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広島医科大学(ひろしまいかだいがく)は、広島県呉市に本部を置いていた日本の公立大学である。1948年に設置され、1961年に廃止された。
ここでは前身校である広島県立医学専門学校・旧制広島県立医科大学についての記述を含む。
広島県立医学専門学校長
(旧制)広島県立医科大学長
(新制)広島医科大学長
設立当初の校地は、旧師範学校校地であった広島市皆実町1丁目(現南区比治山本町)に置かれ、その附属病院(のち附属医院)となった旧・県立病院(現在の県立広島病院)は広島市水主町(現・中区加古町)に所在していた。1945年(昭和20年)8月、空襲激化に伴い高田郡小田村(現安芸高田市)の高林坊寺院に疎開したが、翌日の原爆被災によって広島市の本校舎・附属医院はともに全部焼失した(しかし疎開のおかげで生徒の大半は被爆死を免れた)。特に爆心直下に所在する附属病院(旧県立病院)は完全に機能停止となり、この時点で医専との関係は消滅したとみられる(戦後1948年日本医療団広島中央病院の施設の移管を受け宇品に移転、県立広島病院として再発足した)。このため同年12月、学校および附属医院を広島県豊田郡安浦町旧安浦海兵団跡に移転し、授業を継続した。
戦後、医専は呉市からの誘致の申し出を受けて1947年(昭和22年)2月、呉市立市民病院(呉市公園通)・呉市立呉病院(同市阿賀町原)が本校附属医院として県に移管(県営化)されたことに伴い、は本校を呉市二河町(元海軍徴用工員宿舎)に移転した。同年11月には失火により基礎教室など校舎のほとんどを全焼、翌12月には本校舎を附属病院阿賀分院内に移転するとともに同音戸分院(呉市警固屋町)に設置。1948年2月には元海軍共済病院阿賀分院(呉市阿賀町小倉新開)の移管を受け、本部事務部及び基礎医学教室を移転した。翌3月には附属医院本院を呉市広町広共済病院跡に移転し、呉市公園通本院跡を二河分院とした。
1953年(昭和28年)には広大への移管が決定されたがその際の条件として広島市への校地移転が提示され、十分な同意を取りつけていなかった呉市との間に混乱が起こった。このため、1956年(昭和31年)広大医学部は呉市に対し同市広町に附属病院を残すことを条件に移転の承認を得た。その間、広島医科大学は霞町(南区)の広島県庁舎跡地(戦前の陸軍兵器支廠)に設置された広島大学医学部キャンパスに1957年(昭和32年)までに移転(1957年2月に医学部事務部および基礎医学教室の移転完了→同年9月に臨床医学教室および医学部附属病院を移転)、最後まで残っていた呉分院も1962年(昭和37年)に廃止されたため呉市内の旧校地はすべて廃止となった。1990年(平成2年)5月には呉市広警察署構内に「医学部発祥の地碑」が建立されている(見学は要許可)。
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広島大学の人物一覧も参照。
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