アーン・アンダーソン
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アーン・アンダーソン(Arn Anderson、本名:Martin Anthony Lunde、1958年9月20日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ジョージア州ローム出身。愛称は「AA(ダブルA)」、ニックネームは「ジ・エンフォーサー(殺し屋)」。
いわゆる「仕事人」タイプの実力者であり、フォー・ホースメンをはじめとするユニットやタッグチームでの実績で知られ、数々のタッグ王座を獲得している[1]。リック・フレアーとは年齢は離れているものの親友の間柄であり、WCWやWWEではフレアーの右腕として活躍した[2]。
来歴
要約
視点
1981年末に本名のマーティ・ルンデ(Marty Lunde)名義でデビューした後、地元ジョージアのジョージア・チャンピオンシップ・レスリングやアラバマのサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリングなど、NWAの深南部テリトリーで活動[1]。アラバマでは覆面レスラーのスーパー・オリンピア(Super Olympia)に変身して、ミスター・オリンピアと抗争を展開した[3]。
1983年よりジョージアにて、ブッカーのオレイ・アンダーソンに誘われてアーン・アンダーソンに改名[4]。1960年代から1970年代にかけて一世を風靡したアンダーソン兄弟(ジン、ラーズ、オレイ)の末弟となり、伝統のタッグチーム・ユニット「ミネソタ・レッキング・クルー」をオレイと共に再結成する[5]。これは単純にアーンの風貌がオレイとよく似ていた、ということが理由だった。
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その後、ジョージア地区がノースカロライナのミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーションズ)に吸収されると、1985年にリック・フレアーやタリー・ブランチャードらとのヒール軍団「フォー・ホースメン」を結成。同地区のタイトルを独占するなど、プロレス史に残る名ユニットの一員として活躍した。なお、フォー・ホースメンというユニット名はアーンが命名している[6]。1986年1月4日にはトーナメントの決勝でワフー・マクダニエルを破り、NWA世界TV王座を獲得するなどシングルでも活躍した[7]。
1987年にオレイがホースメンを離脱して、レックス・ルガーが新しく加入、翌1988年からはルガーと入れ替わりにバリー・ウインダムがメンバーとなり戦力が補強されたが、同年10月よりアーンはブランチャードと共にWWFに移籍する(これに伴いホースメンは事実上解散)[8]。
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WWFではボビー・ヒーナンをマネージャーに迎え、ブランチャードとのタッグチーム「ブレイン・バスターズ」で活躍[9]。ストライク・フォース(リック・マーテル&ティト・サンタナ)、ハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)、ザ・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)、ザ・ブッシュワッカーズ(ブッチ・ミラー&ルーク・ウィリアムス)などのチームと抗争し、1989年7月18日にはアックス&スマッシュのデモリッションを破り、WWF世界タッグ王座を獲得した[10][11]。
1989年末、NWA(ジム・クロケット・プロモーションを買収したWCW)に復帰。翌1990年1月2日、グレート・ムタからNWA世界TV王座を奪取、同タイトルへの2度目の戴冠を果たす(12月4日にトム・ジンクに明け渡すも、翌月14日に奪還。以降、同タイトルはWCW世界TV王座として認定される)[7]。1991年9月5日にはラリー・ズビスコとの「ジ・エンフォーサーズ」でWCW世界タッグ王座を獲得した[12]。
日本へは1991年3月21日と1992年1月4日、当時WCWと提携していた新日本プロレスの東京ドーム大会に参戦[13][14]。3度目の来日となる1992年8月にはG1 CLIMAXの第2回大会に出場した[15]。
WCWではポール・E・デンジャラスリー率いるデンジャラス・アライアンスのメンバーとして、ズビスコ、ボビー・イートン、リック・ルードらと共闘[16]。その後、WWFから復帰してきたフレアーとフォー・ホースメンを再結成して、1993年8月18日には新メンバーのポール・ローマとのコンビで世界タッグ王座に返り咲いた[12]。
しかし、アンダーソン事件(後述)による負傷のため、この新生ホースメンも解体を余儀なくされる。1994年の復帰後はベビーフェイスとしてリッキー・スティムボートやダスティン・ローデスと共闘していたが、ほどなくしてヒールに戻り、テリー・ファンクや "スタニング" スティーブ・オースチンと結託[17]。1995年5月には新日本プロレスのリングでもオースチンとタッグを組み、長州力&マサ斎藤などのチームと対戦した[18]。
1997年に首の故障により引退。引退後はWCWのロード・エージェントを担当し、フレアー不在のフォー・ホースメンの指揮を執っていたこともある。WCWのバックステージでは、派閥争いの関係で冷遇されていた[2]。
2001年のWCW崩壊後はWWFに迎えられ、引き続きロード・エージェントとして活動。時折WWEの番組に出演することもあった。2012年にはフレアー、ブランチャード、ウインダムおよびマネージャーのJ・J・ディロンと共に、フォー・ホースメンとしてWWE殿堂に迎えられた[19][20]。
アンダーソン事件
1993年10月28日、イギリス遠征中のホテル内でのラウンジでシッド・ビシャスと諍いを起こし(ビシャスの度重なる大言壮語をアンダーソンが戒めたことによる)、逆上したビシャスにハサミで胸部や腹部など10数箇所を刺される大怪我を負った[22][23]。これを俗にアンダーソン事件(Arn Anderson's stabbing incident)という。これはビシャスがステロイド剤の使用で情緒不安定になっており、自分の感情をコントロールできなかったことがわかっている。
得意技
- スパイン・バスター(この技の代名詞的な使い手であり、WWEでは現在でも「ダブルAばりのスパイン・バスター」という表現が使われる)
- ローリング・スパイン・バスター(オリジナル技。体を横に半回転しつつスパイン・バスターを繰り出す。全盛期は弧を描きながら放つ場合が多かった)
- ゴード・バスター
- DDT
- 長滞空式ブレーンバスター
- スパイク・パイルドライバー(タリー・ブランチャードとの合体攻撃として使用[24])
獲得タイトル
- NWAサウスイースタン・タッグ王座:4回(w / ジェリー・スタッブス×3、パット・ローズ)[25]
- NWAナショナル・タッグ王座:1回(w / オレイ・アンダーソン)[26]
- NWA世界TV王座 / WCW世界TV王座:4回[7]
- NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):2回(w / タリー・ブランチャード)[27]
- WCW世界タッグ王座:3回(w / ラリー・ズビスコ、ボビー・イートン、ポール・ローマ)[12]
参考文献
- リック・フレアー、キース・エリオット・グリーンバーグ『リック・フレアー自伝 トゥー・ビー・ザ・マン』エンターブレイン、2004年。ISBN 4757721536。
- ショーン・アセール、マイク・ムーニハム『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』ベースボール・マガジン社、2004年。ISBN 4583037880。
脚注
関連項目
外部リンク
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