イワン・コロフ

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イワン・コロフ

イワン・コロフ"The Russian Bear" Ivan Koloff、本名:Oreal Donald Perras1942年8月25日 - 2017年2月18日[1][2])は、カナダオンタリオ州出身のプロレスラー。第3代WWWF世界ヘビー級王者[3]

概要 イワン・コロフ, プロフィール ...
イワン・コロフ
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2011年
プロフィール
リングネーム イワン・コロフ
レッド・マクナルティ
ザ・ラシアン・ベアー
ジム・パーリス
本名 オレアル・ドナルド・ペラス
ニックネーム ロシアの怪豪
ロシアの雷帝
身長 178cm - 183cm
体重 113kg - 124kg
誕生日 (1942-08-25) 1942年8月25日
死亡日 (2017-02-18) 2017年2月18日(74歳没)[1][2]
出身地 カナダ
オンタリオ州[2]
スポーツ歴 ウエイトリフティング
デビュー 1965年
引退 1994年
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北米での発音は「アイバン(アイヴァン)・コロフ」。生年は1936年ともいわれた[4]。現役選手時代はロシアギミック悪役レスラーとして活躍し、日本では「ロシアの怪豪」「ロシアの雷帝」などの異名で呼ばれた[4]

来歴

要約
視点

1965年1962年など諸説あり[4])、アイルランド人レッド・マクナルティRed McNulty)を名乗って地元のオンタリオにてデビュー[2]1967年9月にはこのリングネーム日本プロレスに初来日している[5](表記は「レッド・マクナッティ」)。開幕戦の大田区体育館大会ではロシア人ギミックの先達であるマッド・ラシアンとタッグを組み、ヤマハ・ブラザーズの凱旋帰国試合の対戦相手を務めた[6]

1968年1月、モントリオール地区において、髪を剃り上げてコサック帽とブーツを身につけたロシア人のイワン・コロフIvan Koloff)に変身[7]ハンス・シュミットエドワード・カーペンティアなどの大物と対戦して実績を積み、同地区認定のインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した[8]。地元オンタリオのトロント地区では、エリック・ザ・レッドブルドッグ・ブラワーホイッパー・ビリー・ワトソンアルゼンチン・アポロ、カーペンティア、オックス・ベーカーマイティ・イゴールなどから勝利を収めている[9]

1969年の下期よりWWWFに登場[10][11]キャプテン・ルー・アルバーノマネージャーに、ゴリラ・モンスーンビクター・リベラチーフ・ジェイ・ストロンボードミニク・デヌーチらを下してヒールとしてのステイタスを高め、1971年1月18日、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてブルーノ・サンマルチノを破り、第3代のWWWF世界ヘビー級チャンピオンとなる[12][13]。翌月の2月8日にペドロ・モラレスに敗れ短命王者に終わったものの、約8年間に渡ってニューヨークの帝王に君臨していたサンマルチノから王座を奪ったことで一躍トップスターの仲間入りを果たした[2][14]。なお、戴冠中はトニー・マリノ、モンスーン、ストロンボーなどを挑戦者に迎えて防衛戦を行っている[15]

その後は元WWWF王者の肩書のもと各地で活躍。同年6月にはエース級の扱いで日本プロレスに再来日し、6月29日に東京都体育館にてジャイアント馬場インターナショナル・ヘビー級王座に挑戦[16]。7月1日にはダッチ・サベージと組んでBI砲インターナショナル・タッグ王座にも挑んだ[16]。翌1972年AWAに参戦してビル・ロビンソンクラッシャー・リソワスキーと抗争、バーン・ガニアAWA世界ヘビー級王座にも挑戦した[17]1973年4月にはAWAとの提携ルートで国際プロレスに来日[18]。4月18日に土浦にて、マッドドッグ・バションと組んでストロング小林&グレート草津からIWA世界タッグ王座を奪取[19]。4月30日に足立区体育館にて草津&ラッシャー木村を退け初防衛に成功するが、5月14日に船橋で草津&木村に奪回された[19]。シリーズ最終戦の5月15日には、大宮スケートセンターにて小林のIWA世界ヘビー級王座にも挑戦している[20]

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1973年

1974年NWAミッドアトランティック地区を主戦場に、5月10日にダン・ミラー、10月30日にポール・ジョーンズを破り、ミッドアトランティックTV王座を2度獲得[21]。その間の7月4日にはバージニア州ノーフォークにて、ジャック・ブリスコの保持していたNWA世界ヘビー級王座に挑戦している[22]。同地区ではチャック・オコーナーリップ・ホークスーパー・デストロイヤージョニー・バレンタイン、そして若手時代のリック・フレアーらヒール勢と共闘して、ソニー・キング&タイガー・コンウェイ・ジュニアの黒人コンビやワフー・マクダニエルと抗争、アンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した[23]

1975年2月から8月にかけては新団体のIWAに参戦して、ミル・マスカラスの保持するIWA世界ヘビー級王座に再三挑戦[24]。10月よりWWWFに再登場し、チャンピオンに返り咲いていたサンマルチノに連続挑戦した[25]。同年11月、新日本プロレスの『闘魂シリーズ第2弾』に後半戦特別参加で来日[26]グレッグ・バレンタインをパートナーに、アントニオ猪木坂口征二北米タッグ王座に挑戦した[27]。以降も新日本プロレスの常連外国人となり、1976年9月3日には愛知県体育館にて、WWWFでの盟友スーパースター・ビリー・グラハムとの怪力コンビで坂口&小林の北米タッグ王座に再挑戦[28]。同年末の来日では、12月2日に大阪府立体育館にて猪木のNWFヘビー級王座に挑んた[29]

1977年フロリダにて、ミスター・サイトーパット・パターソンとのタッグで活動。シングルでは5月24日にスティーブ・カーンを破り、フロリダ版のNWA南部ヘビー級王座を獲得したが、9月27日に因縁のモラレスに再びベルトを明け渡している[30]。その間の6月18日には、インディアナ州インディアナポリスディック・ザ・ブルーザーからWWA世界ヘビー級王座を奪取、以降もブルーザーを相手に同王座を巡る抗争を展開した[31]。同年11月18日にはセントルイスキール・オーディトリアムにおいて、ハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦している[32]

この時期よりウエイトダウンを試み、重厚なパワーファイターから機敏性のあるラフファイターへの肉体改造を行う。以降、エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリングなど南部NWA圏を転戦しつつ、1978年にはMSGで新王者ボブ・バックランドWWFヘビー級王座にも挑戦するなど[33]、NWAとWWFを股にかけて活躍[34]ジョージアでは1979年オレイ・アンダーソンとタッグを組み、トミー・リッチ&スタン・ハンセンなどのチームを破りジョージア・タッグ王座を再三獲得した[35]

モスクワオリンピックボイコット問題米ソの対立構造が激化した1980年代初頭は、ジョージアでアレックス・スミルノフ、フロリダでニコライ・ボルコフとロシア人タッグを結成し、ジョージアでは1980年4月24日にケビン・サリバン&トニー・アトラス、フロリダでは8月7日にジャック&ジェリー・ブリスコを破り、各地区のタッグ王座を獲得[35][36]。フロリダではダスティ・ローデスバグジー・マグローを相手に、得意のロシアン・チェーン・マッチをはじめとする各種のデスマッチで抗争を展開するなど[37]、大ヒールとなって観客をヒートアップさせた[38]

ミッドアトランティック地区では1981年2月22日、レイ・スティーブンスと組んでポール・ジョーンズ&マスクド・スーパースターからNWA世界タッグ王座を奪取[39]。4月16日にはリッキー・スティムボートを破りミッドアトランティック・ヘビー級王座を獲得し[40]、11月3日にはロン・バスからTV王座を奪取、以降もジミー・バリアントらとタイトルを争った[21]1983年よりWWFに復帰したが[41]、翌年にスタートしたビンス・マクマホン・ジュニアの全米侵攻サーキットには参加せず、バックランドがアイアン・シークにWWF王座を明け渡した1983年12月26日のMSG定期戦を最後にWWFを離脱[42]。以降、WWEのリングには上がっていない[34]

1984年からは古巣のミッドアトランティック地区に定着し、ニキタ・コロフクラッシャー・クルスチェフとのロシア人ユニット、ザ・ラシアンズThe Russians)を結成[43]。若い彼らを指揮する「アンクル・アイバンUncle Ivan)」として、ロード・ウォリアーズロックンロール・エクスプレスと抗争を繰り広げた[44]。その後もウラジミール・ペトロフ(アル・ブレイク)やパワーズ・オブ・ペイン(ザ・バーバリアン&ザ・ウォーロード)を配下に、同地区のプレイング・マネージャー的な存在となって活躍した[45]1988年下期からはベビーフェイスに転向[46]、同年12月26日のスターケードではジャンクヤード・ドッグとタッグを組み、旧敵ポール・ジョーンズ率いるラシアン・アサシンズ(デビッド・シェルダン&ジャック・ビクトリー)と対戦した[47][48]

WCWへの移行期でもある1989年にNWAを離れ、1990年1月には全日本プロレスに来日[49]、昭和の日本プロレス4団体制覇を平成期に入って果たした。1992年3月にはニキタと同様に「甥」という設定のウラジミール・コロフ(カール・ブラントリー)を帯同し、W★INGに来日している[50]。その後もアメリカやカナダのインディー団体への出場を続け、若手時代のキッド・キャッシュのマネージャーも務めたが1994年に引退[7]

引退後は新生キリスト教徒となり、長年の主戦場だったノースカロライナに居住[7]2007年には編集者との共著による自叙伝が出版された[2][51]

2017年2月18日肝癌のため74歳で死去[52]

追記

得意技

獲得タイトル

ワールド・ワイド・レスリング・フェデレーション
ワールド・レスリング・アソシエーション
インターナショナル・レスリング・エンタープライズ
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング
メープル・リーフ・レスリング
ワールド・レスリング・カウンシル
  • WWCプエルトリコ・ヘビー級王座:1回[59]
インターナショナル・レスリング・アソシエーション
アトランティック・コースト・レスリング
  • ACWタッグ王座:1回(w / ウラジミール・コロフ)

マネージャー

脚注

関連項目

外部リンク

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