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日本のプロレス解説者、元プロレスラー、レフェリー (1949-2024) ウィキペディアから
マイティ井上(マイティいのうえ / Mighty Inoue、1949年4月12日 - 2024年11月27日)は、大阪府大阪市福島区出身。血液型A型。日本の元プロレスラー、元レフェリー、解説者。本名:井上 末雄(いのうえ すえお)。リングネームの「マイティ」は新人時代にコーチを務めていたマティ鈴木が由来。
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大阪学院大学高等学校時代は柔道を行い、高校卒業(後述)後に国際プロレス入り。1967年7月21日、名古屋市金山体育館における仙台強戦でデビュー。小林省三、藤井康行とともにマティ鈴木のコーチを受ける。1970年8月からは小林と共にヨーロッパ遠征に出向き、ミッキー・イノウエ(Mikki Inoue)のリングネームで活動した。1971年3月2日に東京で行われた日本プロレスとの興行戦争を受けて一時帰国し、ビル・ミラーと対戦した後[2]、再度海外遠征に出立。カナダのモントリオール地区では日系ヒールのミツ荒川のパートナーとなり、エドワード・カーペンティアやジョー・ルダックと対戦した[3]。
1972年10月の帰国後はラッシャー木村、サンダー杉山、グレート草津らに次ぐエース候補と期待され、得意技のサマーソルト・ドロップ(サンセット・フリップ)と、中あんこ型の体型で一躍人気を得た。同じような体型のDRAGON GATE所属レスラー、ドン・フジイは、井上を目標にしていると発言している。1973年2月27日にはホセ・クィンテロと自身初の金網デスマッチを行っている[4]。
1974年10月7日、スーパースター・ビリー・グラハムを破りIWA世界ヘビー級王座を獲得。井上は10月1日と10月5日にもグラハムに挑戦したがいずれも敗れており、三度目の正直での戴冠となった[5]。25歳にして先輩の木村・草津を追い抜き国際プロレスのエースとなった。同年11月4日、レイ・スティーブンスを破り初防衛に成功し、11月21日にはAWA世界ヘビー級王者バーン・ガニアとダブルタイトル戦を行い引き分けている。翌1975年も2月2日にダニー・リンチの挑戦を退けたが、4月10日にマッドドッグ・バションに敗れ王座転落。エースとしては半年程度の短命政権だった。その後は草津、アニマル浜口、阿修羅・原と組んでIWA世界タッグ王座を保持、2〜3番手のポジションで戦った。特に浜口とは全日本プロレスとの対抗戦の際にアジアタッグ王座も獲得した名コンビで、「和製ハイ・フライヤーズ」または「浪速ブラザーズ」などと呼ばれ、ワイルド・サモアンズ、上田馬之助&マサ斎藤、大木金太郎&上田、ジプシー・ジョー&キラー・ブルックス、ジョー&キラー・カール・クラップ、マイク・ジョージ&ボブ・スウィータンなどの強豪チームを相手に王座を防衛した。原とのコンビでは、1981年8月8日に行われたジェリー・オーツ&テリー・ギッブスとの防衛戦において、国際プロレス最後の金網タッグ・デスマッチを行っている。
1981年に国際プロレスが崩壊してからは、原、菅原伸義、冬木弘道と共に全日本プロレスに移籍。10月9日の蔵前国技館大会では、ミル・マスカラスが保持していたIWA世界ヘビー級王座(かつて自身が保持していた国際プロレス版とは別のタイトル)に挑戦した[6]。1982年9月から10月にかけてはドイツのハノーバーに遠征して、クラウス・ワラス、ムース・モロウスキー、ブッチャー・ブラニガン、トニー・セント・クレアー、エイドリアン・ストリート、エド・ウィスコスキー、スティーブ・ライト、ミレ・ツルノ、そして国際プロレス時代の旧敵ヤス・フジイやビッグ・ジョン・クインとも対戦した[7]
全日本ではジャイアント馬場、ジャンボ鶴田など大型揃いのヘビー級に比べジュニアヘビー級が手薄であったことから、110kgだったウェイトを105kgに落としジュニア戦線に転じ、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座、原や石川敬士と組んでのアジアタッグ王座などのベルトを巻く(その頃オースイ・スープレックスという技をよく使っていた)。ジュニア王座戴冠時には、国際プロレス時代にも流血の抗争を展開したジプシー・ジョーの挑戦も受けた。その後は中堅選手として永源遙や渕正信らとのユニット「悪役商会」で馬場率いる「ファミリー軍団」との凄絶なお笑い抗争を繰り広げるも、1997年4月に内臓疾患のため長期欠場。結局1998年6月に現役を引退し、8月からはレフェリーに転向した。レフェリー転向直後はその余りにぎこちないレフェリングが逆に観客から大受けをしており、試合をしているレスラーを食ってしまうこともあった。
2000年の全日大量離脱、プロレスリング・ノア旗揚げの一連の動きに当たっては離脱側に賛同し、ノア移籍後もレフェリーを務めていた。赤いコスチュームがトレードマークであり、主に永源vs百田光雄などの前座試合のレフェリングを担当していた。レフェリングは主に「言葉のプロレス」が主体である。ノア移籍後はレフェリー紹介の際、観衆から一斉に「マァイティーー!!」と呼ばれるのがお約束となっていた。これは全日本時代のジョー樋口の「ジョー!!」や、全日本に残留した和田京平の「キョーヘー!!」のコールからの伝統である。2003年からはテレビ中継解説も行っていた。
ヨーロッパへの遠征経験が豊富で、また所属していた国際プロレスにはヨーロッパの外国人選手が多く参戦していたこともあり外国語が堪能である。このことを生かして外国人係も兼務し、リッキー・マルビン、バイソン・スミスら常連外国人選手からは非常に頼りにされていた。ノアは外国人選手がどちらかと言うと目立たないが「うちの外国人レスラーはいい選手が多いよ」と常に外国人選手をカバーする側に回っていた。
2009年12月31日付でレフェリー契約が満了となりノアを退団。その日行われた天下三分の計・大晦日年越しスペシャルに選手として出場した。
2010年5月22日、ノアの後楽園ホール大会「マイティ井上レフェリー引退記念興行」のレフェリングを最後に引退した。
その後は宮崎県都城市に在住[8]しており、2019年2月19日の両国国技館で行われた「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」第1試合の「ジャイアント馬場メモリアルバトルロイヤル」でレフェリーを務めた。その後は糖尿病や腎臓に病を抱えるなど体調を崩していたこともあり、2023年11月より兄の住む兵庫県神戸市内へ生活拠点を移していた。一時は体調が回復し、2024年10月6日には井上がIWA世界ヘビー級王座獲得から50年目を迎えることを記念して、東京・水道橋で開催された「マイティ井上プレミアム・トーク・ライブ」にも登場していた[9]。しかし、その約1か月後となる同年11月27日、兄に付き添われて病院へ通院する最中に意識を失って倒れ救急搬送されたが、同日9時59分、心室細動のため、神戸市内の病院で死去した[10]。75歳没。
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