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宗教系旧制専門学校(しゅうきょうけいきゅうせいせんもんがっこう)では、戦前の日本において、仏教系・キリスト教系など宗教者・宗教団体により設立された専門学校について概観する(ただし実業専門学校は含まない。また、戦前期において神道は「宗教」とは見なされていなかったが、この項目では神道系の学校も扱う)。
明治維新後、プロテスタント諸派を中心に欧米から来日したキリスト教宣教師たちは、布教の一環として全国各地に私立学校を設立した。これらのキリスト教系学校は、洋学教育(英語教育)に対する一般的需要の高まりと、それに比して官公立の公教育機関の整備が進んでいなかった状況を背景に、女子教育・英語教育を中心に一般の子弟に普通教育を施すことに主眼を置くものであり、1880年代半ばまでの文明開化や欧化主義の風潮に乗って発展した。しかし欧化主義への批判から国家主義・保守主義の思潮が強まるとこれらの学校は社会的圧迫を受けるようになり、加えて官公立学校が漸く増加してきたことから次第に劣勢に立たされた。一方仏教系学校をみると、1886年から1888年にかけて各仏教教団の「大学林」という形で設立があいついだ。これらの学校は1884年の教導職廃止で従来の神道・仏教一体の国教化政策が頓挫したことから、仏教教団が独自に僧侶職を養成することを目的に設立したものであり、キリスト教系学校にみられるような一般子弟への教育という志向は存在しなかった。
1899年の私立学校令公布に付随して出された文部省訓令第12号は、国家が私立学校の存在を公認するとともに、公認された学校では(官公私立を問わず)宗教教育を禁止することを明記しており、キリスト教系学校には大きな打撃となった。これらの学校では文部省の公認を得るため宗教教育を廃止するとミッションからの財政的援助を失うこととなり、反面、宗教教育維持のため文部省の公認を失うなら(他の学校では保障されている)兵役停止と上級学校進学の特権を失い、入学者が激減しかねない危機に陥ることが予想されていたからである。しかし現実には、文部省は公認を受けなかった学校から上述の特権を剥奪しなかった。
一方、僧侶養成に主眼を置き一般子弟への教育という志向をもたなかった仏教系学校は、もともと私立学校令の適用対象外(多くは宗教団体を統括する内務省管轄であった)であって文部省による公認を必要とせず、したがって宗教教育禁止条項の影響をほとんど受けることはなかった。1903年3月の専門学校令施行に際し文部省は宗教教育の自粛を特に求めず、このためキリスト教系・仏教系を問わず多くの宗教系学校が専門学校令に依拠する旧制専門学校に昇格した。
1909年(明治42年)10月に開催された日本基督宣教開始五十年記念会で明治学院総理井深梶之助は「基督教教育の前途」と題する演説を行い、超教派のキリスト教主義連合大学の必要性を訴えた。この連合大学構想は翌年6月に開催されたエディンバラ宣教会議でも取り上げられ、日本国内でもプロテスタント各教派の代表者によって連合大学設立の協議が行われた[1]。
この議論を主導したのは明治学院と東京学院、聖学院であり、とりわけ明治学院高等学部と東京学院は1913年(大正2年)4月から合併前提の合同授業を行うに至った[2]。青山学院は在来の高等科を廃止するという合同条件に難色を示したが、青山学院の後援者たるジョン・F・ガウチャーは合同推進論者だったため微妙な立場に置かれることとなる[3]。
それでも1915年(大正4年)には井深梶之助や高木壬太郎、ライシャワー、新渡戸稲造、佐藤昌介らが中心となって大学創立準備の常任委員会が設置され、7月1日の委員会(ガウチャー列席)で1917年(大正6年)までに「東亜大学」を設置すべきことを決議している[4]。
しかし、同志社や立教学院はすでに専門学校令による大学を設置しており、関西学院もまた別個に計画を進めようとしていた。各校間の意見の隔たりは大きく、立教学院理事長ジョン・マキムは連合大学に協力してもいいが自治独立の権利を保留したいとの見解を示し[5]、合同推進派の明治学院も連合大学のキャンパスが青山学院構内に置かれることには反対していた[6]。結局、明治学院高等学部と東京学院の合同授業は1917年に終了し[7]、青山学院も1918年(大正7年)12月の大学令公布を機に独自の大学設置計画を進めることとなった[8]。
宗教系専門学校のなかには専門学校令準拠の前後から「大学」と改称するものが出てきたが、もちろんこの時点で大学は帝国大学以外には存在しないので、これらはもちろん自称にすぎず制度上の実体はあくまで専門学校であった。これらの学校が名実ともに大学(旧制)になるのは1919年4月に大学令が施行(公布は前年12月)されて以降のことである。
宗教系学校のなかで最初に大学昇格を果たしたのは1920年、キリスト教系の同志社大学および神道系の國學院大學であり、ついで翌々年1922年には仏教系の龍谷と大谷、キリスト教系の立教が大学に昇格し、戦前の大学令のもと合計で仏教系は6校[9]、キリスト教系は4校、神道系は2校に及んだ。仏教系学校の場合、大学令準拠以前の「大学」自称時代には、例えば龍谷が「仏教大学」(現在の佛教大学とは別)、大谷が「真宗大谷大学」を称するなど特定宗派名を校名に冠することもあったが、大学昇格にともないこれらの大学はより宗派色の薄いニュートラルな名称に改めることをよぎなくされた。また、神学部や仏教学部など、独立学部を置いて教義研究をおこなうことは認められず(同志社は神学部の設置を計画していたが文部省との折衝のなかで断念し、文学部内に神学科を設置した)[10]、多くの場合文学部のなかに設置された宗教学科・仏教学科がそれらの活動を担った[11]。
仏教系・キリスト教系学校での宗教教育への規制に対し、対照的だったのは神道系大学(國學院・神宮皇學館)である。これらの大学では神道は国体の祭式であって「非宗教」である以上、その教育は「宗教教育」に相当しないという政府の公式見解から宗教教育への自粛を求められることはなかったのである。戦時体制下、神宮皇學館は皇紀2600年を記念し大学に昇格した。
1940年10月17日に開催された皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会で日本における全プロテスタント教会の合同が宣言され、翌年6月24日に富士見町教会で日本基督教団が設立された。これを受けて日本各地のプロテスタント系神学校は1943年、日本東部神学校・日本西部神学校・日本女子神学校の3校に統合された。さらに1944年には男子校2校の再統合により日本基督教神学専門学校が設立された(同時に日本女子神学校も日本基督教女子神学専門学校と改称)[13]。
このような大合同の動きに最後まで抵抗したのは同志社大学で、大学令準拠の文学部神学科が専門学校令準拠の神学校に吸収されることは受け入れ難いとして日本基督教団の強請をはねつけ[14]、学徒出陣によって授業継続が困難となった状況下でも同大法文学部神学科[15]は廃止されることなく終戦を迎えた。
敗戦後の1945年12月、占領軍による改革のなかで前記の文部省訓令12号は廃止され、宗教系学校における宗教教育が公認され、学校内での祈りや説教が許容されることになった。また1949年の学制改革により多数の新制私立大学の設立が認められることになった。このような動きのなかで、既存の宗教系大学は戦前は認められなかった神学部[16]・仏教学部を次々に設置し、旧制大学に昇格できていなかった宗教系専門学校のほとんども新制大学への昇格を果たした。
以下、大学令による旧制大学に昇格したものを示す。校名は設立時の名称でカッコ( )内は設立した宗派、設立年月と後身の新制大学を示す。
先述の通り神道系学校は制度上「宗教学校」とはみなされてはおらず、その点でここまで述べてきたようなキリスト教系・仏教系とは性格が異なる。
校名は原則として新制に移行する直前の名称であり、カッコ( )内は設立した宗派、専門学校令準拠の年月および後身の新制大学・短大・各種学校を示す。
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