ミツ荒川
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ミツ荒川(Mitsu Arakawa、1927年5月23日 - 1997年4月17日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ハワイ出身の日系アメリカ人。日本名:荒川 三一(あらかわ みつかず)[2]。
グレート東郷やハロルド坂田の影響下にあった日系ヒールとして、NWA、AWA、WWA、WWWF、NWFなど各団体で活躍した[3]。
ハワイ生まれの日系二世。少年時代からスポーツ万能で1953年に沖識名にスカウトされデビュー。太平洋戦争当時、広島で家族が原爆で被爆し、その復讐のためにアメリカでプロレスラーになったというギミックを用いていた[2]。
1950年代後半から1960年代前半にかけて、長らく同じ日系二世の先輩キンジ渋谷とのコンビで活躍。中西部のミネアポリスや西海岸のサンフランシスコ、カナダのバンクーバーからカルガリーまで、各地のタッグタイトルを獲得した。一時、グレート・ミツ(Great Mitsu)またはマイティ・ミツ(Mighty Mitsu)のリングネームも用いていたこともある[1]。
シングルプレイヤーとしても実績を残しており、1965年1月にオーストラリアにてドミニク・デヌーチから豪州版のIWA世界ヘビー級王座を奪取[4]。1966年10月8日にはインディアナポリスにてディック・ザ・ブルーザーを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得した[5]。ミネアポリスのAWAでは、バーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦している[6]。
1960年代後半からは、ドクター・モトことキラー・トーア・カマタとの新チームで活躍。インディアナポリスのWWAではブルーザー&クラッシャー・リソワスキーの極道コンビと抗争を繰り広げ、1967年10月13日に彼らを下してWWA世界タッグ王座を奪取[7]。同年12月2日にはシカゴにてウイルバー・スナイダー&パット・オコーナーを破りAWA世界タッグ王座にも戴冠[8]。タッグ2冠王として、いずれも1年間におよぶ長期政権を築いた。
1969年、ニューヨークのWWWFにてプロフェッサー・タナカを新パートナーに、ライジング・サンズ(Rising Suns)を結成。同年6月にWWWFインターナショナル・タッグ王座の初代王者チームに認定され[9]、ヘイスタック・カルホーン&ビクター・リベラ、キラー・コワルスキー&ジョージ・スティール、ゴリラ・モンスーン&バロン・ミケル・シクルナなどのチームを相手に防衛戦を行い、12月にリベラ&トニー・マリノに明け渡すまで戴冠していた[10]。シングルでも、ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に度々挑戦している[10]。
1971年1月、日本プロレスに来日[11]。先輩日系人レスラーの渋谷、ハロルド坂田、デューク・ケオムカらのように日本陣営には加わらず、外国人サイドでヒールとして試合を行ったが、他の外国人レスラーにも喧嘩を売るなど一匹狼的存在となって異彩を放った[12]。
その後アメリカでは、海外修行に来ていた若手日本人選手の世話役を務め、彼らをパートナーに起用して活動。1972年1月19日には五大湖エリアのNWFでヨシノ・サトこと高千穂明久と組み、トーナメントの決勝でデヌーチ&トニー・パリシのイタリア人コンビを破りNWF世界タッグ王座を獲得[13]。モントリオールではマイティ井上、古巣のWWAではヒゴ・ハマグチことアニマル浜口やキム・ドクとのコンビで活動した[14]。
以降、1970年代中盤もWWAやAWAの試合に出場し、キャリア晩年の1975年から1976年にかけてはテネシーのNWAミッドアメリカ地区に参戦していた[15]。
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