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第二次世界大戦までの日本で専門学校令に基づいて専門教育を行っていた高等教育機関 ウィキペディアから
旧制専門学校(きゅうせいせんもんがっこう、旧字体:專門學校󠄁、英語: Specialized School[1])とは、第二次世界大戦までの日本において、専門学校令に基づいて専門教育を行っていた高等教育機関。
現在の単科大学に近いものとされ、その多くは現在の大学の前身でもある(旧外地の高等教育機関も参照)。
なお現在の日本における専門学校とは、専門課程を有する専修学校が称することができる[2]、実践的な職業等の専門技能を授ける教育機関であり、本項でいう専門学校とは系統を全く別にするものである。
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旧制専門学校は、専門学校令に「高等の学術技芸を教授する学校を専門学校とす」とあるとおり、専門的知識をもって社会で活躍する実務家を養成することを目的とした高等教育機関であった。
年代により異なるが、昭和10年代には概ね下記のようなものに受験資格があった。[3]
・中学校卒業者、もしくは卒業見込みのもの
・専門学校入学者検定(専検)の合格者
・高等実業学校の場合、同分野の実業学校の卒業者(例えば高等商業学校ならば、商業学校)
旧制高等学校は中学4年修了程度(いわゆる四修)から受験できたが、専門学校の受験資格は中学校卒業程度(5年を修了)であった。また、これより前の大正時代には実業学校の卒業者は改めて専検に合格する必要があった[4]が、後に対象者が拡大された。
女子の専門学校については概ね高等女学校卒業者を対象としていた。旧制大学が極一部の例外を除いて男子のみを対象としていたのと比べれば、専門学校は私立校を中心として女子校が多く存在し間口が広かった。
一般に官立校の方が内容・就職実績ともよいとされ、「名門校」「一流校」とされた学校に入学するには(旧制高校ほどではないにしろ)激しい受験競争があった。例えば昭和11年の試験倍率は、神戸高商10.5倍、横浜高商9.6倍、横浜高工10.1倍、浜松高工11.7倍、鹿児島高農12.1倍[5]であった。中学校・実業学校の卒業者数に比して専門学校の定員は少なく、昭和九年度には中学校5万7千人、実業学校8万1千人の卒業者に対して専門学校・高等実業学校の卒業者は官立で7千人、官公私立合わせても2万6千人であった[6]。中学卒業後現役合格で進学すれば満17歳での入学となるが、各校の入学者の平均年齢は満18~20歳で浪人生も珍しくなかった[7]。私立校でも大倉高商や松山高商のように「官学並み」と称される内容の良い学校があり、人気を集めた。
試験内容は筆記試験に加え、口頭試問と体格検査があった。口頭試問では中学時代の業績、宗教、時事問題、志望動機や抱負、思想問題などについて質問された。体格検査では著しい発育不良や精神異常、性病患者などが不合格とされた[7]。
修業年限は通常3年で、医学専門学校は4年か5年、歯科医学専門学校は4年であった。
旧制高校や大学予科では大学進学のための予備教育として3年間を教養教育に費やしたが、旧制専門学校では3年間の課程の中で教養科目と専門科目を並行して教授した。必然的に専門学校の教養教育は専門科目を理解するのに必須な科目を中心としたものとなり、旧制高校のそれと比べ簡素であった。
また実務家を養成することを目的としていたため、机上の学問だけではなく、高等商業学校では「珠算」「商業簿記」、高等工業学校では「機械製作法」「工場実習」といった具合に実務的な科目も教授していた。
旧制専門学校における教育は完成教育であり、卒業生の大半は大学等に進学せず企業や官公庁等に就職して社会に出た。制度上は「傍系入学」という形で帝国大学等の官立大学に進学することも可能ではあったが、進学するものは少なかった。例えば横浜高工の場合、大正12年から昭和12年の15回の卒業者2081人のうち、上級学校に進学したものは37人のみであった。就職者は会社工場技術員1284人、官庁技術員372人等であった[8]。
「傍系入学」とは旧制専門学校等から官立大学に入学することで、旧制高等学校や大学予科から入学する「正系入学」と対比する言葉である。規定上は試験に合格した場合に入学できることになっていたが、実際の受け入れの有無やその定員、試験・審査の方法は大学・学部・年次ごとに異なった。帝国大学では、旧制高校や自校の予科の希望者を受け入れてなお定員に空きがあった場合に合格者の傍系入学を許可した。従って東京帝大や京都帝大など、旧制高校卒の受験者が多く集まるような学校に傍系入学することはほとんど不可能であった。その一方、不人気であった地方の帝大には入学の余地があった。また大学令で設置された官立単科大では、専門学校卒でも高校卒業者と同等に扱われるか、専用の枠が用意されている場合があった。大阪帝大工学部(大阪工業大学を吸収)が前者の、神戸商大が後者の例であった。[9]
卒業者には得業士の称号が与えられる場合があった。
高等実業学校の卒業者は検定なしでその分野の実業学校の教員資格を得ることができ、また専攻学科や成績に応じて各種の教員資格を得ることができた。高農の卒業者は農業・林業・蚕業いずれかの技術官資格を得ることができた。医専、歯科医専、薬専の卒業者は無試験開業資格を得ることができた。
戦後の学制改革において制度的に廃止されたため、新学制における位置づけとしては旧制中学・旧制高校等と同じく場合によって判断が異なるが、日本国政府によって行われる国勢調査の「学歴」の4段階区分(大学院・大学、短大・高専、高校、中学・小学)においては短期大学相当(Junior college or higher professional school)と看做されている(2015年国勢調査の場合)。
戦時体制の中で、医者の確保のために1939年に設置され、各大学の医学部と臨時附属医学専門部(のち1944年に附属医学専門部と改称)とは並立していた。附属医学専門部は戦後に廃止され、医学部のみが存続した。
官立・公立の医専の多くは、戦時体制の中で、医者の確保のために設置された。なお戦後、設備等の事情で廃校になったものがある(これに関しては戦後特設高等学校も参照)。
官立・公立の医専の多くは、戦時体制の中で、医者の確保のために設置された。なお戦後、設備等の事情で廃校になったものがある(これに関しては戦後特設高等学校も参照)。
官立・公立の医専の多くは、戦時体制の中で、医者の確保のために設置された。なお戦後、設備等の事情で廃校になったものがある。
戦後、設備等の事情で廃校になったものがある。
一覧は獣医学・農業・女子農芸・園芸・繊維を含む。
一覧は外事を含む。
一覧は工業経営を含む。
一覧は工芸・航空・土木を含む。
※私立工業専門学校は大学附属の専門学校も参照
中等教育修了者が進学していた各種の教育機関で、旧制専門学校(または同等)の認定を受けたもの、および新制大学などになったもの。
戦後創設された学校教育法による「高等専門学校」は、旧制の工業専門学校の教育を範に、新制高等学校と短期大学を合わせた修業年数で新制中学校卒業者に専門教育を行うことを目的に創設された学校である。
高等専門学校の分野は工業高等専門学校と商船高等専門学校がある。
工業高等専門学校のうち、新制大学の工学部統合移転後の旧制工業専門学校跡地を流用した学校がある(新居浜工業高等専門学校、久留米工業高等専門学校、宇部工業高等専門学校、大阪府立工業高等専門学校、東京都立航空工業高等専門学校、東京都立工業高等専門学校)。また、仙台電波工業高等専門学校の前身の仙台電波高等学校は旧制宮城県女子専門学校の校地を転用して開校した。
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