中央大学多摩キャンパス
八王子キャンパス ウィキペディアから
八王子キャンパス ウィキペディアから
中央大学多摩キャンパス(ちゅうおうだいがくたまキャンパス)は、1977年6月に竣工し1978年より使用されている中央大学のキャンパスである。
東京都八王子市東中野742番地1にあるキャンパス。多摩丘陵の中に位置している。八王子八十八景のひとつ。キャンパスへのアプローチ通路の一部は、東京都日野市にまたがっている。1960年の用地取得当初は由木村であったことから、「由木村校地」と呼ばれた[1]。1964年に由木村の八王子市への合併が行われたため、所在地の広域名称から「多摩校地」と呼ばれるようになった(1965年12月から)[2]。大学本部、文系学部、文系大学院施設、運動施設等が存在する。
かつては千代田区神田駿河台に本部とメインキャンパスが位置していたが、広いキャンパスと豊かな自然を求めて当地に郊外移転した。また、中央大学多摩キャンパスは大学の郊外移転の嚆矢となり、その後広島大学や東京都立大学、九州大学などがメインキャンパスを完全に郊外に移転し、早稲田大学や青山学院大学が都心にキャンパスを残したまま、郊外キャンパスを開設した。その後、受験生を獲得する目的から私立大学を中心に2000年代から大学の都心回帰が始まり、実際に受験生が増加した大学も見られた。都心回帰の流れの中で、2023年4月、法学部と大学院法学研究科が東京都文京区の茗荷谷キャンパスに移転した。
前身の英吉利法律学校が1885年に開校して以来神田錦町に所在した中央大学であるが、校地・校舎が狭隘であったことから、関東大震災での罹災にあわせて1926年に駿河台南甲賀町(のちの神田駿河台)に移転した。その神田駿河台も高度経済成長期の学生の大幅な増加により、大学設置基準を満たせないこととなり、この対応として1960年、1961年、1965年に由木村に土地を購入していた。当初購入候補地としては、このほかに米軍が接収・使用していた埼玉県朝霞町の国有地も候補に入れられていた[3]。そして1966年5月30日の評議員会で将来的には多摩校地に体育施設および教養課程を移転するという方針が議決されて[2]造成工事を開始した。これにともない1967年にも土地を購入してほぼ現在の敷地面積となった。
1960年代後半にいわゆる神田カルチェ・ラタン闘争にみるように学生運動が激しさを増すと、その中心的存在であった中央大学でも学生が駿河台キャンパスの校舎を占拠して授業や試験の実施が不可能となり、1969年7月多摩校地にプレハブの仮設校舎が完成し、文学部が授業を行った。この時期から多摩校地への移転が具体的に検討され始め、1973年12月16日の評議員会で[4]法・経・商・文学部の昼間部の多摩校地への移転が正式に議決された。当初の体育施設および文系4学部の教養課程の移転計画から専門課程も含めた文系全学部全学年の移転計画へと変更されてはいたが、この時点では駿河台キャンパス、後楽園キャンパスはそれぞれ夜間部、理工学部用としてそのまま残し、多摩キャンパスの建設費は借金と都心に点在する飛び地のみの売却で賄う予定であった[4]。1974年に校舎建設のための予算が組まれて翌1975年4月から工事が開始されたものの、折からのオイルショックによって建設資材が高騰し、またオイルショック終息後には東京都の地価抑制策によって飛び地の売却額が当初見込みを大幅に下回ることになった。そのため1976年5月30日の評議員会で[5]やむなく駿河台キャンパスに残す予定であった夜間部も多摩キャンパスへと移転させて、駿河台の敷地を売却する計画への変更が議決された。
多摩キャンパスの設計は久米建築事務所が担当し、多くのゼネコンが参加する巨大プロジェクトとなった[6]。
道路、電気、上下水道など全てを一から作り上げる工事はさながら一つの街作りのようであり、完成は1977年11月であった。
キャンパスの移転事業は学内では「多摩移転」と呼ばれたが、一部学生の反対運動やストライキも起き、学年末試験がレポート提出に切り替えられた。結局、昼間部は1978年、夜間部は1979年に移転したが、このとき移転したのはいずれも3年生以下で、4年生だけが駿河台校地に残った。これは、該当する学生の入学時に、移転を予告できなかったためである。このため駿河台が完全閉鎖されたのは1980年3月となった。
移転事業は、大規模総合大学の郊外移転という共通項から、同時期に先行して実施された東京教育大学の閉学および筑波大学の開学とオーバーラップして語られることも多く、文部省が考える新時代の大学モデルとして、新しい大学のあり方や経済効果まで、マスコミや地元の大きな関心を呼んだ。
実際には、筑波大学と違って、移転前後で大学の名称はもちろん、学部、学科の組織になんら変更はなく、学生寮も建設されないなど、大きな相違点があった。
多摩キャンパスは東京都多摩地区に広がる多摩ニュータウンの周辺に所在している。かつて南多摩郡由木村は未発達な地域であったが、移転以来の30年の間にニュータウンの都市基盤整備も進み、現在多摩都市モノレール線の中央大学・明星大学駅周辺は中央大学、明星大学、帝京大学や資格試験予備校を中心とした閑静な住宅街が形成されている。
多摩キャンパス設置当初は京王線多摩動物公園駅からの徒歩および聖蹟桜ヶ丘駅からのバスで通学するしかなかった。少し遅れてJR中央線豊田駅からのバスも開通したが、交通の便が圧倒的に悪かった。しかし1990年には小田急多摩線と京王相模原線がそれぞれ全線開通し、2000年には新たに開業した多摩都市モノレール線の中央大学・明星大学駅の改札口がキャンパス東門(新設)と接続されたことでアクセスは多少向上した。
多摩都市モノレール開業前はJR八王子駅・JR橋本駅・京王線京王堀之内駅・京王線聖蹟桜ヶ丘駅・京王線多摩動物公園駅からも京王電鉄バスが運行されていたが、いずれも廃止されている。また廃止を免れた唯一のバス路線である豊32系統も、モノレール開業に伴い毎時2~4本に大幅減回された。
なお多摩キャンパスは東京都八王子市に所在しているが、同市の中心駅であるJR八王子駅・京王八王子駅から公共交通機関を利用する場合は必ず他の市(日野市・多摩市など)を経由しなければならない。自動車によるアクセスの場合でも最短ルートを通る場合は日野市平山地区を経由することになる。
多摩キャンパスには本部棟・研究棟・各学部棟・大学院棟を始め、学生棟や生協棟など計22棟の建物の他、体育館、陸上競技場、サッカー場、屋内/屋外プール、弓道場などが整えられている。ただ、安保闘争が激しかった時期に設計されたためか、妙な設計もところどころに見られる。
現在、同キャンパス内には以下の諸施設が設置されている。
今後、少子化により首都圏の大学を中心に学生の獲得競争が過熱することが予測されている。アクセスが悪く通学に負担を要する郊外のキャンパスは敬遠される傾向にあることから、各大学で都心回帰の傾向が広まっている。[15] 実際に東洋大学や共立女子大学が郊外のキャンパスを都心に移したところ、受験者数が急増するなど結果が表れている[15]。2015年に策定した、中長期事業計画「Chuo Vision 2025」では、都心への移転第一候補を法学部とし、後楽園キャンパスを中心とした都心キャンパスの展開が指摘されている。
当初は、法学部1年生を後楽園キャンパス・2年生~4年生を茗荷谷キャンパスに配置する予定であったが、2021年の理事会において法学部1~4年生を茗荷谷キャンパスに配置することに決定(茗荷谷キャンパスは収容率がほぼ100%のキャンパスとなった)。
また、2019年度には「国際情報学部」を市ヶ谷田町キャンパスで開設した[16]。新学部の設置は1993年の総合政策学部以来となる。
2023年4月、中央大学は「Chuo Vision 2025」に則り、都心に茗荷谷キャンパス・小石川キャンパス・駿河台キャンパスを開校。茗荷谷キャンパスに法学部が、駿河台キャンパスにロースクールとビジネス・スクールが入ることとなる。また、小石川キャンパスは法学部生を中心に体育施設として活用される。茗荷谷と駿河台が東京メトロ丸ノ内線で結ばれる近接エリアを形成し、ローアンドロ―の一体的な教育を提供することが可能となった。さらに、法学部・理工学部・国際情報学部の3学部共同開講科目「学問最前線」が設置され、文理融合教育も都心キャンパスで進展している。
都心展開に伴い、看板学部である法学部のさらなる発展が望まれている。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.