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フランスのプロレスラー (1946 - 1993) ウィキペディアから
アンドレ・ザ・ジャイアント(André the Giant、本名:André René Roussimoff、1946年5月19日 - 1993年1月27日)は、フランス出身のプロレスラー。
公式プロフィールでは身長が7フィート4インチ(約223cm)、体重が520ポンド(約236kg)とされ、北米では「世界8番目の不思議(The 8th Wonder of the World)」、日本では「大巨人」などの異名で呼ばれた。
フランスのセーヌ=エ=マルヌ県クロミエにて、ブルガリア出身の父親とポーランド出身の母親の元で生まれる。少年時代からサッカー、ボクシング、レスリングなどに打ち込む。裕福な農家の生まれ育ちであったが「農家は高校に行かなくて良い」と考えたため14歳で地元グルノーブルの中学校を卒業してからは高校に進学せず、農場勤務や木工の見習い、ベーラー専用エンジンの製造工場勤務などに励んだ。1964年、18歳の時にパリでアンドレ "ザ・ブッチャー" ロシモフ(Andre "The Butcher" Rousimoff)としてデビュー。
『プロレススーパースター列伝』などで日本に流布していた「プロレスラーになる前にはきこりをしていて、山中にいるところをエドワード・カーペンティアに "発見" された」という逸話は事実ではなく[3]、デビュー前はパリの家具運送会社に勤務しており[4]、無名時代にカーペンティアに見出されたというのが真相である。もっとも、南アフリカでのデビュー説もあるなどフランス時代の経歴については不明瞭な部分も多く、様々な説がある。フランス時代はジェアン・フェレ(Géant Ferré / Giant Ferré)、モンスター・エッフェルタワー(Monster Eiffel Tower)などの名義で活動していた[2]。
1970年2月に国際プロレスに初来日した際、同時来日していたAWAのバーン・ガニアに見込まれ、1971年9月より北米へ進出[5]。フランス語圏であるカナダのモントリオールを拠点に、ジャン・フェレ(Jean Ferré / 日本では英語風に「ジーン・フェレ」と読まれた)の名で活動する。ここで映画『キング・コング』をモチーフにした世界八番目の不思議(The 8th Wonder of the World)というニックネームが付けられた。巨人選手対決として、キラー・コワルスキーやドン・レオ・ジョナサンなど超大物選手とも対戦した。
1973年、アンドレ・ザ・ジャイアント(André the Giant)と改名し、WWWF(現:WWE)のプロモーターのビンス・マクマホン・シニアと契約。3月26日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに初出場し、バディ・ウォルフから勝利を収めた[6]。しかしWWWFとは専属契約をしたわけではなく、マクマホン・シニアのブッキングで古巣のAWAやNWAはもとより、世界中の様々な団体を定期的に短期参戦して回るようになる。これは「滅多に出会えない怪物」として希少価値を高めるというマーケティング上の戦術からの判断である。実際、それまでにプロレス界に登場したスカイ・ハイ・リーやグレート・アントニオなどの怪物レスラーは、アンドレとは異なりアスリートとしての実力的な問題もあって、短期間で一般層のファンから飽きられて人気が衰えていった。
この世界サーキットを行っていた約10年間が彼の全盛期であり、アンドレはベビーフェイスのスペシャル・ゲストの立場で各地のビッグイベントに出場。バトルロイヤルやハンディキャップ・マッチなどで圧倒的体格による強さを見せつけつつ、テリー・ファンク、ハーリー・レイス、ニック・ボックウィンクル、スーパースター・ビリー・グラハムら当時のNWA・AWA・WWWFのヒール系世界王者を始め、ザ・シーク、ワルドー・フォン・エリック、モンゴリアン・ストンパー、ブラックジャック・マリガン、ブラックジャック・ランザ、レイ・スティーブンス、パット・パターソン、キラー・カール・コックス、アーニー・ラッド、イワン・コロフ、バロン・フォン・ラシク、スタン・ハンセン、マスクド・スーパースター、ブルーザー・ブロディ、リック・フレアー、ケン・パテラ、ボビー・ダンカン、バリアント・ブラザーズ、ミネソタ・レッキング・クルー、ロディ・パイパー、クラッシャー・ブラックウェル、アンジェロ・モスカ、ジョー・ルダック、キラー・ブルックス、バグジー・マグロー、ニコライ・ボルコフ、ザ・スポイラー、オックス・ベーカー、マーク・ルーイン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タンク・パットン、スーパー・デストロイヤー、サージェント・スローター、アレックス・スミルノフなど、各テリトリーのトップヒールと対戦した[7](欧州では1979年12月にローラン・ボックとのシングルマッチも実現している[4] )。1974年のギネスブックには「年俸世界一(40万ドル)のプロレスラー」として彼が掲載されている。当時の為替レートは1ドル=約300円[8]。
1984年、ビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米進出計画が始まるとベビーフェイス陣営の主要メンバーとしてサーキットに参加、以降は退団する1990年までWWF専属選手となった。スーパースター軍団となったWWFでは同じ巨人型のビッグ・ジョン・スタッドがライバルとなり、レッスルマニアの第1回大会ではスタッドと『15000ドル争奪ボディスラム・マッチ』で対戦した。その後もカマラやキングコング・バンディを抗争相手に、WWF世界ヘビー級王者のハルク・ホーガンと共に全米侵攻の主軸となって活躍した[9][10]。
アメリカでは絶対のベビーフェイスであったが、WWFでの人気を二分していた盟友ホーガンを裏切り、1987年よりヒールに転向する[11]。ボビー "ザ・ブレイン" ヒーナンをマネージャーに従え、コスチュームも黒のワンショルダータイツに変更。ベビーフェイス陣営にいたバンバン・ビガロやジム・ドゥガンらを破り、同年3月29日のレッスルマニアIIIではWWF世界ヘビー級王座を賭けたホーガンとの「世紀の対決」が行われたが[11]、ホーガンにボディスラムを放たれて敗退した[12]。翌1988年2月5日の "The Main Event" での再戦では勝利を収め、WWF王座を奪取したものの、直後にテッド・デビアスにアングルとしてベルトを売却[13]。翌週にデビアスは王座を剥奪されたが、以後デビアスと「メガ・バックス(The Mega Bucks)」なるタッグチームを結成[14]、ホーガン&ランディ・サベージの「メガ・パワーズ(The Mega Powers)」と抗争を展開した[15]。
しかし、1980年代後半に入って急増した体重を起因とする膝や腰の痛みに悩まされ始め、全盛期の動きの切れは徐々に失われていった。その後、当時WWFがホーガンに代わる新しい主役として重用していたアルティメット・ウォリアーの売り出しに使われ、連敗を喫する[11]。また「ヘビ嫌い」との設定も加えられ、ジェイク "ザ・スネーク" ロバーツとの抗争も行われた[16]。1989年下期からはコンディションの悪化をカバーすべくタッグマッチ戦線に活動の場を移し、キング・ハクをパートナーに「コロッサル・コネクション(The Colossal Connection)」なるタッグチームを結成[11]。アックス&スマッシュのデモリッションとWWF世界タッグ王座を争った[17]。その後、マネージャーのヒーナンと仲間割れしてベビーフェイスに戻り、ジミー・ハートがマネージメントしていたアースクエイクとの対立アングルも組まれるが、体調不良のため1990年にWWFを退団[11]。以降、さらに増した身体の痛みにより試合を行う機会は減少したが、最後の主戦場とした全日本プロレスにおいては、主にジャイアント馬場とのタッグ「大巨人コンビ」で活躍した。
父親の葬儀へ出席するためフランスに帰国していた1993年1月27日、パリ8区の高級ホテル内で死去。死因は急性心不全であった[18]。長年に渡る過度の飲酒(全盛期はビール、レスラー後期から晩年はワインを愛飲していた)が原因と言われている。飲酒量が桁違いだったため、酒にまつわるアンドレの逸話は数知れない。ミスター高橋によると試合前でも何本も酒を飲み、しかも後年はほとんどトレーニングをしなかったため、余計心臓に負担がかかっていたことは明らかだったという。
WWFは生前の活躍に敬意を表するために、WWF殿堂(後のWWE殿堂)を設立し、殿堂入りの第一号を彼に与えた[19]。2008年には彼の功績をまとめたDVDもWWEより発売された。さらに2014年のWWEレッスルマニアXXXにて、その功績を称え「アンドレ・ザ・ジャイアント メモリアル・バトルロイヤル」を開催し以降も継続。勝者にはアンドレ黄金像トロフィーが贈られた。
2018年、HBOによるドキュメンタリー作品『ANDRE THE GIANT』が放映[20]。
初来日は1970年1月。まだアメリカで注目を浴びる前の無名時代、吉原功にスカウトされモンスター・ロシモフ(Monster Roussimoff)のリングネーム(吉原命名)で国際プロレスへ参戦した[21]。この前年5月18日にパリで行われた初代IWA世界タッグ王座決定戦でイワン・ストロゴフと組み、豊登&ストロング小林と戦うも1-2で敗れている[22]が、日本でも報道されて評判は伝わっていた[21]。1月18日に福岡市九電記念体育館で行われたIWA世界タッグ王座決定戦では、マイケル・ネイダーとのコンビでサンダー杉山&グレート草津を破り王座を獲得するが、2月3日の広島県立体育館にて杉山&草津に敗れ、短命王者となった(2月11日にもネイダーと組んで杉山&草津に再挑戦したが敗退)[23]。この初来日時、AWAの総帥バーン・ガニアと邂逅、北米進出のきっかけを掴む[24]。1971年の再来日ではカール・ゴッチやビル・ロビンソンを抑え、第3回IWAワールド・シリーズで優勝を果たした[21]。また、1972年の第4回IWAワールド・シリーズでも決勝に進出するが、小林に敗れて準優勝に終わった[25]。またこの来日時、5月4日に新潟市体育館において、イワン・バイテンをパートナーに杉山&ラッシャー木村が保持していたIWA世界タッグ王座に再挑戦している[23]。
その後、ブッキング権がガニアからWWFのビンス・マクマホン・シニアに移行したことに伴い、1974年2月より日本でのリングをWWFと提携していた新日本プロレスへ移し、アントニオ猪木との抗争を開始[26] 。1974年3月15日に岡山武道館で行われた猪木との初のシングルマッチでは、当時のマネージャーだったフランク・バロアがロープに飛んだ猪木の足を取ってダウンさせ、ジャイアント・プレスでフォール勝ちを収めた[27]。以降の対戦では、猪木が掛けたキーロックをアンドレが軽々と持ち上げる、アンドレが掛けたカナディアン・バックブリーカーを猪木がロープを蹴って返しリバース・スープレックスで投げる、というムーブが見せ場として定着した。
猪木がウィレム・ルスカやモハメド・アリとの対戦で異種格闘技戦をスタートさせた1976年の10月7日には、蔵前国技館にて「格闘技世界一決定戦」と銘打たれた両者のシングルマッチが行われた[1][28]。猪木が保持していたNWFヘビー級王座には、1974年12月15日にブラジル・サンパウロのコリンチャンス・スタジアム、1977年6月1日に名古屋の愛知県体育館にて、2度にわたって挑戦[1]。猪木が坂口征二とのコンビで戴冠していたNWA北米タッグ王座にも、ロベルト・ソト、トニー・チャールズ、ザ・プロフェッショナルと、パートナーを代えて3回挑戦している[29]。
新日本プロレスではスタン・ハンセンとも外国人同士によるスーパーヘビー級の抗争を繰り広げ、1981年9月23日、田園コロシアムで行われたハンセンとの一騎討ちは、日本のプロレス史に残る伝説の名勝負とされる[26] [1][30]。同年12月10日には、レネ・グレイをパートナーに大阪府立体育館にて猪木&藤波辰巳を破り、第2回MSGタッグ・リーグ戦に優勝[27][26] 。1982年4月1日には蔵前国技館にてキラー・カーンを下し第5回MSGシリーズも制覇している(新日本のシングルのリーグ戦における外国人選手の優勝はこれが初めて)[27]。
新日本プロレス参戦時は、実況アナウンサーである古舘伊知郎が、「大巨人」「巨大なる人間山脈」「一人民族大移動」などの表現を使ったことから、これらがアンドレのニックネームとなった(古舘はこの他にも「一人というには大きすぎる。二人といったら世界人口の辻褄が合わない」「人間というより化け物といった方がいいような」「都市型破壊怪獣ゴジラ」「怪物コンプレックス」「一人大恐竜」「ガリバーシンドローム」といった形容詞も使用している)。
1985年には将軍KYワカマツをマネージャーに従え、ジャイアント・マシーン(Giant Machine)なる覆面レスラーにも変身した[27][31][32]。アンドレは1985年8月シリーズである「チャレンジ・スピリット'85」に素顔で参戦する予定であったが(ポスターやパンフレットには素顔のアンドレの写真が掲載されていた)、同月にスーパー・ストロング・マシーン、ヒロ斎藤、高野俊二の離脱により危機感を抱き『ワールドプロレスリング』の視聴率低下を危惧していた新日本プロレスが、苦肉の策として急遽アンドレをジャイアント・マシーンに、同シリーズに参戦していたマスクド・スーパースターをスーパー・マシーンに変身させたという[31][32]。シリーズ開幕戦である8月23日の東村山大会では坂口をジャイアント・ボンバーで一蹴した他、メインイベントの猪木&木村健吾VSハクソー・ヒギンズ&トニー・セント・クレアー戦にもスーパー・マシーンと共に乱入し、猪木をジャイアント・ボンバーでKOした[32]。この経緯から、ジャイアント・マシーンは「正体バレバレの覆面レスラー」と呼ばれた[32]。マシーン軍団はWWFでもコピーされたため、アメリカにも同様のギミックで登場したことがある[33]。キャリア晩年に使用していた黒のワンショルダー・タイツは、この頃の名残である。なお、ジャイアント・マシーンの正体は公然の秘密だったが、相棒であったスーパー・マシーンについては、WWFオフィシャル発表では「北海道生まれの日本人」ということにされていた。アンドレもそれに合わせ、プロモーション用のインタビューで珍妙な日本語を話したり、お辞儀をしたりなどしていた。
WWFと新日本プロレスの提携解消後も、1986年まで新日本プロレスに参戦し、4月29日にはUWFの前田日明との不穏試合も行われている[34]。5月開幕のIWGPチャンピオン・シリーズでは、6月17日の愛知県体育館における公式戦にて、猪木に腕固めで初のギブアップ負けを喫した[35][27]。それ以降、しばらく来日が途絶えていたが、1990年4月13日に東京ドームで開催された日米レスリングサミットにて久々に日本マットに登場し、ジャイアント馬場と大巨人コンビを結成[18]。同年9月30日、馬場のデビュー30周年記念試合でタッグながら初対決してからは全日本プロレスへ主戦場を移し、1990年、1991年と世界最強タッグ決定リーグ戦には馬場との大巨人コンビで出場し、1991年には準優勝している[18]。しかしコンディションはどんどん悪化したため、1992年からは馬場や木村のファミリー軍団に加わり、悪役商会との明るく楽しいプロレスが中心となった[18]。しかし、10月21日に日本武道館で行われた全日本プロレス創立20周年記念試合(馬場&ハンセン&ドリー・ファンク・ジュニアVSジャンボ鶴田&アンドレ&テリー・ゴディ戦)では、アンドレVSハンセンの対決が再び実現[18]。アンドレの動きは全盛期とは程遠かったものの、ハンセンのウエスタン・ラリアットを喰らっても倒れず、ロープにもたれる程度に踏み留まってみせるなど、最後の最後まで怪物ぶりを見せつけた。
なお、アメリカではベビーフェイスの人気選手として活躍していたが、新日本プロレスではヒールのポジションに回った。もっとも日本でも、ザ・シークやフレッド・ブラッシーのようなスタイルのヒールを演じていたわけではなく、馬場をも凌ぐ圧倒的な巨体と強さのためにヒール扱いされてしまったものである。しかし、アンドレは日本におけるヒールとしての役割を受け入れ、「日本人嫌い」というイメージが損なわれないようサインなどのファンサービスはほとんど行わず、マスコミの取材に応じることも少なかった[36][37]。
一転して全日本プロレスへ参戦していた当時のアンドレは、馬場とコンビを組んでいたこともあって、新日本時代とは異なり完全なベビーフェイスとなった。全日本登場第1戦から出番のたびに大アンドレ・コールで迎えられ、笑顔でファンの声援に応じたり、入場時の花束贈呈の際には、花束を受け取るとブーケ・トスのように後方の客席に投げてプレゼントしたり、コールの時には二本指を立てて腕を上げるアピールも見せていた。一方、自分を化け物扱いして奇異の目で見ていたため実際はこの頃も日本人が嫌いであったといい、そんなアンドレの孤独を理解していたのは同じ巨人レスラーである馬場であったと伝わる[38][39]。
また、初来日を果たし、北米進出の契機にもなった国際プロレスに対するアンドレの思い入れは非常に深く[40]、1974年の新日本移籍後も、同年6月と1979年7月に国際プロレスに特別参加したことがある(1979年の参戦時には、7月20日に秋田県大館市において木村のIWA世界ヘビー級王座に挑戦した[41][42])。日本での親友でもあったマイティ井上の談では、ギャラについても「いくらでもいい」などと語っていたという(後述)[40]。
1993年1月27日に死去したため、生涯最後の試合は1992年12月4日、日本武道館における馬場&木村とトリオを組んでの6人タッグマッチ(VS大熊元司&永源遙&渕正信)で、アンドレが自身のラリアットと馬場のチョップのW攻撃からヒップ・プレスで大熊をフォールした[43]。アンドレの死去の前月に大熊も死去しており、奇しくも同試合は大熊の最後の試合でもあった。
技ではないが、トップロープとセカンドロープの間に両腕を絡める独自のムーブを持っている。明らかにアンドレ自身が故意に腕を絡めているのだが「アンドレの巨体によってロープがたわむハプニングで腕が絡まってしまった」と見るのが礼儀。両腕が塞がれているためアンドレは身動きが取れず、対戦相手がアンドレに向かっていくが逆にカウンターキックを見舞われてしまうのが一連の流れ。ちなみに、相手にカウンターキックを放った後、いとも簡単に両腕をロープから外す。タッグマッチではこれで身動きが取れない間にパートナーがフォールを奪われる、という流れになる。
2018年現在では、生前のアンドレに匹敵する体格を持つWWEの大型選手グレート・カリ、ビッグ・ショーも、試合でこのロープに絡まるムーブを度々披露している。ちなみに元新日本プロレスのレフェリーであったミスター高橋は試しにそれを実践してみたことがあるが、ロープが固く腕に巻きついて腕が折れそうになり、とてもではないが出来なかったという。このムーブはアンドレ並の巨体を持った者のみに可能なものだった。
新日本プロレス時代に日本で制作されたオリジナルの入場テーマ曲『ジャイアント・プレス』は、没後も日本マットに登場した巨人プロレスラーや格闘家に用いられた。この曲はテレビ放送でも使われている。WWFにおいても、マシーンズの入場テーマ曲として使用されていた。ヒール転向後のWWF時代は、1980年代後半当時では珍しい「テーマ曲なし」で入場していた。
アメリカではその巨体から怪物的なキャラクターとして映画、ドラマにたびたび出演していた。
その巨体ゆえに、1970年代後半から1980年代中頃にかけてはアンドレをボディスラムで投げることがレスラーのステイタスとされていた。同時期、アメリカ人レスラーでは1978年10月13日にハーリー・レイス、1980年8月9日にハルク・ホーガン、1981年9月23日にスタン・ハンセンがボディスラムに成功している[50](レイスは1979年にも、場外でボディスラムを放っている[51])。日本では報じられることはなかったが、ブラックジャック・マリガンも1982年9月18日、WWFのフィラデルフィア大会における6人タッグマッチでアンドレを投げている[52]。また、試合中ではなく試合後の乱闘シーンにおいてだが、カマラも1983年2月12日、ルイジアナ州シュリーブポートでのMSWAのハウス・ショーでアンドレをボディスラムで投げている[50][51]。
メキシコでは1984年にカネック、オーストリアでは1986年にオットー・ワンツもボディスラムに成功しており[51]、ブルーザー・ブロディも1978年にオーストラリアで投げたというが、これは非公式記録となっている。日本人では1980年6月4日[53]と1983年12月2日にアントニオ猪木、1984年6月1日に長州力が投げているが、アンドレが全盛時ほどの重量ではなかった1972年5月6日にはストロング小林もボディスラムを放っており[50][51]、同年はシカゴでブッチャー・バション[50][51]、カナダのモントリオールでダグ・ギルバート[54][55][56]にも投げられている。
アンドレ自身は「俺は気心の知れた奴にしかボディスラムを許さなかった」とハンセンに語っていた[57]。新間寿は、猪木に投げられた時は「私はそこにはアンドレの思いやりがあったと思っている」と回想している[26]。これらの証言から、踏ん張った状態の全盛期のアンドレを本当に投げることのできたレスラーがどれだけ居たのかは不明(体力的な衰えが顕著となった1980年代後半からは、WWFにおいてホーガンやアルティメット・ウォリアーに投げられた)。なお、ツープラトン行為ではワイルド・サモアンズ、ケン・パテラ&ボビー・ダンカン、パテラ&ビッグ・ジョン・スタッド、猪木&藤波辰巳などが2人がかりでボディスラムを放っている[50][51]。
カール・ゴッチは1971年4月30日、国際プロレスのリングでモンスター・ロシモフ時代のアンドレをジャーマン・スープレックスで投げ切っている[58]。当時のアンドレは全盛時ほどの体重ではなかったものの、これがスープレックス技でアンドレを投げた最初の記録とされている[注 1][58]。
その後、ローラン・ボックも1979年12月15日にドイツのジンデルフィンゲンで行われた試合でアンドレを「背後から持ち上げ、仰向けに叩きつけるスープレックス」で投げたと発言しているが、これはジャーマン・スープレックスを放とうとしてバランスが崩れ、結果的にバックドロップのような形で投げたものと考えられている[59]。その写真は『週刊ファイト』の1982年1月5日号に掲載されたが、この試合のVTRを観た同紙の記者は、ボックはバックドロップ以外にも「ダブルアーム・スープレックスでジャイアントを斜め横ながら投げ捨てた」と報じている[59]。
アンドレは酒豪として知られ、特にビールやワインの消費量については様々な伝説が残されている。
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