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ジャック・ルージョー(Jacques Rougeau, Jr.、1960年6月13日 - )は、フランス系カナダ人の元プロレスラー。ケベック州サン=シュルピス出身。WWFではザ・マウンティー(The Mountie)のリングネームで活躍した。
実兄レイモンド・ルージョーとのファビュラス・ルージョー・ブラザーズや、ピエール・カール・ウエレとのザ・ケベッカーズなど、タッグ・プレイヤーとしての活躍も知られる[1]。
父親のジャック・ルージョー・シニアは元NWF世界ヘビー級王者であり、モントリオール地区のプロモーターでもあった[2]。息子のジャン=ジャック・ルージョーとセドリック・ルージョーもプロレスラーである[1]。
1977年のデビュー当初はジミー・ルージョー(Jimmy Rougeau)と名乗り、スチュ・ハートが主宰していたカルガリーのスタンピード・レスリングにて活動。ベビーフェイスのグリーンボーイとして、ネイル・グアイ、ミスター・ヒト、ミシェル・マーテル、J・J・ディロンらと対戦してキャリアを積んだ[3][4]。
1970年代末からは、ジェリー・ロバーツ(Jerry Roberts)のリングネームでアメリカのNWA圏にも進出。ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングでは、1979年3月10日のTVテーピングにてリック・フレアーのジョバーを務めた[5]。同地区では海外再修行時代の天龍源一郎ともタッグを組み、ブラックジャック・ランザ&マスクド・スーパースター、オレイ・アンダーソン&イワン・コロフなどのチームと対戦している[6]。1980年には中西部のセントラル・ステーツ・レスリングにおいて、ブルース・リードと組んでマイク・ジョージ&ボブ・スウィータンを破り、NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座を獲得した[7]。
その後はリングネームを本名に戻し、ジノ・ブリットやディノ・ブラボーが運営していた地元モントリオールのインターナショナル・レスリング(Lutte Internationale)を主戦場に、1982年から1985年にかけて兄レイモンド・ルージョーとのコンビで活躍。パット・パターソン、ビル・ロビンソン、フレンチ・マーチン、セーラー・ホワイト、キング・トンガらのチームとカナディアン・インターナショナル・タッグ王座を争った[8]。
並行してアラバマのサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリングやテネシーのコンチネンタル・レスリング・アソシエーションなどアメリカ南部のテリトリーにも参戦。アラバマでは1981年にNWAサウスイースタン・ヘビー級王座をジョー・ルダックから、同年11月にNWAアラバマ・ヘビー級王座をデニス・コンドリーからそれぞれ奪取[9][10]。テネシーではボビー・イートンらとミッドアメリカ・ヘビー級王座を争い[11]、1983年1月30日にはテリー・テイラーを下してAWA南部ヘビー級王座を獲得した[12]。
1986年、兄レイモンドと共にWWF入り。当初は従前と同様ベビーフェイスのポジションだったが、1988年からジミー・ハートをマネージャーに迎え、ファビュラス・ルージョー・ブラザーズ(The Fabulous Rougeau Brothers)として嫌味なフレンチ・カナディアンのヒールに転向[13]。ブリティッシュ・ブルドッグスのダイナマイト・キッドとはリング内外で抗争を展開した[14]。1990年12月にはSWSに初来日している[15]。同年にルージョー・ブラザーズを解散し、一時WWFを離脱(レイモンドは引退してWWFのフランス語実況のカラー・コメンテーターを担当)[13]。
1991年、カナダの王立騎馬警察をギミックとした新キャラクター、ザ・マウンティー(The Mountie)に変身してWWFに再登場。"Canadian Law & Order" を自称し、刑務官ギミックのビッグ・ボスマンと抗争を繰り広げた[16]。1992年1月17日にはブレット・ハートからWWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座を奪取するが[17]、1月19日のロイヤルランブルでロディ・パイパーに敗れて陥落[18]。文字通りの三日天下に終わった[17]。
1993年、ピエールことカール・ウエレとのタッグチーム、ザ・ケベッカーズ(The Quebecers)を結成。ジョニー・ポロをマネージャーに、9月13日にリック&スコットのスタイナー・ブラザーズからWWF世界タッグ王座を奪取する[19]。その後も1994年1月17日にマーティ・ジャネッティ&1-2-3キッド、同年3月31日にモー&メイブルのメン・オン・ナ・ミッションを破り、通算3回に渡って戴冠した[19]。
1994年に一時引退するが、1996年にピエールとのコンビを再結成し、アメイジング・フレンチ・カナディアンズ(The Amazing French Canadians)のチーム名でWCWに登場。ナスティ・ボーイズやハーレム・ヒートと対戦した[20]。1997年4月11日に行われた地元モントリオールのハウス・ショーでのメインイベントでは、ハルク・ホーガンとのシングルマッチでフォール勝ちを収めている[21]。ホーガンはモントリオールのプロレスファンの英雄的存在であるルージョー・ファミリーに敬意を表し、自分が負けるブックを自ら提案したという[22][23]。
その後、1998年のWWF、2000年のWCW再登場を経て引退。引退後はモントリオールで自身の団体 "Lutte Familiale" を主宰しつつ、レスリング・スクールを運営して若手選手の指導・育成に携わっている[2]。2011年12月27日のルパンティニーにおけるイベントでは、息子のジャン=ジャック・ルージョー(JJ・ルージョー)との親子タッグでクルガン&フランク・ザ・マシーンから勝利を収めた[24]。
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