩きつけた猪木については「猪木さんは今は良いですけど、あと何年かすれば年齢的にベストなファイトが出来なくなるのは確実ですから。猪木さん本人も、そういう状態で挑まれても納得出来ないですよね?」と、第三者として中立的な立場で話していた[要出典]。猪木が40歳を過ぎた頃に前田日明が、そして1986年に第2回プロレス夢のオールスター戦の企画が上がった際に鶴田がそれぞれシングル対決希望を表明したが、結局猪木は前田・鶴田2人の対戦要求に応じることはなかった。尚、鶴田は後年1996年の修士論文[36]で「私は猪木には勝てない。入門した時からエリートコースにのって、ビッグタイトルのチャンスを与えられた私には、ハングリー精神に欠ける。これはG・馬場の育て方の問題であり、甘いのである。」と率直な自身の評価を記している。
1991年にはプロレス大賞MVPに選ばれており、自身として7年ぶり3度目の受賞となった。
最後のタイトルマッチとなったのは1992年10月7日の世界タッグ選手権で、田上明と組みテリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムス組の挑戦を受けた。この年は古傷の左足首の故障で1シリーズを全休したことに加え、1月にはハンセンに敗れて3冠ベルトを奪われ、チャンピオン・カーニバルでは優勝戦進出を逃すなど、前年の怪物振りと比べると陰りも見えていたが、この年に急成長を見せていたパートナーの田上が体調万全ではない鶴田を上手くカバーしていた。その田上はこの年に開発した喉輪落としでゴディからフォールを奪い、王座の防衛に成功。田上の躍進を見届けた鶴田は、結果的に第一線を退く形となった。
1992年11月にB型肝炎を発症し、長期入院を余儀なくされた。公式発表は内臓疾患であり、妻の鶴田保子の著書が出版されるまでは公には伏せられていた。鶴田がB型肝炎ウイルスキャリアであることは1985年8月の時点で判明しており、当時の主治医によるインターフェロン療法がうまくいかず症状を悪化させたためと、後に妻の保子が著書で述べている[37]。
1993年の復帰後も再発の危険性があるため、極端に負担のかかる第一線には立たなかった。鶴田自身、その時の様子を「棺桶に片足を入れた状態」と評している。「一昔前なら棺桶に両足を入れていた。つまり、自分は死んでいた」とも発言している。鶴田はメインイベンターとしての価値は無くなったが、馬場は給料を下げる事はしなかった。
入院中に読んでいたある雑誌に、女子プロゴルファーの桝井映里が大学院に入学した記事があったことがきっかけとなり、教授レスラーへの道を目指す。1994年10月に筑波大学大学院体育研究科コーチ学専攻に合格し、遂に非常勤講師ながら大学教員となった。並行して大会場でのスポット出場という形で現役プロレスラーを継続する。ほとんどの試合は馬場と組んでのファミリー軍団としての出場による、6人タッグマッチであった。
1999年1月31日、馬場の死去直後に引退及び全日本取締役辞任の記者会見をキャピトル東急ホテルで行う。この後に「全盛期に前田日明と戦ってみたかった。藤波君が度々対戦要求を出してきたが、マスコミの前のポーズだけで実際の交渉は一切無かった。僕はそれが大嫌いだった」とコメントしたことも話題になった。後日、鶴田は藤波に「失礼な発言をしてしまい申し訳なかった」と、FAXで謝罪した。
ただし鶴田は、1990年代のある番組の中でファンサービスもあったにせよ「今年の夢は、藤波選手と闘うことです」と発言していた。1987年1月4日、東京スポーツ主催のプロレス大賞授賞式の席上でも「今年は藤波選手と闘って最高試合賞を取りたい」とコメントしており、週刊ゴングによる鶴藤長天キャンペーンのきっかけの一つとなっていた。一方で、全日本プロレスが1998年に初めて東京ドーム大会を開催した際の、藤波の参加に向けた発言とその撤回の経緯が、引退時の鶴田の発言と符合している。
1999年2月20日の引退記者会見に続いて、1999年3月6日に日本武道館で引退セレモニーが行われ、研究交流プロフェッサー制度によりスポーツ生理学の教授待遇として、オレゴン州ポートランド州立大学に赴任することを明らかにした。なお、勤務先であった桐蔭横浜大学のサイトには「客員研究員として」[38]とある。鶴田がアメリカへ向かう際に、成田空港に見送りに来たのは三沢・仲田龍・大八木賢一専務のわずか3名であったが、仲田の著書によれば、鶴田サイドと馬場元子オーナーとの間には既に距離が出来ており、見送りに行けない空気を振り切って来たとのことである。これが鶴田と三沢の最後の対面となったが、その際に鶴田は「もしそっちに何かあったらすぐに言ってきて良いよ。俺はミチャワくん[注 15]の味方なんだからさ。それだけは忘れないでくれよな」と告げたとされている。
この前後よりB型肝炎は肝硬変を経て、肝臓癌へ転化かつ重篤な状態へ進行していた。鶴田は第三者らの進言もあり肝臓移植を受けることを決断。日本では親族間の生体肝移植しか認められておらず、親族で唯一血液型が合致した実兄がドナー候補となるも最終的に移植条件に合致しなかったため、日本での移植が不可能となり、海外での脳死肝移植に望みを賭けた。2000年4月、滞在中のオーストラリア・ブリスベンで『ジャンボ鶴田基金』を設立し、移植患者に向けたサポートを行う活動を始めた[39]。同年春になりフィリピン・マニラでドナー出現の報を聞き、オーストラリアからフィリピンに渡航。国立腎臓研究所で手術が行われたが、肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック症状に陥る事態が発生し、長らくの治療や16時間にも渡る手術の甲斐なく同年5月13日17時(現地時間では16時)に49歳で死去した。奇しくもこの日は1984年にリック・マーテルに敗れてAWA世界ヘビー級王座から陥落した日でもあった。戒名は「空大勝院光岳常照居士」。和田京平の著書によると、「鶴田は元々血を流すと止まりにくい体質であった」と記されている。
鶴田の死から1ヶ月後の6月13日、かつて鶴田の付き人を務めていた三沢光晴[40]が全日本社長を辞任し、その三日後の記者会見で新団体であるプロレスリング・ノアの旗揚げを正式発表した。これに伴い全日本の選手が大量離脱したことに対して、彼らが全日本で冷遇されていたことを知らなかった妻の保子は「ジャンボ鶴田お別れの会」で「夫は三沢君を支持したと思います。でも、三沢君に全日本を潰す権利は無いです」と話したが、真相を知った後に自身のWebサイトで「三沢君達の気持ちがやっと分かりました」「(馬場)元子さんは許せないです」と語った。
鶴田の突然の死は各方面で大々的に報道され、2000年5月24日には『全日本プロレス中継』(日本テレビ系)で「ジャンボ鶴田追悼特集」[41]、2000年11月26日には『知ってるつもり?!』(日本テレビ系)で「ジャンボ鶴田、家族の絆と衝撃死の真相」と題した追悼番組が放送された[42]。
2014年4月13日、鶴田の故郷・山梨の山梨市民総合体育館に於いてノアの協力により「ジャンボ鶴田追悼記念大会」が開催された。同年11月28日(日本時間29日)、米国プロレス殿堂入りを果たした。日本人では力道山・ジャイアント馬場・アントニオ猪木に次ぐ4人目の快挙[43]であり、鶴田と生前親交があった原辰徳も「すごいね、価値あるよね」と祝福した[44]。
2022年5月31日、23回忌追善興行が後楽園ホールで行われ、新日本プロレス・全日本プロレス・DDTなど10団体とフリーの32選手が熱戦を繰り広げ、超満員札止めの1588人のファンで埋め尽くされた[45][46]。
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