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テリー・ゴディ[3](Terry "Bam Bam" Gordy、本名:Terry Ray Gordy、1961年4月23日 - 2001年7月16日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テネシー州チャタヌーガ出身。
日本では「人間魚雷」の異名を持つ[4]。ジャンボ鶴田が苦手意識を持った数少ないトップレスラーの1人で、1990年代前半にはプロレス四天王の大きな壁として立ちふさがった[4]。
甥のリチャード・スリンガー、息子のレイ・ゴディ、娘のミランダ・ゴディ[5]もプロレスラー。同じくプロレスラーのサイラスは遠縁にあたる(ミランダとサイラスがいとこ同士[6])。
生まれついての巨漢で、年齢をごまかし14歳でプロレス入りしたとされ、1975年にテリー・メッカ(Terry Mecca)のリングネームでデビュー[1][2]。1977年、地元テネシーで出会った2歳年上のマイケル・ヘイズと出会って意気投合し、リングネームを本名のテリー・ゴディ(Terry Gordy)に変更、1978年末にヒールのタッグチーム「ファビュラス・フリーバーズ」を結成する[7]。この名前は彼らが好きだったサザン・ロックのバンド、レーナード・スキナードの代表曲『フリー・バード』から取ったもので、入場曲も同曲である[8]。これがアメリカのマット界で本格的に入場曲が使われるようになった契機ともされる。
以降、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス州ダラスのWCCWを中心に、南部の各テリトリーで活躍。後にバディ・ロバーツを加えて3人組となり、ダラスの英雄フォン・エリック兄弟(ケビン、デビッド、ケリー)との抗争は凄まじい人気を得た[8]。ヘイズとは1981年にジョージアのGCWで一時的に仲間割れし、ゴディはジミー・スヌーカを、ヘイズはテッド・デビアスやトミー・リッチを新パートナーに抗争を展開したこともある[9]。シングルでは、1980年4月22日にルイジアナのMSWAでジャンクヤード・ドッグからミッドサウス・ルイジアナ・ヘビー級王座を奪取[10]。1982年3月にはアラバマのSECWでジャック・ルージョー・ジュニアを破りNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を獲得、ジョー・ルダックともタイトルを争った[11]。主戦場のダラスでは1983年2月4日、リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦[12]。同年3月25日にはザ・グレート・カブキからテキサス・ブラスナックル王座を奪取した[13]。
1983年8月、全日本プロレスに初来日。日本でのテリー・ファンク引退試合でのザ・ファンクスの対戦相手として、スタン・ハンセンのパートナーに起用された(テリー・ファンクは後に現役復帰)[4]。翌年にはフリーバーズでの来日も実現し、ヘイズとのコンビでインターナショナル・タッグ王座にも2回挑戦したが[14]、ゴディのみ全日本の常連となる。デビュー間もない頃に教えを受けたルー・テーズ直伝のパワーボムをフィニッシュ・ホールドとして用い、頭角を現す。ゴディのパワーボムは技を決めた後に、そのままフォールに持ち込むのが特徴で、多くの日本人レスラーが使用するようになった。なお、全日本プロレスに参戦する前年の1982年3月1日、アトランタのオムニ・コロシアムでジャイアント馬場のPWFヘビー級王座に挑戦しており[15]、日本でもその試合が中継された。
1984年8月にはフリーバーズとしてWWFにも出場。シンディ・ローパーとのコラボレーションも実現したが、メンバー個々をシングルプレイヤーとして売り出そうとしたWWFに反発して短期間で離脱[8][16]。その後、フリーバーズは古巣のWCCWを主戦場としつつ、バーン・ガニア主宰のAWAやビル・ワット主宰のUWFなどにも参戦。AWAではロード・ウォリアーズと抗争し、シングルでもリック・マーテルの保持していたAWA世界ヘビー級王座に挑戦[17]。UWFでは1986年5月30日、トーナメントの決勝でジム・ドゥガンを破り、UWF世界ヘビー級王座の初代チャンピオンとなった[18]。本拠地のWCCWでも、キラー・カーン、ブルーザー・ブロディ、ワンマン・ギャング、カマラ、ミッシング・リンクらとシングルマッチで抗争している[19][20][21]。
オリジナル・フリーバーズ解散後は全日本プロレスを主戦場に、1988年7月29日にはハンセンと組んでジャンボ鶴田&谷津嘉章の五輪コンビから世界タッグ王座を奪取[22]。同年の世界最強タッグ決定リーグ戦も制覇した。1990年3月からはUWFでの抗争相手だった "ドクター・デス" スティーブ・ウィリアムスをパートナーに、タッグチーム「殺人魚雷」を結成。世界最強タッグ決定リーグ戦を同年と1991年に二連覇する活躍を見せた[4]。シングルでも、1990年6月5日に鶴田から三冠ヘビー級王座を奪取している[23]。三冠王者になった外国人選手は、ゴディが初である。この時29歳だったが、20代の三冠王者はゴディと小橋建太、宮原健斗、青柳優馬、安齊勇馬の5人だけである(2024年現在)。すでに世界タッグ王者でもあったため、外国人レスラー初の五冠王ともなった。
1992年にはウィリアムスと共にWCWに参戦、スコット・スタイナー&リック・スタイナーのスタイナー・ブラザーズと抗争する[24]。同年7月5日にはスタイナー兄弟を破りWCW世界タッグ王座を、1週間後の7月12日にはトーナメント決勝でバリー・ウインダム&ダスティン・ローデスを破り復活版NWA世界タッグ王座を獲得[25]。二冠王となり両タッグ王座の統一を果たした[26][27]。以降、リッキー・スティムボート&ニキタ・コロフ、アーン・アンダーソン&ボビー・イートンなどのチームと防衛戦を行い、9月21日にウインダム&ローデスに敗れるまで戴冠した[28]。WCWは当時新日本プロレスと提携し、スタイナー兄弟も新日本に来日したが、ゴディとウィリアムスは全日本との関係を重視して新日本には参戦しなかった。
1993年も全日本のリングを主戦場に活動したが、心疾患のため同年夏より長期欠場を余儀なくされる[4]。1994年7月、サマー・アクション・シリーズ中盤より全日本マットに復帰したものの全盛期の動きには程遠く、これが最後の全日本への来日となった。ハンセンの手記によると、素行不良のため全日本から解雇を宣告されたという(和田京平の著書『人生は3つ数えてちょうどいい』より[要ページ番号])。
その後1995年、IWAジャパンに参戦。8月20日の川崎球場大会ではカクタス・ジャックと画鋲デスマッチを行った[29]。同年はジム・コルネットが主宰していたスモーキー・マウンテン・レスリングにも出場し、師匠格のモンゴリアン・ストンパーとも対戦[30]。10月20日にはタッグマッチでSMWヘビー級王者のブラッド・アームストロングからフォール勝ちを収め、同王座の新チャンピオンとなった[31]。
1996年下期からは覆面レスラーのジ・エクスキューショナー(The Executioner)としてWWFに登場。ポール・ベアラーをマネージャーに迎え、マンカインドと怪奇派のタッグチームを結成し、短期間ながらジ・アンダーテイカーと抗争した[32]。オーエン・ハート&ブリティッシュ・ブルドッグが保持していたWWF世界タッグ王座にも、1997年1月にマンカインドとのコンビで連続挑戦している[33]。
1998年にはWARに来日。11月1日の神戸ファッションマート大会において、かつての三冠戦カードである天龍源一郎とのシングルマッチが実現した[34]。しかし、持病の心臓病が悪化して1999年からは事実上の引退状態となっていた[35]。
2001年7月16日、テネシー州チャタヌーガの自宅で心不全により死去[36]。40歳没[1]。
最後の来日は同年2月4日、IWAジャパンの横浜文化体育館大会であり、これが生涯最後の試合出場ともなった[35]。死の直前に、プロレスリング・ノアを発足させた三沢光晴と旧交を温める様子がプロレスマスコミに報じられたが、本人がノアに上がることはなく、一時息子のレイ・ゴディがノアに参戦するにとどまった。
2016年、ファビュラス・フリーバーズのメンバーとして、ヘイズ、ロバーツ、ジミー・ガービンと共にWWE殿堂に迎えられた[37]。
大型レスラーだが抜群のセンスと動きのよさも兼ね備えており、技の引き出しが多い。投げ技が比較的少ないのが特徴。
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