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官立の旧制大学 ウィキペディアから
大阪工業大学(おおさかこうぎょうだいがく)は大学令によって1929年(昭和4年)に設立された日本の官立旧制大学。
1896年(明治29年)に開設された大阪工業学校(戦後の工業高等学校に相当する学校)が1901年(明治34年)に大阪高等工業学校(旧制専門学校)に昇格し、さらに第一次世界大戦後の高等教育機関拡充の流れの中で1929年(昭和4年)に官立単科大学に昇格したものである。
1931年(昭和6年)に大阪帝国大学(当初は医学部と理学部の2学部。大阪大学の前身)が発足すると、本学との統合を望む声が高まり、1933年(昭和8年)に統合が実現し、本学は大阪帝国大学工学部となった。
本記事では、本学の前身諸校の沿革についても概説する。
1930年9月に大阪帝国大学設置が具体化し始めたが、1931年2月、大阪工大は帝国大学に合流しないと判明。すぐさま学生が決起し、2月9日に全学生協議会を結成、「1931年4月の大阪帝国大学創設と同時に工学部とする」旨の決議を採択。同2月18日には同窓会「大阪工業倶楽部」理事会も紛糾のすえ[1] 同調。同2月21日には、在学生・同窓生有志が大阪帝大への編入を求めて街頭デモを挙行。同2月27日、文部省からの最終回答は、「1931年の編入は不可能、1932年度編入」であった。学生側はこれを不満として過激化しそうになったが、教授会・同窓会の勧告を容れて、同3月に学生実行委員会を解散した。しかし、1931年12月に若槻内閣が倒され帝国議会が解散した煽りで、1932年4月編入も不可能となり、さらに1年遅れの1933年4月編入となった。
大阪工業学校
大阪高等工業学校
大阪工業大学
大阪工業学校は大阪市北区玉江町(現北区中之島5丁目)で発足し、後身の大阪高等工業学校も同地を使用した。玉江町校地が狭隘となったため、1921年から1923年にかけて大阪市都島区網島(東野田町)に移転完了した。網島校地(東野田校地)は後身の大阪工業大学・大阪帝国大学工学部に引き継がれた(網島駅も参照のこと)。
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