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日本の大相撲力士、プロレスラー (1941 - 2010) ウィキペディアから
ラッシャー木村(ラッシャーきむら / Rusher Kimura、1941年6月30日 - 2010年5月24日[1])は、日本のプロレスラー、大相撲力士。本名:木村 政雄(きむら まさお)。北海道中川郡中川町出身。
後期のエースを務めた国際プロレスでは金網デスマッチの鬼の異名を持つブルファイターとして活躍し、新日本プロレス参戦時は国際軍団の総帥としてアントニオ猪木と抗争を繰り広げ、全日本プロレスおよびプロレスリング・ノア在籍時はユーモアあふれるマイク・パフォーマンスで親しまれた。
2003年よりプロレスリング・ノア終身名誉選手会長。
佐久中学校を経て北海道天塩高等学校に進学、ポール牧と同級生であった。夢であるプロレスラーになるための基礎体力作りとして、高校を中退して大相撲の宮城野部屋に入門[2]。
1958年3月場所にて、木ノ村(きのむら)の四股名で初土俵を踏む。幕下20枚目まで昇進したが「十両に上がったら辞められなくなる」[3]という理由で1964年9月場所限りで、親方(元横綱・吉葉山)の慰留を振り切り脱走して廃業した。とされているが、昭和39年7月場所と9月場所で連続1勝6敗と負け越しが続き、三段目への降格が確定していた。
大相撲廃業後、1964年10月に日本プロレスに入団[4]。1965年4月2日、木村 政美(きむら まさみ)をリングネームに、リキ・スポーツパレスにおける高崎山猿吉戦でデビューする[3]。
豊登の付き人をしていた関係から、翌1966年に豊登が興した東京プロレスの旗揚げに参加し、1967年の東京プロレス崩壊後は吉原功に口説かれて国際プロレスに移籍[4]。本名の「木村 政雄」として活動した後、1969年1月1日にリングネームを「ラッシャー木村」に改名[5]。同年4月20日、サンダー杉山と組んでスタン・スタージャック&タンク・モーガンを破り、TWWA世界タッグ王座を獲得[6]、初戴冠を果たす。以降、ドリー・ディクソン&モーガン、ジャン・ウィルキンス&チーフ・ダニー・リトルベア、スタン・ザ・ムース&ニキタ・マルコビッチなどのチームと防衛戦を行った後、8月に王座を返上して渡米した[7]。
アメリカでは中西部のカンザスおよびミズーリを拠点とするNWAセントラル・ステーツ地区を主戦場に、後に日本で流血の抗争を展開することになるキラー・トーア・カマタとタッグを組み、ロニー・エチソン、モンゴリアン・ストンパー、アーニー・ラッド、KO・コックス、ボブ・ガイゲル、ロジャー・カービー、ティム・ブルックスなどと対戦[8]。当時のNWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアとも対戦し、覆面を被ってシャチ横内とジ・インベーダーズ(The Invaders)なるタッグチームを結成していたこともある[4]。
1970年8月に凱旋帰国し、10月8日には大阪府立体育館にてドクター・デスを相手に、日本初の金網デスマッチを行う。同デスマッチ第2戦となる12月12日のオックス・ベーカー戦で左足を複雑骨折する重傷を負うも、第3戦となる1971年3月2日のザ・クエッション戦はギプスを装着して強行出場した。以降もバスター・マシューズ、ダニー・リンチ、カーティス・イヤウケア、バロン・シクルナ、バディ・オースチン、ラーズ・アンダーソン、スカンドル・アクバ、リック・フレアー、オレイ・アンダーソン、ザ・ブルート、レネ・グレイ、セーラー・ホワイト、バロン・フォン・ラシク、レイ・スティーブンス、マッドドッグ・バション、カマタ、ブッチャー・ブラニガン、ジプシー・ジョー、ピエール・マーチン、ギル・ヘイズ、リッパー・コリンズらに連勝。金網デスマッチでは不敗を誇り、金網の鬼(Demon of the Steel Cage)の異名が定着した[4]。1974年6月5日には米沢にて、ホワイトと日本初の金網チェーン・デスマッチを行っている。
タッグでは1971年9月、TWWA世界タッグ王座戴冠時のパートナーだった杉山と組み、グレート草津の海外遠征による返上で空位となっていたIWA世界タッグ王座をレッド・バスチェン&ビル・ハワードと争う。9月7日の新王者チーム決定戦では敗退するも、9月23日に再び杉山と組み、新王者チームのバスチェン&ハワードを破ってIWA世界タッグ王座を初奪取[9]。以降、1972年の木村の再渡米に伴う王座返上まで、リンチ&ラシク、ブロンド・ボンバーズ、ダン・ミラー&イヤウケア、モンスター・ロシモフ&イワン・バイテンなどを相手に7回防衛した[10]。
帰国後の1973年4月30日には、グレート草津を新パートナーにバション&イワン・コロフが保持するIWA世界タッグ王座に挑戦。敗退したものの、5月14日の再戦で勝利し同王座を再び奪取[9]。草津とのコンビでは、1975年4月にタイトルを返上するまで、テキサス・アウトローズ(ダスティ・ローデス&ディック・マードック)、ミネソタ・レッキング・クルー(オレイ&ジン・アンダーソン)、ハリウッド・ブロンズ(ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ)、ザ・キウィズ(ニック・カーター&スウィート・ウィリアムス)、スーパースター・ビリー・グラハム&ラシク、ワフー・マクダニエル&バスチェン、AWA世界タッグ王者チームのニック・ボックウィンクル&スティーブンスなど、当時のアメリカでもトップクラスの強豪チームを相手に11回の防衛に成功した[11]。このうち、1974年3月31日に釧路市厚生年金体育館で行われたジム・ブランゼル&ブルートとの防衛戦は、木村初の金網タッグ・デスマッチとなった[10]。
1973年6月19日、茨城県笠間大会にて、国際のエースだったストロング小林がローデスを下しIWA世界ヘビー級王座を防衛した直後、小林に挑戦状を突きつけ[12]、同年7月9日の大阪府立体育会館で小林VS木村の同門対決となるIWA世界ヘビー級王座戦が実現、1954年12月22日の力道山VS木村政彦戦以来となる大物日本人選手同士のタイトルマッチとなった(小林が勝利し王座防衛)[13]。同年10月には『IWAワールド・シリーズ』第5回大会の決勝戦でブラックジャック・マリガンを破り、シリーズ初優勝を果たしている[14]。
1974年の小林離脱後は、一度はマイティ井上に先を越されるも、1975年4月19日にバションを金網デスマッチで破りIWA世界ヘビー級王座を獲得[15](これに伴い、IWA世界タッグ王座を返上)、以後、国際プロレスが消滅する1981年夏まで、6年間に渡ってエースとして活躍した。1975年6月6日にはアントニオ猪木に挑戦状を突きつけ、同年12月20日にはジャイアント馬場にも挑戦を表明[16]。全日本プロレスとの交流戦では馬場やジャンボ鶴田と対戦、1976年3月28日の蔵前国技館における鶴田戦は、東京スポーツ新聞社のプロレス大賞において年間最高試合に選定されている[4]。1977年3月には、4年ぶりに開催された『IWAワールド・シリーズ』第6回大会の決勝戦でバションに勝利、シリーズ連覇を果たした。1978年11月には、鶴田、草津、井上、アニマル浜口、キム・ドク、ミスター・サクラダ、ミスター・ヒト、ディーン・ホーらが参加した『日本リーグ争覇戦』において、決勝戦でプロフェッサー・タナカを破り優勝[4]。1979年8月26日の『プロレス夢のオールスター戦』では、セミファイナルで因縁の小林と対戦、リングアウト勝ちを収めた。
IWA世界ヘビー級王者としても、前王者バションをはじめ、カマタ、ジョー、ホワイト、ワイルド・アンガス、リップ・タイラー、アレックス・スミルノフ、キラー・ブルックス、ベーカー、ジョン・トロス、ジョー・ルダック、ストンパー、上田馬之助などのラフファイターを挑戦者に流血戦を繰り広げる一方、ビッグ・ジョン・クインやマイク・ジョージと正攻法のパワーレスリングを展開した。1979年10月5日には後楽園ホールにてAWA世界ヘビー級王者ボックウィンクルとのIWAとAWAのダブル・タイトルマッチを行い、反則勝ちを収めている(反則勝ちのためAWA王座は移動せず)[17]。同年は7月にアンドレ・ザ・ジャイアント、11月にバーン・ガニアとのIWA王座戦もそれぞれ行われた[18]。1980年12月13日には新日本プロレスのリングで、7年前とは逆に小林を挑戦者に迎えての防衛戦が実現、小林から初のフォール勝ちを収めた。
このほか、得意技ブルドッギング・ヘッドロックの開発者であるカウボーイ・ボブ・エリス、前WWWFヘビー級王者として久々に国際プロレスに参戦したビリー・グラハム、東京プロレス以来の対戦となるジョニー・パワーズ、後にNWAの主要テリトリーで活躍するロン・バス、他団体から移籍してきたキラー・カール・クラップやレイ・キャンディ、当時の米マット界における成長株だったランディ・タイラーやスティーブ・オルソノスキーらの挑戦も退けた[18]。途中、上田、スミルノフ、ガニアに王座を奪われるも、いずれも短期間で奪還[15]。1976年から1979年にかけては、元王者の小林が記録していた25回を上回る26回の連続防衛に成功している[18]。1981年8月6日、室蘭で行われたジ・エンフォーサー戦が最後の防衛戦であり、最後の金網デスマッチでもあった[18]。
1981年10月、国際プロレスの解散に伴い、残党のアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木との抗争を開始。当初は国際のメンバーは新日本に参戦し、新日本対旧国際の団体対抗戦が行われるはずだったが、新日本の手法に反感を持っていたマイティ井上らが全日本プロレスへの移籍を選択したため、最終的に新日本に登場した選手は木村、浜口、寺西の3人だけとなった。同年9月23日、田園コロシアム大会に来場し、メインイベント前に決意表明を示す場を与えられたが、木村の真面目な性格によって「こんばんは事件」(後述)が発生。この出来事が「マイクの鬼」と呼ばれ、マイク・パフォーマンスが代名詞となるきっかけになった。新日本では人気絶頂の猪木に対する悪役ユニット国際軍団のリーダーとしてヒールを演じた。
1982年には久々にアメリカに遠征し、ミスター・トヨ(Mr. Toyo)のリングネームでロサンゼルス地区を短期間サーキット、国際の後輩であるミスター・ゴーこと剛竜馬をパートナーに、ブラック・ゴールドマン&エル・ゴリアスからNWAアメリカス・タッグ王座を奪取した[19]。以降も浜口と寺西を従え、猪木1人を相手に3対1のハンディキャップ・マッチを行うなど話題を集めた[20]。1983年5月には、緊急帰国したディノ・ブラボーの代打でIWGP決勝リーグ戦に出場。猪木、ハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアント、キラー・カーンには敗退するも、ビッグ・ジョン・スタッドとは引き分け、前田明、カネック、エンリケ・ベラからはフォール勝ちを収めた(オットー・ワンツには不戦勝)[21]。
しかし、1983年下期からは浜口と寺西が長州力率いる維新軍に加わったため国際軍団は解散。その後はバッド・ニュース・アレンと共闘するなど、外国人サイドから単独での参戦を続けた。なお、1983年11月にはカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングに遠征、国際プロレス時代の怨敵ミスター・ヒトとのタッグや、モンゴリアン・ストンパーおよびキューバン・アサシンとの久々の対戦も実現した[22]。
1984年4月、新日本で勃発した内紛により、新間寿に請われて剛、前田日明、グラン浜田らと第一次UWFの旗揚げに創設メンバーとして参画。UWF草創期のブッカー兼重鎮的存在となったが、剛が外国人レスラーのブッキングを独占しようと図り、そのために生じた利害関係で団体との関係が悪化したことから、同年10月5日に剛と共に離脱した[23]。
UWF離脱直後、全日本プロレスの1984年世界最強タッグ決定リーグ戦にジャイアント馬場のタッグパートナーとして参戦。馬場のパートナーは開幕戦まで事前に発表されず「ミステリアス・パートナー」とされていた。馬場と元国際のエースである木村のタッグは注目を浴びたが黒星が先行する結果となる。そして12月8日の愛知県体育館での対鶴田&天龍源一郎戦の試合中、突然木村が馬場にラリアットを放ち造反。国際の残党である剛竜馬、鶴見五郎も乱入し木村に加勢。試合放棄となり馬場とのタッグはリーグ戦途中で空中分解する事態となる。これら一連の動きを木村は「(プロレス人生で)自分の意思で動いたのは、これが初めてだった」と述懐した。なお、UWFを離脱後新日本プロレスも木村の獲得に動いたが、木村は全日本プロレスを選択している。これについて、後に和田京平が木村になぜ全日本を選択したのか聞いたところ、木村曰く「新日本は会社の重役が話に来た。全日本は馬場さんが料亭に招いてくれて、直接誘ってくれた。となればどちらを選ぶかは明白でしょう」と答えたという[24]。
以降は鶴見、剛、アポロ菅原、高杉正彦と国際血盟軍を結成。全日本軍と敵対するアングルが組まれ、試合後に馬場を挑発するマイクパフォーマンスが次第に注目を集める。1985年6月21日の日本武道館大会では馬場が持つPWFヘビー級王座に挑戦するも敗退。またジャパンプロレス勢の参戦など日本人選手の過剰により剛、菅原、高杉は全日本を解雇され、以降は鶴見とのタッグで活動。ヒットマンのキャラクターで一匹狼となった同じく国際の残党である阿修羅・原とも一時的に共闘した。
1988年8月29日、武道館にて馬場とのシングル戦に敗れるも、試合後のマイクで「お前のことをな、『アニキ』と呼ばせてくれ」とアピール。このマイクがきっかけとなり同年の世界最強タッグ決定リーグ戦に馬場との「義兄弟コンビ」で出場。馬場50歳、木村47歳のベテランチームであったが3位の好成績を収め、翌1989年2月には義兄弟コンビで鶴田&谷津嘉章が持つ世界タッグ王座にも挑戦した。その後は体力の衰えからミッドカード戦線での活動を余儀なくされフェイスターンし、馬場と共に1989年春のスーパー・パワー・シリーズよりファミリー軍団を結成。悪役商会(永源遙、大熊元司、渕正信ら)を相手にユーモラスな前座試合を展開し、試合後のマイクパフォーマンスも含め全日本のコンセプト「明るく・楽しく・激しいプロレス」の「明るく・楽しく」を担った。
だが1989年11月29日、札幌中島体育センターにて世界最強タッグリーグ公式戦として行われた馬場&木村vs天龍&スタン・ハンセン戦では、入場時の天龍の攻撃により馬場が昏倒したため10分以上に渡って木村1人が天龍とハンセンの攻撃を流血しながらも、真正面から受け続けるという国際在籍時代や猪木との抗争時代を髣髴とさせる「激しい」試合を展開[25]。また1990年春のチャンピオン・カーニバルでは天龍との抗争が繰り広げられ、3月31日の富山市体育館大会のタッグ戦(木村&寺西vs天龍&川田利明)ではゴング前、天龍に毒霧を浴びせるという異例な攻撃を見せたこともある。次期シリーズで天龍とのシングル戦が構想されていたが、天龍の全日本退団により幻に終わっている。
1992年4月18日、後楽園ホールで行われたファン感謝デー大会では、メインイベント「4対4サバイバル・タッグマッチ」に欠場した田上明の代理として鶴田軍の一員で急遽出場。既に50歳を過ぎていたが、超世代軍の三沢光晴、川田利明、小橋健太と対戦し往年の激しいプロレスを展開した。
ファミリー軍団結成時にはマイクパフォーマンス人気によるユニークなキャラクターが買われ、土曜深夜の『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS)にレギュラー審査員として出演。一人だけピンマイクではなく、手持ちのマイクで喋っていた。国際時代の寡黙なブルファイターのイメージとは180度異なるコミカルな存在となったが、彼のマイクパフォーマンスは桑野信義も『志村けんのだいじょうぶだぁ』で物まねをするなど、プロレス界の名物として定着した。
馬場の病没後、全日で再度顕在化した内紛から、プロレスリング・ノアに旗揚げメンバーとして参加。
2001年に還暦を迎えて生涯現役を宣言。翌年には馬場を抜いて日本人最高齢のレスラーとなるが、最晩年にはまったく攻撃をしないまま、マイクパフォーマンスのみで終わる試合もあるなど精彩を欠き、2003年3月1日の武道館大会を最後に体調不良により長期欠場に入る。
2004年7月10日、体調の悪化と「これ以上関係者に迷惑をかけられない」との理由で東京ドーム大会にビデオレターを送って引退を表明。以降、公の場から姿を消した。
同年12月にはノアの終身名誉選手会長への就任が発表され、その後は病状など一切公表されなかったが、当時、毎年行われていたノア選手会主催の「選手会興行」のポスターには、終身名誉選手会長として顔写真が掲載されていた。「プロレス格闘技DX」内のノア公式ウェブサイトにて、ファンからの「木村さんは今でもノア所属なのか」との質問には三沢光晴社長が「終身名誉選手会長であり、現在も所属である」と答えていた。還暦を迎えた際、全日本移籍の前に年金未納期間があったことが判明し、未納分の払込が完了し受給資格を得られるまで、引退後もノアの社員として雇用することにしたという[26]。
2010年5月24日、腎不全による誤嚥性肺炎のため死去。68歳没。終の住処となったのは、新宿区内の都営住宅だった。誰もが「あのラッシャー木村」とは気づかなかったという[28]。
関係者によると現役引退直後に脳梗塞で倒れ、車椅子生活であったという[27][29]。木村が体調を崩して公の場から去った後、浜口や鶴見などかつての国際プロレスの仲間やプロレス評論家が見舞いを希望したが[30]、木村本人は頑として誰にも会おうともしなかったことを浜口や門馬忠雄が語っている[31][32]。
なお、死去に際しては親族のみで葬儀を行ったことから、ノア主催で「お別れの会」を2010年6月26日にディファ有明にて開催した。アニマル浜口が「プロレス界はあなたを忘れることはありません」と涙ながらに弔辞を読み、遺影に向かって「気合だ!」を叫んで故人を偲んだ[33]。
また同日にディファ有明で行われた "プロレスリング・ノア創立10周年記念" 『Summer Navig.10 part1』シリーズ開幕戦が、『ラッシャー木村追悼興行』と銘打って開催された[34]。
木村の独特でゆったりとした間で繰り出すマイク・パフォーマンスは観客の受けが非常に良く、木村の試合終了後には、観客から「マイク! マイク!」とマイク・パフォーマンスを求めるマイク・コールが送られ、引退するまで定番となっていた。時事ネタから観客に対しての感謝・気遣い、同僚レスラーいじりなどバリエーションは豊富であった。
彼のネタにされる選手達(主に馬場、永源、大熊、渕正信ら)は、木村のマイク・パフォーマンスを嫌がっていたが「観客が求めるから」と仕方なく許していたと言う。馬場は「最初は、なんてイヤなことをするんだろうと思っていたが、そのうちお客さんが(マイク・パフォーマンスがないと)許してくれなくなっちゃったんですよ」と語っていた。木村が馬場のTシャツを着て初詣に行った際には、木村は馬場のファンと勘違いされたこともあったという[27]。
地方巡業時は、ご当地の名所・名物・著名人などをパフォーマンスの会話中に織り交ぜる事が多かった。秋山準は木村の死去後のコメントで、巡業先の現地の人や出身選手・スタッフなどに事前リサーチを行っていたことを明かした。和田京平も、試合前に木村からご当地の名物を聞かれていたことを明かしている[36]。
晩年、木村は新日本プロレスのマットに上がり、猪木と闘ったころのことを思い出しながら、マイクパフォーマンスのことについて以下のように語っている。 「猪木1人に、こちらは3人一緒(アニマル浜口、寺西勇)で闘った。邪道で気は進まなかったが、それでも人気につながらずつらかった。それが(全日本プロレスに移り)マイク一本でこんなに人気になるとは、世の中、不思議なもんだよ」[37]
1981年9月23日、田園コロシアムで行われた新日本プロレスの興行に浜口を連れて現れた木村は、リング上で保坂正紀(当時テレビ朝日アナウンサー)からマイクを向けられると、決意表明に先立ち、まずは集まってくれた観客に対し挨拶をしなければと思い、冒頭「こんばんは…」と丁重に挨拶を行なった。続けて「その試合のために、私たちは秩父で合宿を張って、死に物狂いでトレーニングしています。」と穏やかな口調で話した。これは団体対決に付き物の殺伐とした雰囲気を好む当時のファンを拍子抜けさせ、会場の失笑を買った。
余りにもおかしかったため当時ビートたけしが「こんばんは、ラッシャー木村です」とネタにしたこともあって、世間にギャグとして広まってしまった。ここからラッシャー木村のお家芸が金網からマイク・パフォーマンスになる。たけしについては当時自分の弟子を集めて結成した「たけし軍団」の鈴木浩に「ラッシャー板前」という名前をつけて、木村と同じ黒のロングタイツを履かせるなどしていた。なお笑われた木村本人は後年、二宮清純に対して「初めてのところですから、まずは挨拶をと思いまして……」と語っており、二宮は「愚直な物言いに人柄がにじみ出ていた」と振り返っている[38]。
その場に居合わせた浜口は、「“こんばんは”というのは、素の木村さんがそのまま出た」「不細工だったかもしれないけど、その裏にあるのは心温かい人間性ですよ」と語っている[39]。また浜口は、木村が終始丁寧な挨拶を続けた点について、別のインタビューで「僕に道を譲ってくれたのかもしれないですね。アニマル浜口にふさわしい出番をくれたのかなぁ」とも語っている[40]。
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