Loading AI tools
ウィキペディアから
龍原砲(りゅうげんほう)とは、日本のプロレスラーである天龍源一郎と阿修羅・原のタッグチームである。チーム名は、天龍の「龍」と原の「原」を取ったものだが、かつての日本を代表するタッグチームだったジャイアント馬場&アントニオ猪木の「BI砲」をふまえたものでもある。全日本プロレス、SWS、WARで活躍した。
1987年3月に長州力らジャパンプロレス勢が全日本を離脱した際、長州参戦以前の日本人対外国人を主流とした全日本プロレスに戻ることに危機感を抱いた天龍と原が、全日本マットの活性化を図り結成。ジャンボ鶴田や輪島大士らに抗争を仕掛けていった。TV収録の無い地方興行でも、連日30分近い熱戦を繰り広げ、ファンの支持を集めた。全日本での活動期間は1988年11月に原が全日本を解雇されたため1年5か月と短かったが、全日本のファイトスタイルを馬場・鶴田のアメリカンスタイルから、三沢光晴らのプロレス四天王に繋ぐ架け橋役を果たした功績は大きい。1987年9月にスタン・ハンセン&オースチン・アイドルを破ってPWF世界タッグ王座、1988年8月に鶴田&谷津嘉章を破って世界タッグ王座を獲得している。
龍原砲を中心としてサムソン冬木と川田利明を加えたユニット名は天龍同盟、活動そのものは天龍革命と呼ばれた。テレビ収録のないこの革命に、数年前からブロディ革命を宣言していたブルーザー・ブロディが、「天龍の革命は俺の真似でスケールも小さい」と噛みついたこともある。なお龍原砲は、ブロディの日本における最後の対戦相手でもある(ブロディのパートナーはトミー・リッチ)。
その後、SWSでパートナー難に悩んだ天龍の要請で、当時北海道で隠遁生活をしていた原が現役復帰。1994年10月にWARで原が引退試合を行うまで再度、龍原砲として活動した。
なお、天龍と原のそもそもの接点は1981年10月、所属していた国際プロレスの崩壊で引退を決意していた原が、天龍がリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦すると聞いて「同じようなキャリアなのに不公平だ、天龍、俺と戦え!」と申し入れたことに始まる。この試合が好勝負となり、ジャイアント馬場の勧めで原は全日本に定着、1981年と1982年の世界最強タッグ決定リーグ戦にはコンビを組んで出場している。ただしこの時は、馬場&鶴田に代えて鶴田&天龍(鶴龍コンビ)を全日本の看板コンビにするという馬場の方針で解消しており、龍原砲という呼び名も存在していなかった。
1989年から1990年にかけて活躍した天龍とハンセンのタッグチームは、ハンセンの日本での異名「不沈艦」から「龍艦砲」と呼ばれた。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.