アーン・アンダーソン

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アーン・アンダーソン

アーン・アンダーソンArn Anderson、本名:Martin Anthony Lunde1958年9月20日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラージョージア州ローム出身。愛称は「AA(ダブルA)」、ニックネームは「ジ・エンフォーサー(殺し屋)」。

概要 アーン・アンダーソン, プロフィール ...
アーン・アンダーソン
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2014年
プロフィール
リングネーム アーン・アンダーソン
スーパー・オリンピア
マーティ・ルンデ
本名 マーティン・アンソニー・ルンデ
ニックネーム ミネソタの難破船
AA(ダブルA)
ジ・エンフォーサー
身長 185cm
体重 116kg(全盛時)
誕生日 (1958-09-20) 1958年9月20日(66歳)
出身地 アメリカ合衆国
ジョージア州
フロイド郡ローム
トレーナー テッド・アレン
デビュー 1981年[1]
引退 1997年
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いわゆる「仕事人」タイプの実力者であり、フォー・ホースメンをはじめとするユニットやタッグチームでの実績で知られ、数々のタッグ王座を獲得している[1]リック・フレアーとは年齢は離れているものの親友の間柄であり、WCWWWEではフレアーの右腕として活躍した[2]

来歴

要約
視点

1981年末に本名のマーティ・ルンデMarty Lunde)名義でデビューした後、地元ジョージアジョージア・チャンピオンシップ・レスリングアラバマサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリングなど、NWA深南部テリトリーで活動[1]。アラバマでは覆面レスラースーパー・オリンピアSuper Olympia)に変身して、ミスター・オリンピアと抗争を展開した[3]

1983年よりジョージアにて、ブッカーのオレイ・アンダーソンに誘われてアーン・アンダーソンに改名[4]1960年代から1970年代にかけて一世を風靡したアンダーソン兄弟(ジンラーズ、オレイ)の末弟となり、伝統のタッグチーム・ユニット「ミネソタ・レッキング・クルー」をオレイと共に再結成する[5]。これは単純にアーンの風貌がオレイとよく似ていた、ということが理由だった。

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フォー・ホースメン時代(1987年)

その後、ジョージア地区がノースカロライナのミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーションズ)に吸収されると、1985年リック・フレアータリー・ブランチャードらとのヒール軍団「フォー・ホースメン」を結成。同地区のタイトルを独占するなど、プロレス史に残る名ユニットの一員として活躍した。なお、フォー・ホースメンというユニット名はアーンが命名している[6]1986年1月4日にはトーナメントの決勝でワフー・マクダニエルを破り、NWA世界TV王座を獲得するなどシングルでも活躍した[7]

1987年にオレイがホースメンを離脱して、レックス・ルガーが新しく加入、翌1988年からはルガーと入れ替わりにバリー・ウインダムがメンバーとなり戦力が補強されたが、同年10月よりアーンはブランチャードと共にWWFに移籍する(これに伴いホースメンは事実上解散)[8]

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タリー・ブランチャード(後方)とのブレイン・バスターズ(1989年)

WWFではボビー・ヒーナンマネージャーに迎え、ブランチャードとのタッグチーム「ブレイン・バスターズ」で活躍[9]。ストライク・フォース(リック・マーテル&ティト・サンタナ)、ハート・ファウンデーションブレット・ハート&ジム・ナイドハート)、ザ・ロッカーズマーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)、ザ・ブッシュワッカーズブッチ・ミラー&ルーク・ウィリアムス)などのチームと抗争し、1989年7月18日にはアックス&スマッシュデモリッションを破り、WWF世界タッグ王座を獲得した[10][11]

1989年末、NWA(ジム・クロケット・プロモーションを買収したWCW)に復帰。翌1990年1月2日、グレート・ムタからNWA世界TV王座を奪取、同タイトルへの2度目の戴冠を果たす(12月4日にトム・ジンクに明け渡すも、翌月14日に奪還。以降、同タイトルはWCW世界TV王座として認定される)[7]1991年9月5日にはラリー・ズビスコとの「ジ・エンフォーサーズ」でWCW世界タッグ王座を獲得した[12]

日本へは1991年3月21日と1992年1月4日、当時WCWと提携していた新日本プロレス東京ドーム大会に参戦[13][14]。3度目の来日となる1992年8月にはG1 CLIMAXの第2回大会に出場した[15]

WCWではポール・E・デンジャラスリー率いるデンジャラス・アライアンスのメンバーとして、ズビスコ、ボビー・イートンリック・ルードらと共闘[16]。その後、WWFから復帰してきたフレアーとフォー・ホースメンを再結成して、1993年8月18日には新メンバーのポール・ローマとのコンビで世界タッグ王座に返り咲いた[12]

しかし、アンダーソン事件(後述)による負傷のため、この新生ホースメンも解体を余儀なくされる。1994年の復帰後はベビーフェイスとしてリッキー・スティムボートダスティン・ローデスと共闘していたが、ほどなくしてヒールに戻り、テリー・ファンク "スタニング" スティーブ・オースチンと結託[17]1995年5月には新日本プロレスのリングでもオースチンとタッグを組み、長州力&マサ斎藤などのチームと対戦した[18]

1997年に首の故障により引退。引退後はWCWのロード・エージェントを担当し、フレアー不在のフォー・ホースメンの指揮を執っていたこともある。WCWのバックステージでは、派閥争いの関係で冷遇されていた[2]

2001年のWCW崩壊後はWWFに迎えられ、引き続きロード・エージェントとして活動。時折WWEの番組に出演することもあった。2012年にはフレアー、ブランチャード、ウインダムおよびマネージャーのJ・J・ディロンと共に、フォー・ホースメンとしてWWE殿堂に迎えられた[19][20]

2019年2月にWWEを退社[19]。同年下期よりAEWに移籍した[21]

アンダーソン事件

1993年10月28日、イギリス遠征中のホテル内でのラウンジでシッド・ビシャスと諍いを起こし(ビシャスの度重なる大言壮語をアンダーソンが戒めたことによる)、逆上したビシャスにハサミで胸部や腹部など10数箇所を刺される大怪我を負った[22][23]。これを俗にアンダーソン事件Arn Anderson's stabbing incident)という。これはビシャスがステロイド剤の使用で情緒不安定になっており、自分の感情をコントロールできなかったことがわかっている。

得意技

獲得タイトル

サウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング
ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング / ワールド・チャンピオンシップ・レスリング
ワールド・レスリング・フェデレーション / ワールド・レスリング・エンターテインメント

参考文献

  • リック・フレアー、キース・エリオット・グリーンバーグ『リック・フレアー自伝 トゥー・ビー・ザ・マン』エンターブレイン、2004年。ISBN 4757721536

脚注

関連項目

外部リンク

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