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ワンマン・ギャング(The One Man Gang、本名:George Gray、1960年2月12日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。サウスカロライナ州スパータンバーグ出身。
スーパーヘビー級のモンスターヒールとして、南部の各主要団体やWWFで活動した[1][2]。WWFにおける "アフリカン・ドリーム" アキーム("The African Dream" Akeem)としての活躍も知られる[1]。
1977年に17歳でプロレスラーとしてデビュー[2]。キャリア初期はアンジェロ・ポッフォが旗揚げしたケンタッキー州レキシントンのICWにて、クラッシャー・ブルームフィールド(Crusher Broomfield)のリングネームで活動する[2]。1982年からはテネシー州メンフィスのCWAに参戦、ジェリー・ローラーやダッチ・マンテルの保持するタイトルに挑戦した[3]。
その後、ビル・ワット主宰のMSWAでワンマン・ギャング(The One Man Gang)と改名。超巨漢の若手ヒールとして台頭し、アンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した[4]。以降、NWAの南部テリトリーを転戦。ジム・クロケット・ジュニア主宰のMACWでは1983年5月23日、ケリー・キニスキーと組んでマイク・ロトンド&ルーファス・ジョーンズを破り、空位となっていたNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得[5]。エディ・グラハム主宰のCWFではダスティ・ローデスやブラックジャック・マリガンと抗争し、1984年11月にはマリガンからNWAフロリダ・ブラスナックル王座を奪取した[6]。
その間、1983年9月に全日本プロレスに初来日[7]。スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ、ハーリー・レイス、テッド・デビアスといった豪華メンバーの中でさほど注目はされていなかったが下馬評以上の健闘を見せ、テレビ中継にてジャンボ鶴田とのシングルマッチも組まれた[8]。シリーズ最終戦である11月3日の後楽園ホール大会では、ハンセンと組んでジャイアント馬場&鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦[9]。翌1984年末には鶴見五郎とのチームで世界最強タッグ決定リーグ戦にも出場している(当初はバズ・ソイヤーがパートナーとなる予定だった)[10][11]。
1985年からはテキサス州ダラスのWCCWに定着し、それまでの長髪をモヒカン刈りに変え、イリノイ州シカゴ出身を自称するストリートギャング系のヒールに変身。ブロディ、ケビン&ケリー・フォン・エリック、テリー・ゴディ、ザ・グレート・カブキらと抗争を繰り広げた[12]。1986年2月には全日本プロレスへの3度目の来日を果たし、キラー・カーンやクラッシャー・ブラックウェルとの巨漢対決もタッグマッチで実現した[13]。
1986年11月9日にはオクラホマ州タルサにて、ビル・ワット主宰のUWF(旧MSWA)認定の世界ヘビー級王座を獲得[14]。以降、ジム・ドゥガン、テリー・テイラー、エディ・ギルバート、スティーブ・ウィリアムス、バズ・ソイヤー、前王者ゴディらを相手に防衛戦を行い、1987年4月19日にビッグ・ババ・ロジャースに敗れるまで戴冠した[15]。
UWF離脱後の1987年5月よりWWFに登場して、王者ハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に再三挑戦(9月21日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン[16]、11月7日にはセントルイスのキール・オーディトリアムにおいて挑戦[17])。バンバン・ビガロとも巨漢同士の抗争を展開しており[18]、1988年3月27日のレッスルマニアIVでは、空位となったWWF世界ヘビー級王座決定トーナメントに出場した[19]。同年9月、 "アフリカン・ドリーム" アキーム("The African Dream" Akeem)に変身。白人でありながらイスラム名のアフリカ人を名乗り、マネージャーのスリックが歌う入場曲 "Jive Soul Bro." に合わせてラップを踊るというコミカルなヒールへのキャラクター・チェンジを行う[1]。ビッグ・ボスマンとのタッグチーム、ツイン・タワーズ(The Twin Towers)でも活躍し、ホーガン&ランディ・サベージのメガ・パワーズと抗争した[20]。
1990年下期にWWFを離脱してWCWに移籍。リングネームをワンマン・ギャングに戻し、ケビン・サリバン率いるヒール軍団のダンジョン・オブ・ドゥームに加入する。その後はインディー団体を転戦し、1995年にWCWと再契約。同年12月27日、新日本プロレスの佐々木健介が剥奪されたUSヘビー級王座の新王者に認定された[21]。WCW離脱後は1997年7月にSPWFへ来日、矢口壹琅とタッグを組み、久々に日本に登場。1998年11月にはFMWに参戦、サブゥー&金村ゆきひろとのトリプル・スレット・マッチに出場した[22]。同年には短期間ながらECWにもフル・ブラッデッド・イタリアンズのメンバーとして登場している[23]。
2000年の夏にはオーストラリアに遠征してタタンカとオーストラレージアン・ヘビー級王座を争ったが[24]、同年に心臓発作を起こしてからはセミリタイア状態となる[2]。2001年にはプエルトリコのWWCにおいて、カルロス・コロンやアブドーラ・ザ・ブッチャーとハードコア王座を争っている[25]。WWEにも同年4月1日のレッスルマニアX-Sevenにおけるギミック・バトルロイヤルにワンマン・ギャングとして出場した[26](当初はアキームとして参加予定だったが、ウェイトがダウンしたためコスチュームが合わなくなってしまったという)。
以降は、2008年2月29日にフィラデルフィアのインディー団体チカラで行われた6人タッグマッチのトーナメントに、アックス&スマッシュのデモリッションと "Team WWF" なるトリオを結成して出場している[27]。2009年3月28日には、同じくペンシルベニア州のIWC(International Wrestling Cartel)に登場、MSWAからWWFを通しての宿敵ジム・ドゥガンとメインイベントで対戦するも敗退した[28]。
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