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教育制度の中核を担う公共機関 ウィキペディアから
学校(がっこう)は、幼児・児童・生徒・学生などに対する教育制度の中核的な役割を果たす機関。また、その施設。学園、学院などもほぼ同様の意味を持つ。
学校制度は社会システムの1つである教育制度の中心的システムの一つである[1]。社会的作用・社会的活動としての教育は、個人、家庭、小集団、地域社会、国家社会などにもみられるが、現代国家では学校が教育制度の中核的役割を担っている[2]。
小集団や地域社会における教育では慣習や慣行に従って行われることが多いのに対し、国家レベルの教育は法律を整備して学校を設置し公費を充てるなど制度化された形で実施される[2]。
なお、日本の学校教育法は「この法律で、学校とは、幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校とする」[3]と定義している。
専修学校[4]、各種学校[5]は、ともに学校教育法が定める正規の学校であるが、一条校には含まれない。
また、学校には大きく分けて3つに分類される(学校教育法第2条)。
公立学校では教育要領・学習指導要領から逸脱することはきわめて困難であるが、国立および私立の幼稚園・小学校・中学校・義務教育学校・高等学校・中等教育学校および特別支援学校は、教育要領・学習指導要領からの逸脱が容易である。そのため、各校独自の方針に基づいた斬新的な教育課程を編成することも可能であるが、教育法学の見知からは、教育要領・学習指導要領は、国立・公立・私立を問わずに等しく適用されることとなっている。
「学校」という用語は一説に、王莽が新の時代に全国に設置した儒学の校舎「学」・「校」が語源とされ、ひいては古代中国の教育機関だった「太学(たいがく)」がその名の由来とされる。日本においては古くから足利学校(栃木県足利市)などの例で「学校」という語は用いられてきたが、明治政府による小学校および師範学校が設立される以前は、寺子屋、藩校、学問所、私塾(松下村塾などが有名)などと呼ばれる施設が一般的で、名称に「学校」と付く教育施設は少なかった。
メソポタミアでは、紀元前3千年紀には学校が存在した。シュメールでは学校は「エドゥブバ」(粘土板の家)と呼ばれ、役人になるための読み書きや計算を教えた。学校をテーマとした最古の文学作品も書かれ、『学校時代』をはじめ4作品が知られている[6]。
古代ギリシアや古代ローマにも学校は存在した[1]。ギリシアのギュムナシオンでは、肉体鍛練の他に哲学、文学、音楽なども教えられていた。
ヨーロッパでは、中世に大学が設立されるようになった。例えば、1088年、イタリアにAlma Mater Studiorum(現在のボローニャ大学)が開設された。フランスのパリ大学は1100年頃にルーツがあるともされ、1215年には教皇インノケンティウス3世によって正式に認められた。1209年にはイングランドでオックスフォード大学が開設された。ヨーロッパ中世に開設された大学の中には現在まで続くものも少なくない。中世の大学の多くで、学生は最初の6年、リベラル・アーツを学んだ。(→中世の大学の特徴)
一般大衆を対象とする学校制度が始まるのは19世紀以降になってからである[1]。身分社会がなくなると、教育も異なった主体により異なった視点で行われることが多くなり、義務、無償、中立性という現代の学校の原則が次第に出来上がった。例えば、フランスにおいては、それら原則は、フランス革命期のコンドルセの理念が19世紀末において実現した。
19世紀に誕生し、義務・無償・中立性を基調とする近代学校は、その国の国語、国史、国民道徳の教育をメインにし、その国家の ”国民” を育成する装置として機能した。つまり、国民としての”アイデンティティの形成”が学校に期せられたのである[7]。学校教育の拡大と義務教育制度の普及により、20世紀からは学校の数が飛躍的に増大した。
日本では、平安時代に貴族の子供[注 1]の教育機関として「大学寮」という名称の[注 2]学校が存在した。また、寺院などを中心に教育研究のための施設が設けられることがあった。
平安時代の教育は、原則として貴族や郡司の子供らを対象にしており、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、空海は、『綜藝種智院式并序』を著し、全学生および教員への給食制を完備し、身分や貧富に関わりなく学ぶことのできる教育施設、あらゆる思想や学芸を総合的に学ぶことのできる教育施設を設立することを提唱した。その運営を実現するため、天皇、諸侯、仏教諸宗の高僧ら、および一般の人々などに協力を呼びかけた。そして、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受け、828年に「綜芸種智院」を開設した、とされる。綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた点で画期的な学校であったとされる。
江戸時代の教育は、身分ごとに武士としての教育と農民としての教育の二重の系統が見られた[8]。江戸時代の初期には武士の教育は漢籍の素読や武芸の稽古などを主に家庭教育として行っていた[8]。18世紀半ばには各藩が藩校(藩学)を設置するようになり藩士の教育にあたった[8](一部の藩では領内の庶民も教育の対象としていた[9])。さらに藩校での教育に物足りなさを感じたり、所与の文化環境に満足しない者は私塾や家塾に通って教育を受けた[10](一部の塾は士庶共学として庶民にも開かれていた[11])。
一方、庶民の教育は日常的な礼儀作法、地域社会のルール、家職の知識や技術などを家庭で教育していた[11]。しかし、江戸時代中期になると貨幣経済が発達し、商人層は日常的な商取引のための読み・書き・そろばんといった基礎教育が必要となり、農民層でも商品作物の栽培や販売などのための一定の知識が必要とされ、その需要から「寺子屋」と呼ばれる教育施設が多数生まれた[11]。
明治初期に、小学校および師範学校が設立された。そのとき、教科書は江戸時代使われていた往来物と呼ばれる既存の書籍が中心だった[12]。
「学校年度」は教育機関の1学年の年度を区切るもので英語のschoolyearやacademic yearに当たる[13]。「学年暦」ともいう[13]。
下表のとおり、世界の多くの国々では9月開始が主流となっている。特に北半球の国々には夏休みの終わる9月開始の国々が多く、歴史的には農家の子どもは農作業等を手伝っており、春から夏にかけては小麦の収穫や牧畜の出産で繁忙期に当たるため、それが終わる秋に新学年が始まるようになった[13]。
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