ジム・ブランゼル

ウィキペディアから

ジム・ブランゼル

"ジャンピング" ジム・ブランゼル"Jumping" Jim Brunzell、本名:James Brunzell1949年8月13日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーミネソタ州ホワイトベア・レイク出身(ミズーリ州カンザスシティ出身ともされる[1])。

概要 ジム・ブランゼル, プロフィール ...
ジム・ブランゼル
Thumb
1983年
プロフィール
リングネーム "ジャンピング" ジム・ブランゼル
本名 ジェイムズ・ブランゼル
ニックネーム ミズーリの隼
身長 186cm
体重 115kg(全盛時)
誕生日 (1949-08-13) 1949年8月13日(74歳)
出身地 アメリカ合衆国
ミネソタ州
ラムゼー郡ホワイトベア・レイク
トレーナー バーン・ガニア
ビル・ロビンソン
デビュー 1972年
引退 1994年
テンプレートを表示
閉じる

現役選手時代は甘いマスクの正統派ベビーフェイスとして、AWAを中心にNWAWWFでも活躍[2]。「ジャンピング」の異名通り、跳躍力を活かした打点の高いドロップキックを得意技とした[1]

来歴

要約
視点

学生時代はハイジャンプアメリカンフットボールなどのスポーツで活動[1]1972年12月、地元ミネソタAWAにてプロレスラーとしてデビュー。その後、中西部NWAセントラル・ステーツ地区にてマイク・ジョージとの若手コンビで売り出され、1973年10月25日にロード・アル・ヘイズ&ロジャー・カービーから同地区認定のNWA世界タッグ王座を奪取した[3]

1974年3月にはAWAルートで国際プロレスに初来日、3月31日に釧路にて、ザ・ブルートと組んでラッシャー木村&グレート草津IWA世界タッグ王座金網タッグ・デスマッチで挑戦した[4]。本来はデスマッチとは無縁のベビーフェイスであったにもかかわらず、来日中はセーラー・ホワイトとのタッグでも金網戦に出場し、4月3日には二戸で草津&アニマル浜口と、4月18日には直方で浜口&マイティ井上とそれぞれ対戦している[5]

Thumb
グレッグ・ガニア(右)とのハイ・フライヤーズ(1977年)

1976年、AWAでバーン・ガニアの息子グレッグ・ガニアハイ・フライヤーズThe High Flyers)を結成し、1977年7月7日にブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンからAWA世界タッグ王座を奪取[6]。以降、ジミー・バリアント&ジョニー・バリアントスーパー・デストロイヤー&アンジェロ・モスカレイ・スティーブンス&パット・パターソンなどのチームを下して長期政権を築くが[7][8]1978年9月にチャリティーソフトボール大会に参加した際の負傷により王座を剥奪された[6]

復帰後の1979年ノースカロライナNWAミッドアトランティック地区に参戦。リッキー・スティムボートポール・オーンドーフブラックジャック・マリガン、そして一時的にフェイスターンしていた同期のリック・フレアーとも共闘して、アーニー・ラッドジミー・スヌーカビッグ・ジョン・スタッドグレッグ・バレンタインマスクド・スーパースターバロン・フォン・ラシクなどのヒール勢と対戦、7月にはハーリー・レイスNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦している[9]。9月14日にはケン・パテラを破りミッドアトランティック・ヘビー級王座を獲得、11月22日にスティーブンスに奪取されるが12月25日に奪還し、1980年5月11日にアイアン・シークに敗れるまで戴冠した[10]。 同年11月には全日本プロレス世界最強タッグ決定リーグ戦ニック・ボックウィンクルのパートナーとして出場している[11]

古巣のAWAでは1981年にG・ガニアとのハイ・フライヤーズを再結成して、同年6月14日にイースト・ウエスト・コネクション(ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニス)を破り、AWA世界タッグ王者チームに返り咲く[6]。以降、ジェリー・ブラックウェル&シーク・アドナン・アル=ケイシー、ブラック&ブルー・エクスプレス(パテラ&ダンカン)などのチームを抗争相手に、1983年6月26日にザ・シークス(ブラックウェル&パテラ)に敗れるまで、2年間に渡って同王座を保持した[6][12][13]。戴冠中は、ボックウィンクルが保持していたAWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦した[14]

その間、1982年5月にハイ・フライヤーズとして全日本プロレスに参戦。6月8日の蔵前国技館大会ではスティムボート&大仁田厚を相手にAWA世界タッグ王座を防衛している[15]1984年4月にもハイ・フライヤーズで全日本に再来日し、PWF世界タッグ王座の決定リーグ戦に参加、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディミラクルパワーコンビとも対戦した[16]。来日中の4月26日には大宮にて、同年2月にボックウィンクルを破りAWA世界ヘビー級王者となっていたジャンボ鶴田にも挑戦した(来日前の3月15日にもユタ州ソルトレイクシティにおいて、新王者としてアメリカに遠征してきた鶴田のAWA世界ヘビー級王座に挑戦している)[17]

1985年、AWAを離れてWWFと契約し、ブライアン・ブレアーとのキラー・ビーズThe Killer Bees)なるタッグチームで活動、覆面を被りマスクマンのコンビに変身することもあった。キラー・ビーズではハート・ファウンデーションブレット・ハート&ジム・ナイドハート)やファンク・ファミリー(ホス・ファンク&ジミー・ジャック・ファンク)などのチームと抗争[18]1987年11月26日に行われたサバイバー・シリーズ第1回大会)のタッグチーム・エリミネーション・マッチではヤング・スタリオンズ(ポール・ローマ&ジム・パワーズ)と共に勝ち残り、サバイバー・チームとなっている[19]。しかしながら、タイトル獲得の機会には恵まれず、NWA、AWA、WWFの3大世界タッグ王座戴冠を果たすことはできなかった。

WWF離脱後の1989年からは、ハーブ・エイブラハムが興したカリフォルニアのUWFなどを転戦。全日本プロレスへの参戦も再開し、1989年[20]1991年[21]に来日している。1990年から1993年にかけてはWWFに再出場して、ジョバーを務めていたこともある[22]1994年にはシカゴのインディー団体AWFにスペシャル・ゲスト・レフェリーとして登場、WWF時代の盟友ティト・サンタナカウボーイ・ボブ・オートンの試合を裁いた。

得意技

獲得タイトル

セントラル・ステーツ・レスリング
アメリカン・レスリング・アソシエーション
ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング
  • NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:2回[10]
インディー団体
  • UWF世界タッグ王座(ハーブ・エイブラハム派):1回(w / ブライアン・ブレアー
  • WFWAカナディアン・ヘビー級王座:1回

脚注

外部リンク

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.