ジャック・ルージョー

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ジャック・ルージョー

ジャック・ルージョーJacques Rougeau, Jr.1960年6月13日 - )は、フランス系カナダ人の元プロレスラーケベック州サン=シュルピス出身。WWFではザ・マウンティーThe Mountie)のリングネームで活躍した。

概要 ジャック・ルージョー, プロフィール ...
ジャック・ルージョー
Thumb
1983年
プロフィール
リングネーム ザ・マウンティー
ジャック・ルージョー
ジャック・ルージョー・ジュニア
ケベッカー・ジャック
ジェリー・ロバーツ
ジミー・ルージョー
本名 ジャック・ルージョー・ジュニア
ニックネーム 悪徳騎馬警官
身長 191cm
体重 108kg - 113kg
誕生日 (1960-06-13) 1960年6月13日(64歳)
出身地 カナダ
ケベック州
ラノディエール地域
サン=シュルピス
トレーナー ジャック・ルージョー・シニア
デビュー 1977年
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実兄レイモンド・ルージョーとのファビュラス・ルージョー・ブラザーズや、ピエール・カール・ウエレとのザ・ケベッカーズなど、タッグ・プレイヤーとしての活躍も知られる[1]

父親のジャック・ルージョー・シニアは元NWF世界ヘビー級王者であり、モントリオール地区のプロモーターでもあった[2]。息子のジャン=ジャック・ルージョーとセドリック・ルージョーもプロレスラーである[1]

来歴

要約
視点

1977年のデビュー当初はジミー・ルージョーJimmy Rougeau)と名乗り、スチュ・ハートが主宰していたカルガリースタンピード・レスリングにて活動。ベビーフェイスのグリーンボーイとして、ネイル・グアイミスター・ヒトミシェル・マーテルJ・J・ディロンらと対戦してキャリアを積んだ[3][4]

1970年代末からは、ジェリー・ロバーツJerry Roberts)のリングネームアメリカNWA圏にも進出。ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングでは、1979年3月10日のTVテーピングにてリック・フレアージョバーを務めた[5]。同地区では海外再修行時代の天龍源一郎ともタッグを組み、ブラックジャック・ランザ&マスクド・スーパースターオレイ・アンダーソン&イワン・コロフなどのチームと対戦している[6]1980年には中西部セントラル・ステーツ・レスリングにおいて、ブルース・リードと組んでマイク・ジョージ&ボブ・スウィータンを破り、NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座を獲得した[7]

その後はリングネームを本名に戻し、ジノ・ブリットディノ・ブラボーが運営していた地元モントリオールのインターナショナル・レスリング(Lutte Internationale)を主戦場に、1982年から1985年にかけて兄レイモンド・ルージョーとのコンビで活躍。パット・パターソンビル・ロビンソンフレンチ・マーチンセーラー・ホワイトキング・トンガらのチームとカナディアン・インターナショナル・タッグ王座を争った[8]

並行してアラバマサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリングテネシーコンチネンタル・レスリング・アソシエーションなどアメリカ南部のテリトリーにも参戦。アラバマでは1981年にNWAサウスイースタン・ヘビー級王座をジョー・ルダックから、同年11月にNWAアラバマ・ヘビー級王座をデニス・コンドリーからそれぞれ奪取[9][10]。テネシーではボビー・イートンらとミッドアメリカ・ヘビー級王座を争い[11]1983年1月30日にはテリー・テイラーを下してAWA南部ヘビー級王座を獲得した[12]

1986年、兄レイモンドと共にWWF入り。当初は従前と同様ベビーフェイスのポジションだったが、1988年からジミー・ハートマネージャーに迎え、ファビュラス・ルージョー・ブラザーズThe Fabulous Rougeau Brothers)として嫌味なフレンチ・カナディアンのヒールに転向[13]ブリティッシュ・ブルドッグスダイナマイト・キッドとはリング内外で抗争を展開した[14]1990年12月にはSWSに初来日している[15]。同年にルージョー・ブラザーズを解散し、一時WWFを離脱(レイモンドは引退してWWFのフランス語実況のカラー・コメンテーターを担当)[13]

1991年、カナダの王立騎馬警察ギミックとした新キャラクター、ザ・マウンティーThe Mountie)に変身してWWFに再登場。"Canadian Law & Order" を自称し、刑務官ギミックのビッグ・ボスマンと抗争を繰り広げた[16]1992年1月17日にはブレット・ハートからWWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座を奪取するが[17]、1月19日のロイヤルランブルロディ・パイパーに敗れて陥落[18]。文字通りの三日天下に終わった[17]

1993年、ピエールことカール・ウエレとのタッグチームザ・ケベッカーズThe Quebecers)を結成。ジョニー・ポロをマネージャーに、9月13日にリック&スコットスタイナー・ブラザーズからWWF世界タッグ王座を奪取する[19]。その後も1994年1月17日にマーティ・ジャネッティ&1-2-3キッド、同年3月31日にモー&メイブルのメン・オン・ナ・ミッションを破り、通算3回に渡って戴冠した[19]

1994年に一時引退するが、1996年にピエールとのコンビを再結成し、アメイジング・フレンチ・カナディアンズThe Amazing French Canadians)のチーム名でWCWに登場。ナスティ・ボーイズハーレム・ヒートと対戦した[20]1997年4月11日に行われた地元モントリオールのハウス・ショーでのメインイベントでは、ハルク・ホーガンとのシングルマッチでフォール勝ちを収めている[21]。ホーガンはモントリオールのプロレスファンの英雄的存在であるルージョー・ファミリーに敬意を表し、自分が負けるブックを自ら提案したという[22][23]

その後、1998年のWWF、2000年のWCW再登場を経て引退。引退後はモントリオールで自身の団体 "Lutte Familiale" を主宰しつつ、レスリング・スクールを運営して若手選手の指導・育成に携わっている[2]2011年12月27日のルパンティニーにおけるイベントでは、息子のジャン=ジャック・ルージョー(JJ・ルージョー)との親子タッグでクルガン&フランク・ザ・マシーンから勝利を収めた[24]

得意技

獲得タイトル

インターナショナル・レスリング
セントラル・ステーツ・レスリング
サウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング
  • NWAサウスイースタン・ヘビー級王座:1回[9]
  • NWAアラバマ・ヘビー級王座:1回[10]
コンチネンタル・レスリング・アソシエーション
  • ミッドアメリカ・ヘビー級王座:2回[11]
  • AWA南部ヘビー級王座:1回[12]
ワールド・レスリング・フェデレーション

脚注

外部リンク

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