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ニキタ・コロフ("The Russian Nightmare" Nikita Koloff、本名:Nelson Scott Simpson、1959年3月9日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ミネソタ州ミネアポリス出身(ギミック上の出身地はロシア共和国・モスクワ)。
1980年代後半を全盛期に、ロシア人ギミックの大型ラフ&パワーファイターとしてNWAミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーションズ)を主戦場に活動[2]。当初はヒール、後にベビーフェイスとなって活躍した[2]。
学生時代はアメリカンフットボールで活躍しUSFLのトライアウトを受けるが、同郷の友人ロード・ウォリアー・アニマルに誘われてプロレス入り[3]。NWAジョージア地区を経て、1984年にイワン・コロフの「甥」のニキタ・コロフ(Nikita Koloff)としてNWAミッドアトランティック地区のジム・クロケット・プロモーションズに登場。イワンのタッグパートナーとなり、筋骨隆々の肉体を誇る大型ヒールとして台頭する。
1985年からはクラッシャー・クルスチェフをメンバーに加えたロシア人ユニット、ザ・ラシアンズ(The Russians)の中核となって活躍[4]。ロード・ウォリアーズやロックンロール・エクスプレスとNWA世界タッグ王座を争い[5]、シングルでは同年7月6日のグレート・アメリカン・バッシュ(第1回大会)において、リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した[6]。
1986年1月にはクルスチェフと共に全日本プロレスに初来日(10月にも再来日)[7][8]。ジャンボ鶴田&天龍源一郎の鶴龍コンビや、ジャパンプロレスの長州力&アニマル浜口とも対戦した[9]。同年はシングル・プレイヤーとしての活動に比重を置き、マグナムTAとの抗争ではNWA USヘビー級王座を巡る7番勝負を展開[10]。9月28日には、ジョージア地区のタイトルだったNWAナショナル・ヘビー級王座をワフー・マクダニエルから奪取している[11]。
ファン投票で1986年度の "Most Hated Wrestler" に選ばれた[12]ほどの大ヒールだったが、やがて悪党人気がファンの支持に変わり、交通事故で引退したマグナムTAに代わるダスティ・ローデスの新パートナーに起用され、1986年10月24日よりベビーフェイスに転向。1987年4月11日にはローデスと組んでタッグチーム・トーナメント "Crockett Cup" に出場、決勝でフォー・ホースメンのタリー・ブランチャード&レックス・ルガーを破り、優勝を飾った[13][14]。
ローデスとのコンビはスーパーパワーズ(The Superpowers)と呼ばれ、旧敵ウォリアーズとも共闘してフレアー率いるフォー・ホースメンと軍団抗争を展開、フレアーのNWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦した。1987年8月17日にはブランチャードからNWA世界TV王座を奪取[15]、11月26日のスターケードでは提携団体UWF(ビル・ワット主宰。当時すでにクロケット・プロに吸収合併されていた)のTV王者テリー・テイラーを下し、両団体のTVタイトルを統一した[16]。その間の10月には全日本プロレスへの3度目の来日が実現、ジョン・テンタやザ・グレート・カブキと対戦し、テリー・ゴディともタッグを組んだ[17]。
1988年はマイク・ロトンドやバリー・ウインダムと抗争し、フェイスターンを果たしたイワンとのコンビを再結成するなどしたが、妻がホジキンリンパ腫を患ったために同年11月に戦線を離脱[18]。同時期、ジム・クロケット・プロモーションズはテッド・ターナーに買収されWCWが発足したが、妻の死後はWCWに参加せず、1989年から1990年までは地元ミネアポリスのAWAに出場、ラリー・ズビスコが保持していたAWA世界ヘビー級王座にも挑戦した[19]。
1991年2月、ヒールとしてWCWに復帰し、スティングとの連戦を開始。7月14日のグレート・アメリカン・バッシュでは十八番のロシアン・チェーン・マッチでスティングから勝利を収めている[20][21]。1992年からはベビーフェイスに戻り、リッキー・スティムボートとのタッグチームなどで活動。リック・ルードやベイダーとも抗争した[22]。
ベイダーとの抗争で首を負傷したこともあり、1993年より新生キリスト教徒となって現役を引退、以降は宣教師としての活動を続けている[23]。選手時代はハルク・ホーガンのライバル候補としてWWFとの契約が何度となく噂されたものの、WWF参戦は一度も実現しなかった。
引退後は長らくプロレス業界から離れていたが、2003年1月15日に覆面レスラーのミスター・レスリング4号(Mr. Wrestling IV)を名乗ってTNAに登場。かつての盟友ダスティ・ローデスを急襲し、覆面を脱いでその正体を明かした。その後はフェイスターンしてローデスを援護、スーパーパワーズ再結成をほのめかすも、選手としてリングに復帰することはなかった[2]。
2008年には、かつての主戦場ジム・クロケット・プロモーションズの団体と同名称のインディー団体MACW(ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング)に出場。3月15日の興行ではバフ・バグウェルの試合に介入、5月16日にはボビー・イートンと対戦するリック・スタイナーのセコンドを務めた[2]。同年は、NWA殿堂にも迎えられている[24]。
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