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オーストラリアのプロレスラー ウィキペディアから
ロン・ミラー(Ron "Dash" Miller、本名:Ron Parker[1]、1945年[2] - )は、オーストラリアのプロレスラー。ニューサウスウェールズ州シドニー出身。生年は1941年ともされる[1]。
1964年[1]、当時オーストラリアでワールド・チャンピオンシップ・レスリングを主宰していたジム・バーネットにスカウトされてプロレス入り[2]。以降、1960年代はスパイロス・アリオン、ブルート・バーナード、マリオ・ミラノ、ロイ・ヘファーナン、アントニオ・プリエーゼ、ドン・レオ・ジョナサン、テックス・マッケンジー、ドリー・ディクソン、ビル・ロビンソンなどと対戦してキャリアを積んだ[5][6][7][8]。
1971年、キャンベラ出身のラリー・オーディと共に渡米し、ベビーフェイスのタッグチーム、ジ・オーストラリアンズ(The Australians)としてNWAの南部テリトリーを転戦[2]。エディ・グラハムが主宰していたフロリダのCWFでは、8月2日にロニー・ガービン&オレイ・アンダーソンからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取[9]。以降もディック・マードック&ボビー・ダンカン、ジ・アラスカンズ、ジ・インフェルノスなどのチームを破り、同王座を通算4回に渡って獲得した[9]。テネシー地区ではスプートニク・モンロー&ノーベル・オースチンなどのチームと抗争を展開[10]。1972年5月19日にはNWAテネシー・タッグ王座も獲得している[11]。
1972年6月、オーディとのオーストラリアンズで日本プロレスの『第2次ゴールデン・シリーズ』に初来日。開幕戦の後楽園ホール大会では、当時のアジアタッグ王者チームだった坂口征二&吉村道明と対戦した[12]。オーストラリアでもオーディとのコンビで活躍し、ヒロ・トージョー&ヒト・トージョーなどのチームを下してNWA豪亜タッグ王座を再三獲得した[13]。
1973年末、ワールド・チャンピオンシップ・レスリングの主宰者だったバーネットが、オーストラリアの興行権を売却してアメリカに帰国。その後、団体の運営はトニー・コロニーを経て、1975年よりオーディとミラーが引き継いだ[4]。以降はオーディと共にプロモーターとして豪州マットを仕切りつつ、レスラーとしても団体の主軸となって活躍。1976年1月にはグレート・メフィストからNWA豪亜ヘビー級王座を奪取[14]。以降もアーニー・ラッドらを相手に、団体のフラッグシップ・タイトルである同王座のチャンピオンを担った[4]。1977年3月と7月には、当時ハーリー・レイスが保持していたNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦[15]。1978年12月8日にはアンドレ・ザ・ジャイアントと組んでオックス・ベーカー&ブッチャー・ブラニガンを破り、NWA豪亜タッグ王座にも返り咲いた[13]。
しかし、団体はバーネット時代のような活況を呈せず、テレビ放送の打ち切りやインディー団体の乱立もあって1978年を最後に活動を停止[4]。以降は隣国ニュージーランドのオールスター・プロレスリングを主戦場とし、1980年にはパートナーのオーディを相手にNWA英連邦ヘビー級王座を争った[16]。
1982年5月、全日本プロレスの『エキサイト・シリーズ』への参戦で10年ぶりの再来日が実現[17]。5月28日の旭川大会では、アメリカ修業から凱旋帰国した大仁田厚の対戦相手を務めた[18]。1985年4月には、スタン・ハンセンやブルーザー・ブロディをオーストラリアに招聘しての短期ツアーを主催[4]。マーク・ヤングブラッドをパートナーに、ハンセン&ブロディのミラクルパワーコンビと連日対戦した[19]。翌月には新日本プロレスの『IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ』への参戦も予定されていた[20]。
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