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広島師範学校 (ひろしましはんがっこう) は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)4月 に、広島県に設置された官立の師範学校である。
本項は、広島県師範学校・広島県三原女子師範学校などの前身諸校を含めて記述する。
本校名改称による名称変更については省略。
1874年(明治7年)7月、白島学校として設立された当時の広島県師範学校は、市内(この時点では広島区内)東白島町の真木家宅を仮校舎としていた。翌1875年(明治8年)7月校舎は西白島町の山林社に移転し、ここに残されていた藩政時代以来の施設(かつて運上場が置かれていた)を利用した。1877年、官立師範学校が廃止されるとその施設はそのまま県師範学校に継承されることになり、同年3月、まず市内立町の官立師範学校跡地に移転、さらに7月には当初官立師範学校の新校舎として建設が進められていた竹屋町校舎が竣工したためここに移転した。しかし1879年(明治12年)7月、本校内規宿舎の失火によりほとんどの校舎が焼失し、翌11月皆実町への一時移転を経て、1880年(明治13年)3月には下中町(現在の中町)の広島県中学校の校地に移転し、一時期同校と校地を共用していた。1901年(明治34年)7月になって市内比治山下の皆実村(のちの皆実町 / ただし現在は南区比治山本町の町域内となっている)に新築された校舎に移転した(皆実町校舎)。皆実町校舎は長く使用されたが老朽が目立つようになり、1941年(昭和16年)9月には東雲町1946番地の新築校舎に移転した(この際予科生の寄宿舎のみが皆実町校地に残された)。
附属学校を併設する東雲町校舎は官立師範学校男子部への改編を経て新制広島大学への移行に至るまで維持され、広大教育学部東雲分校へと引き継がれ、1978年東雲分校が学校教育学部として分離すると、この地は同学部および附属学校(附属東雲小学校・中学校)の校舎・校地となった。本校は広島大学の旧制前身校の中では原爆による施設の被害が僅少であったため、被爆建物である旧制以来の校舎はそのまま戦後も長く使用された(後出)。東雲校地は、学校教育学部の統合移転後には南半部が2004年章栄不動産および広島高速道路公社に売却されてマンション・広島高速2号線東雲出入口の用地となり[3]、残された附属小・中の校地は現在も存続している。
なお師範学校移転後の下中町校舎は、県立広島高等女学校(のち県立広島第一高等女学校)の校舎に転用され、原爆による壊滅と戦後の同校の広島陸軍被服支廠跡地への転出まで存続した。跡地には「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」が建立され、当時の正門門柱が移設・保存されている。皆実町校舎は師範学校の東雲町移転後、先述の寄宿舎を除き1945年(昭和20年)3月に新設された広島県立医学専門学校の校舎となったが、同校の本格的開校を目前にして原爆投下により、医専校舎としてはほとんど使用されることなく壊滅した。かつての皆実町校地の位置は、その後の再開発によりやや街路の位置が変わっているものの、現在は先述の通り比治山本町内の広島地域事務所・産業文化センター・南区民文化センター・南区図書館から国道2号線をまたいで皆実町一丁目の広島エフエム放送本社・広島県健康福祉センター・南区役所などが立地する街区にほぼ一致する。なおかつての皆実町校舎の運動場の南端であった皆実小学校の校庭の一角に、1986年11月、同窓生による「不動心」の碑が建立されており、かつてこの地に師範学校が立地していたことを記念している[4]。
1908年(明治41年)7月、広島県御調郡三原町(現在の三原市)に設置が決まった広島県三原女子師範学校は、当時校舎が建設中であったためとりあえず1909年(明治42年)2月には広島県師範学校内に設置され、翌1910年(明治43年)3月になってやっと三原町の新築校舎に移転した。三原校舎は官立師範学校女子部への改編を経て新制広島大学への移行に至るまで維持され、広大教育学部三原分校へと継承されたが1962年に東雲分校と統合されて大学キャンパスとしては廃止になった[5]。現在は女子部の附属学校を継承した附属三原幼稚園・小学校・中学校の校舎・校地のみが存続している。
新制移行時の広島師範学校の講堂は、広島県営繕課の設計、森信組の施工により1941年9月東雲校地内に竣工したRC造2階(一部3階)建ての建造物で、1階部分を職員室、その上階を講堂として使用した。原爆被災に際しては爆心地から4.11㎞の位置にあり、窓ガラスの大半が破れ窓枠が損傷するなどの被害を受けたが、全般的には被害軽微であったため応急修理を経て戦後早い段階から使用が再開された。新制移行後は広島師範を母体として発足した広大教育学部東雲分校(ついで学校教育学部)の図書室として使用されたのち、学部移転後は附属東雲中の教育実習生控室として使用されるなど旧・広島大学キャンパス内の被爆建造物としては比較的最近まで現役の施設として維持されていたが、老朽化が進行し2006年8月に解体された。また講堂に接続する師範学校の体育館(木造)も新制移行後、同分校の体育館として引き続き使用されたのち1995年6月に解体された[6]。
1945年8月6日の原爆投下に際し、広島師範学校男子部の校舎は爆心地から4㎞以上離れていたこともあり、先述の通りRC造の講堂が小破し、また木造2階建ての校舎の屋根が落ちて半壊になるなどの被害があり、皆実町にあった予科生の寄宿舎は全壊したものの、全般的に施設の損害は小さかった。また当日、生徒は勤労動員となっていたが、動員先も爆心地から遠隔の地であったため、犠牲者も比較的少なく、1945年中の被爆死者は教職員3名、生徒(予科生)6名であった。また男子部の附属国民学校の生徒は集団疎開中であったため同様に犠牲者は少なく、1945年中の被爆死者は教職員3名、生徒2名である[7]。
新制広島大学移行後の1972年3月には広島大学原爆死没者慰霊行事委員会が発足して師範学校を含む広島大の旧制包括校の原爆犠牲者の慰霊事業が行われることとなり、その主要事業として1974年8月「広島大学原爆死没者追悼之碑」が建立された。この碑は広大本部が東広島キャンパスに移転したのちも東千田キャンパス内に残され、大学関係者によって毎年慰霊式典が行われている。
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