秋葉原
東京都千代田区と台東区にまたがる街 ウィキペディアから
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秋葉原(あきはばら)は、東京都千代田区の秋葉原駅周辺、主として東京都千代田区外神田・神田佐久間町および台東区秋葉原周辺を指す地域名である。
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第二次世界大戦後の日本において、秋葉原は闇市として発展した。その後、秋葉原駅北西側(電気街口)を中心として、高度経済成長とともに多様な電子機器や部品(ハードウェア)およびソフトウェアを取り扱う店舗などが建ち並ぶ日本一の電気街として発展した。その後、バブル崩壊や、大型家電量販店、ディスカウントストアの台頭などによる家電市場の衰退で、電器店は主力商品をパソコンに移していく。これにより、パソコンを好むマニアが集中し、秋葉原は一転、オタクの街として変貌を遂げた。2000年代には『電車男』に代表されるアキバ系ブームより、オタクの街としてのイメージは全国的に定着し、世界的な観光地としても注目された。秋葉(あきば)・アキバ・AKIBAの略称で呼ばれる。2005年にはAKB48の本拠地であるAKB48劇場が開業した。また、同年、秋葉原駅東口に家電量販店を中核とした大型商業施設のヨドバシAkibaが開業した。
2010年代以降はECサイトの普及と地価上昇などでオタク向けの小規模な小売店が閉店し、メイド喫茶など大資本によるコンセプトカフェが進出した。また、2000年代に東京都が秋葉原地区開発計画(土地区画整理事業)による再開発事業「秋葉原クロスフィールド」を推し進めて秋葉原UDXや秋葉原ダイビル等の超高層ビルが建設され、オフィス街としての性格も持ちつつある。
一方、秋葉原駅の北西側一帯には、かつて神田青果市場(ヤッチャバ)があったため、近隣には現在でも海藻や穀類などを扱う商店が点在し、当時の名残を留めている。
本項で扱う「秋葉原」の明確な定義はないが、東京都が策定した都心等拠点地区における「秋葉原地区」の範囲は、次の通りである[1]。
秋葉原電気街とサブカルチャー関連の店舗は主に秋葉原駅周辺および中央通りの万世橋北詰から末広町駅のある外神田五丁目交差点までを中心に広がっている。
元々江戸の町人地であり、秋葉原電気街の外側は主にオフィス街だが、古くから建っている民家も見ることができる。鉄道各線の駅が近く、都心の一等地として地価・家賃ともに高価になる傾向がある。
昭和通りから東側の地域は、都心等拠点地区における秋葉原地区の範囲に含まれないが、神田佐久間町、神田平河町、神田佐久間河岸、神田和泉町、神田松永町、神田練塀町、東神田三丁目の各町会は「秋葉原東部町会連合会」を組織して各種行事に参加しているほか[3]、神田祭では「秋葉原東部地区連合」として神輿宮入を行っている[4]。
現在の秋葉原に当たる地域は、徳川家康の江戸入府後、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の時代に神田川が現在の流路を通るように開削されると、川沿いに材木商が集まり、神田佐久間町が起立したほか、大部分は大名屋敷・旗本屋敷などで占められた。しかし、江戸の人口が拡大するにつれ、大名や旗本は大火等を契機に次々に郊外へ移転し、跡地には町民が代地として与えられるなどして町人地が拡大していった。
江戸時代、神田川に万世橋はなく、筋違橋(すじかいばし)と呼ばれる橋がやや上流に架かっており、街道はここから現在のコトブキヤ秋葉原館やAKIBAカルチャーズZONEのある道(現:特別区道千第678号)を通って、住友不動産秋葉原ビルに突き当たって右に折れ、中央通りに出るルートをとっていた[5]。この道は徳川将軍家の寛永寺参詣道であったことから下谷御成街道と呼ばれた。総武本線ガードの名称である御成街道架道橋に名残を留める。
大火の度に代地町が細切りに与えられ、町の付け替えも頻繁に行われたため、幕末には50近くの微細な町が複雑に入り組み、かつ方々に飛地を有する複雑な町割となっていたが、明治の初めに武家地を合わせて20町近くに整理された。詳しくは外神田を参照。
1870年1月(明治2年12月)の大火を受けてできた火除地(空地)に、明治天皇の勅命で1870年(明治3年)10月に宮城(江戸城)内の紅葉山から鎮火三神を勧請して「鎮火社」が創建された。しかし、江戸の街では火防の神として神仏混淆の秋葉権現が広く信仰を集めていたことから、鎮火社についても秋葉権現が祀られているものと人々が誤解して「秋葉社」「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、火除地を「秋葉の原」「秋葉っ原」と呼んだことで、「秋葉原」の地名が誕生した。神田筋違見附(万世橋付近)やこの空地にはヒラキが立ち並び、今の講談や浪曲、かっぽれなどが口演をしていたり[6]、時にはサーカス(チャリネ一座の公演)が開かれたりした。
当初、秋葉原はこの空地に相当する神田花岡町域のみを指していたが、秋葉原駅が開業し、旅客駅として利用されるにつれ、その指す範囲も拡大して現在に至る。
鎮火社は1888年(明治21年)に日本鉄道が建設していた鉄道線(現在の東北本線)が上野から秋葉原まで延長されるのに伴って東京府下谷入町(台東区松が谷三丁目)に遷宮して、秋葉神社となった。
「台東区秋葉原」の地名は、1964年(昭和39年)10月1日の住居表示施行時に「台東区下谷松永町」と「台東区下谷練塀町」から変更されたものである。
電気街の形成には、二つの要因があった。一つは終戦直後、近くに位置する電機工業専門学校(現・東京電機大学)の学生がアルバイトで始めたラジオの組み立て販売が大盛況となり、ラジオ部品を供給する電器関係の露天商が集中したことである。ところが1949年に、GHQが道路の拡幅整理のために露店撤廃令を施行したことで、闇市は危機に陥る。GHQの政策に対して露天商組合が陳情した結果、東京都と国鉄が秋葉原駅のガード下に代替地を提供するという措置がとられる。そして露天商がそこへ凝集されたことが秋葉原電気街の始まりとされる。もう一つの要因は、廣瀬無線電機などの小売業者や二次卸し店がが仕入れの目的で多く訪れたことである。その結果、秋葉原は安いという評判が広まり、交通の結節点ということもあって、一般客も集まるようになっていった[7]。
その後は「三種の神器」に代表される戦後の家電ブームに後押しされ、1970年代には全国の家電市場の1割を1平方キロメートルに満たない領域で担う日本一の電気街に成長した[8]。
1980年代末頃から、バブルの崩壊とともに台頭するコジマなどの家電量販店やディスカウントストアに秋葉原は家電市場を徐々に奪われていく[9]。北関東地方を中心に北関東YKKの量販店大手三社が着々と増えていった。
家電市場の衰退とともに電器店は主力商品をパソコンに移していく。1990年に六階建てのビル全体をコンピュータ関連商品に充てた大型専門店ラオックス・ザ・コンピュータ館がオープンしたことが一つのターニングポイントとなった。以降、他の大型店もチェーン店を専門分化させ、これに伴い若い男性のパソコンマニアたちが家電を買いに来る家族連れに取って代わって秋葉原の中心的客層となった[10]。
1995年から96年にかけて放映されたテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットが引き金となり、97年以降、海洋堂など多くのガレージキット店が秋葉原の一等地へ移転し、予想を超える売り上げをたたき出したことで、雪崩を打ったように同業の専門店が競って進出した[11]。またAKB48の劇場も2005年に営業を開始し、アキバ系アイドルブームの嚆矢となった。
21世紀には区画整理により秋葉原駅を中心に多くの複合ビルが建設され、観光地やオフィス街に変化を遂げており、老若男女国外問わず訪れる街になった。一方、秋葉原の一般化が進むにつれて、かつてオタクが通い詰めたアンダーグラウンドな店は軒並み閉店し、一般客や観光客向けのカジュアルな店が数多く並ぶようになり、さらに同時期の地価上昇と東京都が推し進めたオフィス街化により、一般人が立ち寄れる店舗自体が減少している。ECサイトの普及で部品やグッズのために外出する必要が無くなったことも、秋葉原の小売店の減少に対してかなり大きく影響を与えている。
小規模営業店の集合体による、グレーゾーンでシステム化され切らない不完全さ[注釈 2]が様々な解釈の余地を残し、客にも深い知識を求められる反面アンダーグラウンドな魅力にも繋がっていた秋葉原において、大資本が経営する分かりやすく画一的な店(大手家電量販店、ステレオタイプな萌えを提供するメイドカフェ、外国人観光客向け店舗など)が乱立し、小規模営業店が老朽化した施設の建て替えと物件価格の高騰などにより軒並み撤退してしまったため、もはや秋葉原は文化的に形骸化したと見る向きもある[12]。
一方で、明治時代の秋葉原は青果市場の街であり、そこから時代に合わせた変遷を続けてきたことを考えると、ある意味では秋葉原らしい変化と捉えることも出来る。なお、日本農業新聞本社が秋葉原にあるのは、青果市場(神田青果市場)がかつて存在したことに由来する。
明治初頭から火災が頻発したことから、火災鎮護の祈願所として秋葉神社が建立された[13]。このことから「あきはっぱら/あきばっぱら(秋葉ツ原)」「あきはのはら/あきばのはら(秋葉ノ原/秋葉の原)」「あきはがはら/あきばがはら(秋葉ケ原/秋葉ガ原)」などと呼ばれ始め、呼称は統一されていなかった。書き方に関しては、漢字表記のカナ部分を小文字化したものや、読みは「あきばのはら」等だが書きは「秋葉原」とカナ部分を省略したものもある。
当地区の呼称が「あきはばら」として定着するのは、鉄道駅の開設以降とするのが定説である[14]。後に地名の読み自体も「あきはばら」となる。なお、1890年(明治23年)に開業した時点では「秋葉原駅(あきはのはらえき、英語: Akihanohara Station)」であり[15][16]、旅客は扱わない貨物専用駅だった。駅の呼称としては「あきはのはら」から「あきははら」に変化した後、1907年(明治44年)に「あきはばら」へと変更された[17]。
現在は日常会話やメディア等で広く「あきば」という略称が使われ定着している。
なお、地名の由来とされる秋葉大権現発祥の地、静岡県浜松市天竜区春野町にある秋葉山本宮秋葉神社は「秋葉」を「あきは」と読む。
いずれにせよ、「あきはばら」が本来だという説も「あきばはら」が本来だという説も、どちらかのみが正しいという論旨を支える歴史的資料は無く、一方のみが正しいとまでは断定できない。
「世界有数の電気街」として有名。大須、日本橋とともに日本三大電気街として広く認識されている。さらには日本全国はもとより、世界各地から観光客が訪れ、まさに「世界有数」である。
だが「家電量販店がひしめき合っている」、「家電品が安く買える」という意味での電気街は、バブル崩壊後の不景気による節約志向や、郊外に店を構える大型量販店が台頭してきたこともあって1990年代から徐々に衰退の方向にあり、扱われる機器類・ソフトウェア類にも時代の変遷が色濃く現れている。
一般向けの量販店が通常取り扱わない電子部品を扱う販売店(その多くは終戦直後に神田須田町界隈の闇市で露天商として創業したが、GHQによる「露店撤廃令」で現在の地に移動した)は現在でも秋葉原駅近くの総武線ガード下や裏通りを中心として根強く生き残っており、「秋葉原電気街」の源流は今もなお命脈を保っている。これらの商店では他では得難い部品も多々流通している。
昭和中期はハイファイオーディオやアマチュア無線さらには音楽(特に輸入版ソフト)の愛好家、1980年代頃からはパソコンマニアが集まるマニアの街として知られた。衰退しつつあった秋葉原系の家電量販店に変わり、1990年代には当時普及しつつあったパソコン関連の店が増加していった。
1990年代後半にはそれらのPC・IT関連の店だけでなく、アニメ・ゲームマニア向けのソフトウェア(コンテンツ産業の商品を含む)を取り扱う店が増えてくる。最初のうちはアニメやゲームを好むのは一部の人間だけとされていたが、次第にオタク文化が広く大衆化した。秋葉原での家電販売が北関東YKKやビックカメラ・ヨドバシカメラに押されて1990年代以降不振になり、パソコンショップも通販シフトしていった一方で、好調に推移するコンテンツ産業の中心地として注目されていった。こういった文化や秋葉原に集う人々の総称として2000年代中頃に「アキバ系」という言葉も生まれた。
秋葉原という街全体がコンテンツ産業の商品を幅広く扱う街となってからは、マスコミに秋葉原の文化が頻繁に取り上げられるようになり、この頃より秋葉原電気街は「アキバ」として世界に広く知られる様になる。こと21世紀に入り日本のコンテンツ産業がインターネット経由で知られるようになると、日本以外の国の人々もアニメや漫画に興味を持ち秋葉原を訪れるようになった。
2005年のつくばエクスプレス開業とヨドバシカメラマルチメディアAkibaの開店は秋葉原の大衆化に拍車を掛けることとなったが、その一方で古くより秋葉原に地盤をもっている家電量販店は販売不振から、店舗の統廃合や撤退が相次いだ。同年には電気街口北側の駐車場跡(かつての神田市場の跡地)に秋葉原クロスフィールドの施設として、産学連携プロジェクトやオフィス機能などを持つ超高層ビルの秋葉原UDXや秋葉原ダイビル、超高層マンションのTOKYO TIMES TOWERも誕生し、ヨドバシカメラと並びそれまでの秋葉原のイメージとは大きく異なる存在感を放っている。この頃より路上での販売行為に対する監視が厳しくなった。それまで裏通りの路側帯の内側に陳列することで摘発されないという暗黙の了解が存在していたが(通称「白線ルール」[41])、2006年以降は警察より厳重に注意を受けるようになったため、出店者はビルの敷地内や駐車場を利用して出店するようになった。
2008年には東京都交通局が運行を開始した観光路線バス「東京→夢の下町」の経由地に秋葉原が含まれているなど、秋葉原は急速に観光地化した。休日の秋葉原は女性だけの集団や、カップルで歩いている姿も珍しくなくなり、カメラを手にした外国人観光客もあちらこちらで見ることができ、「秋葉原電気街」の変化は特に著しいものとなった。
電気街と山手線を挟んで反対側に位置する昭和通り側は住宅と大小さまざまな企業が密集したオフィス街となっており、平日には多くのサラリーマンやOLが歩いている。なお、用途地域は全域において商業地域である。
他方で秋葉原は電気街だけでなく、かつては青果市場の町としての側面もあった。1989年に大田市場に移転するまでは、秋葉原駅前に神田青果市場が存在し、神田市場向けに営業していた飲食店や青果店が多く軒を連ねていた。神田市場跡地は再開発で秋葉原クロスフィールドへと生まれ変わったが、当時から変わらず営業している一部の店舗が往時を偲ばせている。また、秋葉原駅には1970年代まで貨物駅があり、当時多くの運輸会社が秋葉原周辺に拠点を置いていた。日本通運が2003年まで秋葉原に本社を置いていたことや、日本農業新聞の本社が秋葉原にあることはその名残でもある。
前述した通り秋葉原は電器店街として国際的にも知られている街であるが、そこで扱われている商品は時代の流れに合わせて激しく変遷を経ており、必ずしもエレクトロニクス関連の商品や家電製品ばかりというわけではない。
電気街の元祖ともいうべき、戦後のラジオ部品販売(初期には日本軍やアメリカ軍からの真空管などの電子部品のみならず、戦車の転輪等の放出品があったという)に由来する。総武線ガード下に並ぶ店舗は僅か2畳程度の店もあり、派手さこそないもののICやコンデンサ、スイッチやコネクタといった小物などの販売店が営業中であり、特定の部品のみ扱う専門店も見られる。
一見した限りでは零細商店に見える店舗も、事業の発展により部品卸業者として発展し現在では本社機構は近隣のビルに構えて各種企業を相手にビジネスを展開し、電気街の店舗はパイロット店・個人向け販売店やホビー向けの色彩の強い店として営業を行っていることも珍しくない。
様々な部品が一つずつ購入できるので、学生や研究者が実験などに使う部品を調達したり、メーカーの技術者が開発中の商品用の(試作や調整用として)ちょっとした部品を秋葉原で調達することも多い。
電子部品調達という点では、秋葉原は今でも世界一の「電気街」と言っても過言ではない。電子部品に限らず、工具や測定器から線材・ネジ・ケース類・結束用部材などの、電気工作や工事に必要と思われるものは、およそ何でも調達でき、電気・電子関係と目される機器製作においては、ほぼ秋葉原内の店舗を巡るだけで、必要な工具や資材が入手可能である。時代の変化と共に一般向けの生産が終了している真空管であっても、主にロシア製の同等品が陳列販売されている一方、廃番品の中でも需要の根強い部品(特定型番のゲルマニウムトランジスタなど)については品薄となり、今では入手不可能となったものも存在しているが、このようなものについては「秋葉原で入手できないものは諦めるしかない」という状況が起きる一方、逆に店舗やメーカーの棚卸などで少量発見された廃番品が在庫処分品として売り出されることもある。
家電製品、とりわけテレビや洗濯機などの白物家電は秋葉原が長らく取り扱っている販売面で見ても国内の最先端地であった。
企業や店舗チェーンとして現存しているかは別として、秋葉原から発祥して後に総合家電量販店として一時代を築いた店舗にも、最初は業者などを相手にした小売・卸売店からスタートしている場合が多い。1960年代から1970年代にかけ、テレビ・冷蔵庫・洗濯機・オーディオ機器などが一般に大量普及していく過程で、多くの店が現在のような家電量販店業態に転換、全盛期には関東地方全域・新潟県・山梨県・静岡県辺りまで商圏があったといわれる。
しかし、利便性や効率性で勝る郊外型家電量販店が台頭した1990年代以降は厳しい価格競争に晒されることとなる。元々、秋葉原の家電量販店は大手と呼ばれる規模でも、その旗艦店を除けば多くは小・中規模の店舗が分散して立地していた。これは、大規模店を建てる広い土地を確保しづらかったためで、狭さを高層化で補ったことによりコストが嵩んだ。また、大規模店を計画しようにも、大規模小売店舗法や地元商店会の反対で、簡単には出店できなかった[注釈 3] ほか、余所からの家電店の進出を暗に妨害するなどして、電気街内で競争を避ける慣れ合いの体質が存在した。このほか、電気街周辺に需要に対して駐車場が少ないなど、環境面の要因もあった。これに関しては、神田青果市場跡地が駐車場に転用されるなど対策はとられたものの、抜本的な解決には至らなかった。
そこへ折からの家電不況も重なり、1993年にシントクやヒロセムセンなど中堅量販店が相次いで廃業したのを皮切りに、電気街の家電量販店は縮小の方向に転じていった。1990年代中期に入るとパソコン本格普及の過程でラオックスなどパソコンに力を入れていた店が一時的に活況を呈したが、2000年代初頭にはバブル崩壊以降経営不振が続いていたロケットや第一家庭電器などが行き詰った。
2000年代に入ると、郊外型量販店の他にカメラ系量販店を中心とした都市部駅前の超巨大店舗との競争も本格化し、さらにパソコンの需要の頭打ちや単価下落などで業況が悪化。2005年に電気街から線路を挟んだ反対側にヨドバシAkibaが開業すると、それに押される形で急速に量販店の統廃合が進みサトームセンやナカウラなどが消え、現在では電気街側に残る大型家電量販店は数えるほどまでに減少した。現在、残っている家電量販店は大手家電量販店の傘下に入ったり、外国人向けの免税店業態に転換する等して生き残りを図っているのが現状である。
一方で、海外仕様の家電を多く取り扱っている店は外国人観光客で繁盛しており、大勢の中国人観光客が大型バスで乗り付け、家電製品や日用雑貨などを大量に購入していく姿は、日本のメディアでもしばしば報道される。
ラジオ部品販売とも関連するもので、アマチュア無線が映画(原田知世「私をスキーに連れてって」等)などで取り上げられて大きなブームとなった1980年代までは中央通り沿いなどを中心に多くの販売店があったが、アマチュア無線市場の縮小に伴い2008年時点では4社に減少した。アマチュア無線の一分野であるパケット通信がPCの知識を必要とするなど、比較的ユーザー層が近いこともあり、全盛期にハムショップとして知られた店舗には後にPCパーツ系のショップへと業態転換したものも多い(例:九十九電機→Tsukumo、トヨムラ→T-ZONE)。
なお、かつては「無線のメッカ」といえば秋葉原ではなく巣鴨のことであった(日本アマチュア無線連盟本部があることに由来する)。そのことから、当初は巣鴨周辺に店舗を構えていた無線機器や無線関係のパーツ・電子部品の販売店が、時代の変化と共に秋葉原に移転して、現在は電子部品などのショップとなっているという歴史的経緯を持つ店舗も存在する。このケースとして知られる現存するショップには千石電商があり、その本社は現在も巣鴨駅にほど近い文京区千石に所在している。
ガレージキットの店が秋葉原に進出し始めたのは1990年代後半だが、2006年まで交通博物館が近隣に存在していたこともあり、鉄道模型は鉄道関連グッズは秋葉原界隈で古くから取り扱う店舗が存在する商品の一つである。
近年は新規メーカーの参入や車両形式ごとの作り分けにより製品のバリエーションが著しく増大しており、店舗数も家電量販店での取り扱い開始やホビーショップの新規出店のみならず、中古鉄道模型専門店やレンタルボックス、委託販売を利用した中古市場の成立により著しく増加しており、日本有数の激戦区となっている。因みに現存する日本最古の鉄道模型メーカーであるカワイモデルも、秋葉原(正確には神田須田町)に店舗を持つ。
1976年にNECがTK-80の宣伝・普及のため、秋葉原ラジオ会館にショールームBit-INNを開設した事を皮切りに、当時はマイコンと呼ばれたパソコン関連商品を扱う店が登場したとされる。後に8ビットパソコンのようなホビーパソコンと呼ばれる趣味に供するためのコンピュータ市場が発生すると、メーカー直営から専門店まで、幅広い商店が軒を連ねた。この当時より無線機器やそのパーツ類を扱っていた商店が趣味の電子機器として個人向けコンピュータ製品を取り扱い、その中からは後にパソコンショップに業態転換するものも現れた。
1980年代以降にはビジネス関連で業務のOA化が進んだ事から、家電製品などとともにメーカー製PCとその周辺機器の販売が次第に増え始め、企業相手にOA機器を取集う店舗がその取扱品の一つにパソコンを含めるケースも増えていった。販売商品の主流は当時日本国内で大きなシェアを占めていたNECのPC-9800シリーズやエプソンのNEC互換機で、ホビーユースでも8ビット御三家のように三強が覇権を争う市場が存在したが、この競争で主要シェアを獲得できずマイナーな存在に甘んじた他のアーキテクチャのみを専門に取り扱う店も普通に存在し、また商売として成立していたのが当時の秋葉原電気街の奥深さであり、地方都市では通信販売以外に事実上入手手段が無い製品や補修部品であっても秋葉原ならば専門店で店頭入手が可能ということも多かった。とりわけマッキントッシュやMSXなどの専門店は長らく残っていた。
1990年代初頭からは、日本国内ではまだマイナーな存在であったPC/AT互換機(当時はDOS/V機と呼ばれる事が多かった)が台頭し、ショップではハンドメイドで組み立てたPCの販売が始まり、ユーザー自身で組み立てる自作パソコン向けのパーツを扱う店も見られるようになる。当時主流であったNECのPC-9800シリーズよりも安価で、かつこのパーツの中にはメジャーメーカーではなかなかお目にかかれない特異な仕様のカスタムパーツも多く、アングラを好む自作パソコンユーザがアキバに集結する源流を作り出した。
爆発的な需要を生み出したオペレーティングシステムであるWindows 95のリリース以降は、それまでの白物家電に替わってパソコン関連製品が秋葉原の販売の主流を占め、それに伴って数多くのパーツショップが秋葉原界隈に林立し、一時期は秋葉原を指して「パソコン街」と呼ばれることも多かった。このこともあり、バブル崩壊以降に、数多くの老舗家電量販店が低迷や破綻に至り都内では低下の一途を辿っていた秋葉原電気街のブランド力も、こと当時成長産業であったパソコンに限れば、その後もしばらくの間は地方や郊外部ならば十分に通用するものであった。また、従来からの店頭販売主体のパソコンショップのみならず通販主体のパソコンパーツショップや直販メーカーでも、秋葉原に直売店舗を構えることを一種のステータスや信用と見なすパソコン小売業界の黎明期からの考え方が当時はまだ根強く存在していた。そのため、1990年代には「アキバ電気街のパソコンショップ・PCメーカー」という箔付けを求めて、他地域創業のパソコン関連企業・商店が秋葉原へと進出し、販売戦略に利用した事例は数多い。この分野では現在秋葉原に店舗を設置していないものや現存しないものにも、過去に秋葉原へと進出し店舗を設置していた事例は枚挙に暇がなく、店舗のみならず本社や主要な営業拠点を置いたものも少なくない。
経度や時差の都合などもありOSなどの基幹ソフトや自作パーツは世界で最初に販売が開始されることも多い。しかし、1990年代後半からコモディティ化していったパソコンのセットや主要パーツの販売単価の低下や、激しい競合の中で一部の店舗が過剰な価格破壊路線に走ったことに起因する慢性的な低利益率の業界体質[42]、通信販売の普及、大型家電量販店との競合などによる集客力の低下、2005年のつくばエクスプレス線開業や再開発計画の進捗が要因となった家賃の高騰[43] などが複合的に重なり、ここ数年では経営的苦境に追い込まれた老舗ショップ・著名ショップの撤退や経営破綻が相次ぐなど衰退傾向を如実に示しており、全盛期の勢いは見る影もない。しかし、全国的にパソコンショップや自作ショップという業態そのものが衰退傾向にある今もなお、ホビー用途の自作PC用パーツを中心に周辺機器類、各種サプライ、中古・ジャンク商品の充実ぶりでは他地域の追随を全く許さず、前述した自作PCユーザーが集う街としてのアキバの集積度は国内屈指のものである。
また、メーカーが発表していないマイナーなモデル(特定の法人向けの専用仕様品など)や発表前の先行モデル(技術者向け評価版を含む)など、いわゆるバルク品と呼ばれる一般ユーザーへの発売を前提としない商品を店頭で取り扱っている店舗は現在でも若干数存在しており、通信販売での取り扱いも無く秋葉原に来なければ到底入手できない特殊なパーツが掘り出し物として出てくることもある。
このようなコンピュータ製品販売の全国でも比類なき集積度の高さゆえに働く地理的な有利性は大きく、これを活かして新発売の商品をメーカーの発売日前に販売され話題となることも珍しくないほか、Microsoft Windowsの新バージョンやiPhone・iPadの新型モデルなど一般大衆の注目を集める新商品の発売時には秋葉原界隈の店舗に大量納品され開店時には店頭に行列が出来たり、秋葉原の販売店で新発売の記念セレモニーが行われることもある。このような光景をマスコミが取材しニュース番組などで放映されることも恒例のものとなっている。
上述の通り、電気街の歴史をその発祥まで遡ると、終戦直後の闇市における駐留軍などが放出したジャンク品(がらくた)と呼ばれる無線機や部品類の販売にたどり着く。2000年代ではパソコンやデジカメ、家庭用ゲーム機の中古品を扱う店舗も増加した。店舗を構えていることもあるが、土日祝には路上やガレージでジャンク品を販売している者も見ることができる。どの店に何があるかや何が入荷しているかというのは、目利きができる人にとってはある程度予測できるが、観光客にとっては一種の運である。ジャンク品専門店巡りは、秋葉原ならではの楽しみといえる。
近年、日本各地に郊外型の大規模中古品店舗(ハードオフなど)が増え、ジャンク品も扱われるようになってきたが、秋葉原は質・量共に他地域の追随を許さない。特に保守・組み込み系パーツでメーカーや大口ユーザーが放出するようなジャンク品は、日本でも秋葉原でしか扱われないことが多く、わざわざジャンク品を目的に秋葉原に来る人もいる。またジャンク関連の店舗は地区のあちこちに存在するため、目的のものを見つけるのは容易なようで難しく、マニアともなると目的が無くてもリピーター的にジャンク屋に足を運ぶことも珍しくない。
扱われるジャンクは、無線機器からコンピュータ関連(新旧問わずパーソナルコンピュータからサーバー関連まで)、あるいは映像音響機器のほかコンシューマーゲームからアーケードゲーム、パチンコ台などの部品や各種業務用機器類まで多岐に渡り、その各々に専門店があるほか、素人には分類不能なものを分解して半導体など電子部品を調達することを目的とした完全な「がらくた」を専門に扱う店もみられる。
またジャンク品と並んで、使途不明なオプション品(新品を含む)などが売られるケースがある。これらは何らかの本体が必要になるが、簡単な説明(あるいは憶測)が付いていれば良い方で、店側にも正体が判らない場合もある。中にはパッケージされた製品もあるが、基板が剥き出しの状態で売られ、取扱説明書もないため、端子や基板上のチップなどから用途を推定しなければならない。
ジャンク品の入荷は上述のような捨てられる予定の部品を一度に大量に仕入れるためまれに掘り出し物が含まれていることもあり、知識を持つ者にとってはそれが一つの魅力となっている。
1960年代から1980年代にかけて、Hi-Fiオーディオの流行とともに、音楽を嗜好する需要に着目した音楽ソフト(レコード、コンパクトディスク)を販売する小売店が増加した。当時から販売店舗が少なかった輸入版ソフトを広く取り扱っていたため、音楽マニアが多く訪れた。
1980年代後半はCDの普及とともに日本国内・日本国外問わず種類・在庫量ともに豊富な品揃えで隆盛したが、大型電気店での取扱いや外資系CDショップの国内展開、2000年代後半には電子商取引やダウンロードによる音楽配信が主流となり、一時の隆盛は鎮まっているが、クラシック音楽では外資系ショップでは入手できないような稀少品が店頭に並んでおり比較的安価で容易に入手できる。1990年代からは店舗で販促のためイベントを行うアイドルなどが増加し、店頭にアイドルの等身大ポスターを掲げたり、楽曲を大音量で流しCDやDVDの店頭販売を行っている店舗もある。アニメショップ等ではアニメ・ゲーム・声優関連のソフトに特化した品揃えを行っている。
ファミコンなどの家庭用テレビゲーム機が一般普及した1980年代頃より、各電器店でゲームソフトの取り扱いが増加。メッセサンオーなど、一般の電器店からゲーム専門店に転換した店も現れた。1990年代に入ると、ゲーマーズなどゲームソフトのみならずサブカルチャーを総合的に扱う店も増加し、パソコンとインターネットの普及によりパソコンソフトはもとより成人向けのアダルトゲームも売り上げを伸ばした。1990年代以後もゲーム・アニメ・ライトノベルなどの文化は成長し一般にも認知されていき、2000年代の萌えブームの形成に際して大きな影響を与えた。
秋葉原ではそれらのカルチャーの先進地・発信地としてメイド喫茶やコスプレショップ、まんだらけなどの同人誌販売店やアニメイト、とらのあななどのアニメ・ゲームグッズショップ、フィギュアを販売・委託販売(→レンタルショーケース)したり、製作するためのパーツを売るボークスなどのショップが多く誕生し、2000年代初頭からも販売不振で姿を消した家電販売店の跡地の空き店舗などに次々と開店し、この様なアニメやゲームのキャラクターのポスター、看板等を店先に出している店舗も多く見られる。ただし、家電店やパソコンショップと同様にその消長盛衰は激しく、数多くの店舗が現れる一方で、また姿を消している。
また、販売店のみならず、アニメ・ゲームソフトなどの企画・開発・制作などを行う企業が秋葉原の界隈に本社や何らかの拠点を構えていたり、あるいは過去に置いていた事例も多い。
セキュリティー商品の一般住宅向け用に需要が増加してきたため、防犯カメラや防犯グッズを取り扱う店舗が増えてきた。国内外を問わずに取り扱っていて、高性能の暗視カメラやデジタルレコーダーなどを取り扱っている。防犯グッズは、『スタンガン』・『特殊警棒』・『防犯スプレー』・『防犯ブザー』などを置いている。
かつては貨物駅と青果市場を抱えていたため、秋葉原駅周辺では荷役業者や市場の出入り業者、市場で働く従業員を主な対象とした大衆食堂やラーメン店などが多数営業していた。だが、1975年に貨物駅が廃止となり、1989年に市場も大田移転に伴い閉鎖されると、それらの店舗の大半は姿を消した。サンボ、あだちなど当時から営業を続けて現存する店舗もわずかに残るが、1990年代を通じて電気街の中だけでは飲食の需要に対し供給が絶対的に少なく選択肢も限られていたのが実情で、飲食時には秋葉原の外へ一旦出て店舗数が多くバリエーションも豊富で比較的安価な御茶ノ水・神田などの近隣の学生街に向かうのも一般的であった。1990年代初頭にはファーストフード店やカレー店などが若干開店、休日の中央通りには屋台が数多く見られた時期もあったが、自治体の方針や警察の取り締まりにより路上営業の屋台は全て消えていった。1990年代中頃から従来より店を構える喫茶店や定食屋、駅ビル内の飲食店などのほか、新規の外食産業も徐々に進出。この頃にはすでにチチブデンキが店頭の自販機でおでん缶を販売していた。また、秋葉原駅から昭和通り沿いやその通りを面した向かいに当たる地域は居酒屋などを中心に飲食店が多く店舗を構えており、電気街からは外れるがそちら飲食するものも一定数いた。
2000年代中期に秋葉原の再開発が進むと、観光客をターゲットに据えた大手外食チェーンの開業が相次ぎ、繁華街として賑やかさが増している。また中東・トルコ系の羊肉料理であるドネルケバブの店舗も数店ある。2005年6月には秋葉原駅昭和通り口に飲食店ビルアトレヴィ秋葉原(現アトレ秋葉原2)が、2006年3月には秋葉原UDXビル内に飲食街AKIBA_ICHIが開業し、2010年11月19日にはアキハバラデパート跡地にアトレ秋葉原1が開店、テナントとして数多くの飲食店が入り、昼夜を問わず多くの人々に利用されている。
一方で、九州じゃんがら本店をはじめとするラーメンの著名店の系列店やチェーン店が多数出店し、2004年には九十九電機がラーメンマップを配布した[44]。また、カレー専門店の出店も相次いでおり、以前からあったカレー専門店やチェーン店、インド料理店なども含めて、カレー店の激戦区と化していると報道された[45]。
喫茶店も、前述のようにサブカルチャーの台頭に伴い、メイド喫茶の中心地かつ最先進地となったほか、ドトールやプロント、スターバックスなどの従来の大手チェーンも出店しており、多様化している。また、秋葉原周辺には元来オフィス街としての一面があり、同時に秋葉原駅はつくばエクスプレスの開業によりハブ駅としての機能がより高まったことから、仕事帰りに寄る人や遅い時間までいる人をターゲットに閉店時間の遅い店舗や深夜営業を行う店舗も増え、居酒屋やバー、カラオケボックスやネットカフェも多数秋葉原に出店している。
秋葉原全域は「安全で快適な千代田区の生活環境の整備に関する条例」(千代田区生活環境条例:平成14年6月25日千代田区条例第53号)により、路上禁煙地区(秋葉原駅周辺路上禁煙地区)、環境美化・浄化推進モデル地区(秋葉原駅周辺環境美化・浄化推進モデル地区)に指定されているほか、中央通りは違法駐車防止重点地区(中央通り違法駐車等防止重点地区)にも指定されている[47]。路上喫煙、吸い殻・空き缶等のポイ捨て、落書き、置き看板等の放置を行った場合、禁止行為の再発のため、改善命令と2万円以下の過料(当面2,000円)が科せられるほか、改善命令に従わない場合は5万円以下の罰金と氏名・住所等の公表、告発が行われる[48]。駐車問題に関しては2006年(平成18年)6月より改正・強化された道路交通法により改善され、この改正で駐車監視員の姿も見られるようになったほか、万世橋警察署も中央通りにパトロールカーを待機させるなど違法行為の警戒にあたり、取締りが強化されている。
駐車場の確保はこの地区が抱える問題として広く認知されており、休日等に発生する付近道路の駐車場入場待ちの渋滞対策として、長らく駅前広場(神田市場の跡地)に仮設駐車場が設けられていたが、駅前再開発事業の進捗に伴い2004年(平成16年)5月で廃止された。現在は再開発地区内にある秋葉原UDXビルの地下に外来用として収容台数800台規模の自走式駐車場(秋葉原UDXパーキング)が設置されている(高さ制限2.4m)。また、ヨドバシカメラマルチメディアAkibaの地下2階から地下6階には5層にも及ぶ自走式駐車場が設置されている(高さ制限2.1m)。前述の駐車場以外には秋葉原ダイビル駐車場や富士ソフトビル駐車場が営業を行っているほか、いくつかの機械式駐車場も営業を行っている。
街頭での勧誘、セールスは秋葉原ではよく見られる光景だが、中にはキャッチセールスや詐欺・詐欺まがいのものもある。具体例としては以下のようなものがある。
秋葉原では非合法にコピーされたゲームソフト・ビジネスソフトなどが露店形式で販売されていることがある。特にゲームソフトは古くは「Xin1」という、一つのゲームカートリッジに複数のゲームソフトが収録されたものや、オリジナルを無許可で真似て製作したいわゆる海賊版カートリッジ(Xin1同様中国や東南アジアで作られている)が売られていた。
マジコン関連商品、CATVスクランブル解除装置、ピッキング工具、超小型マイクなど、犯罪にも使用可能な商品も売られている。また白ロム携帯電話も売られており、それ自体は非合法ではないが盗難や紛失の届け出が出ていて経緯が不明瞭なものも売られていることがある。
2006年に秋葉原に買い物に来た男性が恐喝の被害に合うという事件が複数発生した。2006年9月28日、警視庁少年事件課が秋葉原で恐喝をしていた少年グループを逮捕したが、犯人の少年達は「アキバ系の男性は体力が弱い上金がある」というオタクに対するイメージにより犯行に至ったという。これらの恐喝行為は一部のメディアで「アキバ狩り」、「おたく狩り」と称されて紹介された。これ以降パトロールが強化されたこともあり、路上で警視庁の警官が職務質問により通行人の手荷物を検査する光景も見られるようになった。
2024年時点では歌舞伎町から都落ちした半グレが流入し、悪質な客引きなどかつてで言う池袋のような治安の悪さが目立つようになった。また、ゴミや落書き、シールなどによる景観悪化も目立ち、暴走族や路上飲みなどのかつていなかったタイプの迷惑人物も見かけられるように。さらにコンセプトカフェやコンカフェ嬢を対象としたメンズコンセプトカフェの増加、酒類提供の居酒屋の増加、深夜営業化など、以前よりいかがわしい雰囲気が増しているという声もある。他に特筆される事項として、外国人の座り込みや喧嘩騒動の常態化が挙げられる[50][51][52]。
エリアポータルが地上一般放送事業者としてフルセグおよびワンセグ放送を実施している。
地上一般放送局が1局[56] 設置されている。
その他、高速バスについては秋葉原駅を参照のこと。
国鉄のマルス(指定券販売システム)はかつて、この秋葉原にホストコンピュータが置かれていた(現在は国分寺市に移転)。システムを構成するハードウェアの補修部品を手に入れやすいというのがここに設置された理由の一つである。当時のマルスセンターの建物は、JR東日本秋葉原ビル(JR秋葉原駅に隣接)として2016年5月まで現存していた。
秋葉原(あきはばら)は、東京都台東区の地名。「丁目」の設定がない単独町名である。郵便番号は110-0006[58]。
台東区南西部に位置し、下谷地域に属する。東は昭和通り、北は蔵前橋通り、西は千代田区外神田四丁目、南は千代田区神田練塀町と神田松永町に接する。
上述の、「地域名としての『秋葉原』」の北東端に位置する。
2020年(令和2年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[57]。
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[61]。
番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 台東区立平成小学校 | 台東区立御徒町台東中学校 |
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