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ジョー・ルダック

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ジョー・ルダック
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ジョー・ルダックJos LeDuc、本名:Michel Pigeon1944年8月31日 - 1999年5月1日)は、カナダプロレスラーケベック州モントリオール出身のフランス系カナダ人ケベック人)。

概要 ジョー・ルダック, プロフィール ...

ネルシャツジーンズをコスチュームに、カナダのランバージャックギミックとしたパワーファイターとして、カナダ各地をはじめアメリカ合衆国の主要テリトリーで活躍した[1][2]

より原音に近いリングネームの読みは「ジョー・ルデューク」だが、本項では日本で定着している表記を使用する。

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来歴

要約
視点

ケベックの警察官を経て、同郷のポール・ルダックの勧めでプロレスラーに転向[1]1968年のデビュー後はポールの弟のジョー・ルダックJos LeDuc / Joe LeDuc)を名乗り、ルダック・ブラザーズとして地元のモントリオールカルガリーなどカナダの激戦区を転戦する[1]。シングルでもモントリオールIWAのインターナショナル・ヘビー級王座を獲得し[3]マッドドッグ・バションキラー・コワルスキーなどのビッグネームとも対戦した。1971年3月には日本プロレスの第13回ワールド・リーグ戦に初来日[4]。翌1972年3月の第14回大会にも、リングネームをカナディアン・ランバージャックThe Canadian Lumberjack)に変えて連続出場している[5]

1973年より、ポールとのルダック・ブラザーズでアメリカ南部NWAフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)に参戦[6]ベビーフェイスの兄弟チームとして活動し、当時まだヒールだったダスティ・ローデスディック・スレーターのコンビからフロリダ・タッグ王座を奪取した[7]1974年には、同じくギミック上の兄弟であるマッドドッグ&スタン・バションのバション・ブラザーズとの「兄弟タッグ抗争」も展開された[8]

ルダック・ブラザーズ解散後はバーン・ガニア主宰のAWAに登場。ラリー・ヘニングと組んで1975年バリアント・ブラザーズと抗争し、1976年にはブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンAWA世界タッグ王座に再三挑戦、ニック・ボックウィンクルAWA世界ヘビー級王座にも挑んだ[9]1978年テネシー州メンフィスCWAジェリー・ローラーモンゴリアン・ストンパーと抗争[10]。この時期よりヒールでの活動が増え、古巣のフロリダでも当初はベビーフェイス陣営でオックス・ベーカーパク・ソンと抗争していたが、1979年ヒールターンを行い、同地区のヒーローとなっていたローデスと遺恨試合を展開した[11]。フロリダでは1977年から1979年にかけて、タンパマイアミビーチにてハーリー・レイスNWA世界ヘビー級王座に度々挑戦している[12]

1979年9月、国際プロレスへの参戦で7年半ぶりの来日が実現。10月3日に黒石にてラッシャー木村IWA世界ヘビー級王座に挑戦し[13]、当時木村と抗争していた上田馬之助とも共闘した[14]。この来日時には、10月5日に国際プロレスに特別参戦(上田と組んでマイティ井上&アニマル浜口IWA世界タッグ王座に挑戦)した大木金太郎の代役として、同日に行われた横浜での全日本プロレスのシリーズ開幕戦に出場してグレート小鹿と対戦している[15]。翌1980年4月の再来日では、4月30日に弘前にて木村のIWA世界ヘビー級王座に再挑戦[13]。5月15日には大宮で大木のインターナショナル・ヘビー級王座にも挑戦したが[16]、同時参加していたマイク・ジョージの活躍に食われ、目立った戦績を残すことはできなかった[17]

1981年ニュージーランドに遠征して、マーク・ルーインと英連邦ヘビー級王座を巡る抗争を展開[18]。アメリカに戻るとアラバマ地区でキラー・カール・コックスボブ・アームストロングロン・フラーテリー・ゴディジャック・ルージョー・ジュニアらとサウスイースタン・ヘビー級王座を争った[19]1982年からはジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナNWAミッドアトランティック地区に進出、9月19日にジミー・バリアントを破ってTV王座を獲得している[20]。不正があったとしてタイトルを一時剥奪されるも、翌1983年4月30日、スレーターを十八番のランバージャック・デスマッチで葬り、王座に返り咲いた[20]

以降もフロリダ、アラバマ、テネシー、ジョージアジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)など南部エリアを転戦。古巣のフロリダでは1983年7月23日にスコット・マギー、9月18日にバリー・ウインダムを破り、1978年以来となるフロリダ・ヘビー級王座への戴冠を果たす[21]。テネシーでは当初はベビーフェイスとして、ローラーと組んで1984年3月12日にイライジャ・アキーム&カリーム・モハメッドからAWA南部タッグ王座を奪取したが、1週間後にローラーを裏切ってタイトルは空位となり[22]、以降はジミー・ハートマネージャーに迎えてローラーとの抗争を再開した[23]。同年4月には全日本プロレスに来日[24]。帰米後の5月にはテキサスサンアントニオ地区にて、全日本に同時参戦していたブルーザー・ブロディとの連戦が行われた[25]

地元のモントリオール(ジノ・ブリットらが主宰していたインターナショナル・レスリング)ではベビーフェイスに戻り、1984年下期から1985年上期にかけて、アブドーラ・ザ・ブッチャーセーラー・ホワイトマスクド・スーパースターキング・トンガレオ・バークらと抗争[25]ディノ・ブラボーリック・マーテルのパートナーとなってロード・ウォリアーズとも対戦した[25]。1985年下期からは再びヒールとなり、インターナショナル・レスリングとWWFの合同興行ではトニー・アトラスS・D・ジョーンズと対戦[26]。11月15日にはティト・サンタナが保持していたインターコンチンネンタル・ヘビー級王座に挑戦している[27]1986年ダラスWCCWに参戦してリック・ルードディンゴ・ウォリアーと共闘した[28]

WWFには1988年4月から7月にかけても、フレンチ・マーチンをマネージャーに迎えて短期間参戦しており[29]ハルク・ホーガンの主演映画 "No Holds Barred" にもザ・ヘッドバンガーThe Headbanger)の役名で出演[30]。WWFではブッチャー・ルダックButcher LeDuc)とも名乗り、ラニー・ポッフォスコット・ケーシーサム・ヒューストンなどから勝利を収めている[31]

1989年12月、FMWへの参戦で5年半ぶりの来日が実現。栗栖正伸と組んで大仁田厚ターザン後藤と対戦し、12月10日の後楽園ホール大会では、ディック・マードックとの外国人同士のチェーン・デスマッチが行われた[32]1990年代もインディー団体へのスポット出場を続け、1992年ジム・コルネットが主宰するスモーキー・マウンテン・レスリングに登場した。1995年には、ジャッキー・ファーゴフィル・ヒッカーソンエディ・ギルバートらと共に "Memphis Wrestling Hall of Fame" に迎えられている。

1999年5月1日、肺感染症のため54歳で死去[2]。生涯最後の試合は1995年6月10日、テネシー州メンフィスのUSWA(かつて主戦場としていたCWAの後継団体)で行われたイベント "Memphis Memories II" における、ヒッカーソンと組んでの旧敵ローラー&バリアント戦だった[25]

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得意技

獲得タイトル

スタンピード・レスリング
  • NWAインターナショナル・タッグ王座(カルガリー版):1回(w / ポール・ルダック)[33]
IWAモントリオール / グランプリ・レスリング
  • IWAインターナショナル・ヘビー級王座:1回[3]
  • IWAタッグ王座:1回(w / Tony Baillargeon)[34]
  • GPWタッグ王座:2回(w / ポール・ルダック)[35]
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
コンチネンタル・レスリング・アソシエーション
サウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング
ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング
オールスター・プロレスリング
  • NWA英連邦ヘビー級王座:2回[18]
ワールド・レスリング・カウンシル
  • WWC北米ヘビー級王座:1回[41]

脚注

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外部リンク

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